第96話 チンクちゃん、ゴメン ――ナナちゃん奇譚より

文字数 2,323文字

チンクちゃん、ゴメン ――ナナちゃん奇譚より



「あたしな、友達の運転する車の助手席に乗っててん」

 首に巻いたコルセットも痛々しく、暗い顔でナナちゃんは話し始めた。

 

 紅葉真っ盛りの頃。新しい車を買ったナナちゃんは、仲の良かった女友達と二人で京都へドライブに出かけた。

 「これ、ずっと欲しかっってん。憧れの車やねん」とニコニコしながら自慢していた、フィアット500。私がいい色やなと言うと、「限定カラーやねん。この黄色が欲しかってんよ」と言う。よほどうれしいのだろう。

 ナナちゃんは今も若いが、もっと若い頃に旦那に逃げられ、多額の住宅ローンに追われ、二人の娘さんを抱えてたった一人でここまで頑張って来た。そしてつい最近、念願の車を手に入れた。よほど嬉しかったのだろう。だから毎日のように乗り回していたが、彼女はよくよくついていないらしい。買ってまだ一ヶ月しか経っていないのに、ある事が原因で事故を起こしてしまった。

 

 午後6時すぎ。ナナちゃんとその友人を乗せた黄色のフィアットは、渋滞した京都市街地を抜け、薄暮の国道171号線を高槻に向かって走っていた。

 大山崎を過ぎ、フロントガラスをゆっくりと舐めるように青い帳が降り出したころ、ハンドルを握るナナちゃんを急激な睡魔が襲った。単調な運転、前夜、遅くまで仕事をしていたこともあり、一日歩き回った疲れが一気に出たのだろう。

 薄暗いはずの風景が眩しくて、何度か目をしばたたかせるようになった。

 とても危険な状態であった。幸いなことにすぐに助手席の友人が気付き、「眠いんやったら運転代ろうか?」と言った。本当はコンビニにでも寄って休憩したかったけれど、早く子供たちの待つ家に帰らなければならない。きっとおなかをすかせてナナちゃんの帰りを待っているはずだ。

 そう思ってナナちゃんは「チンクちゃん、ごめん」と心で呟き、不承不承、「ほんならごめんやけど」そう言って、運転を交代した。

 助手席に移り、目を閉じ、少し眠ろうとしたが、今度はなかなか眠れない。大事な車を人任せにする居心地の悪さに、どうにも緊張がほぐれずに、ぼんやりと前方の道路を眺めていた。

 道はさほど渋滞もせず、かといってすいているわけでもなく、4,50キロぐらいのスピードでだらだらと流れていた。ずっと先の交差点の信号が、赤から青に変わった。停まっていた車が動き出すのが見えた。ナナちゃんの車は減速することなく、そのまま水無瀬駅前交差点へと差し掛かる。

 と、その時、女児の乗った小さなピンク色の自転車が、歩行者信号の赤色を無視して交差点へと侵入した。ちょうどナナちゃんの上の娘さんぐらいの女の子だった。

 「あ! 危ない」

 気付いたナナちゃんは、当然友人も止まると思っていたのに、彼女まったく速度を落とさない。 

 「え? え? なんで?」

 女の子はゆっくりと渡っている。まったく周りを気にすることもなく渡っている。まるですべてが止まっていて、その子だけが動いているような錯覚に囚われる。

 

 ――危ない! あかん! 止まってぇ!! 

 

 ナナちゃんの叫び声で驚いたのは友人だった。咄嗟にパニックブレーキを踏む。

 キーっ! と大きなタイヤの鳴く音が車の中まで轟き、交差点手前でぎりぎり車は止まった。 ほっと胸を撫で下ろす間もなく、ボンっ! と言う音と共に、ナナちゃんは思い切り背中を押されたような衝撃を受け、ガクンと首だけ前方へ嫌と言うほど持って行かれた。

 「何? 何?」 

 もちろんハンドルを握る友人が声を上げる。彼女もハンドルを握ってはいたが、衝撃を受けたことはナナちゃんと同じだった。

 自転車の女児は、ナナちゃんの方を一度だけちらりと見た。目が合う。その目はほくそ笑んでいるように見えた。そしてすぐに前を向き、何事もなかったように、交差点を渡って行った。

 ――あいつ、わかってる。



「大丈夫? どうしたん? 何やったの?」

 運転席の友人がナナちゃんに声を掛ける。

「何って、女の子が、自転車の女の子が……」

 窓ガラスをコンコンと叩く音が聞こえた。慌てて横を見ようとした途端、ナナちゃんの首に激痛が走った。

「いったぁい!」



 救急車に乗せられて二人は、放心状態のまま病院へと向かった。 全治一ケ月の頸椎捻挫、つまり鞭打ち症だった。大事なチンクちゃんの後部は、物の見事にぐしゃりと潰れて、納車一ケ月でドック入りとなってしまった。

 現場検証の結果、事故比率は7:3だったらしい。そして、ナナちゃんのそのピンクの自転車の女児については、いくら警察でナナちゃんが涙ながらに訴えても、誰一人として目撃証言が取れなかった。オカマでも、7:3とは驚いた。故意にブレーキを踏んだということなのか。



 ――ほんまにおったよ。あたし見たんやから、あたしの方をじっと見てたんやから。あの子、絶対わかってたはずや! なあ、アマさんやったら信じてくれるよな? なあて……。



「うん、信じる。わかるで。怪我、治ったら、お花、手向けに行こう。でなかったらさらに被害者が出るよ」

 よほど悔しいのだろう。ナナちゃんは私の顔を見ながら悔し泣きしている。たぶん過去の事故を調べればすぐにわかることだろうが、たとえそうだとしても、そんなこと、誰も信じないだろう。その女の子も気の毒だが、そのとばっちりを受けたナナちゃんは本当についていない。あれきり仲の良かった友人とも疎遠になってしまい、保険に入っていたとは言え、大事なチンクちゃんは事故車の烙印を押されてしまった。しかし何より、首に巻いたコルセットが痛々しい。

 

                               了

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