第81話 悲しきIさん④―ナナちゃん奇譚より

文字数 1,408文字

  悲しきIさん④――ナナちゃん奇譚より



 翔一君が救急病院に担ぎ込まれた翌朝。救命センター横の長椅子に腰掛けてうなだれていたIさんの前に二人の男が現れた。二人に気付いてIさんはゆっくりと顔を上げた。。

「Iさんですね? 大変な時に申し訳ありませんが、少しよろしいですか?」

 男は速やかに旭日章と顔写真の入った身分証を提示しながら物腰も柔らかく問い掛けた。

「あ、はい」

(来た!)彼女は咄嗟にそう思った。夕べ状況を説明した時に、医師から警察に連絡する旨を伝えられていた。当然の結果だ。だが彼らの話は予想とは少し違っていた。

「K谷のことはご存知ですね?」

「ええ」

「夕べ遅くに自宅マンションでK谷から暴行を受けたとドクターから伺いましたが間違いありませんか?」

「あ、はい……」

「K谷は今朝、遺体で発見されました」

「え?」

 彼女はすぐに、バスルームで顔面から大量に血を流して全裸で横たわるK谷の姿を想像した。もう言い逃れはできないと覚悟した。

「すみません。わたしがやりました」

 毅然と言い放ったIさんに対して意外にも刑事は頭を振った。

 確かにバスルームでの一撃はK谷を傷つけたことには違いないが、それは致命傷には至っていないと言う。

 しかもK谷の遺体はIさんのマンションで見つかったのではない。自宅から一キロほど離れた大きな川の河川敷で見つかったのだと言った。

 K谷は全裸だったそうだ。どうやらバスルームでの一悶着の後、彼もまた氷雨降る真夜中に飛び出して行った。それはIさんを探していたのかもしれないし、薬が狂わせたのかもしれない。とにかくK谷は素っ裸で寒空の下へ飛び出して行ったことは間違いなさそうだ。

 そして暫くさまよったあげく、家から一キロほど離れた川の土手から河川敷に転落し、運悪く足首を骨折。自力でその場から動くことはできなかった。死因は薬物中毒の末の凍死だった。

 冷気で体温を奪われた翔一君はそのおかげで生き長らえ、K谷には死が与えられた。なんとみじめな最期なのだろう。

 「あはは」

 「あなたね、何を笑っているのですか?」

 刑事たちの表情が変わる。

「だってね、あまりにおかしいでしょ。あまりに皮肉じゃありませんか」

 しかしIさんが直接命を奪ったのではなくとも、傷つけたことは事実であるし、何より、彼女は使用したことがなくとも、部屋から覚せい剤が見つかったことは事実だ。彼女が所持していたと見なされてもおかしくはない。

 当然警察はIさんの使用も疑い、詳しく検査もしたが結局彼女の体から成分は検出されなかった。 また傷害に関しても、状況から判断して翔一君を救うために止む得ない行為であった、言わば正当防衛に当たると言うことで厳重注意のみ。起訴されることはなかった。

 身寄りもない半端者のヤク中一人、寒空の下で野垂れ死んだところで誰も迷惑しない。彼女は同情こそされ、誰からも責められることはなかったが、翔一君の脳には大きな傷跡を残す結果となってしまった。

 あの夜からなんと三ヶ月も翔一君の意識は戻らなかった。脳への血流が長時間止まっていたために、低酸素脳症を発症していた。もしかしたらもう翔一君の意識は戻らないのでは? と思い始めた頃、ようやく翔一君は目覚めた。重度の脳性麻痺と共に。

 それからのIさんと翔一君の苦悩は計り知れないものとなってしまった。
                                 続く

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