第69話 陶 酔

文字数 1,730文字

 昔、まだ若かった頃、バイクが好きでよく仲間とつるんでツーリングにも行った。今はもう還暦もすぐ目の前になり、身体的能力の衰えを感じて泣く泣くバイクを降りてしまった。子供たちから反対もされているので、たぶんもう乗ることはないだろう。

 しかし、今思えば、一般道を走る物でバイクほど危険な乗り物はないと感じる。

 生身むき出しで、高速などは時速100キロまで出しても良いわけで、ラフなスタイルのまま時速100キロで転倒すれば、おろし金みたいなアスファルトでミンチになってしまう。

 しかも今や二人乗りでもOKと来ている。冷静に考えれば本当にヤバい乗り物だと思う。

 でも人間は本能的にスリルを求める生き物なので、一度バイクの快感を味わうと、もう虜になってしまう。バイク中毒と言っても過言ではない。

 実は、知り合いが数人、事故で死んでしまった。そんなに簡単に死ぬの? と言うぐらい簡単に死ぬ。私自身も、若い頃は毎年骨折するぐらい気の狂った乗り方をしていた。



   陶 酔



 もう30年ぐらい前の話になる。ある時、私の後輩でもある、20代の男性N田君が、夜中に止まっていた無人の重機に時速80キロで突っ込んだ。

 あの大きな黄色い車両に後ろから? そんなこと起こるわけないだろうと言う時に起きてしまうことこそが「事故」なのだ。

 警察の検証によれば、N田君は、路肩に停められていた大型重機の後方にノーブレーキで顔面から突っ込み、頭部に致命的なダメージを負ってほとんど即死だったらしい。

 後日、私は花を手に現場を訪れた。制限時速60キロの片側2車線の国道で、ゆるやかな下り坂、わずかに左にカーブしていたが、夜中とは言え、路肩に止まっている重機に気付かないわけはない。

 居眠りなのか、わき見でもしていたのか、ぼやっとしていたのか、警察も原因がはっきりわからないまま自損事故として処理された。

 ただ、そこは以前から事故が多い場所らしく、後々国の事故調査委員会が道路に不備はなかったか調査を始めたと言うことだった。

 とは言え亡くなってしまったことはどうしようもなく、遺族には駐車していた重機側の保険が下りたことがせめてもの救いだった。

 N田君が乗っていたのはヤマハのTZRと言う、当時旬のバイクだったが、皮肉なことにそっちはほとんど無傷であった。

 

 私は、亡くなったN田君のご両親からそのバイクの処分を頼まれた。

 売ればきっとけっこうな値段になるに違いない。でも、それはTZRをこよなく愛していたN田君の意思に反するような気がして、結局、私は引き継いで乗ることにした。

 TZRは大変軽くておもしろいぐらいスピードが出る。80年代から90年代初めごろの2サイクルレーサーレプリカほど乗って楽しいバイクはない。

 国内メーカー四社が世界GPでもしのぎを削っていた頃で、その中のヤマハはGPではYZR500に乗る平忠彦の名前を憶えている方も多いだろう。そのYZRを公道仕様にしたものがTZRだった。メーカーの本気度が窺えるが、その陰にはN田君のように犠牲となった人もきっと多いだろう。

 私はそれまで4サイクルにしか乗ったことはなかったけれど、初めて乗った2サイクルの、ある回転域を境に爆発的に豹変するエンジン特性を味わうと、その麻薬のような快感にどんどん陶酔していく。一気に脳内にアドレナリンが吹き出すような気がした。これは若い人なら尚更だろう。

 何だろう、地上を走る乗り物で一番自由で、空を飛んでいる感覚に近い乗り物だと思った。

 これは、逝くわ。そのまま自由な空の上まで……。

 渋滞している高速道路の路肩でさえ軽く100キロ以上は出てしまう。抑えられなくなる。

 車側からしたらなんとクレイジーなことか。

 でもそんなこと気にもせず、ガンガンアクセルを開ける。と、その時。



  ――危ないですよ



 N田君の声が聞えた。私は右手を咄嗟に緩める。次の瞬間、すぐ前方の車が渋滞の列から離れて路肩に寄って止まろうとした。間一髪! あのまま行ったら、間違いなく死んでいた。

 それからずっと、バイクを降りるまで、N田君は私を守ってくれていたに違いない。



                                了
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み