第18話 仔猫の鳴く時―僕は大家さんより 

文字数 2,728文字

 長年大家さんをやっておりますと、いろいろなことが起こります。

 楽しいことも、嬉しいことも、腹の立つことも、そして悲しいことも。

 人間が生きると言うことは、そう言うことなんだろうと、この仕事をしていて心からそう思います。 今回のお話はとても悲しいお話です。



  仔猫の鳴く時



 今からもう十年以上も前になりますか、ある時、不動産屋から、303号室、2LDKファミリータイプに応募が来たと連絡がありました。

 入居希望者は、30代女性独身、仕事は接客業、つまりお水ですね。それも大阪は北新地のクラブ勤めでした。そして一つだけ入居するに当たっての希望がありました。

 

 「大家さん、仔猫がいるんですけどかまいませんか?」

 

 お水系のお姉さんは、なぜか仔猫とセットのことが多い。淋しいからかもしれません。

 うちは、本来ペットはダメなのですが、まあ仔猫ぐらいならば、それも退居時にきれいに修復する、他の部屋に迷惑を掛けないという条件で受けることにしました。

 

 初めてM口さんにお会いした時は、メイクもそこそこに普段着でしたから、この平凡なお姉ちゃんが新地でホステスさん? と疑問を持ちました。

 しかし、ご出勤前にばったり玄関で出くわした時は別人でした。愛想も良く品があって礼儀正しい。そして連れて来た仔猫は、雪のように白く、サファイヤみたいな青い目をしていた。見るからに高級そうな猫だ。そして世話もしっかりされていたようなのでこちらも問題はありませんでした。

 

 さて入られて一年は過ぎたでしょうか。

 ある月の末日、初めてM口さんは家賃を持って来ませんでした。忙しいのか、たまたま忘れたのか、まあ、また持って来るだろうとそのまま放って置きました。

 ところが、月が開けて、一日たっても三日たっても音沙汰がありません。いよいよこれはどうしたことかと、部屋を訪ねると鍵が閉まったまま。インターホンを押しても反応はありません。

 そこで携帯に電話してみました。残念ながら留守電でした。一応留守電にメッセージを残しておきました。

 夜、電話がありました。私は、合鍵で侵入しないで済んだとほっと胸を撫でおろしました。でも電話口のM口さんはいつになく元気がなかった。



「すみません大家さん、お家賃ですよね」

「ええ、どうかしはったのですか?」

「それがちょっと病気になってしまいまして、先月末から急遽入院することになりました」

「ええ? 大丈夫なんですか?」

「はい。でもいずれわかることなんでお話しますね。私ね、どうやら白血病になってしまったみたいなんです。一応抗がん剤治療と免疫治療とかやってますが……」

 私は言葉を失ってしまった。それでも頭の片隅に、家賃と猫と今後のことが浮んで来る。こんな時なのに、彼女よりそれを心配する自分が嫌だった。それが伝わったのか、M口さんは言う。

「大家さん、お家賃は必ずお支払いいたしますのでもうちょっと待っていただけませんか? それと猫は友達が預かってくれています」

「わかりました。どうぞ治療に専念してください」

「有難うございます。本当にご迷惑おかけしてすみません」

 M口さんは毅然と言ったが、声が震えていた。

 

 結局、その後、M口さんは303号室に戻ることはなかった。あまり具合が良くないらしい。

 それから3か月は月に1度だったけれども、M口さんから電話があり、家賃も振り込んでもらっていたが、4か月目、とうとう連絡は途絶えてしまった。

 どこの病院に入院しているのかがわかれば出向いて行こうと思ったが、それまで毎月連絡があり、家賃も振り込まれていたことで、すっかり油断していた。大家としては失格だったと思う。

 そこで私は、M口さんを紹介して頂いた不動産仲介のSホームさんに相談に行った。Sホームさんは、すぐに連帯保証人であるM口さんの国のお姉さんに連絡を取ったところ、溜まった家賃は必ずお支払いしますと言う約束をいただくことができた。

 家賃の問題はこれでなんとかなるのだろう。でも、病気と懸命に戦っているM口さんのことを思うとどうにも辛い。



 それから3か月後、M口さんが入院されて半年経った時だった。

 M口さんを紹介して頂いたSホームさんから電話があった。

 「ああ、オーナーさん、M口さんね、やっぱりあかんかったみたいですわ」

 

 その翌週、M口さんのお姉さんが、郷里の山口県からやって来られた。

 お姉さんは私が心配していた家賃をすべて支払い、そして部屋をきれいに片付けて、白く小さな陶器に入れられたM口さんといっしょに郷里に帰ることになった。

 

 私は退居時の部屋確認で初めてM口さんの部屋に入った。

 ほとんど後片付けの済んだ部屋は、まるで入居時と変わらないぐらいにきれいだった。ただ、リビングの壁に一枚だけポスターが貼ってあった。

 「大家さん、すみません、このポスターだけうまく剥がせそうもないんです。壁を傷つけそうで」

 お姉さんが申し訳なさそうに言う。

 「ああ、いいですよ。どうせクロスも張り替えますから、そのままにしておいてください」

 「ご迷惑掛けっぱなしですみません、あの子、こういうところがだらしなくて……」

 

 それはエメラルドグリーンの海と長い橋の美しいポスターだった。

 「きれいなポスターですね」

 「ええ、これ、あの子の好きな場所なんですよ」

 お姉さんは泣きそうな声でぽつりと言った。

 それは彼女の生まれ故郷を代表する観光名所、角島つのしま大橋の写真だった。

 M口さんは、たった一人、この都会の片隅で、つらい時はこの景色を眺めながら頑張って来たのだろう。いや、そう言えば彼女はこっちに引っ越してから一度も山口へ帰っていない。もしかしたら帰れない事情があったのかもしれない。きっと帰りたかったに違いない。

 

 お姉さんがすべてを引き上げて帰られた後、私はもう一度部屋に入った。

 再びポスターを見たところ、うまく剥がせば業者に頼むほどでもなさそうだったので、そっと剥がそうとした、と、その時、「みゃあ」と猫の鳴き声が聞こえた。一瞬、サファイヤの目を持つ仔猫が私の脳裏をよぎる。

 私は驚いて部屋中を探した。戸棚やクローゼットまで探し回った。けれど、猫はいなかった。



  私は窓の外を見る。夕闇の中、建設中のハルカスのてっぺんに小さな灯りが侘しく灯っている。

 きっと彼女も毎日この景色を見ていたはずだ。

 日に日に上へ上へと伸びるハルカス。でも結局、彼女は完成を見ることはできなかった。

 M口さん、よく頑張った。どうぞゆっくり休んでください。私は心の中でつぶやく。



  辺りにはかすかに香水の匂いが漂っていた。

                            了

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