第2話 サトウ来日

文字数 9,561文字

 サトウやウィリスが働いている横浜のイギリス公使館は「横浜居留地(きょりゅうち)20番」の場所にあった。現在の場所でいえば(やま)下橋(したばし)交差点近くの「横浜人形の家」のあたりになる。ちなみにここには明治大正の頃、関東大震災で焼失するまでは横浜を代表する最高級ホテル「グランド・ホテル」が建っていた。
 しかし生麦事件が発生したこの時期、イギリス公使館のトップであるオールコック公使はイギリスに帰国中で不在だった。代わりにニール陸軍大佐が代理(だいり)公使をつとめていた。このニール代理公使が当時の在日イギリス人たちにとっての最高責任者であり、サトウやウィリスの上司でもあった。

 前回「ウィリスが攘夷(じょうい)殺傷事件の救急活動にあたるのはすでに二度目である」と書いたように、これ以前にも外国人を狙った殺傷事件は度々(たびたび)発生しており、横浜の外国人たちはイラ立ちをつのらせていた。
 そしてこの日の夜、横浜にリチャードソンの無残(むざん)な遺体が運び込まれたのである。
 ついに彼らのイラ立ちは爆発した。

 横浜の外国人たち、特に一番人数の多いイギリス人は激昂(げきこう)して叫んだ。
「我々はこれまで何度も攘夷浪人(ローニン)どもから襲撃(しゅうげき)をうけてきた!」
「今度という今度は日本人(ジャップ)()(もの)見せてやろうじゃないか!」
 なにしろ今回の事件はこれまでのような暗殺事件と違って犯行が薩摩藩の仕業(しわざ)であることは明白で、しかもたった今、目と鼻の先に犯人がいるのである。薩摩藩の一行が宿泊している保土ヶ谷(ほどがや)宿は直線距離にして横浜から五キロも離れていない。
 さらに彼ら外国人たちにとって幸いなことに、この日横浜にイギリス艦隊の旗艦(きかん)ユーリアラス号が入港してきた。フランス艦隊の旗艦セミラミス号とならんで東洋では最大級の軍艦(蒸気フリゲート艦)である。それ以前から横浜に停泊していた英仏(えいふつ)(らん)の軍艦をあわせると合計八隻となり、それぞれの軍艦から海兵隊を出兵すればかなりの兵力となる。

 横浜の外国人たちの多くは「保土ヶ谷襲撃(しゅうげき)」に賛成した。
 彼らは最高責任者であるニールの意見を待たずに一部の有力者たちだけで軍議を開いた。
「これだけの兵力があれば薩摩の軍勢などひとひねりだ!」
「これから我々は保土ヶ谷を攻撃して島津三郎(サブロウ)(久光)と殺人犯を()らえる!」
「異議なし!」
 彼らは「保土ヶ谷襲撃」を決定した。


 一方、その保土ヶ谷宿のほうでも薩摩藩士たちが「横浜への先制攻撃」を(とな)えていた。
 この薩摩藩一行(いっこう)は外国人数人を斬り捨てたにもかかわらず幕府役人たちからの詮議(せんぎ)も無視し、平然と保土ヶ谷宿まで行列を進めていた。
 ただし、この保土ヶ谷宿ではイギリスからの報復(ほうふく)にそなえて厳重に警備をかためていた。薩摩藩からすれば幕府などすでに眼中に無く、相手はイギリスだけである。しかし薩摩藩としても、幕府を(おど)すために運んできた大砲をまさかイギリス相手に使うことになろうとは夢にも思ってなかったであろう。

 薩摩藩の陣屋敷では生麦でイギリス人たちを斬った「実行犯」の一人である海江田(かいえだ)信義(のぶよし)が、藩の家老並役(なみやく)である小松帯刀に対して意見を具申(ぐしん)した。
(おい)に百名の軍勢を貸してたもんせ。これから異人どものいる横浜を()めて()(はら)ってきもんそ」
 小松は仰天した。
「バカな事を言うな!横浜には日本人の商人もおるんじゃぞ!」
異人(いじん)との商売で(もう)けとる連中なんぞ、気にする必要は無かでしょう」
 今回の問題を処理するために小松と相談していた大久保一蔵(いちぞう)(後の大久保利通(としみち))が海江田を一喝(いっかつ)した。
「先に手を出してはならん!」
 しかし海江田は承服できず反論した。
一蔵(いちぞう)どん、そげん弱気でどげんする。すでに一人殺してしもうたんじゃ。あと何人殺そうが同じじゃ。いっそ我が薩摩が横浜を焼き払って、攘夷のさきがけをやれば良いではごわはんか」
 これに対し大久保は毅然として言った。
「もし異人どもが攻めてきたらその時は反撃しても構わんが、こちらから先に手を出してはならん。我々の一番大切な任務は(こく)()様を無事(ぶじ)帰国させる事じゃ」
 結局、薩摩側は小松と大久保の判断によって「横浜への先制攻撃」は差し控えることになった。


 同じ頃、横浜では「保土ヶ谷襲撃」に賛成した人々がフランス公使館に集まっていた。この公使館のトップであるフランス公使のベルクールは襲撃賛成派の意見を尊重するような姿勢を見せていたので、彼らはベルクールを頼ったのだった。彼らはこのフランス公使館にイギリスのニール代理公使を呼びつけた。時刻はすでに深夜である。
 フランス公使館の会議室に入るやいなや、ニールは不快な表情をあらわにして抗議した。
「イギリス人が犠牲になったというのに、なぜフランスの公使館に私を呼びつけるのかね?」
 ニールの抗議をうけてベルクールは答えた。
「まあまあ、そう怒りなさるな。私は“公使”だが、あなたはオールコック氏不在中の“代理公使”だ。しかも私はあなたよりも横浜での経験が長い。それで皆がこの場所を選んだのだ」
 ニールの表情はますます(けわ)しくなった。
 そのニールに対し、席にすわっている外国人の代表者たちが意見を述べはじめた。
「とにかく、報復(ほうふく)のため(ただ)ちに海兵隊を上陸させて保土ヶ谷の薩摩陣営を攻撃すべし、というのが我々の総意です」
(すみ)やかにご決断下さい、ニール代理公使」
 そして一同は(こぶし)を振りあげて口々に叫んだ。
「報復だ、報復だ!日本人(ジャップ)血祭(ちまつ)りにあげてやれ!」
 この会議の席には、この日横浜に到着したばかりのユーリアラス号の艦長キューパー提督もすわっている。彼はこの襲撃賛成派の人々に対して異論(いろん)を述べた。
「ちょっと待ってくれ。私は横浜に着いたばかりでまだ事情を把握(はあく)していない。会議に参加するとは言ったが、攻撃作戦に賛成するとは言ってない」
 これで襲撃賛成派の人々の意気はやや消沈(しょうちん)した。そこへニールが追い打ちをかけるようにキッパリと言った。
「私は襲撃作戦を容認することはできない」
 彼はさらに続けて言った。
「我々が保土ヶ谷を襲撃すれば、薩摩ばかりか日本全体と戦争することにもなりかねない。我々は貿易をするために日本に来ているのだ。戦争をするためではない」

 このニールの意見を聞いて襲撃賛成派の一同が騒ぎ立てた。
日本人(ジャップ)侮辱(ぶじょく)されたままで(くや)しくはないのか!?」
「そうだ、そうだ!臆病者(おくびょうもの)!」
 これらの罵声(ばせい)をうけてもニールの方針は変わらなかった。
「私はすでにこの件を本国政府の判断に一任(いちにん)すると決めている。これ以上何を言われても、この決定が(くつがえ)る事はない」
 襲撃賛成派の人々から(まつ)り上げられる形で公使館を会議場所として提供していたベルクールも、そのニールの方針をうけいれた。
「了解した。我がフランスもその判断を尊重(そんちょう)しよう。ただし、これから薩摩の軍勢が攻めてくる可能性もある。横浜の警戒は(おこた)らないように(つと)めることとしよう」
 結局イギリス側も、ニールの強い意志が示されたことによって「保土ヶ谷襲撃」計画を中止することになった。

 翌朝、幕府からの保土ヶ谷駐留(ちゅうりゅう)の命令を無視して、薩摩藩一行はさっさと京都へ向けて出発した。
 こうして、お互い複雑な事情をかかえながらも「この時は」薩摩とイギリスの武力衝突は避けられたのである。

 ちなみにこれは余談というべきだろうが、この薩摩藩一行には「あの西郷吉之助(きちのすけ)(西郷隆盛(たかもり))」は加わっていない。西郷は流されていた奄美大島から一旦(いったん)戻ってきて今回の「久光上洛(じょうらく)および江戸下向(げこう)」に不本意ながら参加したものの、久光の命令を無視した(とが)で藩から捕縛(ほばく)され、再び島流(しまなが)しとなった。
 後にサトウと知り合い、ともに歴史の転換点(てんかんてん)を見届けることになる西郷は、この頃沖永良部(おきのえらぶ)島の牢屋(ろうや)に閉じ込められていた。



 生麦事件の翌日、サトウが(かり)()まいをしているホテルのバーで、サトウは友人のウィリスと今回の事件について語り合った。
 リチャードソンの遺体を自分で発見して検死(けんし)作業までやった医者のウィリスは、ニールの判断を非難した。
「ニール代理公使は皆から臆病者(おくびょうもの)()ばわりされているが、実際、俺もそう思う。結局日本でも清国と同じように戦争せざるを得ないんだ」
 日本に来たばかりのサトウとしては、それに答えるべきセリフが見当たらない。ウィリスは話を続けた。
「俺は日本に来てまだ半年も()ってないのに、二度もイギリス人が殺された現場に立ち会った。奴らの刀は危険だ。リチャードソンは腕を切断され、腹は斬られ、内臓が飛び出ていた」
 まったく酒が不味(まず)くなる話をしてくれるものだ、とサトウは内心思いながらも、この異国の地で初めて出来た友人であるウィリスの話を黙ってうなずきながら聞いた。

 サトウはウィリスのことが好きだった。
 サトウが横浜のイギリス公使館に到着した当初、日本語の勉強に専心(せんしん)したいと思っていた彼は、公使館の事務作業を優先する上司のニールと衝突した。その際サトウの言い分を擁護してくれたのがウィリスだった。そのおかげでニールも多少はサトウの言い分を受け入れてくれるようになったのである。
 これでサトウは、一発でウィリスのことが好きになった。()れたと言っていい。
 ウィリスが初対面のサトウに対していきなりここまで優しく接した理由は謎だが、おそらくこの容姿(ようし)端正(たんせい)な十九歳の青年が可愛(かわ)いく見えて、放っておけなかったからではなかろうかと思う。

 後年サトウは手記で次のように語っている。
「その人格ならびに公務によく奉仕(ほうし)した点においてもっとも詳細に述べる価値がある、私の生涯の友ウィリアム・ウィリスのことである。おそらく彼ほど実直(じっちょく)無比(むひ)という言葉が適切と思われる性質を、その個人的関係ないしは職務の履行(りこう)に示した男はいないだろう。(中略)大男は心も大きいというが、彼もまたその例にもれなかった」
 この手記の中でも示されているように、二人の友情は生涯にわたって続くことになるのである。伊藤俊輔(しゅんすけ)(博文)と志道(しじ)聞多(ぶんた)(井上(かおる))の友情が生涯にわたって続いたという話も有名だが、サトウとウィリスの関係もそれに劣らぬものがあると言えよう。

 酒を飲みながらウィリスは何気なくサトウにたずねた。
「ところでサトウはなぜ、こんな危ない日本にすすんでやって来たんだ?」
 その問いを聞いたサトウは、不意にここ数年の出来事を思い出した。


 以下、しばらくはこの物語の主人公の一人であるアーネスト・サトウの()い立ちを述べてみたいと思う。
 サトウは1843年6月30日にロンドンで生まれた。
 当時、大英帝国(イギリス)はヴィクトリア女王の時代である。“パクス・ブリタニカ”(大英帝国による世界秩序(ちつじょ))を完成させるために、イギリスの帝国主義が大躍進(だいやくしん)していた時代である。
 あの悪名(あくみょう)高いアヘン戦争を敢行(かんこう)して清国(しんこく)(中国)を撃破したのはサトウが生まれるほんの少し前の事で、その後イギリスは東アジアへの進出を強硬(きょうこう)()し進めていくことになるのだが、この歴史の潮流(ちょうりゅう)はサトウの将来を暗示するがごとき様相(ようそう)(てい)している。彼はまさに、この時代の(もう)()だったと言えよう。

 サトウは中産階級の比較的裕福(ゆうふく)な家庭で育ったので、生まれはそれほど悪くない。
 ただし、当然のことながら“ジェントルマン(貴族)”の家庭ではなかった。
 当時のイギリスの小説家で、のちに大政治家となるディズレーリが『シビル-あるいは二つの国民』という政治小説の中で
「イギリスはジェントルマンと、そうでない庶民(しょみん)と、二つの国民からなっている」
 と端的(たんてき)に指摘したように、このジェントルマンとそれ以外との格差は決定的だった。この点、ある意味当時の日本における“武士(ぶし)”とそれ以外との関係と、やや似ている。もっとも、ここで言う“武士(ぶし)”は大名や旗本(はたもと)といった上級武士に限られた話ということになるだろうが。

 サトウはジェントルマンの階級には(ぞく)さなかったけれども、学業成績は非常に優秀だった。
 来日する三年前、彼は十六歳でパブリックスクール(中等教育機関)を首席で卒業し、ロンドン大学(ユニヴァーシティ・カレッジ)に進学した。

 そしてこの大学在学中に、彼は一冊の本と運命的な出会いをしてしまった。
 来日する一年前(1861年)のある日、三歳年上の兄エドワードが図書館で本を借りてきた。サトウは兄が読み終わった後に、その本を回し読みさせてもらった。
 それは『エルギン(きょう)の中国、日本への使節記』という本だった。
 イギリス人外交官ローレンス・オリファントが安政(あんせい)五年(1858年)に来日した時の体験談を(しる)した日本見聞録(けんぶんろく)である。

 この本の中で紹介されている日本の姿は
「気候は素晴らしく、自然も美しい。そして男たちのつとめは美しい乙女(おとめ)たちにかしずかれること、ただそれだけである」
 と、少なくとも後年サトウが書いた手記の冒頭ではそのように説明されている。

 (とう)の日本人としては「まったく奇妙な形に美化してくれたものだ」と困惑(こんわく)せざるを得ないが、実際のところ日本語に翻訳されたこの本(『エルギン卿遣日(けんにち)使節録』雄松堂書店)を読んでみても、それほどまでに極端な美化はされていないように思う。おそらく日本のことを描いている何枚かの挿絵(さしえ)に感化されて、当時のサトウが勝手に想像した日本のイメージであろう。
 ともかくも、この本を読んでサトウは覚醒(かくせい)してしまった。
「いくら勉強ができても、このままイギリスにいてはジェントルマンの地位を獲得するのは難しいだろう。ここの退屈な生活にも()()きしている。だけど日本へ行けば何かチャンスがあるんじゃないか?なによりともかく、この本で描かれているような美しい黒髪の日本女性たちに会ってみたい!」

 この願いが天に通じたのか(幾分(いくぶん)よこしまな願いが含まれているにもかかわらず)その後しばらくしてサトウは、大学の図書館でイギリス外務省の求人広告を見かけた。そこには
「日本行きの通訳生を募集」
 と書かれていた。

 まさに文字通り「渡りに船」である。彼は即座(そくざ)に日本行きを決断した。
 そして外務省で外交官試験を受験し、これも主席で合格した。ついでに大学の卒業試験も修了(しゅうりょう)して、彼は意気(いき)揚々(ようよう)と外交官のタマゴである「日本語通訳生」となって日本へと向かったのだった。
 サトウがイギリスの港を出発したのは1861年11月4日のことである。


 しかしながら時代の流れは時として激流となって(はし)りだし、それまで当たり前のように受けとめていた社会秩序を無慈悲に洗い流してしまうことがある。
 まさにこの時の日本がその好例(こうれい)だったと言えよう。時代の激流によってサトウが空想のなかで思い描いていた「美しく平和な日本」は(はる)彼方(かなた)へと押し流されてしまったのだ。

 サトウを日本へと(いざな)うきっかけを作ったあのオリファントが、安政(あんせい)五年(1858年)に来日したのは日英修好(しゅうこう)通商(つうしょう)条約を締結(ていけつ)するためだった。
 日本史の教科書では、アメリカのハリスと締結した日米修好(しゅうこう)通商(つうしょう)条約のほうが有名なはずだろう。だが実際にはアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの五カ国と同じような条件で日本が条約を締結したので、これも教科書風に言うと「安政(あんせい)五カ国条約」と呼ぶ。

 いわゆる「不平等条約」である。
 関税(かんぜい)自主権(じしゅけん)領事(りょうじ)裁判権(さいばんけん)などのむずかしい話は割愛(かつあい)するが、要するにこの条約によって日本は完全に「開国」させられたのである。この四年前にペリーと締結(ていけつ)した日米和親(わしん)条約では自由な商取引までは認めていなかった。しかしこの「安政(あんせい)五カ国条約」によって、翌年の安政六年(1859年)に横浜が貿易港として開港されることになったのである。ちなみに兵庫など他の地域が外国に開放される話もいずれ後段(こうだん)で触れることになるだろうが、ここではひとまず(わき)へおくこととする。

 とにもかくにも安政(あんせい)六年(1859年)の横浜開港である。
 当時の日本人からすれば、これが「諸悪(しょあく)根源(こんげん)」とみなされるようになったのだ。
 通貨取引の弊害(へいがい)および生糸(きいと)の海外流出に(ともな)う物価上昇などのむずかしい話はこれまた割愛(かつあい)するとしても、実際問題、この横浜開港によって少なからぬ日本人が外国人を(にく)むようになってしまったのは事実である。
 それゆえ、生麦事件の場面でも触れたように江戸と横浜では“攘夷(じょうい)”を(とな)える日本人(特に浪士(ろうし))による外国人殺傷事件が頻発(ひんぱつ)した。
 そして皮肉なことに、あの「美しく平和な日本」をサトウに紹介したオリファント自身も、この攘夷の(やいば)によって殺されかけたのである。

 (ぶん)(きゅう)元年五月二十八日(1861年7月5日)の夜。場所は江戸高輪(たかなわ)東禅寺(とうぜんじ)
 当時東禅寺にはイギリス公使館が置かれていた。
 余談ながら、この時期はちょうど数日間にわたって世界各地で巨大彗星(すいせい)を観測することができた。このことについて日本では紀州(きしゅう)和歌山の『小梅(こうめ)日記』で有名な川合(かわい)小梅(こうめ)という女性が
「五月二十四日の夜より、北より辰巳(たつみ)方角(ほうがく)へ四、五(けん)ほうき星を見ゆ。(中略)豊年(ほうねん)(ほし)なり、などと言って(よろこ)ぶ者も(まれ)には有り」
 と、この彗星の記録を日記に残している。
 そして何よりもオリファント自身が事件当日の記録を次のように書き残している。
「7月5日の夜、彗星が見えた。われわれのうちの幾人(いくにん)かが生命を救われたのは、その彗星から発せられていたその場の雰囲気のおかげでもあっただろう」
(※註:この物語では、一般の時代小説と同じように旧暦(きゅうれき)陰暦(いんれき))を基本にしているが、イギリス人のサトウが主要人物である都合上、西暦(現在の(こよみ))も時々使用している。なじみのない人にとってはまぎらわしいと思われるかも知れないが、基本的に西暦表示の場合は約1ヶ月、旧暦にプラスされる。またここでは旧暦表示の場合は漢数字、西暦表示の場合はアラビア数字を使用するようにしている)
 この彗星は西洋ではテバット彗星と呼ばれている。この時十八歳の誕生日を過ぎたばかりのサトウも、ロンドンで日本行きの準備をしながらこの彗星を見上げていた。

 この日の夜、オリファントたちイギリス公使館員を襲撃(しゅうげき)したのは水戸の浪士たち十数人であった。
 不幸中の幸いと言うべきか、イギリス側に死者は出なかった。かたや日本側については、襲撃者たちの多くが死んだのは当然の結果と言えようが、警護側の日本人にも数名の死傷者が出た。とにかくありていに言って、この浪士たちによるイギリス公使館襲撃計画は失敗におわったと言えよう。
 ただしオリファントは腕などを斬りつけられて重傷を()い、結局治療のために帰国することになった。安政五年以来三年ぶりに来日したのは、つい半月ほど前のことである。しかし彼は着任(ちゃくにん)早々(そうそう)、日本の浪士たちによってイギリスへ追い返されてしまった。「美しく平和な日本」を自著(じちょ)で紹介してサトウを日本へ(みちび)いておきながら、(みずか)らはサトウが到着する前に日本から去っていったのである。
 サトウからすれば、この一風(いっぷう)変わった先輩外交官に対して
「ボクをこの道にひきこんだ責任をとってくださいよ」
 とツッコミの一つも言いたかったであろうが、この先輩外交官は帰国後ほどなく外交官を()めてしまった。
 ついでながら述べてしまうと、その後彼は国会議員になったり、日本からイギリスへやって来た留学生の面倒をみたり、あげくの()てはその留学生をあやしい新興(しんこう)宗教にひきこんでアメリカへ連れていって何人かの留学生からひんしゅくを買って絶縁(ぜつえん)されたりもした。やはりこの男は「一風変わった男であった」と言わざるを得ないだろう。
 この時の襲撃事件ではオリファントの他にもう一人イギリス人が負傷したので、結局浪士たちがあげた「戦果(せんか)」は「イギリス人の負傷者二名」ということになる。
 この事件は一般に「東禅寺(とうぜんじ)事件」と呼ばれている。

 そして一年後、この東禅寺(とうぜんじ)のイギリス公使館で再び襲撃事件が起きた。(ぶん)(きゅう)二年五月二十九日(1862年6月26日)のことで、サトウが来日する二ヶ月半前のことである。
 それゆえ、こちらの事件は「第二次東禅寺事件」と呼ばれているのだが、今度はイギリス側に死者が出てしまった。
 上記でウィリスが「二度もイギリス人が殺された現場に立ち会った」と述べていたが、一度目がまさにこの時だった。
 警備をしていた松本藩士の一人が乱心して(やり)を振り回し、同じく警備にあたっていたイギリス人兵士2名を殺害した。その後犯人の松本藩士は自害した。ウィリス自身も犯行現場のすぐ近くにいて殺害時の騒ぎを耳にしており、あやうく生命を落とすところだった。そしてこの時も彼は死亡したイギリス人二名の検死(けんし)作業をおこなった。
 しかし実際のところ「攘夷(じょうい)殺傷事件」はこの東禅寺のイギリス公使館ばかりで起きていた訳ではない。横浜開港以来、江戸と横浜でそれこそ枚挙(まいきょ)にいとまがないほど頻発(ひんぱつ)していたのである。ロシア人水兵殺害事件、フランス領事館の清国人従僕(じゅうぼく)殺害事件、オランダ人船長殺害事件、アメリカ公使館通訳ヒュースケン暗殺事件、などである。

 一方サトウは、第二次東禅寺(とうぜんじ)事件が発生してウィリスが命を落としかけていた頃、まだ清国(中国)にいた。
 イギリス出発から八ヶ月近くも経つというのに面妖(めんよう)な話だ、と思われるかも知れないが、実のところサトウはイギリスから日本へ向かう途中上海(しゃんはい)に立ち寄った際、外務省から
「清国に二年間とどまって漢字の勉強をするように」
 と思いもよらない命令をうけて、この時はまだ清国に滞在していたのだ。
「ボクは日本語通訳生として日本への赴任(ふにん)を希望したのだ。漢字なんて日本でも学べるじゃないか」
 とサトウは内心不満に思った。
 実際日本から清国に届けてもらった日本語の文書を清国人に見せたところ、彼らはほとんど意味を解読(かいどく)できなかった。まあ現代の我々日本人が中国文を見てもほとんど意味がわからないのと似たようなものであろう。
 ちなみに第二次東禅寺事件が発生して横浜のイギリス公使館では処理すべき仕事が増大(ぞうだい)し、ニールは公使館員の増員を希望していた。
 そういった事情もあってサトウは清国での二年間の予定を早めに切り上げて日本へ向かうことになったのだった。

 このサトウの清国滞在時に、前述したように日本の千歳(せんざい)丸が上海へやって来た。
 ただしその頃サトウはたまたま北京(ぺきん)へ行っており、この千歳(せんざい)丸に乗っていた高杉晋作や五代才助と出会うことはなかった。
 サトウがこの二人と出会うのは、五代とは一年後の(さつ)(えい)戦争の戦場で、高杉とは二年後の下関戦争の戦場で、それぞれ出会うことになる。詳しくはその項で触れるはずなので、今はこれ以上述べる必要はないだろう。

 そしてサトウは(ぶん)(きゅう)二年八月九日(1862年9月2日)上海からランスフィールド号(のちに長州藩が買い取って壬戌(じんじゅつ)丸と命名し、下関での攘夷戦争で撃沈され、サルベージ後、再び上海に戻って売却されるという数奇(すうき)な運命をたどる船である)に乗って横浜へ向かい、イギリス出発から十ヶ月目にしてようやく日本の土を()むことになったのである。
 ただし到着した六日後にいきなり生麦事件が発生して、前述したようにギリギリのところで「日英戦争」が回避された、という危機的状況を()の当たりにさせられたのだった。


「サトウはなぜ、こんな危ない日本にすすんでやって来たんだ?」
 とウィリスから聞かれたサトウは一瞬言葉につまった。そしてなぜかとっさに弁解がましいことを述べてしまった。
「日本が危険なことは新聞で見て知ってたから全然おどろいてないよ。ボクは純粋に日本語に興味があったから日本に来ただけのことさ」
 日本を楽園のように描いていたオリファントの本を読んだから、などとサトウは恥ずかしくて言えなかったのだ。
 そんなサトウの肩をたたいてウィリスは優しく(はげ)ましてくれた。
「そうか。これからも日本語の勉強を頑張れよ!」
 そしてウィリスは自分の住家(すみか)へ帰っていった。バーに残されたサトウは(にが)い表情をして悔しがった。
(ちくしょ~、オリファントにだまされた…!)
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