第25話 死の満ちた場所

文字数 3,103文字

  死の満ちた場所

 

 もう今から半世紀も前のことになる。

 その週末土曜、私は父の入院しているM山市民病院に泊まりに来ていた。父の入院している部屋は、付き添いが寝泊まりできる小さな座敷の付いた、今で言う所のコンドミニアムタイプの個室だった。この病院については機会があればもう少し詳しく書いてみたいと思う。簡潔に言えば、M山市民病院(現在は移転されている)は、明治23年に、日本で初めて造られた感染症専門の隔離病院だった。当時、コレラの大流行により、患者、医療関係者を合わせて何千人もの方が亡くなっている。

 

 父は、感染症ではなく、末期の肝臓癌だった。

 8才になったばかりの私は父の罹っている病気も知らなかったし、ましてやその余命がもう幾ばくもないことも知らなかった。そして母は、父が入院してからというもの、夜はほとんどうちに帰ることなく、ずっと父に付き添っていた。

 私は、その病院がとても嫌いだった。子供ながらに大変禍々しい気を確実に感じていたからだ。でも母や父といっしょにいることができる。だから少々の不満は我慢して、ここ最近、土曜の夜は父の入院している個室に、母といっしょに泊まることにしていた。

 

 その夜。私は病室の白黒テレビで「8時だよ全員集合」を見ていた。ドリフの大声も、イヤホンを外した途端、水を打ったような静けさに包まれる。そのあまりの変化が好きで、よく初めの頃は、イヤホンを付けたり、外したりして遊んでいた。

 しかしその内に、その静けさが怖くなった。まったくの静寂だと思われる中にも、じっと耳を澄ませば、やがて聞こえ出す微かに水の流れる音や、何かをコツコツと叩く音、そして何かわからない物の囁きが聞こえるようになった。

 母にそんな音が聞こえるか? と尋ねたところ、母は、「気のせいや。もし聞こえたとしても、聞かない方がええ、聞いたらあかん」と私をやさしく諭した。でもきっと母にも聞こえていたのだろう。そして私は、私以外の人皆がその「ヒソヒソ」を聞いているとばかり思っていたが、どうやらそれは違うと言うことが、ずっと後になるまでわからなかった。

 

 午後9時前に、主治医と看護婦が消灯前の回診に来た。

 「お。ドリフやね」

 主治医がニコニコしながら言う。まだたった8才の私は、状況も考えず、一人、テレビを楽しんでいたことに、なんだか悪いような気がして、テレビを切った。医者は何も言わなかった。

 やがて消灯時間になり、病室のドアに嵌った丸い摺りガラス窓の外が暗くなった。

 看護婦が、父の脈を測ったり、検温したり、点滴のボトルを確認したりしていた。医師はベッドで動かない父にいくつか尋ねたりしている。

「もうあきませんわ、せんせ……」

 気味の悪いほど黄色い顔の父が力なく答える。医師は大きく否定していたが、子供の目から見ても、それはどこか嘘のように思えた。

「S井さん、痛み止めがもうすぐ効くと思いますよ。さあ、ゆっくり寝てくださいね」

 少し年配の看護婦が父に話しかけている。やがて父は目を閉じ、眠ったようだった。

 と、その時、「あ、奥さん、ちょっとよろしいですか」と、主治医が母に神妙な面持ちで話しかけた。

 母は一度頷き、そして医師の話を遮って私に言う。

「ヒデ、病院の向かいに遅くまで開いてるパン屋さんあるから、好きなパンとジュース買っといで。信号渡ったとこの。知ってるやろ?」

 咄嗟に、私に買い物を頼んだ。その口調はやさしかったものの、その目は真剣だった。

 私は買い物に行きたくはなかった。でも母のその目は反論を許しそうもなかった。私は言われたまま、病室を出ようとすると、「車に気いつけるんやで」と母の声が背後から聞こえた。

 その時、ほんの小さなわだかまりがふっと湧き上がり、子供ながら、疎外感を感じていた。

 

 病室を出ると、あたりに漂う消毒薬の強い匂いが幼い私の鼻を刺激した。

 しかし、その強烈な匂いに混じって、かすかに排泄物の臭いもしていることも、生まれつき敏感な私の鼻は嗅ぎ逃すことはなかった。

 消灯時間を過ぎて人影はまったく見当たらない。ずっと向こうまで続く長い廊下の天井には、まばらに間隔を空けた常夜灯がその侘しい光をぼんやりと床に落としていた。

 長く陰気な廊下をヒタヒタと非常口に向かって歩くと、まるで誰かに後ろをつけられている妙な錯覚に襲われ、自然とその歩調は速まった。

 けれど、後ろを振り返る勇気はなかった。その時の私は、ただただ怖かった。こんなところへ来るんじゃなかったと酷く後悔していた。

 どこかで汚らしく咳き込む声が聞こえた。4階は重篤な患者が大勢入院しているらしい。

 薄暗い廊下の両側に並ぶ扉の中では、痛みに耐える人々の、声にならない呻き声が聞こえて来るような気がした。

 この暗い病院で、今、生きている人間は私、たった一人のような気がした。

 私はその恐怖に耐えながら、「死」の充満している長い廊下をようやく半分過ぎたころ、突然、どこかで男の声が聞こえた。



  ――行ったらあかん。

 

 私は後頭部の毛が逆立つのを感じた。驚いて立ち止り、辺りを見回した。

 しかしそこには相変わらず薄暗く、ぬめったように見える廊下とその両横には、磨り硝子の丸窓の付いた病室の扉が、ずっと向こうまで並んでいるだけだった。

 私はとっさに走り出したい衝動と戦いながら、また少し進むと、右側の病室が途切れ、廊下はまっすぐと、右にだけ曲がることができるT字路になっていた。

 まっすぐはすぐに行き止まりになっていたので、私は右に曲がった。



 しばらく歩くと周りの雰囲気ががらりと変わった。

 父がこの病院に入院してから何度かこの通路は通ったことがあったけれど、今歩いているその場所は幼い私の記憶にはない所だった。

 さっきの廊下も古めかしい感じがした。しかし今いる所はさらに暗く汚い感じがした。通路の両側に並ぶ扉はさっきまでの象牙色の扉ではなくペンキの剥げかけた木製だった。

 扉の中にも人の気配はまったく感じられない。まるで無人の廃墟のようだ。

 私は突き当りのぼんやりした灯りを目指してさらに進んだ。

 そして、廊下の中ほどまで進み、ある部屋の扉の前まで来た時、急に体が重く、足が動かなくなった。

 と、突然左側前方の扉がぎぃっと開いた。まるでこっちへ入れと言わんばかりに。

 私は廊下から開いた中の様子を窺った。月が出ていたのだろう。向こうの窓から入った青黒い光がぼんやりと部屋の中を浮かび上がらせていた。室内にはベッドが左右に三つずつ並んでいた。そしてそれぞれのベッドには白いシーツに覆われた、人の形をしたものが見えた。

 その時。私の耳元で「ヒデ! 行ったらあかん」聞き覚えのある声が聞えた。

 父の声だ。私は慌てて今来た廊下を無我夢中で戻った。ようやく父の病室まで戻り、部屋に入ると、母が驚いたような顔をして私を見ていた。

「あんた、今、お父ちゃんが大きな声であんたの名前呼んだで」 

 ああ、父に守られた。今ベッドで眠る父が私を守ってくれた。単純にそう感じた。

 しかしその父は、翌朝、静かに旅立った。



 私の迷い込んだ場所は、この病院の使われていない旧建屋だったようだ。でもおかしなことに、昼間、同じ場所に行こうとしたが、もうそこへ行くことはできなかった。あの迷い込んだ空間は一体何だったのか今でもわからない。
                                 了

                                                                          
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