第65話 一段ずつ登りなさい

文字数 2,459文字

  一段ずつ登りなさい     



 日曜、深夜2時。真夜中の部屋に無機質な電子音が鳴り響く。

 無理やり現実に引き戻されてしまった。手探りで枕元のスマホを探す。それは上司からの急な仕事の電話だった。深夜の現場でトラブル発生! 至急現場へ迎えと言うことだった。

 「ええ、今から? マジですか?」

 ああ、なんで今なのか! 土曜の夜更かしでさっき寝たばかりなのに。私には眠る時間もないのか? 

 休日にもかかわらず、左手に缶コーヒー、右手にハンドルを握り、私は現場へ急ぐ。仕事だとわかっていても何となく納得できない。電話して来た上司は来れないと言う。仕事とはいえ、何か無性に腹が立った。

 なんとか応急的にその場を収めて、うちに帰って来たときはすでに夜が明け始めていた。    

 そしてそのまま倒れこむように私は再びベッドへ。



「いつまで寝てるの? 昼ご飯は?」

 ガラッと戸が開いて、一人息子のナオが、寝室にどかどかと入って来た。時計を見ると、なんとお昼12時半を回っている。私はシングルファザー。仕事、家事、育児のすべてワンオペだ。しかし……。

「いつまで寝てるの?」にはちょっとムカッと来た。そしてついつい言い返してしまった。

「おまえなぁ、口の聞き方がこの頃なってないぞ!」

「ぁすみません」
 すごすごとキッチンの奥に逃げて行くナオ。

「こっちは朝まで仕事してたんや!」 

 怒り治まらず、私は大人げなく「もう昼メシ抜き!」と言い放ってしまった。

 悲しそうに、自室に帰るナオ。

 その後姿を見て「ああまたやっちまった!」と後悔しきり。

 そしてすぐにご飯の用意をして、ナオを呼んで、ふたりで遅くなった昼ご飯を食べる。

 二人ともさっきのことが引っ掛かっていた。一言もしゃべらず、黙々と昼ごはんを食べる。

 気まずくなってテレビをつけると、ニュースをやっていた。

 休日の昼下がりだというのに、アナウンサーが伝えるのは、凄惨な事件ばかりだ。

 母親が子供を殺したとか、火事や、事故で犠牲者がたくさん出たとか、紛争で多くの子供が犠牲になっただとか……。なんと暗いニュースばかりなことか。

 そのときナオが、私に聞いた。

「父さん、人はなんであんなことするの?」

 私は少し返答に困った。でも私もそれと同じ質問を昔、子供の頃に母にしたことがあった。

 母は言った。

「うん。人の心には、誰でも、天使と悪魔が住んでるねん。天使だけの人もおらへんし、悪魔だけの人もおらへん。けどな、心に住んでる悪魔はな、怒ったり憎んだりが大好きやねん。それをやったらどんどん大きくなる。ほんで大きくなってきたら、もっと怒れ、もっと憎しめ!ってもっともっと欲しがって、しまいには心が悪魔に乗っ取られてしまう。逆に、天使は、嬉しいとか、楽しいとか、喜んだりとか、笑顔とかが大好きやねん。せやからそういう気持ちで心を満たしてたら、天使がどんどん増えるんや。そしたら、こんな悲惨な事件はきっと起これへんようになる。」

 母の言ったことと同じことをナオにも説明しつつ、ハタと気が付いた。

 さっき、私の心の悪魔に、おいしい餌を与えてしまった。ごめん、ナオ……。



 それから、お天気が良くなって来たので、気分転換に近くの天王寺公園へぶらりと出掛けた。

 子供のころよく遊びに来たことのある茶臼山公園は、あの頃とあまり変わっていない。そして、美術館に行く道にある慶沢園。ここは私のお気に入りの場所。都会のど真ん中にありながら、ここだけまるで時間が止まったように感じられる。

 一人きりで、ベンチに腰を掛けて、ぼんやりと緑色の池を見ながら、取り留めもないことを考えていたら、どこからかお線香を焚く匂いがして来た。そのとき、ふいに思い出した。すぐ隣は、「一心寺」というお寺だったことに。

 そこは、亡くなった仏様のお骨のかけらを納めて、そのかけらを塗り込めて大きな仏像にしてくれる有名なお寺だった。うちの母が亡くなった時も、やはりそのお骨のかけらを納骨して仏像を作ってもらったのだったが、仏像ができましたとお寺から通知が来て、その時に姉とお参りに来てからと言うもの、もう何年もお参りに来たことはなかった。ずいぶん罰当たり、杓子定規な宗教観だ。

 と、その時、今日が母の祥月命日だったことに気付く。そんなことすらも忘れていたのだ。

 私は思い立ったように立ち上がり、一心寺へと向かった。



 そのお寺へ上がる石の階段を上がろうと、ふと前を見ると、一人の年老いた和服姿の女性が、杖を付きながらゆっくりと階段を上がっている。一目で足が悪いとわかる。

 ここへお参りに来るのは、お年寄りが多いようで、階段は、一段の段差を低く抑えて作ってある。なだらかな階段が、建物で言えば、だいたい3階建てぐらいの高さまで続いている。

 その長い石段を、和服姿の女性は、杖を付きながら、一段、また一段と息も絶え絶えになりながら一生懸命階段を登っていた。

 でも私は、その段差の低さが煩わしくなって、一段飛ばしでさっさと登ろうとしていた。

 そして、その足の悪い年老いた女性を抜き去った。

 と、その時、どこかで声が聞こえた。

 

  ――慌てずに一段ずつ登りなさい。



 え? と思って振り返ると、なんとそこにいたはずの年老いた女性の姿はない。

 そんなことって? 確かに私はその女性を左から抜き去って登ったはずなのに。消えた?

 私の母はパーキンソンを患っていた。長患いだった。歩くこともままならなかった。

 その時、私は思った。そうか。ゆっくり登れってか。そうだなあ。

 この頃の私の生活ぶりを、母がずっと見ていたに違いない。だから私をここへと導いたのだ。

 

 何か、少しだけ理解できた気がした。ゆっくり登れば、心にゆとりが生まれて、自分も周りも良く見える。そうしたら他人を思いやる心が生まれる。きっとそう教えたかったのだろう。

 今日は、不思議な日だ。私の心の天使も、ちょっと微笑んでいるような気がした。 



                                了

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