第11話 薩英戦争

文字数 17,505文字

 この頃、横浜ではイギリス艦隊の鹿児島遠征(えんせい)が計画されていた。
「生麦事件の処理について幕府が薩摩藩に何も強制できない以上、イギリス自身が薩摩藩に強制するしかない」
 このように判断したニール代理公使は、自分が直接艦隊を(ひき)いて鹿児島へ行くことに決めた。

 この日、ユーリアラス号の司令室でニールとキューパー提督が遠征計画の打ち合わせをした。
 キューパー提督はニールに尋ねた。
「やはり目的地は、下関ではなくて鹿児島ですか?」
「ええ。本国(イギリス)政府から薩摩に対する処分命令が来ていますし、長州は我がイギリスの船を攻撃していませんからね」

 本国(イギリス)政府からの薩摩に対する処分命令とは、以前書いたように
一、イギリス士官立会(たちあ)いの(もと)、殺人犯を死刑に処する事を要求
二、被害関係者への賠償金として2万5千ポンド(10万ドル)の支払いを要求
三、この要求を(こば)んだ場合、薩摩藩の船舶(せんぱく)拿捕(だほ)ないしは海上封鎖を実施する。ただし状況によっては薩摩藩主の居城(きょじょう)を砲撃することも含む
 という、この通達のことである。

「それで提督はどのように艦隊を編成(へんせい)するお考えですか?」
「日本の地方政府との交渉事(こうしょうごと)だから、軍艦の二隻も連れて行けば十分だと思いますが」
 ニールはキューパー提督の弱腰姿勢に若干(じゃっかん)(まゆ)をひそめた。
「それではあまりにも少な過ぎます。相手にナメられて、交渉事が不利になります。少なくとも軍艦七隻は必要です」
「そんなに威圧(いあつ)(てき)に出ては、逆に相手を追い込んで暴発させてしまうかも知れませんよ!」
「いや。日本人は常に時間稼ぎを狙って問題を先送りしようとします。だからこちらは大艦隊で威圧(いあつ)して、一気に事を運ぶ必要があるのです。中央政府の幕府でさえ賠償金を支払ったのだから(いち)地方政府の薩摩がイギリス艦隊に手向(てむ)かう訳がないでしょう?」
 結局キューパー提督は七隻の軍艦を(ひき)いて鹿児島へ向かうことをやむなく了承した。

 その七隻とは旗艦ユーリアラス号、パール号、パーシューズ号、アーガス号、コケット号、レースホース号、ハヴォック号であった。
 ニールやキューパー提督が乗るユーリアラス号には旗艦(きかん)付き通訳としてシーボルトが乗り込むことになった。
 そしてサトウとウィリスはアーガス号に乗り込むことになった。他の公使館員もそれぞれの艦に分乗(ぶんじょう)させることになり、ほぼすべての公使館員を鹿児島へ連れて行くことになった。

 鹿児島遠征を控えたサトウとウィリスはいつもの居間でお茶を飲みながら、その鹿児島遠征のことを語り合った。
 ウィリスはサトウに鹿児島遠征の日程が決まったことを告げた。
「鹿児島へ出発するのは8月6日(六月二十二日)と決まった」
「そうか。楽しみだなー。鹿児島旅行」
「まあ……シーボルトの件は、あまり気にするなよ」
「えっ?なんで?もともと全然気にしてないよ」
「そうか。それなら良かった。だけど、俺はサトウが旗艦で通訳の仕事をすべきだと思うぜ。同じ船に乗れるのは嬉しいけどな」
「ありがとう。でも、確かにまだ会話の点ではシーボルトのほうが上かも知れないよ。こっちはまだ日本に来て一年弱。あいつはもう四年も日本に住んでるんだから」
「でも英語はまだまだ上手(うま)くないけどな」
「そう言えば、あいつがサン・オブ・ガン(卑劣な奴)を「鉄砲の息子」と日本語に訳してたのを見たことがあるよ」
「ハハハ、そいつは傑作だ」
「日本語の読解力ではあいつに負けない自信はあるけど、結局は日本人通訳がいないと正しく読めない点では同じだから、今は仕方がないよ。なに、すぐに追い越してみせるさ」
 さらにサトウは語った。
「とにかく、今はこの横浜を出て鹿児島へ行ける解放感で一杯だよ。たまにはこの横浜から飛び出して、どっか旅行に行きたいと思ってたんだ」
「そうだな。鹿児島はどんなところだろうな。行くのが待ち遠しいよ」
 サトウとウィリスはこの時、鹿児島で戦争が待ち受けているとは夢にも思っていなかった。
 そして六月二十二日(8月6日)イギリス艦隊は鹿児島へ向かって出発した。


 一方、薩摩藩はイギリス艦隊の襲来(しゅうらい)に備えて軍事演習をくり返していた。
 鹿児島湾沿岸の砲台を着々と強化し、日々砲撃訓練に(はげ)んでいたのである。
 なにしろ薩摩は生麦事件における自分たちの()を認めていない。大名行列を邪魔した者を斬り捨てたのは当然だったと思っている。
 そしてなにより薩摩は武勇(ぶゆう)(たっと)国柄(くにがら)である。
 藩上層部の方針は開国とはいえ、多くの薩摩藩士は他藩同様、攘夷の感情が強い。敵が大英帝国(イギリス)といえども「戦わずして夷狄(いてき)(くっ)する」など、あり得るはずがなかった。

 これに加えて、幕府から伝達されたイギリスの要求が誤って伝わり、その事がいっそう薩摩側の闘志(とうし)に火をつけた。
 二月にニールから幕府へ通告書が届けられた際、福沢諭吉たちが大至急、徹夜で翻訳(ほんやく)した。翻訳自体に誤りはなかったが、これが幕閣の手を()て薩摩藩へ伝わった時には「殺人犯を処刑すべし」というイギリスの要求が、なぜか
「島津三郎(さぶろう)(久光)の首級(しゅきゅう)を差し出すべし」
 と誤って伝わってしまったのだ。

 この要求を見て薩摩側が激怒(げきど)したのは言うまでもない。
 このような事情もあって、薩摩藩は鹿児島湾内の十ヵ所に砲台を整備して軍事訓練をくり返していた。

 「イギリス艦隊出発」の情報を得た薩摩藩の江戸(えど)(づめ)家老は、すぐに薩摩へ飛脚(ひきゃく)を送った。さらに家老自身も幕府の蟠竜(ばんりゅう)丸に乗って薩摩へ向かった。
 イギリス艦隊は比較的ゆっくりと進んだので鹿児島まで六日間かかった。しかし飛脚が鹿児島に到着したのはイギリス艦隊到着の十二日後。家老が到着したのは更にその七日後だった。要するに江戸からの情報は間に合わなかったのだ。
 にもかかわらず、薩摩藩はイギリス艦隊襲来の情報を事前に入手していた。

 入手したのは、長崎にいた五代才助(さいすけ)(友厚)だった。
 六月二十三日(8月7日)、この日長崎にいた五代は重大な情報を入手して動揺(どうよう)していた。
 その五代のいる部屋には、五代のビジネスパートナーであり友人でもあるグラバーもいた。
 五代はため息まじりにつぶやいた。
「まさかイギリス艦隊が長崎へ寄らずに、直接鹿児島へ向かうとは……」
 日本語を話せるグラバーが五代に語りかけた。
「ミスター・レニーの情報なので間違いありません。イギリス艦隊は昨日出発してます」
 この部屋には少し前までイギリス軍の軍医であるレニーという人物がいたのだが、すでに先ほどこの部屋から立ち去って長崎港へ向かった。上海行きの船に乗る時間が迫っていたからだった。
 彼は横浜から上海へ行く途中たまたま長崎へ立ち寄ってグラバーに会いに来た。その時グラバーがレニーから「イギリス艦隊出発」の情報を聞き、前々からその情報を知りたがっていた五代に知らせたのだった。

 イギリス人グラバーは四年前に来日して長崎で貿易商を(いとな)んできた。その間、薩摩藩との関係を構築して蒸気船などを売却した。その時グラバーの取引相手となったのが五代だった。
 五代は思いつめた表情で語った。
「ミスターグラバーに仲介(ちゅうかい)してもらって藩に無断で賠償金を支払う。あとは俺が切腹して事を収める。そうするしかないと思っとったが、イギリス艦隊は長崎に()んか……」
「何度も言いましたように、私はただの(いち)商人です。海軍との仲介なんてできませんよ」
 続けてグラバーは厳しい表情で五代に忠告した。
「いいですか。これだけは必ず守ってください。薩摩からは絶対、先に大砲を撃たない事。長州の真似(まね)をしてはダメです。長州に下関海峡を閉められたせいで、長崎の商売はアガッタリです」
「分かっておる。とにかく俺は急いで鹿児島へ戻る。もしも生きておったら、また会おう。ミスターグラバー」
「幸運を祈ります、五代サン。グッドラック」
 五代は長崎から鹿児島へ急行した。

 翌日、五代が鹿児島の鶴丸(つるまる)城に入ると松木弘安(こうあん)(後の寺島(てらしま)宗則(むねのり))から声をかけられた。
「五代君。君も私と同じ(ふな)奉行(ぶぎょう)に命じられたぞ。君が調達してきた、あの蒸気船の責任者だ」
 前述したように、松木は幕府の竹内遣欧(けんおう)使節団に参加して昨年十二月に帰国した。そのあとイギリスとの交渉のために帰藩を命じられ、薩摩に戻ってきていた。
 松木は話を続けた。
「それで、君はやはり国父(こくふ)様に和平交渉を(すす)めるつもりか?」
「はい。この鹿児島を焦土(しょうど)にしてはなりません。松木さんもイギリスの実力は十分ご存知のはずでしょう?」
「分かっている。だから私も小松様を通じて和平交渉をお(すす)めした。しかし小松様は、自分は和平交渉に賛成だが、とてもそんな話を持ち出せる状況ではない、と(おお)せられた……」
 とにかく二人は藩主父子(おやこ)(こく)()久光(ひさみつ)、藩主・茂久(もちひさ)忠義(ただよし)))の御前(ごぜん)でイギリス艦隊襲来を報告するため広間へ向かった。

 藩主父子の近くには家老・小松帯刀(たてわき)側役(そばやく)・中山中左衛門(ちゅうざえもん)、側役・大久保一蔵(いちぞう)などが控えていた。ちなみに西郷吉之助(きちのすけ)隆盛(たかもり))はまだ沖永(おきのえ)良部(らぶ)島に幽閉(ゆうへい)されている状態である。
「そうか。イギリスが七隻の軍艦を率いて、数日中に錦江湾(きんこうわん)(鹿児島湾)へ()るか」
 五代の報告を聞いた久光は意気(さか)んに語った。
 それで五代がふたたび意見を述べた。
「つきましては、恐れながら申し上げたき()がございます」
「申してみよ」
「イギリスとの和平交渉はもはや不可能なのでございましょうか?」
 これに中山が反論した。
(こく)()様の首級(しゅきゅう)を差し出せと申す奴らと、交渉などできる訳がなかじゃろが!」
 この中山の意見に五代が答えた。
「それは誤解でございます。イギリスは国父様の首級を求めてはおりません。犯人の処刑を求めているだけでございます」
 ここで大久保が意見を差し挟んだ。
「それは良かった。しかし和平交渉など今更(いまさら)不可能である。イギリス艦隊の襲来を聞いて金を支払ったと思われては武士の名折(なお)れ。第一、朝廷から攘夷実行の命令が出ている昨今(さっこん)、賠償金支払いなど不可能であることは才助どんもご承知のはず」
 中山がさらに五代に反論した。
「おはんは長崎でイギリス人と付き合って、イギリスかぶれになってしもたんじゃなかか?」
 五代は和平交渉をあきらめて別の進言をすることにした。
「……それならば、せめて蒸気船三隻を(ぼう)(とまり)(現・南さつま市坊津(ぼうのつ)町)へ退避させるよう、お許しねがいます」
 同じ船奉行である松木もこの案に同意した。そして五代は進言を続けた。
「あの蒸気船は(それがし)が長崎で買い付けました。賠償金の三倍の30万ドルという大金をつぎ込んでおります。しかし軍艦ではございません。もし(いくさ)になればイギリスは真っ先に蒸気船を狙うはずです。それゆえひとまず(ぼう)(とまり)にでも……」
 ここで五代の進言をさえぎるように中山が大声で反論した。
「ならん!敵を前にして()ぐっとは、おはんらはそいでも武士か!そげん卑怯(ひきょう)未練(みれん)の言葉、まるで商人(あきんど)のようではなかか!」

 五代と松木は愕然(がくぜん)となった。
 “卑怯”という単語が出てしまっては、薩摩(さつま)隼人(はやと)にこれ以上の議論は無用であった。
 結局、蒸気船の湾外への退避(たいひ)案は中山中左衛門によって却下され、湾の奥まったところにある重富(しげとみ)待機(たいき)させておくことになった。



 横浜を出港したイギリス艦隊は順調に鹿児島へ向かっていた。
 サトウやウィリスの記録によると航海中は天候も良く、アーガス号の士官たちと楽しく親睦(しんぼく)を深めて上等な食事やワインを()()われていたようである。ウィリスは故郷への手紙で「アーガス号ではすべてが素晴らしいものでした」と書いている。
 六月二十七日(8月11日)午後、イギリス艦隊は薩摩半島の山川(やまかわ)沖に到達した。

 これをうけて山川で監視していた薩摩藩の見張り番は、すぐに烽火(のろし)をあげて鹿児島へ通報した。山川から鹿児島城下まで約50㎞あるが、その間烽火台(のろしだい)数珠(じゅず)(つな)ぎに配置してあり、イギリス艦隊襲来の(しら)せはすぐに城下へと伝わった。

 薩摩藩士たちはすぐに持ち場の砲台へ向かった。
 その中には若き日の西郷信吾(しんご)(じゅう)(どう))、大山弥助(やすけ)(いわお))、東郷平八郎(へいはちろう)、山本権兵衛(ごんべえ)などもいた。
 一方、鹿児島の町人に対しては退去命令を出して町から避難(ひなん)させた。

 イギリス艦隊は鹿児島湾へ来るのが初めてで詳しい海図(かいず)を持っていなかった。そのため水深(すいしん)などを測量しながらゆっくりと湾内を進んでいった。
 ウィリスは故郷への手紙の中で
「緑の木々が美しく作物は豊かで想像以上に素晴らしい風景です。この景色を心ゆくまで味わうことができたら最高でしょう」
 と鹿児島湾の風景を絶賛している。
 しかしそのウィリス自身が、後に西南(せいなん)戦争まで約七年間、この鹿児島で暮らすことになろうとは、それこそ想像もできなかったに違いない。
 イギリス艦隊はこの日の夜、鹿児島市街の南方のあたりに停泊(ていはく)した

 翌六月二十八日(8月12日)、イギリス艦隊はゆっくりと北上して鹿児島市街の沖合(おきあ)いに到着。その威容(いよう)を薩摩藩に対して見せつけた。
 キューパー提督は薩摩藩の砲台群(ほうだいぐん)を見て、思った以上に防備が固められていることに気がついた。
 とはいえ、イギリス人から見れば所詮(しょせん)旧式の砲台であり、この段階でも戦争になる可能性をほとんど考慮しなかった。そしてそれはニールも同様だった。
 とりあえずキューパー提督は湾内の測量および偵察の任務を部下に命じた。

 一方、薩摩側も各部隊に「命令があるまで発砲禁止」と(げん)(めい)してあったので、イギリス側の測量や偵察の部隊が近づいても発砲することはなかった。
 この日、薩摩藩の(ぐん)()役・伊地知(いじち)正治(まさはる)がユーリアラス号へ使者として向かった。
 船内の応接室で薩英両者の談判が開始され、ニールは伊地知にイギリスの要求書を渡した。これにはイギリスの要求が英語、オランダ語、日本語の三通りで書いてあった。
 伊地知はニールやキューパー提督に薩摩側の事情を説明し、それをシーボルトが通訳した。
「現在、我が藩主は霧島(きりしま)温泉で療養(りょうよう)中である。遠隔(えんかく)()にいるため、すぐの返答は難しい」
 これにニールが答えた。
「国が大変な時にのんきなものだ。とにかく急いで連絡をとって回答すべし」
「それでは、我が方の外国人接待(せったい)施設に代理公使と提督をご招待(しょうたい)したい。手紙のやり取りではなくて、そこで直接話し合いをするというのはどうだろうか?」

 ニールはキューパー提督に耳打ちして相談した。
「我々に上陸するように言ってきてますが、私はこの連中のことが信用できません。絶対に(わな)仕掛(しか)けてあると思います」
「私もそう思う」
 ニールは伊地知の提案を拒否すると伝えた。
「その提案は拒否する。我々の要求はすべてその書類に書いてある。あとはそちら側で判断して回答すればよろしい」
 ニールの予想通り、実際、薩摩側は(わな)を用意していたらしい。
 ニールたちを人質に取るか、殺害する計画があったと言われている。
 この日の会談はこれで終了となり、伊地知は陸地へと帰っていった。

 同じ頃、イギリスの偵察部隊が重富(しげとみ)で待機している蒸気船を発見した。松木弘安と五代才助が乗っている船である。
「もし薩摩が回答を(しぶ)るようであれば、その蒸気船を拿捕(だほ)して(しち)に取りましょう。本国政府からの指令(しれい)でも船舶(せんぱく)拿捕(だほ)するように書いてありますから、何も問題はないはずです」
 とニールはキューパー提督に提案した。
 キューパー提督はただちにこの案を了承した。


 翌六月二十九日(8月13日)、薩摩側では軍議が開かれ、海江田(かいえだ)信義(のぶよし)奈良原(ならはら)()()衛門(えもん)が奇襲作戦を進言した。

 実はこの二人、生麦事件の主犯(しゅはん)(かく)である。
 奈良原は最初にリチャードソンに斬りつけた人物で、海江田はそのとどめを刺した人物である(ただしリチャードソンに斬りつけたのは()()衛門(えもん)ではなくて弟の(しげる)である、という説もある)。

 ちなみに二人が提案した奇襲作戦とは次の通りである。
「斬り込み隊を各十名ずつ小舟に乗せて、敵の各艦に接舷(せつげん)する」
「その際、斬り込み隊はスイカ売りに化けておく。そしてスイカを売ると称して敵艦に乗り込む」
「大砲の合図で一斉(いっせい)に斬りかかって、敵艦を奪取(だっしゅ)する」
 段取りは以上である。

 軍役(ぐんやく)(かかり)家老の小松帯刀(たてわき)唖然(あぜん)とした。
(なんちゅう無謀な作戦じゃ……)
 しかし久光はこの作戦を了承した。
「うむ。それはすこぶる良案である。ただし、敵の軍艦は無傷で手に入れたい。大砲は実弾ではなくて空砲を使うように」
「チェストー!承知しもした!」

 この「スイカ売り奇襲作戦」は久光の裁可(さいか)()て、即日(そくじつ)実行に移されることになった。ただし旗艦ユーリアラス号に対しては「高官が要求書の返答を持ってきた」との口実(こうじつ)で乗り込むことにした。
 陸から小舟が数隻、それぞれ狙いを定めたイギリス艦へ向かって()()せて行った。

 ユーリアラス号へは海江田と奈良原、さらに三十名ほどの藩士たちが向かった。海江田は「高官」と称して返答書を持参している名目であるが、実はそんなものは持って来ていない。
 海江田たちの小舟はユーリアラス号の舷側(げんそく)に接近した。それを見つけたシーボルトが海江田に声をかけた。
「何の用ですか?」
「返書を持参したので船にあげてほしい」
「では、返書を持っている人、一人、上がってきなさい」
 薩摩藩士が一人、タラップをあがっていった。その男にシーボルトがたずねた。
「あなた、返書を持ってますか?」
「いや」
「返書を持ってないのになぜ上がってきたのですか!?」
 次にまた一人、薩摩藩士があがっていった。
「あなた、返書を持ってますか?」
「いや」
 その後も次々と薩摩藩士たちはタラップをあがっていった。シーボルトは怒って大声で注意した。
「ダメです!降りなさい!」
 薩摩藩士たちが反論した。
「“高官”が応接に出向く際は、多数の従者(じゅうしゃ)がお(とも)をする。それが我が国の礼儀である」

 ここでさすがにシーボルトもこの連中の(あや)しさに気がつき、急いで司令室へ連絡に行った。
 すると小銃を持った水兵たちが一斉に甲板にあらわれて海江田たちを包囲した。水兵は全員小銃を海江田たちに向けていつでも発射できる態勢をとった。そしてニールも様子を見るために甲板へやって来た。

 薩摩側は海江田、奈良原など十数名の藩士たちがすでにユーリアラス号の甲板(かんぱん)にあがっていた。
 海江田は奈良原に自分の考えを伝えた。
「思ったよりも警戒が厳しいが、こうなったら斬り死にするまででごわす」
「承知しもした」

 シーボルトは海江田に船内へ入るように言った。
「それでは返書を持っている人は船内に入ってください」
 海江田と奈良原は「おう」と答えて船内へ向かおうとした。もはや全員、船の上で斬り死にするつもりである。
 ところがちょうどその時、別の小舟がユーリアラス号に近づいてきた。
「おーい、海江田ー、奈良原ー!()(かえ)せー!君命(くんめい)じゃー、()(かえ)せー!」
 それは計画中止を知らせる小舟であった。
 陸から作戦の動向を監視していた小松帯刀が、計画中止の決断を(くだ)したのだった。
 旗艦ユーリアラス号では武装したイギリス兵たちに包囲され、それ以外の艦では言葉が通じず、スイカ売りに変装した斬り込み隊は甲板に上がることすら出来なかった。そのため小松が中止を決断したのだった。
 海江田はシーボルトに事情を説明した。
「返書の内容に誤りがあったので、すぐに引き返すよう命令があった。返書は後で改めて持参する」
 そう言って全員ユーリアラス号から引きあげていった。

 ニールはこの薩摩側の行動に不審な点を感じたものの、まさかこんな小人数(しょうにんずう)で船の分捕(ぶんど)りに来るとは考えもしなかった。
 しかも自分の目の前に「生麦事件の犯人」がいるとは想像もしなかった。それでニールは「偵察(ていさつ)が目的だったのだろう」と、彼らの目的を結論づけた。
 後年サトウは次のように手記で語っている。
「彼らは(すき)を狙ってイギリス士官を急襲して何とかその(おも)だった者を殺害しようと抜け目のない計画を立てたのだ。そして旗艦を分捕(ぶんど)るつもりだったのだ。それは大胆(だいたん)不敵(ふてき)な考えだったがこちらの警戒が甘かったら、あるいは成功したかもしれない」
 余談だが、現在法政大学(ほうせいだいがく)80年館(ねんかん)(靖国神社の裏手)のところに当大学が建てたサトウの記念碑がある。ここはサトウ家の住宅があった場所で、サトウが購入する前にその家を所有していたのは海江田信義であるらしい。なんとも不思議な因縁(いんねん)である。

 そしてこの日の夜、薩摩側からユーリアラス号に返書が届けられた。日本語の読解(どっかい)には時間がかかるため、ニールは翌日回答することにした。
 この日本語の読解にシーボルトとサトウが関わったのはもちろんのこととして、実はこの時一人の日本人がこの読解に関わっている。

 清水(しみず)()三郎(さぶろう)という人物である。
 彼は武州羽生(ぶしゅうはにゅう)(埼玉県羽生市)出身の商人で、以前から蘭学や洋学を志していたので英語もそれなりに出来た。今回のイギリス艦隊の鹿児島遠征で、薩摩が提出してくる日本語文書をすぐに読める人間を探していたところ、彼に白羽の矢が立ったのだった。他の日本人は後難(こうなん)(イギリス人に協力したことによる後難)を怖れて誰も引き受けなかったが、彼は「面白そうだから行ってみよう」と引き受けてユーリアラス号に乗り込んだのである。余談ながら、清河八郎が創設した(近藤勇や芹沢鴨も参加した)浪士組(ろうしぐみ)の一番組を(ひき)いていた根岸(ねぎし)友山(ゆうざん)は、卯三郎の伯父(おじ)であり勉学の師匠でもある。ただし友山は卯三郎と違ってガチガチの尊王攘夷論者であった。

 サトウたちが返書の読解作業を進めていくと、書き出しこそ「人命より(とうと)いものはなく、殺人犯を死刑にするのは当然である」とイギリス側の主張を認めているものの、読み進めていくと
「犯人を見つけ出すことは難しい」
「大名行列を(さまた)げてはならないことを条約に書かなかった幕府の責任である」
「今回のイギリス艦隊の来訪について幕府から何も聞いていないので我々の一存(いちぞん)では決められない」
 といったようなことが書かれており、イギリス側の要求に対して全くの「ゼロ回答」という内容だった。
 当然の(ごと)く、ニールは激怒した。

 翌七月一日(8月14日)の朝、薩摩藩の伊地知(いじち)正治(まさはる)が再び使者としてニールに会いに来た。
 しかしニールは面会を拒絶(きょぜつ)
 ()わってシーボルトが返書に対するイギリス側の回答を読み上げた。
「イギリスの要求を薩摩が拒絶したので、もはやキューパー提督に事態の解決について一任(いちにん)した。今後談判(だんぱん)を求める場合は、白旗(しろはた)(かか)げて来ない限りは応じない。以上である」
 宣戦布告に(ひと)しい宣告(せんこく)だった。

 これを受けて薩摩側は臨戦態勢に入った。
 ただし各砲台には改めて「命令があるまで絶対に撃ってはならぬ」と厳命(げんめい)した。そして鶴丸城は攻撃目標にされやすいので本営を千眼(せんげん)()に移転した。
 この日は午後から天候が(くず)れ、風も強く吹き始めた。嵐の前ぶれである。
 ニールから事態の解決について一任されたキューパー提督は、二日前にニールと話し合って決めた通り、薩摩の蒸気船三隻を拿捕(だほ)することに決めた。
 キューパー提督はパール号の艦長を呼んで、翌朝、艦隊の一部をひきいて薩摩の蒸気船を拿捕するように命じた。
 薩摩藩がこの蒸気船三隻を買うために賠償金の三倍の額を支払っている、ということをイギリス側は知っていた。ニールもキューパー提督も、これを(しち)に取れば薩摩も(あゆ)()って来るだろうと思ったのである。


 翌七月二日(8月15日)、天候は前日よりもさらに悪化した。どうやら台風が来たようだった。
 この日の早朝、サトウが乗っているアーガス号を含めた五隻の艦隊が、薩摩の蒸気船三隻を拿捕するため風雨(ふうう)をついて重富(しげとみ)へ向かった。
 そしてサトウもアーガス号の隊長の通訳として敵艦に乗り込むことになった。
 サトウが実戦の現場で働くことになるのは、これが初めてである。もちろんサトウは非常に緊張した。しかしまた興奮もしていた。
 サトウが乗ったアーガス号は薩摩の(せい)(よう)丸に、今まさに接舷(せつげん)しようとしていた。

 その時、(せい)(よう)丸の艦内では艦長の五代がいきり立つ乗組員たちを押しとどめて、船から退去するよう説得していた。
手向(てむ)かってはならん!総員、船から退去せよ!」
 しかし乗組員たちは異議を唱えた。
「ないごてでごわすか?」
「まだ開戦の命令は出ておらん!」
「じゃっどん、敵から仕掛(しか)けて()とるのに、反撃せんのでごわすか?!」
「まだ(いくさ)と決まった訳ではない!今ここで抵抗しないのは、この船を一旦(いったん)イギリスに預けるだけのことだ。この船は軍艦ではない。奴らの軍艦と戦うことはできん」
 五代は説得を続けた。
「ただし、奴らが無茶を言うようなら俺が用意した爆弾で、イギリス人を道連(みちづ)れに船ごと自爆する」
 こういった五代の説得によって乗組員たちは総員、船から退去した。青鷹丸には五代と松木だけが残った。

 乗組員たちの退去と入れ替わるように、青鷹丸に接舷したアーガス号から水兵たちが乗り込んで来た。もちろんサトウも一緒である。
 サトウは隊長と一緒に船の司令室に入った。そこには五代と松木がいた。
 そこでサトウは日本語で「手を()げなさい」と言った。
 五代と松木は素直に両手を挙げたが、松木が英語でサトウに問いかけた。
「宣戦布告もなく、いきなり当方の船を略奪するとは不法行為ではないのか?」
 サトウは驚いた。
(こんな所に英語を話す日本人がいるとは……)
 そしてサトウは松木の質問に英語で答えた。
「不法行為はあなたたちの生麦での殺人である」
 松木はそれ以上何も言わなかった。代わりに五代がサトウにたずねた。無論、日本語である。
「私は船長の五代と申す。抵抗するつもりはないので乗組員が退去するのを見逃して欲しい。まだ逃げ遅れている乗組員もいると思うが、彼らをそのまま逃がしてもらいたい」
 サトウは水兵の隊長に通訳して、そのことの確認をとった。
「よろしい。武器を捨てて全員(すみ)やかに退去するように」
 この頃にはアーガス以外のイギリス軍艦が他の二(せき)天祐(てんゆう)丸と白鳳(はくほう)丸)にも接舷して拿捕の作業にかかりつつあった。しかし他の二隻にもあらかじめ抵抗しないよう五代から通知してあったので、同じように乗組員は総員退去した。ただし天祐丸では小競(こぜ)り合いが発生して薩摩藩士一人が死亡、負傷者も二、三人出た。

 五代はサトウに話しかけた。
「ところであなたの名前は?」
「私の名前はサトウです」
「サトウ?また日本人のような名前だな」
「いつも日本人から言われます」
「ところでどうだろう?サトウさん。我々をこのままロンドンまで連れて行ってもらえないだろうか?」
「ロンドンへ行ってどうするつもりですか?」
 ここで松木が代わってサトウに話を続けた。
「我々二人は日英の戦争が無益であると知っている。そのことをイギリス政府に説明したいのだ」
「……どのみち私が決められることではありません」
 サトウは水兵の隊長にこのことを話してみた。
「それはやはり無理な話ですね。それに我々は捕虜(ほりょ)をとるつもりはありません。あなたたちもすぐに退去してください」
 そこで松木が必死の形相(ぎょうそう)でサトウに向かって言った。
「我々はもう鹿児島へは戻れないのだ。戻れば死罪か切腹である。……実はこの船には爆弾が仕掛(しか)けてある」
 松木の発言を聞いてサトウは仰天(ぎょうてん)した。
「何ですって?!」
 五代は松木の発言をさえぎろうとした。
「松木さん!なぜそのことを……」
「五代君。今ここで自爆してサトウ君たちを道連(みちづ)れにしても、犬死にじゃないか」

 サトウは(あわ)てて爆弾のことを隊長に説明した。
「分かりました。それではあなた方を旗艦へ連行します。しかしその前に、その爆弾のある場所を教えてください」
 五代と松木は船内に仕掛けてあった爆弾の場所をサトウに教え、そのあとユーリアラス号へ連れて行かれた。

 サトウとしてはまったく命拾(いのちびろ)いをしたような心持(こころも)ちだった。


 蒸気船三隻を拿捕(だほ)することに成功したアーガス号たち別働隊は、このあと拿捕した船を牽引(けんいん)して本隊のところへ帰還(きかん)した。
 ニールは満足そうにキューパー提督に語りかけた。
「無事、薩摩の蒸気船を拿捕(だほ)できて良かったですな、提督」
「うむ。これで薩摩も我々に(あゆ)み寄って来るだろう」
「ええ。しばらくすれば薩摩から交渉の使者がやって来るでしょう」
「なんならこのまま戦利品として横浜へ持ち帰って、(あらた)めて薩摩の出方(でかた)を待っても良いんだがな。ハハハ」
 当時イギリス海軍では船を分捕(ぶんど)った場合、その価値(この場合は30万ドル)に応じて軍人は賞金(ボーナス)がもらえたと、サトウの手記には書かれている。
 この時キューパー提督の気分はまさに有頂天(うちょうてん)であった。

 ところが、である。
 逆にこの蒸気船三隻の拿捕をうけて、千眼(せんげん)()の薩摩藩本営は開戦を決意したのであった。
 薩摩藩の各砲台は数日前から応戦準備を(ととの)えており、砲撃命令を今か今かと()()がれていた。
 正午(しょうご)頃、天保山(てんぽざん)砲台に命令を伝えにいった大久保一蔵が「砲撃開始!」と言うが早いか、天保山砲台は即座(そくざ)に砲撃を開始した。そしてこの一発を口火(くちび)にして、他の砲台も一斉(いっせい)に砲撃を開始した。

 この時イギリス側はちょうどランチタイムだった。サトウとウィリスもランチを食べていた。
「何か今、大砲の音がしなかった?ウィリス」
「多分、正午の合図の号砲だろ」
 同時にユーリアラス号の司令室でランチを食べていたニールとキューパー提督に「薩摩が砲撃を開始した」との連絡が入った。

 二人は食べてた食事を()き出しそうになるぐらい驚いた。
 イギリス艦隊は念のため砲台から離れた位置に停泊(ていはく)していた。しかし旗艦ユーリアラス号だけは射程(しゃてい)圏内(けんない)に入っていた。それでも最初は照準(しょうじゅん)が合わず砲弾は届かなかったが薩摩側は徐々(じょじょ)に照準を修正して、少しずつユーリアラス号の近くに着弾するようになった。
 またパーシュース号も桜島(さくらじま)(はかま)(ごし)砲台のすぐ近くにいた。イギリス側はそこに砲台があることに気がついていなかったのだ。不意を()かれたパーシュース号は(いかり)を上げる余裕(よゆう)もなく、(いかり)(くさり)を切断して緊急退避した。

 ニールとキューパー提督は困惑していた。
 そもそも横浜出発の当初から「薩摩が攻撃してくる」ということをまったく想定していなかったのである。
 ユーリアラス号のジョスリング艦長がキューパー提督に急いで反撃するよう進言した。
「提督!こうなった以上、薩摩を壊滅(かいめつ)させるしかありませんよ!」
「うーん……」
 キューパー提督はまだ迷っている。
 そこへニールもキューパー提督に急いで反撃するよう(うなが)した。
「提督!何をためらってるんですか!艦長の言う通り、薩摩を叩きましょう!」
「しかし、そうなると拿捕(だほ)した蒸気船三隻が足手まといになる……」
焼却(しょうきゃく)処分するしかないでしょう。戦闘の邪魔ですから」
「うーん……」
 せっかくの戦利品を焼却するのは()しかったが、結局キューパー提督は、サトウが乗っているアーガス号など三隻に拿捕した蒸気船の焼却処分を命じた。

 焼却命令を受けたアーガス号の水兵たちは、さっそく船内の付属物(ふぞくぶつ)掠奪(りゃくだつ)を開始した。
 サトウもこれに便乗した。どうせ焼いてしまうのだから、良く言えば「有効活用」といった気持ちもあったろう(悪く言えば文字通り、火事場泥棒だが)。
 彼らは武器、甲冑(かっちゅう)、酒、調度(ちょうど)品などを奪い去った。運良く一分(いちぶ)(ぎん)など現金をせしめた者もいた。サトウは陣笠(じんがさ)と火縄銃を手に入れた。
 後にサトウは語っている。
「砲弾の下にさらされると異常な興奮を覚えるものだが、荒れ狂う天候がいっそう人々の心を揺さぶった」
 そういった掠奪活動が一時間ほど続き、その後、船底に穴をあけて火を放った。
 総額30万ドルという賠償金の三倍の金額で薩摩藩が購入した三隻の蒸気船は、こうして海の藻屑(もくず)と消えたのである。

 この間、イギリス艦隊の本隊がどうしていたのか?というと、実はあまり反撃できていなかった。
 旗艦ユーリアラス号の戦闘準備が二時間遅れたためである。
 その原因は、これはサトウの手記が引用元となって広く知れ渡っている話だが、幕府から支払われた生麦賠償金の十数万ドルが弾薬庫(だんやくこ)の前に山積みされていて、戦闘の邪魔をしていたからだった。この事は、ニールやキューパー提督が薩摩との戦争をまったく想定してなかったことを裏付けていると言えよう。

 午後二時、イギリス艦隊はようやく本格的に反撃を開始した。
 旗艦ユーリアラス号を先頭に(たん)縦陣(じゅうじん)を組んで、湾の北側にある祇園(ぎおん)()()砲台へ攻撃に向かった。
 艦隊から集中砲火を浴びた祇園之洲砲台はあっという間に壊滅した。

 イギリス艦隊はそこから南下して、次の砲台へ攻撃に向かった。
 ところが暴風雨の影響もあり、この時イギリス艦隊は薩摩側の射程(しゃてい)圏内(けんない)に入り込み過ぎていた。
 まさにこの暴風雨は薩摩にとって「神風」と呼ぶべきものであったろう。
 イギリス艦隊の行く手に待ち構えていた(しん)波止(はと)弁天(べんてん)波止(はと)(みなみ)波止(はと)大門口(だいもんぐち)天保山(てんぽざん)の各砲台が、この時イギリス艦隊に集中砲火を浴びせた。
 後年サトウは次のように手記で語っている。
「パッと立ち上がる砲煙(ほうえん)只中(ただなか)で、まず火炎(かえん)()き出すのが見えて、それから奇妙な丸い真っ黒なものが我々めがけて一直線に飛んできた。その時の興味(きょうみ)興奮(こうふん)を私は決して忘れることができない。しかしその砲弾は、まさに私たちに命中するかと思った瞬間、いきなり空中高く飛び上がって頭上を通過したのである」

 この時イギリス艦隊は旗艦ユーリアラス号を先頭にして進んでいたので、当然の(ごと)く、そのユーリアラス号に砲撃が集中した。
 日本語文書を翻訳するためにユーリアラス号に乗っていた清水卯三郎(うさぶろう)
「これは大将(たいしょう)の船だから必ず最後尾(さいこうび)を行くものと思いきや、真っ先に進んでいったので驚いた。砲煙に包まれて周囲が見えないと思っていた矢先に艦の砲門にガラリと弾丸が飛び込み炸裂(さくれつ)して五、六人打ち倒れた。また来た弾丸が炸裂(さくれつ)してキャプテンとコマンダーの二人が討ち取られた」
 と手記で述べている。
 「艦の砲門にガラリと弾丸が飛び込み」というのは右舷(うげん)三番砲台への直撃弾のことで、「キャプテンとコマンダーの二人が」というのはキューパー提督のすぐ近くに立っていたジョスリング艦長とウィルモット副艦長が被弾して即死したことをさす。この時キューパー提督も軽傷を負った。さらに短艇(たんてい)付近への直撃弾で20数名が死傷した。

 確かに砲撃による被害が集中したのは旗艦ユーリアラス号だったが、他の軍艦のほとんどが、程度の差こそあれ被害を受けた。
 かたや薩摩側もイギリス艦隊の砲撃によってほとんどの砲台が使用不能に(おちい)っていた。
 この戦いで初めて実戦投入された、長射程で、しかも速射(そくしゃ)可能なイギリスのアームストロング砲が威力を発揮(はっき)したのである。
 ユーリアラス号は合計13門のアームストロング砲を搭載(とうさい)していたが、その内の1門は前部甲板(かんぱん)に設置してあり、この戦いでも大いに活躍していた。
 ところがそのアームストロング砲の()(せん)突如(とつじょ)暴発を起こし、数名の砲手(ほうしゅ)が負傷した。実戦初投入というアームストロング砲のリスクが、このとき表面化してしまったのだ。
 すでに集中砲火を()びて艦長・副艦長が戦死していた旗艦ユーリアラス号は、この暴発事故がダメ押しとなって戦闘を停止した。

 同じ頃、戦列の後ろの方にいたレースホース号が祇園(ぎおん)()()砲台近くの浅瀬(あさせ)座礁(ざしょう)していた。祇園之洲砲台は真っ先に攻撃されて砲台は使用不能になっていたので、目の前に座礁しているレースホース号を攻撃することはできなかった。
 このレースホース号を救出するためにサトウが乗ったアーガス号と、さらにコケット号が救援に向かった。アーガス号はレースホース号をロープで引っ張るために、ボートを降ろしてロープを(つな)ぎに行かせた。
 サトウはそれを心配そうに船の上から見守った。
(この嵐の中、ボートであそこまでたどり着けるんだろうか?)
 薩摩の砲台は壊滅していたとはいえ、ごく一部発射可能な大砲があり、それが時々サトウたちのアーガス号めがけて砲撃をおこなった。その内の数発がアーガス号のマストと舷側(げんそく)を直撃してサトウは「うわっ!」と驚いた。しかし幸い大事には至らなかった。
 そしてついに、アーガス号がロープで引っ張ってレースホース号は離礁(りしょう)に成功した。

 その後もイギリス艦隊の一部は攻撃を続行して(いそ)集成館(しゅうせいかん)工場群を砲撃で破壊し、その近くに停泊していた琉球(りゅうきゅう)船などの船団を焼き払った。
 さらに()()ちをかけたのがロケット弾による市街地への攻撃であった。
 このロケット弾によって市街地で火災が発生。その火災が(おり)からの強風にあおられて燃え広がり、市街地北部の広い範囲が焼き払われた。
 事前に市街地から町人を退去させていた薩摩藩の判断は、まさしく正解だったと言えよう。鹿児島の大火災は一晩(ひとばん)(じゅう)燃えつづけた。
 この日の晩、イギリス艦隊は桜島の近くに停泊した。そしてサトウとウィリスはアーガス号からこの火事の景色をながめていた。
 後にサトウは語っている。
「たちのぼる煙や炎が火柱(ひばしら)のように見えた。空一面に広がった煙が炎に()らし出され、恐ろしくもあり、また壮観(そうかん)(なが)めであった」
 同じくウィリスは次のように手紙に書き記している。
「これが戦争というものの恐ろしい現実であり、(うわさ)でしか戦争を知らない者は幸せだと、深く実感したのです」
 実際、この鹿児島の市街地を焼いたことは、後にイギリス議会で追及されることになる。


 その頃ユーリアラス号の捕虜(ほりょ)収容室には清水卯三郎が来ていた。
「カシワという名の、英語を話す日本人がいると聞いて来たのですが、やはりあなたでしたか」
「いや驚いた。まさかこんな所で卯三郎さんに会えるとは思わなかった」
「松木先生に英語を習ったおかげで、私もこうして鹿児島まで(まか)()しました」
 五代と松木はこの時捕虜となってユーリアラス号の一室にいたのだが、その二人に卯三郎が会いに来たのだった。
 松木は薩摩人だが江戸での滞在経験が長く、また江戸では有名な蘭学者の一人だった。さらに横浜の運上所(うんじょうしょ)で通訳として勤めていたこともあった。ちなみに横浜にいた時は福地源一郎が松木の隣りに住んでいた。そしてその頃、卯三郎は松木から英語を習っていたのだった。
 五代が卯三郎にたずねた。
「ところで、(いくさ)の様子はどうなった?」
 卯三郎は五代と松木に戦争の様子を詳しく語った。
 松木はつぶやいた。
「そうか。鹿児島の町は焼かれ、蒸気船三隻も焼き払われてしまったか…」
 五代は悔しそうに叫んだ。
「だから(いくさ)なんか止めろといったんだ!」
「しかしイギリスも艦長が戦死していたとは……。なんとなく船内の様子で、ただならぬ気配を感じてはいたが…」
 と松木がつぶやいた。
 それから卯三郎は二人に用件を伝えた。
「それで提督がお二人に聞きたい事があるので司令室に上がって来るようにと申しておりました」

 司令室ではニールがキューパー提督に戦争の継続を訴えていた。
「提督。ひょっとしてこのまま艦隊を帰還させるつもりではないでしょうな?」
 キューパー提督はその質問に答えなかった。ニールが話を続けた。
「薩摩の砲台を壊滅させたと言っても、あれでは後日すぐに復旧(ふっきゅう)されてしまいますぞ。上陸作戦を決行すべきです!兵を上陸させて、少なくとも大砲だけは分捕(ぶんど)ってくるべきです!」
 そこへ卯三郎と一緒に五代と松木がやってきた。
 五代はオタニと名乗り、松木はカシワと名乗った。二人とも身元(みもと)が判明しないように変名(へんめい)を名乗ったのだ。
 イギリス側は二人に薩摩側の防御態勢について()(ただ)した。
 オタニ(五代)が答えた。
「我が薩摩は武勇(ぶゆう)(おも)んじる国柄(くにがら)である。陸上には死を恐れない十万の精鋭(せいえい)が待ち構えている。陸戦では貴国(きこく)に勝ち目はない。無益な戦いはやめて、和平交渉の道を(さぐ)るべきである」
 それをカシワ(松木)が通訳した。それからしばらく色んな質問に答えた後、捕虜の二人は再び捕虜収容室へ戻っていった。

 再びニールがキューパー提督に戦争の継続を訴えた。
「陸上に十万の兵力がいるなど、ウソっぱちに決まってるではないですか!」
 オタニ(五代)の口述(こうじゅつ)には多少大げさな表現があるとはいえ、薩摩藩は他藩と比較すると武士の数が桁違(けたちが)いで、この時五万人を動員していたと言われている。後の西南戦争のことを考えても、薩摩藩の動員力は他藩とは桁違いである。
 一方この時イギリス側は陸戦のことなどほとんど想定してなかったので、詳しい史料は不明だが、多めに見積もっても陸戦兵力は千名前後だったのではなかろうか。無論イギリス側には優秀な(じゅう)火器(かき)があるのだから人数だけで判断しても意味はないのだが(一説によるとこの時薩摩は外国を嫌うあまり装備を火縄銃に戻していたともいう)。
 ニールが続けて「ぜひとも陸戦隊の上陸作戦を……」と言おうとした時に、キューパー提督がキッパリと言い放った。
「一兵たりとも上陸はさせん!作戦実行の責任者は私である。これ以上、作戦実行への介入(かいにゅう)(つつし)んでもらいたい」
 ニールは食い下がった。
「この遠征の目的を果たさないまま帰還する気ですか!」
 それでもキューパー提督の考えは変わらなかった。
「それほど薩摩を叩きのめしたいのなら、もっと周到(しゅうとう)に準備をして(あらた)めてここへやって来るべきである」
 結局イギリスは上陸作戦を取りやめた。

 この後、翌日にも小競り合いはあったものの、これ以降の戦いは割愛することにする。


 イギリス艦隊は応急修理のために二日ほど鹿児島湾内に(もちろん射程(しゃてい)圏外(けんがい)で)停泊して、そのあと横浜へ帰って行った。
 一応数字で表すと、この戦争の結果は次の通りである。

 イギリス:戦死者13名、負傷者50名 (戦死者にはユーリアラス号の艦長、副艦長を含む)
 薩摩藩:戦死者5名、負傷者10数名
(※一般に広く伝わっている説に(もと)づく数字。イギリス側はキューパー提督の報告書によるもの)

 イギリス艦隊はハボック号以外、すべての艦で負傷者が出ており、特にその大半は旗艦ユーリアラス号に集中していた。
 一方、薩摩側は死傷者数こそ少ないものの、全砲台を破壊され、市街地の約一割が焼失し、30万ドルで買った三隻の蒸気船が沈没、さらに琉球船などの船団が焼き払われ、集成館の工場群も破壊された。
 薩摩は建前上(たてまえじょう)「勝利」と喧伝(けんでん)しているが、客観的に見てこれは「勝利」と言えないであろう。

 この戦争の後、薩摩藩内では紆余曲折(うよきょくせつ)はあったもののイギリスと和議(わぎ)(むす)ぶという方針に決まった。
 元々薩摩藩は「過激な攘夷は不可」の方針であったが、薩英戦争を経験することによってはからずもその方針がより明確となった。薩摩藩はこれ以降「(だい)攘夷(じょうい)」(目先の攘夷よりも富国(ふこく)強兵(きょうへい)を優先する)の道を突き進むのである。

 かたや撤退していったイギリス艦隊のほうではキューパー提督の消極策に不満を唱える声が多かった。
 サトウはこの当時、次のような感想を日記に書いている。
「我々のほとんどは強い不満を抱いたまま引き上げた。もし、あと数日間、艦砲(かんぽう)射撃を続行してその後、上陸作戦を実行するか、または沖合(おきあい)に停泊し続けたならば、こちらの要求は通っただろう。ジョスリング艦長たちの死を無駄にしないためにも、そうすべきだったのだ」
 しかし後年になって書いた手記では、サトウは次のように語っている。
「石炭、食料、弾薬の補給を確保できないことが撤退の原因だったかも知れない」

 ところで、ユーリアラス号の捕虜として横浜へ連れていかれた五代と松木は、イギリス軍から解放されたものの、薩摩藩はもちろんのこと幕府の目からも(のが)れる必要があったので、そのまま清水卯三郎が手引(てび)きをして二人を(かくま)った。
 卯三郎は二人を熊谷(くまがや)の親類のところへ連れて行き、そこでしばらく潜伏(せんぷく)させた。

 この二人が歴史の表舞台へ帰ってくるのは再来年のことになる。
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