第58話 魚の恩返し

文字数 1,963文字

 昔話などには、「恩返し」物が多く見られます。動物だけに限らずに、情け深い心で何かに接すれば、必ずその恩は自分に返って来る。だから親切にしましょう、みたいないわゆる教訓めいたお話しです。
 そんなこと、本当にあるのか、いささか疑問でした。でも、あるんです。本当です。 


   魚の恩返し

 それは今思えば非常に貴重な体験だった。
 今から35年以上も昔、私が籍を置いていた大学の研究室では、昭和40年頃からクロマグロの繁殖に関する研究に長年取り組んでいた。私の卒業後、何十年も経て、その研究の成果が実を結んだわけだが、1980年当時の私たちは、言わばその先駆者だったと自負している。

 その頃の研究では、漁師が獲って来たクロマグロの幼魚を沖の直径30mもある丸い養殖いけすに入れて、それを何十年もかけて成魚にまで育て上げ、その成魚たちがいけすの中で、自然繁殖するのを待つしかなかった。

 産卵時期になると、研究生たちは朝早くから夕方日が暮れるまでそのいけすの上でその時を待った。バシャッとマグロが跳ねれば、すぐにそこへ飛んで行き、手にした目の細かい網で闇雲にその辺りをすくい、運が良ければ受精卵を得る。

 毎日毎日えんえんとその作業の繰り返し。今思えば、原始的な方法だった。だからその親のマグロたちはとても貴重だった。寮で暮らす学生よりもマグロ様の方がずっと待遇が良かった。餌一つにしても、学生の晩ご飯が冷凍のサンマだったのに対し、彼らは朝獲れたてのアジやサバを食べていた。一度、餌のアジをくすねて、それがバレてこっ酷く怒られたこともあった。そんなマグロ様だったから、お亡くなりになられた個体はいないか、網(金網)の破損や酷い汚れはないかないかなどを毎朝一番に潜って徹底的に調べなければならなかった。



 そのいけすの中にはマグロだけではなく、数匹のカンパチと言う魚の成魚も入れてあった。

 マグロが食べ残した餌のカスをカンパチたちが拾って食べてくれるからだ。

 マグロは死ぬまで停まれないので、下に落ちた餌は拾って食べることはほぼない。

 マグロたちが群れて円を描いていけすの中をぐるぐる回るのに対し、カンパチたちは、群れることはなく、大体が円の真ん中辺りを自由に泳いでいる。 

 カンパチの成魚は大体1m~1.3mぐらいの大きさで、クロマグロに比べれば随分と小さいが、それでも近くで見るとけっこう大きい。

 そのカンパチたちも幼魚の頃からそのいけすで飼われている。

 初めて私がこのいけすに潜らされた時、網の底を確認していると、何者かに思いっきり横からタックルを食らわされてしまった。その弾みで網の底にごろりと横たわり、ふと上を見ると、カンパチが、大きく黒々とした目でじっとこちらを見ている。

 これには驚いた。カンパチが人を襲うなどと聞いていなかった。偶然ぶつかって来たのかと思い、気を取り直して作業に戻ろうとした時、再び今度は私のふくらはぎにどしんと衝撃が。

 またしてもカンパチだ。こいつ気を抜くと襲って来る。

 後から聞けば、実はカンパチが人を襲うことはなく、彼らは皮膚に付いたハダムシと言う寄生虫を何かにこすって落とす習慣があり、ダイバーのウェットスーツの生地をもっとも好むとのこと。

 何? ただ痒かっただけか! それでスーツで擦っていたのかと納得した。そう考えると、急にカンパチに対して愛着みたいなものが湧いて来た。まあスーツで擦るぐらいなら、注意していれば大丈夫と考えるようになった。

 そしてある日、いけすの外側を点検していた時のことだった。カンパチがまだ稚魚の頃、いけすから逃げ出した個体が数匹いた。しかし彼らは、他の回遊魚たちに比べると、外海を回遊する習慣は低く、餌のおこぼれにありつけるいけすから離れることはなかった。

 その日、大方の作業を終えて、浮上しようとした時だった。私はまだ経験も浅かったこともあり、頭上も確認せずに、目の前のいけすの金網を気にしながらゆっくり浮上していた。

 と、その次の瞬間、真横から、かなり強くカンパチのアタックをもろに受けて、私は吹っ飛ばされて、水中でぐるぐる回って錐もみ状態になった。

 「こいつ、何しやがる!」とふと20m上の海面を見ると、自分が今まさに顔を出そうとしていた辺りに、漁船の赤い底板が見えた。

 船はスクリューで白い泡を掻きまわしながら、ゆっくりバックして来ている。もちろん真下で私が作業していることに気付いてなどいない。

 あのまま浮上していたらと思ったら、背筋が凍り付いた。

 命拾いだ。有難うカンパチ君、君は命の恩人だ。心の中でそう呟く。

 カンパチは何食わぬ顔で向こうへ泳ぎ去って行った。

 気ぃつけや、とでも言いたげに。

                                   了
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