第25話

文字数 3,493文字


松の木と一輪車



生きることは死ぬことだと分かっていた
しかし死ぬとはなんだろう
私の中に宿ったものはいつか離れていくことも分かっていた
いずれ取り残され他の何者かを待つことになるとあの時知ったから

今まで見ていたのは、本当は誰が見たのだろう
世界はどこにあったのか
私など存在したのかどうか
それは私が今まで思い描いてきた私ではないことは確かだ
私の中に宿った者は私とは違った存在だった
それは何かをじっと待っていたが
何の為に待ったのか
何かを待つ為に本当にやってきたのか
私はいったい何だったのか
私の役目というのは?
なぜ何も知らされないのだろうか
それともそれを理解しないだけなのだろうか
おそらく遥か彼方、
物や生命の彼方からやってきたもの
私はなぜ生きるのか
なぜ宇宙があって世界があって物があって命があると思うのだろう
私が世界を見ている時それは何をしているのだろう
私が自分のことに世界のことに、或はこの世のものでないものについて
思いを巡らせている時何をしているのだろう
私は何だったのか
遥か時間の彼方では何であっても
今は物質であり生命であると思う者は、私は、何なのか
私はここで何をしているのか
そのものは私の中で長く辛い何かの購いをしていると思えるのだ
それは苦しんでいるのだと思えるのだ
たぶん何かによって私から解放されるまで
しかし、何の購いか
生命が一体何の購いになるというのだろう
すぐに無になり宇宙と混ざり合ってしまう者から
いったい何を受け取れるのだろう

どちらにしてもそれが離れた途端
私はすべての神秘的なものから離れていくだろう
どの世界に落とされるのだろうか
物質のしがらみから離れて自由になる?
いや、そんなことは不可能だと思う
その時宇宙が奏でる音楽が聴けたとしても
彼らの記憶が戻って来たとしても
それは私なのだろうか
それともただの物なのだろうか



「地獄の釜の蓋が開くぞ」
ざわざわと足音が響く
誰がそう言うのかと聞き耳を立てた
大勢の人々が言っている
「今に地獄の釜の蓋が開くぞ」

足元の砂は流れていた
不思議な音がした
それは一時も休む事なく動いていた
それでも私はそこに座っていた
じっと、じっと動かずに
もしかしたら尻餅をついていたのかもしれない
近くの小高い丘の上に一本の松の木が見えた
若い松の木だ
しかしわびし気だ
這いずっていって近づくと
その木の根元に錆び付いた一輪車が立てかけてあった
「どうしたの?」
私はやせ細った松の木に話しかけた
何か寒そうだった
「君は木なのになんだか寒そうだな」
「寒いってどうゆうこと
みんなは、ここは暑いって言うけど」松の木は答えた
「ただ僕には暑いも寒いもどうゆうことか分らない
どうしてここが丘かも分からない
僕が今何を見晴らしているのかも分からない
みんな何が見えるか聞きたがるけど
人間にとってそれが何かが分らない
どうやって人間の何かを捜せばいいかも分からない
みんな僕が何か知っていると言うけど
僕にはその何かが探せない
僕の中で僕は人間の何を捜したらいいのか分からない」
「そうだね
それは一体何だろうね」
私は松の木に同意した
しかし「でも、君の言葉が今日は分かるけどね」と言った
すると木は私の方ではなく全くそっぽを向きながら
私にはそう思えたのだ
そして何やら呪文のように
君には見える
君には聞こえると唱えた

午後になると砂は逆流し始めた
しかし私にはどちらでも同じ事
「君の言葉がここまで聞こえた」
そう言うと松の木が私の顔を不意に覗き込んだ
或は私の胸の中を
そして言った「ここはどこなのだろう」
私は不思議に思って言った
「さあ、どこだろうね」
「僕の場所
君が来る場所
この砂はどこへ行くのだろう
どうして僕はここにいるのだろう」
木のくせにおかしなことを言う
「さあ、どうしてだろうね」それでも私は話を合わせようとした
すると松の木が言った
「君はどうして僕とここにいるのだろう」
私は記憶を捜そうと
しかし、その前に松の木が言った
「そうだ、砂だ
砂は染み込むんだ
どこへでも
沢山の涙がこの砂の中に染み込んでいったように
今日はカラカラと骨の鳴る音がするな
君もその身体に付いている肉がなくなったら
この砂の流れの中に入っていくのかい?
でも、そうしたら泳ぐといい
素晴らしいことなんだ
砂は君を連れて行ってくれる
でも沈んじゃダメなんだ」
私はビクッとして自分の足を見つめた
何時の間にか足が消えている
いや、腰まで砂の中に埋もれている
私は急いで松の木に立てかけてあった一輪車を引き寄せると
その中に身体を引っ張り上げた
そうして一輪車の中で膝を抱えて丸くなった
「この猫車はね」と松の木は言った
「今は眠っている
それはいろんなものを運んだ
あっちから運んできてそっちへ行った」
私はあっちとそっちへ顔を向けた
「いろんな人々がその車を使って運んだ
運んだ、何回も何回も数えきれないくらい
或る人は涙を流しながら、沢山の涙を流しながら運んだ
或る人は涙も出ないくらい悲しみながら運んだ
怒りに我を忘れそうになりながら、という人もいたな
そうして諦めそうになりながらも
運んだ
そうしてここを何回も何回も往復していった」
「いったい何を運んだの?」
「さあ、僕には瓦礫にしか見えなかったけど
今は誰も来なくなった
みんな運び終えた
それともみんな諦めた」

「何だか凄く疲れた」
「え、」と松の木は首を傾げた
「私もその人たちも疲れている、なんだかとても」
松の木に私はなぜか訴えた
松の木はなんだか憐れむように枝を揺らせた
私は車から降りてその持ち手を撫でた
なんだか辺りが暗くなってきたようだった
「砂が燃え始めるんだよ」
「え、」こんどは私が首を傾げた
ほんとうに遠くの方に火が見えた
暑くなってきた
風が欲しくなった
「風はいらない」と松の木が答えた
「僕を熱風で焼き殺すつもり?」
雨が欲しいと思った
「雨はいらない」と松の木は答えた
「火の雨で僕を丸焦げにするつもりなの?」
本当のところ耐え難い程暑くなってきた
焼けた砂が痛かった
見れば猫車が焼けた砂の中に引き込まれていくところだった
私は慌てて車を掴んで引っ張り上げようとした
もっと暑くなった
もう限界だ、耐えられないと心底思った
今や空気さえ燃え上がりそうだった
やせっぽちの松の木も焼かれたように真っ赤になっていた
その時一輪車を掴んでいた手が焼かれてジュッと音を立てた
そして金具に張り付いて離れなくなった
ああ、その時猫車は目覚めた
私にも分かった、目覚めたということが

「お前、そこで何をしている?」
祖母の声が聞こえた
「おばあちゃん、久しぶり」と私は言った
何だか長い事会ってなかったような気がした
「何言ってる
お前のおばあちゃんはとっくに死んでいるじゃないか
それにあまり字を読めないのを忘れたのか
おじいちゃんと出会って何とか読み書きを教えてもらったが
あんな言葉は知らんぞ
何のことやらおばあちゃんには分からんよ」
「え、何の言葉?」
さっきよりもっと暗くなった
断然暗くなった
何かが焼ける強烈な匂いがあたりに漂い出す
振り返ったが松の木は悄然と立っていた
僕は大丈夫 何も問題ないと松の木は言ったような気がした
「君は落ちていく気なの?」
誰かがそう言ったような気がした
砂の流れが割れて突然火の川が現れた
そして猫車と一緒に私は真っ逆さまに落ちていった
「何を運んだらいい?
何をどこへ
どこからどこへ 何から何へ
どのように どうして」
手は焼け焦げ、もう離れない
しかし落ちて行きながら
この一輪車に会った事がなぜか救いに思えた
再び祖母の声が遠くから聞こえた
「お前の爺様がもうじき来るぞ」
しかし、人違いだったようだ
それは見知らぬ人だった
「爺様を捜せ
爺様やー、どこだよぉー」祖母の声が奈落に響いていった
砂の中にはあの、やせっぽちの松の木の根があった
砂の中で互いに四方へ伸びようとして絡み合っていた
私はその根を掴んだ
それはなぜか冷たかった
寒くないかい?
どこかで声がしたようだった
いや、それがどこか私にもようやく分かったと思った
私がもうそこにいないのも分かったと思った
焼かれて何が残るのだろう
若い松の木は丘の上に悄然と立っていた
人間が来るかもしれないしもう来ないかもしれない
私は落ちながらそう思った
「お前の言葉」
遠くでまた祖母の声が聞こえたような気がした
「お前の言葉はもうわからない」

私の部屋では水槽が割れて飼っていた一匹の金魚が
絨毯の上に投げ出された
絨毯はあたりの水をすべて吸い取った
吸い取ってどこかへと飛んで行った
まるで魔法の絨毯のように
金魚が私に言う
君は溺れるんだ
君の部屋に
君の日常に
このすべてに溺れるんだ
それでも君はこの水槽を壊した
壊して僕を犠牲にした
私の金魚はそう言うとひっくり返って赤い腹を膨らませた
そして息を引き取った



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