第42話 勾 玉②

文字数 2,181文字

  勾 玉 ②



 うわああああ! 何だ! これっ! 離せっ!

 青いゲル状の大きな怪物に四方八方から掴まれているような感覚に襲われた。私はレギュレターを咥えたまま、ボコボコと大きな泡の塊を吐きながら声にならない声で叫んだ。もう自分が上を向いているのか下を向いているのかさえもわからない。完全なパニック状態だった。ロープのことも忘れて30mから一気に浮上したバチが当った。

 と、その時だった。

 

 ――なぜだ、なぜおまえは人間の味方をするのか!

 

 ――去りなさい!

 

  誰かの叫び声がした。

  次の瞬間、体の自由が戻った。



  ――慌てないで。暗い方を向いて。ゆっくりと息を吐いて。

 

 それはどこかで誰かが叫んだ声なのか、それとも僕の頭の中でだけ聞こえたのかわからなかった。でもその声は、いつだったか以前どこかで耳にしたことのあるとても懐かしい響きだった。



 「誰?」

  

 酷いめまいの中でその声の主を呼び返してみたけれど、それきり声はもう聞こえなかった。

 しかしその的確なアドバイスによって、私は落ち着きを取り戻し、突然起こった事態を冷静に乗り切った。

 下を向くんだ。下を、暗い方を! 依然として左耳からは激痛が走り、ぐるぐると目は回っていたけれど、先ほどの自分の体のあちこちを掴まれたような感覚は消え、上下の区別だけははっきりした。

 ようやく命からがら水面から顔を出して辺りを見回す。

 「え? ここ、どこだ?」

 かろうじて島影が見えるが、うねりのせいで赤いブイどころか、もやいで停めている船さえも見えなかった。

 そのとき私は、ようやくロープに沿って上がらなかったことに気付き、そして自分が、慣れていないとは言え、どれほど危険なことをしていたのかを思い知った。

 相変わらず左耳はじんじんと痛かった。しかし今はとにかく無事に帰ることが先決だと思った。

 幸いなことに眩暈の方はかなり治まって来ていた。

 私は、無我夢中で島影の見える方向に向けてゆっくりと泳ぎ出した。

 波と、うねりのある海面を抵抗の大きいスキューバの重装備で泳ぐことはそれだけでとても体力を消耗する。浮力調整具を身につけていたことが唯一の救いだった。そのおかげで泳ぎやめても溺れる心配こそなかったものの、泳いでも泳いでも波に飲まれ、島はいつまでたっても近付く気配はなかった。

 さっき私を掴んだとてつもなく巨大な青いゲル状の怪物がまた私を引きずり込むような気がして、今にも叫び出しそうなぐらい怖かった。

 

 その時、どこかでエンジン音が聞こえた。

「おーい! 大丈夫か?」

 先輩だった。私は随分長い時間海面を漂っていたらしい。

 助かった。心からそう思った。安堵の表情を浮かべた私とは反対に血相を変えていたのは先輩の方だった。

 先輩は最後まで仕事をやり終えて船に戻った時、先に上っているはずの私がいなかったので大変心配したらしい。申し訳ないことをしたと反省している。

 島に戻り、機材を洗っている時に、ジャケットのポケットからそれは出て来た。

 すっかり忘れていた。

 

 ――いつかあなたはそれを見つけるから、私に返してほしい。



 ミツだ。私はすぐにミツを探した。どこに行けばミツに会えるのだろう。そう考えた時、あの時の会話の中で、ミツが島でたった一軒の祭事師の娘であると言うことを思い出した。そこで私は、島の漁師にミツのことを尋ねて回った。

「ミツ? どうして島の人間でもないあんたがミツのことを知っている?」

 ミツと言う名前を出した途端、それまで冗談を言って笑っていた漁師たちが、皆一様に怪訝そうな顔をして口を閉ざしてしまう。それでも私は何とか家を聞き出して向かった。

 呼び鈴を鳴らすと、少しして一人の老婆が顔を出した。たぶんミツのお婆さんだろう。

「すみません、こちらにミツさんはいますか?」

 そう言った途端、老婆の表情が急に険しくなった。

「ミツに何か用か?」

 そこで私は拾った勾玉を見せながら、これを返しに来たと言うと、突然お婆さんが大きく目を開いて私の顔をじっと見た。

「お前さん、これをどこで?」

「海で。ミツさんに見つけたら返すように約束してました。たぶんこれのことかと思って」

 そう言うと、お婆さんの瞳に大粒の涙が溢れた。

「あんた、ミツと話したのか?」

「ええ、島へ渡る船で」

「そうかい。ちょっと上がってくれんか」

 お婆さんは私の手を取り、半ば強引に家の中へと案内した。そんなに広い家ではなかったが、襖を開けると大きな祭壇が現れた。私はそこにミツがいるのかと思ったが、そこには誰もいなかった。

 ただ、祭壇の上の壁に、見覚えのある写真が飾ってあった。

「よう見つけてくれたな。ミツはこれをずっと探しておった。大事なものを無くした言うてな」

 お婆さんはそう言って、勾玉を祭壇に祀った。

「あの、ミツさんは?」



 ――ああ、あの子がおらんようになって今年でちょうど十年になる。



  後から聞いた話では、ミツは、十年前、島へ渡る船から忽然と姿を消したらしい。

 それ以上のことはわからなかった。

 ただ、私はあの船でミツと出会った。それは事実だ。

 

 「いつかあなたはそれを見つけるから……」

 

  私は、あの時のミツの笑顔が忘れられない。

                   

                                 了
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