第19話

文字数 3,235文字


     谷



か細く冷たい雨が降りしきっていたが、
何時の間にか止んだようだ
しかし霧があたりを白く包み込んでいた
夕刻間近だろう
渓谷の夕暮れは早い
そこでは別の時間が流れていくのだ
水と奥深い森の時間が
増水した流れが激しかった
もう帰らなければ
しかし白い霧の中に不意に黒い岩が浮かび上がる
その周囲を真っ白い激流が取り囲み轟いている
黒と白、その鮮やかなコントラスト
おや、川の中のあの白いものは何だろう。
その時霧の中を白い花が流されているのに気付いた
真っ白な花
まるで今むしり取られたばかりのような花
それが次々流されてくる
ここはすでに最上流だというのに、不思議な事もあるものだ
花はどこから来るのだろう
見れば黒い岩の上にもおびただしい数の白い花
引き付けられるように近寄って見た
するとその白い花の中にもっと白い一匹の蝶の死骸があった
その時私の周りで水が不意に息を止めたような気がした
気のせいだろう
私は蝶を拾い上げようと手を伸ばした
それはあまりに美しかったのだ
「ダメ」不意に声がした。
「さわっちゃダメ」
その時、大きな目が私の目の前にパチリと開いた
そしてその目の周りに小女の顔が浮かび上がってくる
どこからか白い鳥が飛んできて私の上で叫び声を上げた
「お母さんが来たわ」少女の声だ
鳥は上空を旋回している
突然死んだ蝶が大きな羽毛のようにふわりと舞い上がった
しばらく空を漂っている
だが静かに川面に降りてくるとそこでくるくる回った
しかしすぐに流されていった

何時の間にか岩の上に少女が座っていた
「行ったわ。あれが行きたかった所へ行ったわ」
少女は私を見て言った
「お母さん?誰の?」と私
「あれは誰のお母さんでもないけど、お母さんなのよ」
「あなたは誰?何で子供がこんな所にいるの」
「あなた、私の歳を知らないのね
私は何万年もここにいるのよ
きっとあなたは誰かの時間を信じているのね
でもそれはここのではない
もうあなたのでもないかもしれない
そしてもうすぐここに月が昇ってくる
でも、ここは夕暮れでも夜でもないのよ」
私は空を見上げた
あたりは金色に輝き出していた
その中をゆっくりと巨大な月が昇ってくる
あの蝶は死んでいたのに私はいったい何を信じようとしたのだろう
私は少女を見た
「私よ。あなたは私を信じたのよ。あなたもいつか死ぬから」
「そんなこと分かっている」
「わかっていないわ、ぜんぜん分かっていない」
「いえ、死なないと思っている人間なんていない」
「それでも、ぜんぜん分かっていないわ」
少女は再び顔だけになっていた
私は少女の大きな目に惹きつけられていく
その時私の心を羽のような、
いや、もっと身軽なものが掠めたのを感じる
不意に、ここには死などないのだと思う
少女が言う
「ここの死
あの蝶の死
ここの水
ここの森
分からないのね
あなたは自分がどこにいるのか
分からいのね
そういえば人間はいつもそうだったわ」

月光が私を照らした
「夢なのだろうか」
「夢は私よ
夢はどこにでもあるの
それは時間の彼方までも続いている
私のように」
「あなたはただの少女のように見える」
「ただの少女よ
少女の夢よ」
そう言って少女は笑った
大きな黄色い月がもっと大きくなっていた
しかし辺りは急速に暗さを増している
まるで何かがここに追いつこうとしているかのように
「あなたの帰る時間だわ
時間を信じる者の帰る時間よ」
少女の声が鈴のように暗くなった渓谷に鳴り響いていった
私はその音色に答えようと
思わず手に付けていた熊鈴を振った
それはキーンキーンと澄んだ音色を響かせ
少女の声の後を追っていく
白い靄が益々金色に輝き、
白い花々があたり一面に咲き始めた
すると少女のか細い手が現れ
一輪の花を手折って水の中に投げ入れた。
「夢よ
夢なのよ
あなたにはそれでいいでしょ?
そうよ、夢は醒めるから
蝶は行ったわ
鳥たちは飛んできたわ
それでいいのよ
見たかしら、蝶の夢を
ほら、沢山の蝶たちが飛んでいるわ」
辺りに漂っている金色の粉は蝶たちの鱗粉だった

私はここに別の何かが始まったのを感じたが
それでもここは暮れていこうとしていた
そう、時間を信じる者にとって
そうして、まだ時間を信じなければならない者は
今すぐここから立ち去らねばならなかった
鳥が再び鋭き鳴き声を上げた
そして空から一つの羽毛が舞い降りてきて
ここの秘密を告げようとしていた
「秘密じゃないわ」と少女は言った
「ここには秘密なんてないのよ
ただ私がいるだけ
あなたは私に会ったのかしら
どちらにしてもあなたはすぐに忘れるでしょうね
何もかも何者かの時間の前に差し出すでしょうね
時間が全部取り上げるのはいつものこと
あなたと何回出会っても、どこで出会っても、
あなたは忘れてしまう
あなたは何しにここに来るの?
あなたは谷を降りる
道を急ぐ
暗闇があなたを追い立てる
そうして、山道に辿り着いたところで再び日が差し込んでくる
あなたの世界はまだ暮れていないから
それはいつものこと
見上げればまだ青空が広がっている
それでもそこもやがて暮れていく
あなたたちのあとを追ってくる
あなたの時間が追いつかれる前に谷を出ることね
忘れるのよ
幸せな人よ」
その声は谷底から響いてきた
その渓谷を流れている川の中から

すーと私の前を長細い影がよぎった
道を渡ろうとしていたイタチだ
道の真ん中で立ち止まり私の顔を見上げ、
なぜか首を傾げている
藪の中でガサガサと動物たちの動く気配
皆この道を渡るのだろうか
そうだ、夕暮れなのだと思いあたる
昼の動物だけでなく夜の動物にとってもそうなのだと
そして皆どこかの夕暮の中
何かの道を渡って移動しなければならない
この道がそうなのだろうか
真っ黒い熊の姿も見えた
私はもう一度熊鈴を鳴らした
いや、鈴がひとりでに鳴り出した
夜へと向かって道端の小さな花々が、
めいっぱい大きく花びらを広げていった
「夢よ、あなたにはただの夢」再び少女の声がした
「でも夢は私」
風が吹いてきて谷に色々な声が満ちてきた
語られなかったことが語られる時刻が
近づいているのかもしれなかった
私たちはつまりは時間の旅人だったから
一斉に夜の花々が咲き出した
さっき川を流れていった白い花たちがその中に混ざっていた
何者かの時間が花たちをここに呼び戻して咲かせていた
私がまだ谷を出ていないことを知らない人々がやって来て
花々の道を歩いていく
あなたはまだ行けない、
家も故郷も愛もすべて失ってから来るのよ
そう少女が言っているような気がした
時間はすべてのものを持っていってから
やっと私を離すだろうから
また少女の声がした
「みんな花が好きなの
ただそれだけ
花に惹かれてやってきて花を見て帰るだけ
でも、見たのよ
ここに、ここの夕暮れに花開く花たちを
あなたもそう
それが大事な事なの
いずれ分かるわ
それがとても大事な事だと」

そうして、谷は夜になってしまった
私の夜がここの夜に重なり、
ここから眠りをのけ、
少女の夢を通って、
これから本当に怖い夢が私の元へとやってくる
なぜかそう思った
再び少女の声がした
「例えば、不意にあなたは自分が
一本の木のような気がする
なぜかというと、本当にここであなたは一本の木で、
たわわに実を実らせていたから
動物たちはあなたが実らせたその鈴のような実を
食べたことがあるの
或は届かないけど食べたいと思ったことが
その実をじっと見つめながら
あなたの前を通っていったの
あなた、さっき動物たちにじっと見られたでしょ?
彼らはこの日この夜を通っていく動物たちよ
どんな話が出来たかしら?
いっぱい話した?
ここでは彼らとの話は尽きない
そうして時間が消えていくの
後にはおしゃべりだけが残されていくの
あなたはそこで話されたすべてになれたのかしら
それとも、これからなるのかしら」
そして少女はさも可笑しそうに笑った
私も笑った
いつしか肩の力が抜けていくのを感じた
ここはそんな谷なのだ
そう思った
そして、そんな谷と川に本物の夜が来ようとしていた
いや、もうすでに来ていた
しかしどうやら私は道に迷ってしまったらしい
私はまた熊鈴を鳴らした
すると鈴の音は、今度は熊の耳を通って、
もっと深い闇へと響いて行った
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