第31話 神戸事件

文字数 14,775文字



 この日、西宮(にしのみや)警備の任につくため備前(びぜん)(岡山)藩の一隊(家老、日置(ひき)帯刀(たてわき)の隊)約四百名が神戸を通って東へ向かおうとしていた。
 この隊は西国街道を行軍していた。そして午後二時頃、三宮(さんのみや)神社(現、神戸市三宮にある神社)の辺りにさしかかったところ、一部の外国人居留民(きょりゅうみん)といざこざを起こした。

 大体どんな事件でもその発端(ほったん)というのはハッキリしないのが常だが(両者が責任を押しつけあって)この事件も同様である。
 そしてやはり、たとえば生麦事件の時と同じように、日本人と外国人との異文化ギャップが事件を引き起こす原因となった。生麦事件の時は、イギリス人たちが日本の風習を理解せず、馬に乗ったまま薩摩藩の行列に接近し過ぎたために殺傷事件が発生した。

 この神戸で起きた事件では、行列を眺めていた外国人たちと備前藩士との間で何かしらのいさかいが起きたようである。
 一応、外国人たちが行列の間を通り抜けたことは事実であるらしい。
 このことだけをもってしても、当時の武士からすれば非礼な行為として斬り捨てて当然の行為である。ただしこの場合「相手が武士以外の日本人であれば」という条件つきだが。
 というか、武士以外の日本人であればそもそも大名の行列をすぐ近くで立ったまま眺めるような行為は許されない。
 なんにしても、見物していた外国人たちが備前藩士に敬意を示していたのであれば問題はなかったであろうが、日本側の記録を見るかぎり、どうもそうではなかったらしい。

 しかも備前(岡山)藩は尊王攘夷の意識が強い藩だった。
 藩主・池田茂政(もちまさ)は尊王攘夷の象徴、水戸烈公(れっこう)徳川斉昭(なりあき)の九男である(ということはもちろん慶喜の弟でもある)。
 そしてさらに悪いことに、というより、これが最大の原因だったろうと筆者などには思われるのだが、
「薩長が鳥羽伏見の戦いで勝ったことにより、開国派の幕府が敗れ、尊王攘夷の薩長が勝った」
 と多くの日本人、特に尊王攘夷を応援していた多くの日本人が勘違いしてしまったのである。

 この物語をずっと読んでこられた方はお気づきだと思うが、最初の頃はともかくとして、この頃の薩長は尊王攘夷ではない。
 もうとっくに尊王「開国」になっている。
 しかしながら以前(第26話で)少し触れたように、この当時の人々からすれば
「尊王は必ず攘夷と一揃(ひとそろ)いのもの」
 でなくてはならず、さらに言えば
「あの攘夷を強く標榜(ひょうぼう)していた朝廷が薩長の力で幕府に勝ったのだから、今後は攘夷が国の方針になるはずだ」
 と勘違いしたとしても、ある意味やむを得ない部分もあったのである。

 筆者は「条約勅許の章」の最後の場面で次のように書いた。
「天狗党が消え、長州も消滅寸前、そして条約勅許が()りた今、攘夷の火は風前(ふうぜん)灯火(ともしび)となったかのように見えた」
 その攘夷の火が、ここへきて再びよみがえったのである。


 行列を横切ったのはフランス水兵の二名で、彼らは備前兵たちに槍で突かれるなど暴行を受けて負傷した。
 それにしても、ここでもやはりフランス人である。
 大坂城で大坂の住民といざこざを起こして「八、九人、撃ち殺した」のもフランス人だった。

 フランス人としてはこの頃、面白くなかっただろう。特にロッシュは、そうであったに違いない。
 あれだけ応援していた幕府=慶喜が惨敗したのだから当然のことだろう。
 フランス軍の末端の兵士にどれだけ「親幕府、反薩長」の意識があったかどうかは不明だが、文官のトップであるロッシュの意識が在日フランス人たちと無縁だったかどうか。
 しかしそれでも、この時いざこざを起こしたのがフランス人だったというのは多分偶然だったのだろう。
 この時はイギリス人も備前兵に殴られ、アメリカの水兵も銃撃されて負傷したのだから。

 最初は小さないざこざだったのが次第に騒ぎが大きくなり、外国人たちは拳銃を持ち出すなどした。
 しかし攘夷意識の強い備前兵たちは外国人と和解する気などない。

 隊長の滝善三郎(ぜんざぶろう)威嚇(いかく)のため、外国人たちの頭上を飛び越えるように、しかも運上所の屋根にたなびいている各国の国旗を狙うようライフル部隊に指示した。
 
 ライフル部隊は列を組んで発射準備を(ととの)えた。
 そして滝の号令のもと一斉に射撃した。

 轟音が鳴り響き、弾丸は外国人の頭上をかすめて、各国の国旗をボロボロに引き裂いた。

 恐怖した外国人たちは()()りに走って逃げていった。
 この外国人の中にパークスもいた。

 パークスはイギリス士官二人と居留地内を散歩していた時に、備前兵に殴られたイギリス人から話を聞いてちょうど現場に来たところだったのだが、そこで銃撃現場に遭遇したのである。

 一方、威嚇によって外国人を追い払った備前兵の部隊は、何事もなかったかのように行軍を再開し、三台の大砲を引っ張って東の生田川(いくたがわ)(旧生田川。現在の三宮フラワーロードの線)の方へ去っていった。

 ところが外国人たちはこれを威嚇(いかく)とは受けとめず、攻撃されたと認識した。
 パークスは急いでサトウたちがいる領事館へ戻り、至急軍艦から海兵隊を上陸させるよう命じた。すると領事館の屋根に信号旗があがり、それを受けて軍艦から上陸部隊が出発した。そしてイギリス以外の各国も同じように戦闘態勢に入った。

 各国の海兵隊は神戸に上陸するとすぐに備前兵を追って生田川のところまで進んでいった。
 その頃、備前兵はすでに川を越えてかなり遠くのほうまで行ってしまっていた。
 各国の海兵隊は備前兵に向かって一斉射撃をおこなった。これに対して備前側も反撃し、銃撃戦となった。
 しかし形勢不利と見た備前側は大砲を()()りにして東へ退却していった。
 奇跡的と言うべきだろうが、この銃撃戦では両軍ともに死者は出なかった。

 このあと各国の軍隊は港に停泊していた諸藩の船五隻を拿捕(だほ)し、さらに神戸の外国人居留地の出入口を兵で固めて軍事占領をおこなった。そして
「この事件は、備前藩はもとより新政府が責任を取るべきである」
 といったような詰問状(きつもんじょう)をサトウが書いて、大坂の新政府に届けた。
 各国側が船を拿捕したのは、薩英戦争の時と同じように、交渉の材料とするためである。ただし、各国(英仏米)の水兵たちはこれらの日本船に残っていた財物を“こそ泥”して、外国人の評判を大いに落とした、とサトウは日記で(なげ)いている。
 
 とりあえず、この事件では負傷者が数名出たものの、死者は一人も出なかった。
 この事件はかつては「備前事件」と呼ばれ、また地元では「三宮(さんのみや)事件」とも呼ばれ、現在は一般的に「神戸事件」と呼ばれている。


 翌日、新政府からの使者として薩摩の寺島と吉井が神戸に来た。
 パークスはたまたま出かけるところだったのでサトウと一緒に短時間だけ二人と面会した。
「とにかく一刻も早く(ミカド)の使者を神戸へ寄こすように」
 と寺島たちに説明してパークスは出かけていった。

 このあとサトウは二人と薩摩藩本陣の小豆屋へ行っていろいろと話し合った。
「薩摩が戦争に勝利したことを心から嬉しく思います」
 とサトウは祝福の言葉を述べて、二人から鳥羽伏見の戦いとそれ以降の経過について話を聞いた。ただしその内容はこれまで解説してきた戦況の通りなので詳細は割愛する。
 そしてその後、今回の神戸事件の話に移った。

 実は薩摩側では寺島、五代、モンブランなどが中心となってこの事件の対応策をすでに協議済みだった。ちなみに以前少し触れたように、五代は鳥羽伏見の戦いの直前にモンブランを連れて上方(かみがた)に来ていた。そして彼らが協議した結果、責任者の処罰など各国の要望を受けいれる方針を決定した。

 まだ新政府のかたちも出来上がっておらず、各国の要求を拒絶できる訳がなかったのである。

 この事件をきっかけに各国がへそを曲げて「幕府軍を支援する」とでも言い出したら、せっかくの勝利が水の泡となりかねない。
 各国の支持を取りつけておくために、ここはとにかく下手(したて)に出るしかなかった。

 薩長と朝廷の勝利によって「攘夷復活」を夢見た尊王攘夷家の目論見(もくろみ)とはまったく正反対の結果になった訳である。

 寺島たちは、近いうちに朝廷の使者が神戸に来て事件について話し合い、さらに「開国和親」を宣言する予定である、とサトウに伝えた。
 そして三人は夜の十時まで小豆屋で積もる話を語り合った。


 同じ頃、俊輔がイギリス船に乗って神戸に到着した。
 別段目的があって神戸へ来た訳ではない。下関で鳥羽伏見の勝利を聞き、そのままいつもの通りイギリス船に飛び乗ったのが二日前のことだった。

 ところがこの日、神戸に着いてみると町が外国軍隊に占領されていたので俊輔は驚いた。
 とにかくサトウに事情を聞こうと思ってイギリス領事館へ行くと、サトウは(小豆屋に行っているので)留守だった。しかしパークスはたまたま外出先から戻っており在席していた。俊輔は英語が話せるので別にサトウがいなくてもパークスと話はできる。

 パークスに会ってみると、彼はいつもの通り癇癪(かんしゃく)を起こして俊輔を怒鳴りつけた。
「お前は長州の人間だったな。長州は開国派のはずだ。備前など西国の諸藩も皆、開国派じゃないのか?こんな事件が起きるようでは日本人全員が攘夷派と言わねばならん。イギリス商人が大名に貸した金などは即刻すべて新政府が返済せよ!」
「えーと……、私が政府に話してなんとか始末をつけます」
「お前は政府と話ができる身分なのか?新政府が幕府を倒したからといって(ミヤコ)から使者があいさつに来るでもなし。まったくけしからん!」
「わ、わかりました。私が政府に話して三日のうちになんとか返事をもらってきます」
 そう言って俊輔は急いで大坂へ向かった。

 俊輔は大坂に着くと旧知の五代と会ってパークスからの話を伝えた。

 五代は俊輔の話を聞いても、別に驚かなかった。
 すでに薩摩藩、すなわち新政府としてはこの問題について協議済みで「開国和親」の方針を決めているからである。

 しかしここで伊藤俊輔が大坂にやって来たのは、五代にとって好都合だった。
(現在、新政府は多忙の極みだが、とにかく人材が足りない。特に薩摩以外の人材が少ない。長州人で外国通の伊藤が来たのは幸いだった。確かサトウとも旧知だと言ってたな。さっそく外国事務(かかり)に押し込んでやろう)

 この頃、聞多は一旦長州へ帰って山陽、山陰の平定に奔走しており、木戸はこのとき山陽道をのぼって上方(かみがた)へ向かっている最中だった。
 外国について詳しい長州人で上方にいたのは俊輔だけだったのである。
 ちなみに木戸はこの頃ちょうど備前岡山に入っており、神戸事件を知って激昂(げっこう)している岡山人の様子を俊輔に手紙で書き送っている。
「壮士たちが外国人の横暴に悔しがり、藩政府の弱腰に怒っています。我が長州藩の五、六年前の光景を見ているようです。海外のことを知っている人間などほとんど見かけません」


 二日後、天皇からの使者(勅使)東久世(ひがしくぜ)通禧(みちとみ)に外国事務(かかり)の寺島、吉井、俊輔などが随行して兵庫に入港した。
 随行員の一人である俊輔は翌日の六ヶ国との会談の打ち合わせをするため、さっさくイギリス領事館のサトウを訪問した。

「伊藤さん。薩長が戦争に勝利しておめでとう、と言いたいところですが、心配していた通り、日英で戦争することになるかも知れませんね」
「何を(おっしゃ)る。戦争になる程の事件じゃないことはあなたも分かってるんでしょう?」
「確かに、今回は幸いにも小競(こぜ)()いで済みました。ですが、次もこのような幸運が続くとは限りませんよ。それはそうと、伊藤さんは今回どういった役職で明日の会談に参加するんですか?」
「外国事務(がかり)という役職です。(たと)えが適切かどうか分かりませんが、幕府の外国奉行の役人といったところでしょうか」
 サトウは驚いた。長州の下級武士だった男が、まるで上級旗本にでもなったような出世である。

「ヘえー、それは凄い出世ですね……」
「いやいや。おそらく今回限りの臨時のお役目でしょう。今、新政府は極端に人手が足りませんから。そんな訳で、もう連絡役の遠藤にも帰ってきてもらいます」
「それはまったく構いません」
「さて、それでは明日の会談についてですが、勅使は『新政府の樹立、条約の遵守(じゅんしゅ)、外国人の保護』などを表明するでしょう。それで拿捕(だほ)した船の釈放(しゃくほう)や軍事占領を解除してもらえますか?」
「おそらくそうなるでしょう」
「事件の(つぐな)いはどうなりますか?やはり賠償金を請求するのですか?」
「いいえ。賠償金は請求しないつもりです。少なくとも我々イギリスは。おそらく謝罪と責任者の処刑を要求することになるでしょう」
「責任者の処刑ですか……。そちらで死者は出ましたか?」
「いいえ。しかしその可能性は十分あったのです」
「わかりました。その点は今後、話をつめていきましょう」

 こうして新政府とイギリスとの間で神戸事件の始末について事前折衝(せっしょう)がおこなわれた訳だが、この時点で幕府の頃とは大きく変わった点がある。
 そもそも幕府の頃は、幕府の折衝相手はフランスだったのである。

 それが今回の事件ではフランスに対する事前折衝など一切なく、イギリス一国でその役目を引き受けている。そしてその窓口はサトウなのである。サトウがこれまで薩長の人間と築いてきた人間関係から言っても、こうなるのは自然な流れだった。
 当然ながらフランスは、というかロッシュは憤激(ふんげき)した。

 翌一月十五日、運上所で東久世たち日本側の代表団と六ヶ国(英仏蘭米普伊)代表が会談をおこなった。
 日本側は天皇からの国書を提出して「新政府の樹立、条約の遵守、外国人の保護」などを六ヶ国代表に約束した。
 新政府は明確に「開国和親」の方針を表明したのである。

 神戸事件についても前日の俊輔との話し合いの通り、「責任者の処刑」の部分は今後つめていくとしても、全体的には和解する方向で話がまとまり、拿捕した船の釈放や軍事占領の解除が了承された。
 東久世は各国代表からの質問に対して適切に回答し、開国和親の方針を明確に打ち出したのでパークスをはじめとした各国代表はその態度に満足した。ただし一人を除いて。

 そう。ロッシュがこの席で、東久世に対して詰問するかのように迫ったのだ。
(ミカド)の権威は日本全土におよんでいるのか?」
 これに対して東久世が答えた。
「今のところ徳川家の反乱が続いているが、やがて帝の権威は日本全土におよぶであろう」
「徳川家の反乱と言うが、前将軍(慶喜)は政権を返上して江戸へ帰って恭順しているのに、それでも反乱と言うのか?今後征討するつもりなのか?」
「前将軍の返答次第である」
「今回の備前人の暴行は非文明国同然の事件であり、厳正に処置すべきである」
「今回の事件は各国との話し合いを経て、帝の命によって公平な裁きが下されるであろう」
「今後再びこのような事件が起きた場合、新政府は責任がとれるのか?」
「言うまでもないことである。ところで、今回提出した我が国の国書を、貴殿は貴国の政府や国民に伝えてくれるであろうか?」
 と東久世が述べたところ、ロッシュは激怒してさけんだ。

「我々はこんな連中を信用してはならない!」

 するとイタリア公使やプロシア公使(ブラント)がロッシュに反論した。
「とんでもない。我々は彼らが開国和親を表明するのをずっと待っていたではないか。我々は彼らを信用すべきだ」
 会談は、このようにロッシュが惨敗するかたちで終わった。
 パークスとサトウが陰でほくそ笑んでいたことは言うまでもない。

 ちなみにロッシュは新政府から提出されたこの国書を、実際、本国のフランス政府に提出しなかった。
 外交官としては前代未聞の行為である。
 おそらくロッシュとしては今後徳川家が反撃に転じて、再度政権を取り戻す可能性に賭けていたのであろう。

 この会談において東久世は堂々と外国公使たちと渡り合った。
 会談のあとサトウは吉井と面談して、東久世の態度について語り合った。従来、幕府の役人たちは
「公家などはほとんど愚か者の集まりで政治などおこなえるはずがない」
 というのが決まり文句だったが、今回の東久世の対応を見るとなかなかそうでもない、と二人は東久世の態度に感心した。

 確かに東久世の場合は「五卿」の一人なので、京都の公家社会しか知らない一般の公家と違って西国を流浪し、実社会にも触れていたせいもあってか、このような適切な対処ができたのだろう。
 京都の公家の大半は海もほとんど見たことがないが、「五卿」は海を知っており、外国の存在も知っていた。

 さらに言えば、時代の流れが有無を言わせず新政府に開国和親を強制したのである。
 以前の幕府がああでもない、こうでもないと因循(いんじゅん)な態度をくり返し、開国にも攘夷にも踏み切れなかったのと比べて、今や新政府は開国和親を選択するしか道はなくなったのだから、このように明確な回答をすることができたのである。
 しかしそれでも、幕府上層部の「事なかれ主義」の連中にここまでの決断ができたとは思えず、こういう結果を導くことになったのは薩長による「改革の決断」があったからこそ、とは言えるであろう。

 この会談のあと、俊輔がサトウに話しかけた。
「サトウさんが行きたがっていた京都に、近いうち行けるようになると思いますよ。許可が出たらお知らせします」
 しかしサトウは()()ない様子で
「へえ、そうなんですか」
 と答えただけだった。この時のことをサトウは次のように書いている。
「実を言うと私は、二世紀以上も我々外国人を厳しく警戒して一歩も踏み込ませなかった京都の町やその有名な建築物を見たくてたまらなかったのだが、わざとどうでもいいようなそぶりをした」


 会談の翌日、ロッシュは神戸でフランス軍艦に乗り込んで江戸へ向かった。ロッシュはとにかく慶喜に会いたかったのである。
 本来であればもっと早く江戸へ向かって慶喜に会いたかったのだが、神戸事件が起きたために出発を見合わせていた。しかし新政府との事件の談判も済ませ(同時にフランスの外交的敗北を思い知らされ)ようやく江戸へ向かうことになったのだった。

 よく知られているように、ロッシュは江戸で何度か慶喜と会って徹底抗戦を説いた。
 けれども慶喜はそれを受け入れず、恭順謹慎の態度をとった。

 そしてこれもよく知られている話だが、小栗忠順(ただまさ)上野介(こうずけのすけ))もロッシュ同様、慶喜に対して徹底抗戦を説き、新政府軍を関東におびき寄せた後、幕府艦隊を派遣して駿河湾で艦砲射撃をおこなう。あるいは大坂、鹿児島、下関を突く、といった策を説いた。その策を聞いた大村益次郎は
「これが実行されていたら我々の首は無かった」
 と述べた、などと一説には言われている。

 しかしこれと似た話が勝海舟にもある。
 幕府艦隊を使って新政府軍を清見関(きよみがせき)(現、静岡市清水区興津(おきつ)のあたり)で艦砲射撃をして打ち破ることはできるがやめたほうが良いと述べた、云々(うんぬん)といった話である。
 この後の戊辰戦争の経過を見ると、新政府軍の艦船からの攻撃よりも「風浪」などによって次々と艦船を失っていった幕府海軍に、果たしてそれだけの力量があったかどうか疑問だが、それ以前に、この小栗や勝が立てたと言われる作戦は、そもそもフランス軍事顧問団が発案したものであろう。

 そして勝も見抜いているように、仮にこの作戦で一時的に勝てたにせよ、所詮は「戦術的な勝利」に過ぎず、天皇を新政府側に握られている限り、戦略的に見て旧幕府軍に勝ち目はない。
 慶喜もそのことが分かっていたから恭順謹慎を選択したのである。

 また、これも一説によると「慶喜は江戸帰還後も反撃の可能性を模索(もさく)していた」と言われているが、あり得ない話だろう。そもそも反撃の意志がわずかでもあったとすれば、あのような無様なかたちで大坂城を新政府側に渡したりはしなかったであろう。どうやって再び反撃して大坂城を取り戻すというのか?いまや朝敵となった旧幕府軍が、という話である。
 慶喜の判断を善意的に解釈して
「彼は日本を真っ二つに割らないために、あっさりと恭順謹慎したのだ」
 と見るむきもあるが、その点は筆者にはよく分からない、と言うしかない。

 とにかくこれ以降、江戸の旧幕府は勝海舟がその舵取りを任されることになった。


 神戸の運上所で会談がおこなわれてから二日後、再び東久世が後藤象二郎などを連れて運上所へやって来て、サトウたちと事務手続きに関する話し合いをおこなった。

 話し合いが終わった後、とりとめもない話をしているうちに後藤がサトウに「驚くべき話」をした。それは
「当分の間、伊藤俊輔が神戸税関の監督官と兵庫知事(ちじ)(奉行)をつとめることになった」
 という話であった。

 サトウは、驚きと喜びと嫉妬が入り交じった複雑な気持ちになった。

 以下、この日のサトウの日記が書いてある『遠い崖』6巻(萩原延壽、朝日新聞社)よりそのまま引用する。
「さして高官でもない伊藤のような男がこのような地位にふさわしいと考えられたり、民衆がかれの命令に服従したりするのは奇妙に思われるが、日本の下層階級は支配されたいという欲求が非常につよく、とくに背後に軍事力の支援があると思われる場合、権威をもって臨む者にはだれにでも容易に服従するのである。そこで二本差しの階級を追い払うことができさえすれば、外国人がこの国を支配することもむずかしくはないであろう。ただし、支配の任にあたる外国人は、すべて日本語を話し、読み、且つ書くことができねばならず、そうでなければこの支配は完全な失敗におわるであろう」

 この話にはさらに続きがあるので『一外交官の見た明治維新』(岩波書店、訳・坂田精一)からもそのまま引用する。
「しかし、この国には侍がすこぶる多く存在していたのだから、こうした事は実現不可能であった。一九一九年(大正八年)の今日から見ると、だれにもせよ日本精神を理解していた者が、唯の一瞬でもこうした考えをいだいたということは、冗談にしろ全く信じられないのである」

 鳥羽伏見の戦いの直前にパークスとケンカするほど「兵庫領事」になることにこだわっていたサトウとしては、あっさりと自分を飛び越されるかたちで「兵庫知事」になった俊輔に対して、多少嫉妬の念を抱いたとしても無理からぬ話であろう。

 そしてサトウはこれ以降、この俊輔に対する「驚きと喜びと嫉妬が入り交じった複雑な気持ち」を何度も感じさせられることになる。

 ちなみにサトウが後藤から聞いた話には誤りがあり、俊輔はこの時「兵庫知事」になった訳ではなかった。寺島など三名と一緒に兵庫・神戸地区の管理にあたる役職についただけのことだった。
 さはさりながら、実際俊輔はこのすぐあとに新政府の参与になり、また外国事務局の判事にもなり、そして五月には本当に「兵庫県知事」になるのである(ただしこの場合の「兵庫県」は現在の兵庫県とは違って、兵庫・神戸の港地区のことではあるが)。


 さて、この頃、五代と寺島が神戸のパークスを訪問して、京都にいる負傷兵の手当てをするためにウィリスを貸してもらいと申し出た。
 この申し出を薩摩藩内で発案したのは大山弥助(やすけ)(いわお))だった。
 自身も鳥羽伏見の戦いで耳を負傷したが、従弟の西郷信吾(しんご)(じゅう)(どう)。西郷吉之助の弟)などは首に重傷を負っていた。

 パークスはこの申し出を了承し、ウィリスと共にサトウも京都へ派遣することにした。
 これでサトウは初めて京都へ行けるようになったのである。サトウが舞い上がるほど喜んだのは言うまでもない。

 ところがサトウとウィリスの入京直前になって突然「外国人を京都へ入れる」ということに朝廷が反対した。
 つい半年ほど前、パークスやサトウが京都に近い大津や伏見を通るだけでも幕府と朝廷の間で政治問題になったぐらいなのだから「外国人を京都へ入れる」ことを朝廷がそう簡単に許すはずがなかった。
 けれども大山としては負傷兵の命がかかっており、事は一刻を争う状況だったので二人の入京を独断で許可し、一月二十五日にサトウとウィリスは京都に入ることになった。

 サトウは途中、伏見などで戦争の跡を目にしたが、京都の町自体も、禁門の変で焼けてから復興しきれておらず、サトウには(さび)れているように感じられた。
 京都では二人は薩摩藩邸の隣りにある相国寺(しょうこくじ)に入った。
 たまたま同じ日に小松帯刀も鹿児島から上京してきており、サトウは久しぶりに小松と再会した。そしてウィリスはさっそく負傷者の治療にあたり、サトウは新政府の要人たちとの面談におよんだ。

 翌日、サトウは西郷に会った。
「鳥羽伏見での勝利、おめでとうございます」
兵児(へこ)たちがよく戦ってくれました」
 と、ニコリともせず西郷は言って、沈黙した。だがサトウの側も、この無口な薩摩隼人の対応にはもう慣れたので別に驚きもしない。

 このとき西郷が無口だったのは「薩摩隼人だから」ということだけによるものではない。
 鳥羽伏見での勝利によって、以前のように幕府とフランスの関係を牽制(けんせい)するためにイギリスを利用する、という必要がなくなった。それでこれまでのように「サトウに謀略をしかける」という理由もなくなったのである。

「江戸への進軍を指揮するのは、やはり西郷さんなのですか?」
「いや、わかりません。まだ決まっていません」
 実際、征討大総督に有栖川宮熾仁(たるひと)親王が選ばれ、西郷などがその参謀役となるのは二月中旬のことである。

 そして今度は西郷からサトウに話しかけた。西郷は頭を下げて礼をのべた。
此度(こたび)兵児(へこ)たちの治療のため、イギリスから医師を送って頂いたことに厚く御礼を申し上げる」
 西郷の薩摩兵児たちへの愛情ははかり知れないものがある。また負傷者の中には西郷の弟の信吾もいたので感謝の念はひとしおだった。
 ただし、この西郷の薩摩兵児たちへの愛情が、後年、西南戦争の勃発を許してしまうことにもつながり、しかもそれがウィリスの運命をも変えてしまうことになるのだが、これはまったく皮肉な話と言うしかない。

 サトウは、親友のウィリスのことで西郷から感謝されて、自分が感謝される以上に嬉しい気分になった。
「ところで備前藩の事件について、西郷さんはどのようにお考えですか?」
「責任者の切腹は仕方がないと思っております」
 薩摩武士からすれば、何かの責任を取る時に切腹するのはごく自然な感覚だったので、西郷はあっさりとこのように答えた。

 この京都滞在中、サトウは初めて大久保一蔵に会った。
 大久保も神戸事件については「責任者の切腹は仕方がない」と、西郷と同じ考えを述べた。
 そして大久保は現在の日本の政治状況をサトウに詳しく説明し、逆にイギリスの議会制度についてサトウにいろいろと質問した。
 後年、西南戦争の頃にサトウは日記で「大久保の専制政治」を手ひどく批判することになるのだが、この時は別に大久保のことを悪い人物だとは思わなかった。

 サトウは京都滞在中、連日観光に出かけ、清水寺、三十三間堂、北野天満宮、西陣などを見て回った。
 むろん、祇園にも足を運び芸者たちと楽しく遊んだ。
「娘たちは京美人の名に恥じなかった」
 とサトウは日記に書いている。
 これまで外国人をまったく受けいれてこなかった京都の人々はサトウがどこの国の人間なのか理解できず、道端でサトウを見かけたある子供は「琉球人だ!」と叫んだりもした。

 二月一日、サトウはウィリスを京都に残して一足早く神戸へ帰っていった。
 ウィリスの最先端医療を求める新政府の人々はウィリスの滞在延長をパークスに求めた。パークスはこれを了承し、ウィリスは京都で医療活動を続けることになったのである。
 ウィリスは薩摩藩の石神(いしがみ)良策(りょうさく)などを助手として採用し、医療活動と同時に西洋医学の指導にもつとめた。そしてこのことが後に「ウィリスの薩摩藩への招聘(しょうへい)」につながることになる。
 また五百両の謝礼金の受け取りも辞退し、誠実に西洋医学の指導につとめたウィリスの活動は高く評価され、イギリスの名声は大いに高まった。パークスは本国外務省への報告でウィリスの医療活動を褒めたたえた。


 二月五日にはロッシュが江戸から神戸へ戻ってきた。そして神戸の六ヶ国代表は神戸事件の最終決着をつけるために日本側と協議することになった。
 この頃には宇和島の(かつてサトウが四国の小領主にしておくにはもったいないほど有能な人物と評した)伊達宗城(むねなり)が外国事務総督の一人となってこの事件を担当するようになっていた。俊輔からすれば宗城は直接の上司ということになる。

 日本側はもともと「(ミカド)政府の謝罪」と「責任者の処刑」という六ヶ国側の要求を受けいれる方針だったものの、東日本へ兵を進める仕事に忙殺され、また新政府内部で「弱腰外交だ!」という反発もあって、ここまで決着が先送りされていた。

 しかし二月八日、神戸で会談した伊達宗城たち新政府代表は「帝政府の謝罪」と「責任者の処刑」すなわち発砲を命じた滝善三郎の切腹と、さらに隊の責任者である家老・日置帯刀の謹慎を六ヶ国側に通知した。

 それでもなお寺島、五代、それに俊輔は
「外国人に死者は出ていないのだから滝の切腹は厳しすぎる」
 として水面下で六ヶ国側に滝の助命嘆願をおこなった。

 俊輔はサトウのところへ来て、滝の助命について話し合った。
「ああいった混雑の時に起こった事件で死刑にするのは過酷すぎる。なんとかならないか?」
(ミカド)の決定によって死刑を決めたのだから我々外国人が反対する理由はありません」
「ここで滝を助命すれば、日本国民も外国人の寛大さに感謝して、これからお互いの交流も進むであろう」
「確かに我々が助命に応じれば、新政府は国民から弱腰外交と批判されるのを避けられるでしょうね」
「そのような問題を問うているのではない。外国人の寛大さを示す良い機会だと言っているのだ」
「我々が滝の助命を認めれば、むしろ悪影響が生まれるだけです。今、日本人は朝廷や薩長が勝ったから攘夷が国の方針になったのだと勘違いしています。我々の寛大さは、逆に我々の弱さと受け取られるだけで、攘夷派はますます我々への攻撃姿勢を強めるでしょう」
「今さら攘夷を唱える日本人が大多数という訳はない。もう長年、攘夷と開国で言い争っているのだ。もはやほとんどの日本人は攘夷が不可能なことを分かっている。いまさら攘夷に戻ることはありえない」
「確かに分別のある日本人にとっては攘夷が無意味であることは当たり前の話でしょう。しかし、世間というのはそのように物分かりの良い人間ばかりではありません。多くの人々は残念ながら無知なのです」

 通信技術が発達した現代でも、国民感情を変に(あお)ったおかしな情報がマスメディアから流布(るふ)され、それに影響される人間が大勢いるのだから、当時の社会であればなおさらのことだろう。

 サトウは話を続けた。
「今回は偶然、小競(こぜ)()いで済みました。ですが、次回は小競り合いでは済まないかもしれません。下手をすれば日本と外国が戦争することになるかもしれない。だから今、攘夷に()みきった者には厳罰が必要なのです。あなたは日本と外国が戦争することになっても良いのですか?」
 俊輔には答えられなかった。そしてサトウは話を続けた。
「……聞くところによれば滝善三郎は、日本国のため、また主君のために切腹することは武士の名誉である、と答えたそうではないですか。彼の犠牲は無駄にはなりません」
 俊輔は涙を飲んで帰っていった。


 ところが翌九日、滝善三郎の死刑(切腹)執行当日になって六ヶ国代表は滝を助命するかどうかを話し合うことになった。
 それは三時間にもおよぶ長い話し合いであった。

 滝の助命に動き出したのは、意外と思われるかもしれないが、パークスである。
 すでに新政府が開国和親の姿勢を示し、外国人への暴行に対しては厳罰で(のぞ)むという意志を示したのだから、死刑を撤回しても良いのではないか?と提案したのである。
 一方ロッシュはこのパークスの意見に強く反対した。
 ここでも新政府側を擁護するパークスの立場と、それに反対するロッシュの立場という、そういった構図でこの関係を分析することもできるが、ここは素直に
「死者が出ていないのだから死刑にするには及ばない」
 と判断したパークスの人道的な配慮だったと見るべきであろう。
 ちなみにサトウは俊輔との論争の場面で見た通り、パークスが打ち出した助命の方針には反対で、ミットフォードもサトウと同じ意見だった。

 話し合いの結果、助命賛成はパークスとオランダのポルスブルックだけで、他の四ヶ国は助命に反対した。
 そしてこの多数決によって死刑が執行されることに決まった。

 滝の切腹はこの日の夜十時過ぎ、兵庫の永福寺(えいふくじ)でおこなわれることになった。
 六ヶ国側は各国公使館から立会人として代表者を派遣した。
 イギリスはサトウとミットフォードが立会人となった。二人は自ら死刑を求刑した責任を取るつもりだったのだ。

 日本側の検使人(けんしにん)は伊藤俊輔を筆頭に土佐の中島作太郎(さくたろう)信行(のぶゆき))と薩長から士官が二名ずつ、さらに備前藩の御目付役(おめつけやく)が一名で、計七名が立ち会った。
 介錯役は滝の剣術道場の弟子が選ばれた。滝は剣術の師範だったのである。

 以下、切腹場面の描写については『ある英国外交官の明治維新』(ヒュー・コータッツィ、中央公論社、訳・中須賀哲朗)よりミットフォードの記述を抜粋して引用する。
「不安な数分がすぎると、滝善三郎がおごそかに広間に入ってきた。特に盛儀の際に着用する麻の裃で礼装し、年三十二歳の、がっしりとした体格の男である。(中略)滝善三郎はさすがに悲痛な告白をせんとする男の感動とためらいに満ちた声で、だがしかもその表情態度には一片の恐怖の色もなく、このように述べた。“私ひとりが、先月十一日、不法にも外国人にたいして発砲を命じ、彼らが逃げようとした時、さらに命令を下したのであります。その罪を負って私はここに切腹いたします。ご臨席の皆様方には、ご検証の栄を賜わりますよう、お願い申し上げます”(中略)滝善三郎は、確かな手つきで、しずしずと前に置かれた短刀を取りあげた。それから、物思いに沈み、ほとんどいつくしむような眼差しでその鋭く白く光る刃を見つめ、しばらく、今はこれまでと、観念を集中しているかに見えたが、やにわに短刀を左の腹に深く突き刺し、おもむろに右側へ引き裂き、ついで傷口のなかで刀を返すと、わずかに切りあげた。この目をそむけたくなるほど凄惨な動作をしながらも、彼は顔の筋肉一つ動かさなかった。端然たる姿勢のまま短刀を引き抜くと、やや前かがみに体を倒して首をさしのべた。その時、はじめて苦痛の色が彼の顔に浮かんだ。が、彼は一言も発しなかった。その瞬間、彼のかたわらにうずくまって一挙一動を見守っていた介錯人が、さっと立ちあがるや、刀を頭上高く振りかざし、一瞬、閃光がひらめいたかと思うと、にぶい不気味な衝撃の音、すさまじい倒潰の響きがたち、首は体から切り放たれていた」

 切腹が終わったあと、俊輔が一礼してサトウたちの前に進み出て、言った。
「見届けられたか」
 サトウとミットフォードは
「確かに」
 と答えた。

 滝善三郎の辞世の句は次の通りである。
 きのう見し 夢はいまさらひきかえて 神戸の浦に 名をやあげなむ

 滝が切腹した永福寺は戦災によって焼失し、滝の切腹にまつわる石碑は同じ兵庫区の能福寺(のうふくじ)に現在は移されている。

 ミットフォードはこの時の切腹に大きな感銘を受けて、上記のような切腹の記述を『回想録』や『昔の日本の物語』の中で欧米に紹介している。

 最後に余談として述べておくと、俊輔の伝記『伊藤博文伝』の中で、俊輔が“長州ファイブ”でロンドンへ行った時に「オックスフォード在学中のミットフォードに会った」と書いてあるので伊藤博文関係の書籍ではこの説をそのまま取り入れていることが多い。
 しかしミットフォードの『回想録』では、この鳥羽伏見前後の関西滞在中に伊藤と初めて会った、と書いてある。当たり前の話だろう。“長州ファイブ”でロンドンへ行った時、俊輔はまだそんなに英語を話すことができなかったし、そもそも長州の下級身分の俊輔が、上流階級のミットフォードと接触できたとも思えない。そしてミットフォードはその五年前に外務省に入省しているのでオックスフォードもとっくに卒業しており、俊輔がロンドンにいた頃にはおそらくペテルスブルク(サンクトペテルブルク)に赴任していたはずである。そして何より、その頃のミットフォードは日本のことなど何も知らないのだから、俊輔と接触する機会などあるはずもなかっただろう。
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