第26話 甘い匂い――ナナちゃん奇譚より

文字数 1,950文字

――それは昨年の8月15日のことだった。 



「アマさん、今どこですか?」

「梅田で買い物中やけど」

「近いやん、わたし堂山町で一人で飲んでる」

「まだ7時やで」

「うん、ちょっと喉乾いたから。アマさんもおいでよ」

 

 そう言われて飲めない私はナナちゃんに呼び出された。

「ごめんな、買い物途中に」

「いや、もう終わったよ。しかし今年のお盆は暑いな。異常な暑さや」 

 私はテーブルに置かれたウーロン茶を一気に飲んだ。よく冷えていて旨い。

「マスターすみません、ウーロンお代わり」

「ええ飲みっぷり。ビールやったらもっとおいしいよ」

 ナナちゃんはやさしく言う。でも何となく陰がある。

「それよりどうしたん? 何かいつもと雰囲気が」

「うん、ちょっとな……」

 いつになくしんみりとナナちゃんは語り始めた。

 私は話にじっと耳を傾ける。これを聞いてほしかったから、私に電話してきたのだろう。



   甘い匂い

 

 ナナちゃん、今日はお休みで、一人梅田に向かっていた。

 高槻駅で、本来なら新快速に乗るはずが、あまりの暑さのためにホームで待つ気になれず、やって来た快速に躊躇なく飛び乗った。

 正解だった。車内は良く冷房が効いている。乗客もまばらで空席が目立つ。ナナちゃんは4人掛け対面席に一人で座った。誰か乗って来たら詰めようと思い、通路側より少し窓よりに腰を下ろした。もちろん向かい側には誰も座っていない。

 すぐに汗が引いた。冷風が心地よい。スマホをバッグから一度は取り出すが、すぐにまたしまう。

 窓の外は、真夏の陰影のくっきりした風景が、心地よい振動と共に緩やかに流れて行く。たまに快速で梅田に出るのもいいなと思った。

 帰りに娘たちにおいしいスゥイーツでも買って帰ろう、喜ぶ顔を想像しながら、ナナちゃんはゆっくり過行く時を楽しんでいた。

 しばらくして、電車は茨木駅で停まり、ドアが開く。

 その瞬間、ナナちゃんの心がざわめいた。

 「なんやろ……」

 開いたドアの方を見る。

 目鼻立ちのくっきりとした一人の若い女性が入って来た。きれいな黒の袖レースのワンピース姿だ。一見喪服にも見える。お盆らしい。きっとお墓参りにでも行って来たのかもしれない。

 こういうの一着あったら便利だろうな、とナナちゃんはふと思ったが、いや違う、注目するのはそこじゃない。

 黒ワンピの女性はナナちゃんの座る4人席に近付き、軽く頭を下げ、向かいの席に座わった。

 チラ見する。ナナちゃんはスマホより人間観察が好きだ。

 きれいな人やな……。

 女性は少しうつむき加減に、窓の方を見ている。スマホ出さないなんて若い女性にしては珍しいとナナちゃんは思った。しかし依然としてナナちゃんの胸騒ぎは治まらない。

 窓の外を見ている女性の横顔をそっと見る。

 あっ……。

 小さく声を出してしまった。

 ナナちゃんは彼女のその白い頬に一筋の涙を見た。

 と、その時、何とも言えない懐かしい匂いを感じる。

 すぐにそれが何の匂いであるかわかった。ナナちゃんにも二人の娘がいる。

 そこでナナちゃんは、急に話を中断して私に尋ねた。

 

 ――なあ、知ってる? 赤ちゃんの匂い。



「いや、わからへん」僕は答える。

「あんな、できたてのパンみたいな匂いがしてん」

「酵母の発酵する匂い?」

「ううん、お母さんにしかわかれへんのかもしれんけど、甘くて、ミルクっぽいけどちょっと違うねん。とにかくすごくいい匂いやねん。なんか幸せな気持ちになるって言うか、な」



 その時、向かいの女性から、確かにその匂いがしたのだそうだ。



  ――あ、赤ちゃん……。

 

 ふと見ると、彼女の膝の上に生まれたての赤ちゃんが載っていた。

 なんてかわいい小さな手。その小さな手は、一生懸命彼女のワンピースの胸元に触れようとしている。でも彼女は気付かない。

 ナナちゃんは思った。彼女はその子のお参りに行って来たに違いない。

 いくつだったのだろう。たぶんまだ生まれて間もないのかもしれない。気の毒に。

 

 女性は窓の外を見ながら泣いている。



「あの……」

 ナナちゃんはたまらず声を掛けた。

 女性はゆっくりとナナちゃんを見る。

「あ、ごめんなさい、でもね、いつも、いっしょにいると思うから、大丈夫ですよ」

 ナナちゃんがそう言うと、女性は驚いたような表情になる。

「どうか、悲しまないで。あなたの赤ちゃんは、にこにこ笑っています。だからどうか自分を責めないで」



「ありがとう、ございます……」



 女性は、すべてを理解したように、濡れた瞳で、にっこりほほ笑んだ。

                  

 私の目の前で、その話をしながらナナちゃんは泣いた。

 私も泣いた。

 すべての子供を失ったお母さんのために……。

                                    了
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