第18話

文字数 2,191文字


    兜



古い土地から漂ってくる冷気があたりを満たし始めている
ここは忘れられた土地
見向きされなくなった土地
聞こえたか?
それとも地霊の誰かが守っている危険な土地なのか
聞こえたか?
それとも彼女が捧げ持った兜が何事かを諭すのか
「この水を渡らねばならない
今宵
明日の朝が来る前に」
それはいつ?
何時の世も同じ
今も昔も
「何としても明日が来る前に渡らねばならない」

水のつぶやき
深い水底から沸き上がってくる声
不吉な囁き
「不可能であっても
何としても
不可能であっても」

立ち上がってくる言葉
水が鏡となって言葉を映し出す
「何としても
不可能であっても」

聞こえたか?
信じ難い事が目の前で起こる
その身に起こる
地獄が大きな口を開けている
飛び込むのは誰かと問うている
行け!
誰がそう言うのか
兜よ、お前か
それとも彼女自身か
兜を掲げた彼女の全身に鳥肌が立ち
結い上げた髪は何時の間に風に解け
熱に浮かされた瞳は
大勢の死びとが目の前を泳いでいくのを見つめている
幻だろうか
なんと暗い水だ
ざわざわいう水の囁き
何時か何所か
誰も何も言わない
言えない
しかしそれはいつでもすぐそこにある
いつでも目の前にある
口を開けて待ち受けている
そして耳を澄ませている
彼女も耳を澄ます
恋する人の愛しい声が聞こえまいか、
特別な事はないかと
「いや、その時にならないと」
水はそう、言ったのだろうか
或いは亡者たちが
先を急ぐ亡者たちが
彼女は立ち騒ぐ水に向かって兜を掲げた
「兜よ
今まではただの兜でしかなかったが
お前を掲げ
意を決しお前に命じたなら
目覚めるはず
受け継がれてきた血が
血の中の呪いが力となって
先祖たちが込めた思いが
その強い思いだけが時空を超えて届くだろうから
そして私はその血を受け継いだ者
私がすでに狂気に駆られていても
いや、それだからこそお前は正体を現すはず
兜よ
何の為に掟が守られてきたかをお前は知っている
私以上に知っている
兜よ
お前は正体を明かさねばならない
今こそ私に
そして封印は解かれねばならない
今この時こそ
おお、父祖たちの思いよ
ここまできてこの呪わしい兜に私と共に呼び掛けよ
兜よ
祖先たちの顔を思い浮かべよ
今ここに来ている顔たちを
私は願い
私は命じる
強く命じる
お前の本性を現せ
恐れることはない
私はすべてを知ったのだから
私は強く願い、もはやこの身が滅んだとしても厭わない
お前が導き私を従わせよ
私が導きお前を従わせる
昔も渡った
誰もがいつか渡る
今更隠すには及ばない
皆渡る
そうではなかったか
闇夜に
或はこんな満月の夜に
私たち一族は何時から禁じられたのか
こんな風に封印を解くことを禁じられたのか
私がたった一人になってしまうまで
しかし最後の願いは叶えられるはず
そうでなければならない
おお、捧げ持った兜に魂が宿っていく
いよいよ神々が降りて来るのか
分かるぞ
そうだ、このような時には誰もが分かるもの
恐ろしい神が降り立つのだと
ただ一つの、最後の願い
それを叶える為には
おお、今この時ここに降り来る神よ
そう、そうでなくてはならない
今宵こそ猛り荒ぶる神でなければならない
その為に私は夜叉となり鬼となろう
乙女の身のまま鬼となろう」

聞いたか
聞いたか
確かに聞いた
見たか
見たか
確かに見た
兜を掲げて湖を渡って行く
願いは一つ
願いは一つ
という声
願いは一つ
皆が唱和する
そう、唱和する
月光が湖上をすべるように走っていく姿を映し出す
そして、その姿を追いかけていく
月光は追い、照らし
水を金色に揺らす
夜が終わり一つの環が閉じていくまで揺らす
広大な水の上
今宵開かれた世界を月光に照らされて走る異形の姿
月光は次第に彼女に従っていく

聞いたか 聞いたか
聞いた 聞いた
しかし私たちは昼の世界へ戻らねばならない
それなら語れ
この夜を語れ
戻るなら語れ
神々について語れ
我らは神々の降り来る今宵を敬い
我らは荒ぶる神々とて讃えよう
そうだ、我らは今宵の事を語ろう
そして神々を恐れよう
しかし、彼女は神々と契りを交わした
今宵すべてを語り
夜を明かそう

聞いたか 聞いたか
聞いた 聞いた
この夜の出来事を
聞いたか 聞いたか
聞いた 聞いた

水は囁く
愛の力を信じよと
風が幻の中に消え行く美しい姿に絡まる
月光はしつこく追っていく
彼女の影の後を
金色の水の上
追う者と追われる者
彼女は追われていく
信じよ 信じよ
聞こえたか 聞こえたか
信じよ 信じよ
・・
悲しみの中で
愛さえ超えていく
美しいまま鬼となれ
乙女のまま鬼となれ
愛を超えていけ
ここは明けないか
ここは明けないか
永遠がやってきてここの水が押し黙るまで
この世の環が閉じて姫の思いを届けるまで
この世の環が閉じて我らの姫君をさらっていくまで
例え猛々しい神が帰ったとて
例え慈悲深い神が振り返ったとて
姫は行ってしまう
声の届かないところへ
救いのないところ
愛ゆえに愛をこえた救いのないところへ

見たか 見たか
白装束に身を包んだ狐たちが
蝋燭を捧げて湖を渡って行くぞ
うつつの月が幻を照らす
うつつの月がその先を滑っていき
姫の姿を照らし出す
見たか 見たか
見たぞ 見たぞ
今宵は終わらない
始めてしまったからには
永遠はどこにある
永遠など、もはやどうでもいい
ただの一幕が下りるだけ
この世の一幕が下りるだけ
私たちは明日ここに来ることは出来ない

そして、神々は残らず帰ってしまう
すべては静まり
水も騒ぐのをやめる
姫は行ってしまった
あとは?
あとはここの物語を語る者だけが残される
しかし神々はすべてを見せてはくれなかった
私たちは見なかったことを語ることはしない

































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