第92話 崇高なる人 後編

文字数 2,281文字


   崇高なる人 後編



  ――週末になった。

 梅雨明けの蝉しぐれが喧しく降り注ぐ中、私は母たちに導かれるまま、寺へと続く坂道を登っていた。寺は大阪の天王寺にあった。この辺りは四天王寺を初め、多くの寺院がひしめき合うお寺の街だ。

 もう何年ぶりだろう。長らく来ないと場所さえ忘れかけている。己の不敬を反省しつつ、同じような寺院の建ち並ぶ道をぐるぐる迷いながら、ようやく目的の寺にたどり着いた。

 寺はその辺りに建ち並ぶ大きな寺院に比べてこじんまりとしているが、京都に本院のある由緒正しき寺で、はるかに昔からその地にあった。 

 門をくぐり、きれいに手入れされた中庭を抜け、玄関でインターホンに名前を告げる。すぐに若院さんが出迎えて下さった。

「よくお越しになられました。住職がお待ちですよ」

 待っておられる? いつでもお越しくださいと聞いていたので、私は前もって来ることを告げていない。少しだけ心に引っ掛かった。なぜか見舞客全員に向けての社交辞令だとは思えなかった。



 若院さんに案内されて、よく磨き込まれた廊下を抜け、住職さんの寝室に入る。

「住職、天野さんがお見えです」 

 途端に異臭が、私の鼻を刺激する。昔、母が入院していた病室と同じ臭いがした。寝たきりの年老いた人間から発せられる独特の臭い。それが排泄臭と入り混じり、思わず鼻を閉ざして、口で息をしそうになる。

 私の顔を見るや否や、住職さんは、もうほとんど動かないからだを、なんとか起こそうと一生懸命に努力されていた。私は慌てて「どうぞご無理なさらずに」と声を掛けたところ住職さんは、満面の笑顔を私に見せ、とてもしっかりした大きな声で何度も頭を下げながらこう言った。



「よう来てくれはったなあ、ありがとう、ありがとう、ありがとう」



 そして、やっと動かすことのできる左手を私の方へ差し伸べて、握手をしようとされた。  

 私は、胸がジーンとなって、その手を強く握って、「こちらこそご無沙汰しております」と言うのが精一杯だった。すると住職さんはにっこり微笑んで言った。しっかりした口調で。



「ああ、天野さん、あなたの気持ちはいただきましたよ。おおきに、おおきに。わたしもね、お宅へお参りできへんようになってしもてそれがずっと気になってました」

「いいえ、本当はもっと早くに来なければいけないと思っていました。遅くなってすみません」

「いやいや、今日、こうやって来てくれはった。もうそれだけで十分です。来年は、親鸞聖人生誕750年祭やから、それまではなんとかここに居られたらと思うんやけどな、こればっかりはわかりませんわ。せやから、もうこれが最後で、あんたに会うことはないかもしれませんけどな、会えて良かった。あんたもお元気でな……ありがとう、ありがとう」



 そう言った、住職さんの顔は、とても穏やかで、もうすぐそこに「死」があるのに、何の恐れも不安もない。ただ心穏やかにそれを受け入れる準備ができている。

 その姿は、あまりに自然だった。枯れ葉が落ちるように、花が散るように、こんなにも自然に人の命も最期を迎えることができるものなのか? 未練はないのだろうか? 私は衝撃を受けてしまった。

 普段何事もなく暮らしている時には、いつもすぐ隣に死が存在することなど考えることはない。生きることと死ぬことは表裏一体。当たり前で自然なことなのだと、住職さんは私に身を持って教えてくれた気がする。私は胸がいっぱいで目頭が熱くなった。どうしてもっと早く来なかったのだろうと心から反省した。



 部屋を出ると、若院さんが、お茶をご用意しているのでぜひ本堂にお立ち寄りくださいと案内された。

 広い本堂に入り、ご本尊を拝んで、ふとお膳を見ると、お茶と菓子が2つ用意されていた。

「これは?」と尋ねる。

「住職に2つご用意するようにと」



 なんと、気になっていたのは住職さんだけではなかったと言うことか。心にストンと落ちた。

 その後、若院さんからこんな言葉を聞いた。

「住職はね、ああやって来た人、皆さんにお礼を言っておられるのです。いつ、どなたが訪ねて来られて、ああやって必ず起きようとなさる。わたしが、後からしんどくなるからと何度申し上げてもお聞きにならないのです。それでこういう風に申されます」



『わたしはもうすぐにこの世を去るでしょう。でもそれが自然の摂理です。この世に生まれた命は、必ず死ぬ。その、「死に逝く様」を、来られた方、皆さんに見てもらうことこそが、わたしに課せられた最後のお努めなのですよ。こうやって動かぬ体を引きずって、悪臭を発しながら、醜く死に逝く様を見てもらうことがね』



 その言葉は、とても私の心に沁み入った。初めてあの部屋に入ったとき、感じたあの嫌悪感は、人の『生(性)』に対する執着なのだと思った。果たして、私の最期の時に、こんなにも心穏やかに自分の死を受け入れることができるのだろうか?

 そして、死がすぐそこにあるのに、この人は、まったく死の匂いを感じさせない。いや、それどころか、輝く生気を強く私に感じさせてくれた。病に侵されて、動けないからだのどこにこんなパワーがあるのだろう。

 そのパワーを私も、握手することで、かなり頂いたような気がした。とてもすばらしいと思った。 本当に行って良かった。会えて良かった。これも母の導きのような気がする。

 翌年、住職さんは御仏の傍に参られた。享年、九十七歳。なんと崇高な人生を送られたことか。格好の良い人生だなあと心から思った次第だ。



                                了
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