第113話 世に蔓延する 前編――ナナちゃん奇譚より

文字数 1,458文字

 世に蔓延する――ナナちゃん奇譚より


 これはコロナ禍の真最中の出来事です。

「最近な、世の中ちょっとおかしいと思わへん?」

「おかしいって?」

「うん。おかしいって言うか、ヤバいって言うか」

「やっぱりナナちゃんも感じてるんやな」

「アマさんも? な、ちょっと変やろ? コロナ蔓延と関係あるかもとは思うけど、みんなの心も何か変になって来てるように思うわ」

「たぶん思うけど、大昔から何か厄災とか戦争とかで世の中が乱れたら、それに伴ってあいつらもどんどん増大して行ってるように思う」

「あいつら、って?」

「世に巣喰ってるどす黒いやつら、かな」

「ああ……あいつらね」

 そう言いながらナナちゃんはこんな不思議な話をしてくれた。

 ▽▽▽ 

 それは3月も終わろうとしていたある夜のこと。最近めっきり外飲みが減ったナナちゃんだったが、古い友人の女性の家で晩ご飯をご馳走になり、少し飲んで久しぶりに良い時間を過ごした。そしてそこを出た時にはすでに午後10時を回っていた。

「すっかり遅なってしもたわ……」

 そう呟きながらナナちゃんは駅へと歩みを速めた。

 柔らかくしっとりとした青い夜がとばりを下ろしている。

 公園の横を通った時、街灯に照らされた桜が、見事に満開の花をつけていた。

 ――あたし、桜が怖いんよ……。

 その美しさに囚われて動けなくなりそうで、ナナちゃんは昔から満開の夜桜が怖いと言った。

 なるべく見上げないようにその下を早足で通り過ぎようとした時、背後に人の気配を感じた。

 ――振り向いてはいけない。

 瞬時にそう思ったが、体は意思とは裏腹にゆっくりと振り返る。

 もちろん人はいない。でもまるで首筋に冷湿布を貼られたような違和感を覚えた。

 ――あかん、憑かれた! まずいわ……。

 しかもそいつは、単純な人の残して行った邪念ではなかった。もっと強い、すずりに溜まった墨のような、肥えたどす黒い物だ。相当に強い。具体的に分かり易い人や動物の霊障ならば、いつものように怒鳴りつければ消え去ることもあるだろうが、こいつには具体性が見えない。こんなこと初めてだった。

 右手を首筋に触れる。ひやりと感じる。さてどうしようかと思っていた時、前から一人の、手に白杖を持った高齢男性がゆっくりとナナちゃんの方へ向かって歩いて来ていた。その足取りはたどたどしく、いかにも危なそうに見えた。

 ナナちゃんはそう言う人を見ると放ってはおけない性格だ。すぐにその男性のところへと向かおうとした、その時のこと。

 急にピシッと耳の奥に何かが割れるような音が聞えた。その老人はまるで目が見えているように、ぴたりと目の前に立ち止まる。手にした白杖を振り上げたかと思ったら、何かお経のようなものを唱えた途端、ナナちゃんの首の違和感がすーっと消えた。

 そしてナナちゃんがあっけに取られている隙に、老人はゆっくりと横を通り過ぎて行く。

「あの、すみません」

 慌ててナナちゃんが声を掛けた。目の不自由な老人はゆっくり振り返る。

「あの、ありがとうございます」

 ナナちゃんが礼を言うと、老人は手にした白杖をナナちゃんの顔に向けてピシッと突き出し、「あんた、やさしすぎるわ」と一言だけ言い、そして何事もなかったようにまた歩き出した。

 ナナちゃんが老人の後を追おうとした次の瞬間、老人は、まるで霞のように消えてしまった。

 「あのおじいさん、まるで仙人みたいな人やった」

 ナナちゃんは感慨深く私に言った。
                             続く
              
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