第14話 下関戦争

文字数 15,909文字

 聞多(ぶんた)は久しぶりに萩を訪れた。
 俊輔と聞多は御前会議で「攘夷の不可」を説いたために藩内では売国奴(ばいこくど)と呼ばれ、命も狙われる()(さま)だった。藩の上層部では二人に対して
「再びイギリスへ渡ったほうが良いのではないか?」
 と勧める者もいた。けれども
「国(長州)が滅んでしまえばイギリスで勉強したところで何の意味があるか」
 という一念(いちねん)で帰って来た二人からすれば、まさに藩が存亡の危機にあるこの状況で、ふたたびイギリスへ渡ろうとは思わなかった。

 聞多が萩に来たのは「久しぶりに高杉の顔が見たい」という理由もあった。
 高杉晋作は前年、()兵隊(へいたい)を創設して奇兵隊総管(そうかん)に就任していた。しかしその後、京都への進発(しんぱつ)を主張する来島又兵衛ら急進派を止めるために脱藩(だっぱん)してしまい、その罪を(とが)められ野山獄(のやまごく)に入れられていた。

 ちなみに高杉がこの野山獄にいる時に(つい二ヶ月前の話だが)あの周布政之助が、やはり真っ昼間から酔っ払って馬で高杉のところへやって来て、刀を振り回しながら大声で叫んだ。
「晋作―!どこにいるかー!晋作―!」
 そして高杉の牢獄(ろうごく)のところまで来て
「晋作、そこにいたか。貴様の首をたたっ斬ってやろうと思ってここまで来たが気が変わった。その首はいずれ必要になるから預けておく。三年そこで勉強して、人物を(みが)いて出直して来い」
 と高杉に忠告して去って行った。
 この事件で周布は罰せられて謹慎(きんしん)の身となった。
 周布も高杉同様、京都への進発案には反対だったが結局それを止められなかった。それゆえ自ら問題を引き起こして藩の要職から退いたのだった。そして周布は高杉を牢内に()()くことで長州藩の混乱から隔離(かくり)して、後日、周布の後を継ぐよう高杉に(たく)したのであった。

 聞多が萩を訪れた時、高杉は野山獄から自宅の座敷(ざしき)(ろう)に移されていた。本来であれば高杉は罪人なので勝手に人と面会することは出来ないが、聞多はそんなことはお構いなしで高杉の牢内に入っていった。密航という大罪(たいざい)を平気で(おか)すほどの男なのだからイチイチ細かいことなど気にしないのだ。
「聞多、随分早く帰ってきたではないか。本当にイギリスまで行ってきたのか?」
「何を言うか。ちゃんとこの目で見て来たとも。それよりお主こそ、この(ざま)は何だ。一体何があったのだ?」
「俺のことは後だ。とにかくイギリスの話を聞かせてくれ」

 二人はお互い、この一年間で経験したことを話して聞かせた。
「貴様の言う通りだ、聞多。我が長州はイギリスの武器を導入して実力を(やしな)うことが最優先だ。そのためには金が要る。下関を開港して貿易で稼がねばならん。長州一国でどこにも負けない力を身につけるのだ」
「そうか、俺と俊輔がいない間に藩はそんなことになっていたのか。四ヶ国艦隊が下関へ攻めてくるというのに京都へ進発(しんぱつ)するなどバカげている。(わか)殿(との)(定広)もとうとう三田尻から出陣してしまった。一体長州はどうなってしまうのか……」

「ところで聞多。俊輔はどうしてるんだ?」
「相変わらず使い走りをさせられている。最初は横浜へ行かせる予定だったようだが、結局京の桂さんのところへ行かせた」
「バカな。今さらあいつ一人を京へやったところで京の連中を止められるものか。下手すりゃ丸腰で(いくさ)に巻き込まれて殺されるぞ」
「まあ馬関(ばかん)(下関)で四ヶ国との戦争が始まれば、結局我々は討ち死にするだろうけどな」
「やはり藩は四ヶ国と戦争する気か?聞多」
「ああ、そうだ。俺はそれを止めるために命がけで帰ってきたが、今は気が変わった。どうせ四ヶ国の通告を蹴った以上、戦争は避けられん。こうなったらとことん攘夷をやる。俺を売国奴(ばいこくど)()ばわりした奴らに目に物見せてやる。四ヶ国が攻めてきたら真っ先に前線へ出て、討ち死にしてみせる」
「そう死に急ぐな、聞多。今は長州が死ぬかどうかの瀬戸際だ。万一長州が死ねば、どのみち我々は生きておれんのだ。その時は俺も腹を切って貴様の後を追う。だが、俺は(くん)(こう)父子を朝鮮へ(かつ)いで逃げてでも、長州を生き残らせてみせるぞ」

 このあと聞多は山口へ帰っていった。
 余談ながら聞多はこの日の前日、萩の武家へ嫁に行った姉・常子にも会っているのだが、そのとき萩の志道(しじ)家の縁者が聞多を訪ねて来た。志道家とは、以前聞多が養子に入っていた家のことで、密航留学をする直前に密航の罪が及ぶのを怖れて離縁(りえん)したことは、以前書いた。
 この志道家の縁者は、五才になった聞多の娘・芳子に一目会っていくよう聞多に伝えるため、訪ねて来たのだった。けれども聞多は「世間の義理もあるから」などと答えて、その申し出を断った。
 その日の夜、聞多が姉・常子の家で寝ていると常子が聞多を起こしに来て「志道家の母と祖母が芳子を連れて会いに来ている」と聞多に告げた。聞多と常子は()問答(もんどう)をくり返したが結局、娘の芳子が聞多の(ひざ)のところへやって来て
「お(とう)さま!」
 と一言(ひとこと)発すると、聞多も涙ながらに娘を抱きよせ、形見(かたみ)の品を分け与えた、などといったエピソードも残っている。


 七月二十三日、山口に戻った聞多は御前会議に出席した。
 この前日、長崎から「四ヶ国艦隊が二十一日、いよいよ横浜を出発した」という情報が入った。もっとも、この情報は誤りだった。実際に四ヶ国艦隊が横浜を出発するのは二十七日の予定だったのだ。ただしこの際、日付(ひづけ)のことは問題ではない。
「近日中に四ヶ国艦隊が下関へやって来る」
 このことが確実になった、ということが重要なのである。

 この日の御前会議では「この四ヶ国艦隊の襲来にどう対処するか?」ということが話し合われた。
 藩論は、またもや一変した。
「今、京都へ軍勢を送り出しているのに、こんな時に外国と戦うのは得策(とくさく)ではない。井上聞多と(すぎ)徳輔(とくすけ)を馬関へ派遣して、和議(わぎ)の談判をさせるべきである」
 藩の上層部は従来の意見を一変して、聞多たちに四ヶ国と和議を結ぶよう命じたのである。

 無論、聞多は激怒した。
「私と伊藤がわざわざロンドンから()(もど)って『攘夷をやめるべきだ』と進言したにもかかわらず、この前あなたたちは『たとえ長州全土が焦土(しょうど)()しても攘夷をやるのだ』と言ったではないか!今がその時期である!一度攘夷をやると決めたからには徹底的に攘夷をやるしかないのだ!」
 これをうけて上層部の一人が聞多に向かって言った。
「お前は藩に攘夷を止めさせるためロンドンから戻って来たのだろう?そのお前が『攘夷をやれ』などと言うのは矛盾(むじゅん)しているではないか?」
 聞多は答えた。
「もう手遅れである!一度彼らの通告を蹴った以上、彼らは有無を言わさず我々を攻撃してくるであろう。事ここに至っては戦うしか道はない。百年後、長州人は頑固(がんこ)で訳の分からぬ連中であったが、ともかく尊王攘夷を(つらぬ)いて滅亡した、そういう(すじ)の通った歴史さえ残れば十分である。もはや各々方(おのおのがた)、討ち死にの覚悟を(けっ)しなされ!」
 こういった侃侃諤諤(かんかんがくがく)の議論がおこなわれている最中に、はからずも「禁門の変」における長州軍の敗報が届いた。
 このタイミングは、まさに劇的と言うしかない。
 会議は水を打ったように静まり返った。


 京都で戦いがあったのはこの四日前、七月十九日のことであった。
 前年の「八月十八日の政変」で京都から追放された長州藩および三条実美(さねとみ)ら七卿はずっと再入京の許しを訴えていた。
 しかし池田屋事件などもあって談判は決裂した。その後、長州側は軍勢を率いて上京し、すでに先月から京都郊外に陣取(じんど)っていた。

 戦い前日の軍議では来島又兵衛が即時進撃を叫んだ。
 一方、久坂玄瑞は慎重論を説いた。「せめて若殿(わかとの)広公(さだひろ))本隊の到着を待つべきである」と。
 その久坂の慎重論に対して来島が「医者坊主!卑怯者!」と(ののし)り「一挙に入京して松平容保(かたもり)を討つべし!」と主張した。そこで久坂は最年長の真木和泉に意見を求めたところ真木は
「形は尊氏(たかうじ)になっても、心さえ楠公(なんこう)楠木(くすのき)正成(まさしげ))であれば良いではないか」
 と答え、来島の進撃論に賛成した。
 これによって軍議は即時進撃と決定した。余談ながら、後に徳富(とくとみ)蘇峰(そほう)は「如何(いか)に尊王の忠誠と言い訳しても、御所(ごしょ)に向かって発砲する者は逆賊(ぎゃくぞく)と言わねばならず、形が尊氏(たかうじ)ならば心もまた尊氏である」と批評している。

 伏見、嵯峨(さが)、山崎に陣取(じんど)っていた長州軍は十八日の夜に進軍を開始して、十九日未明から戦闘を始めた。

 伏見方面から北上した福原越後隊は大垣藩兵などに進路を(はば)まれ、ほどなく撃退された。
 嵯峨方面から東進した来島隊、国司信濃隊は蛤御門(はまぐりごもん)下立売御門(しもだちうりごもん)中立売御門(なかだちうりごもん)の辺りで会津藩兵などと激戦を展開した。その後、西郷吉之助の(ひき)いる薩摩藩兵が駆けつけてきて長州勢の側面を突いた。これにより長州勢は総崩(そうくず)れとなり撃退された。来島又兵衛は戦死した。
 山崎方面から北上した真木和泉、久坂玄瑞らの隊は堺町御門(さかいまちごもん)で越前藩兵などと戦ったが、やはりこれも撃退された。
 久坂玄瑞は鷹司(たかつかさ)邸で自刃(じじん)した。入江九一は鷹司邸を出たところで討ち取られた。真木和泉は天王山に戻って自害した。
 山崎に残っていた益田右衛門介は長州へ退却した。長州兵がたてこもった鷹司邸で発生した火災は広範囲に燃え広がり、京都の二万八千戸を焼失させることになった。

 そしてこの戦いの最中、桂小五郎は鳥取藩士と有栖川宮(ありすがわのみや)父子との密約によって孝明天皇を比叡山(ひえいざん)動座(どうざ)するという計画を進めていた。
 もしこの計画が成功していたら戦いの形勢は一変していたであろうし、また成功する可能性も十分にあった。しかしギリギリのところで鳥取藩兵は桂を見捨てた。それは戦いの形勢が長州にとって不利なこと、さらに禁裏(きんり)御守衛(ごしゅえい)総督(そうとく)の一橋慶喜および中川宮、松平容保によって孝明天皇の警備が厳重に固められていたことが原因であった。

 鳥取藩の河田(かわだ)佐久馬(さくま)は桂に告げた。
「一体今日の長州の攻撃は何事であるか。御所へ向かって鉄砲を撃つようでは到底長州への協力などできかねる」
左様(さよう)でありますか。それではこれまでであります」
 桂はそう答えて、すぐにその場から立ち去った。以後、桂はしばらく京都に潜伏(せんぷく)し、そのあと但馬(たじま)出石(いずし)へ落ちのびていくのである。

 桂が計画した「天皇の動座」に関連して言うと、この禁門の変の少し前(七月十一日)、佐久間象山が京都の木屋(きや)(まち)で暗殺されていた。象山が「天皇の彦根動座」を計画していたというのが暗殺の理由であった。
 ただし理由はそれだけではなかった。象山が盛んに開国説を唱えていたことも理由の一つとして挙げられていた。象山は松陰の師匠であり、さらに聞多にイギリス密航のヒントを与えた人物でもあり、長州とは浅からぬ縁の持ち主と言うべきであろうが、急進的な尊王攘夷派によって暗殺されてしまったのだった。
 犯人は肥後(ひご)河上(かわかみ)彦斎(げんさい)など数名である。
 奇妙な因縁(いんねん)というべきか、河上などの暗殺者たちはそのまま長州軍に参加して禁門の変を戦い、敗戦後は長州へ逃亡している。

 ちなみに先述した西郷吉之助は、この年の二月に島流しの罪を赦免(しゃめん)され、三月には入京して薩摩藩の軍賦役(ぐんぷやく)に就任していた。
 これ以降、西郷がどれほど歴史的に重要な役割を担うことになるか、そんなことは今さら書くまでもない話ではあるが、その西郷とサトウが出会うことになるのは、もう少し先の話である。



 長州での会議の場面に戻る。
 結局会議はひとまず中断となった。まずは敗残兵がどれだけ戻って来るか?それを確認しなければならないからである。
 この日、京都の朝廷では「長州追討(ついとう)」を決定した。
 そして翌二十四日には朝廷と幕府が二十一藩に対して「長州追討の出兵命令」を下した。
 いまや長州は「(ちょう)(てき)」となってしまったのである。

 この頃、京都へ向かっていた俊輔は岡山にいた。
 たまたまこの岡山には、世子定広の軍勢と合流するため東上(とうじょう)していた重役の前田孫右衛門(まごうえもん)もいた。
 俊輔と前田はこの岡山で、はからずも京都から戻って来た長州の敗残兵たちと遭遇することになった。
 自藩の敗残兵たちを見た前田老人は泣き出してしまった。
「うう……、これでもう、長州は(ほろ)びるに違いない……」
 泣きたい気持ちなのは俊輔も同じであった。
 今回の京都出兵には久坂、入江ほか松下村塾の仲間たちが大勢参加していた。そして何より俊輔の父・十蔵も参加していたのである。
(皆、無事に帰って来るだろうか……)
 俊輔は皆の安否(あんぴ)が心配で憂鬱(ゆううつ)な気持ちになった。ところがそうしているうちに、この岡山で松下村塾出身の品川弥二郎(やじろう)と再会した。
 戦地から戻って来た品川の話では父・十蔵は無事だという。けれども久坂と入江は戦死した可能性が高いとのことであった。
(もし入江の戦死が本当だとしたら、すみ子に対して何と言えば良いのだ……)
 俊輔の妻すみ子は入江九一の妹である。俊輔としても前田同様、泣きたいのはやまやまだが、泣いてどうなるものでもない。
「前田様。お気持ちはわかりますが、泣いていても始まりません。とにかく一緒に三田尻へ戻りましょう」
 前田が合流するはずだった定広の軍勢も、船で讃岐(さぬき)(現在の香川県)の多度津(たどつ)まで進んだところで京都の敗報を聞き、すぐに三田尻へ引き返していた。
 七月末頃には長州の軍勢はすべて帰還した。その一方で、横浜では七月二十七日に四ヶ国艦隊が下関へ向けて出発していた。

 四ヶ国艦隊の内訳をみるとイギリスの軍艦は旗艦ユーリアラス号など九隻、フランスは旗艦セミラミス号など三隻、オランダは前年下関で砲撃戦をおこなったメデゥサ号など四隻、アメリカは商船一隻で、合計十七隻の艦隊である。兵員は合計約五千名(内、上陸作戦に参加するのは約二千名)、大砲の数は合計285門である。
 艦隊の総司令官は前年の薩英戦争と同じくイギリスのキューパー提督である。ただし前回のニールとは違って今回オールコックは同行していない。そして艦隊の副司令官にはフランスのジョレス提督がついた。ちなみにジョレス提督はこの下関遠征にあまり乗り気ではなかったらしく「イギリスのオールコックとキューパー提督が、前年の薩英戦争の雪辱を狙って引き起こしたものだろう」と冷ややかな目で見ていた。こういったところからも、この後に生じる英仏の対立を予感させるものがある。

 今回、サトウは旗艦付き通訳として作戦に参加した。
 前回の薩英戦争ではシーボルトが旗艦付き通訳をつとめていたが、とうとうサトウがその座を奪い取ることになった。
 そしてこの時もサトウは日本語教師を同行していたのだが、この前姫島にサトウや俊輔、聞多と同行した中沢見作はなぜか幕府によって逮捕されてしまったので、今回はウィリスの日本語教師である(はやし)(ぼく)(あん)という人物を連れて来た。
 この中沢が幕府に逮捕されたことについては、あまり気持ちのいい話ではないが、後年、中沢がサトウに語った話によると「サトウの昇進に嫉妬(しっと)したシーボルトが幕府の老中に告げ口した」というのが原因らしい。サトウの著書『A Diplomat in Japan』ではそこまでハッキリと書いてないものの、サトウの日記にはそのように書いてある。サトウとシーボルトはそれほど仲が悪いようには見えないのだが、これが本当だとすると、おそらくこの時はシーボルトの心に何か魔が差したのだろう。ちなみに中沢はその後オールコックの()()しによって釈放された。
 ともかくも、サトウは旗艦ユーリアラス号でキューパー提督や艦長のアレキサンダー大佐の通訳をつとめることになった。
 またこのユーリアラス号には従軍カメラマンのベアトが、さらに別の艦には『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の記者兼イラストレーターのワーグマンが乗り込んでいた。一方ウィリスは、一人寂しく横浜で留守番をすることになった。
 四ヶ国艦隊は順調に航海を続け、八月二日、この前サトウや俊輔たちがやって来たのと同じように、姫島に到着した。そしてここで石炭船から石炭を補充(ほじゅう)して戦闘準備を(ととの)えることになった。


 長州藩はこの期に及んでも藩論がまとまらなかった。
 幕府が命じた諸藩からの追討軍が遠からず長州の国境(くにざかい)へやって来るのは確実で、こんな時に四ヶ国艦隊と戦うのは無謀(むぼう)である、というのが藩上層部の一致した考えだった。
 けれども藩内にはまだまだ攘夷の熱が強く残っている。
 藩内で攘夷を叫んでいる連中は外国と戦って負けるなどと思っていない。いや、「負けることを考えること自体が負けだ」「夷狄(いてき)に負けるぐらいなら死んだほうがマシだ」と考えている。彼らは下関で四ヶ国艦隊を打ち破るつもりで、砲撃準備をして今や遅しと待ち構えている。
 下関で待ち構えているのは奇兵隊などの兵、総勢約二千人である。
 奇兵隊の総監(そうかん)赤根(あかね)武人(たけと)で、軍監は山県(やまがた)小助(こすけ)(後の(あり)(とも))である。京都で禁門の変を戦ったのは主に藩の正規兵で、奇兵隊からは十数人が参加しただけだった。奇兵隊にとっては実質的に今回の四ヶ国艦隊との戦いが初陣(ういじん)となるわけで、戦意は旺盛(おうせい)だった。

 聞多は聞多で相変わらず、上層部の定見の無さに暴言を()びせかけていた。
「長州が焦土となっても構わないから攘夷をやると言ったくせに、敵艦隊が来るとなった途端(とたん)に前言をひるがえして和議を結ぼうとする。こんな無節操な態度では攘夷であれ、開国であれ、どちらをするにしても藩を信用することなど出来ない」
 そう言って完全に(さじ)を投げ、会議に参加することもやめてしまった。
 俊輔はそんな聞多をなだめて四ヶ国艦隊との和議を勧めるが、聞多は完全にへそを曲げて聞く耳を持たなかった。

 そして結局、八月二日に四ヶ国艦隊が姫島へやって来たのをうけて「今、四ヶ国艦隊と戦うのは得策ではない」との結論を(くだ)し、俊輔と海軍総督・松島(まつしま)剛蔵(ごうぞう)小田村(おだむら)伊之(いの)(すけ)の兄)を姫島へやって和議を結ぶことになった。
 八月四日、俊輔と松島が小舟に乗って三田尻から姫島の四ヶ国艦隊へ向かうと、小舟が着く前に四ヶ国艦隊は下関海峡へ動き出してしまい、俊輔が乗った小舟は引き返さざるを得なかった。
 これをうけて山口の政事堂では聞多を呼び出し、下関で和議の交渉をやらせることにした。
 聞多は交渉役を断ったが上層部が「君公(くんこう)(藩主慶親(よしちか))が和議を強く望んでおられるから」としきりに聞多を説得し、聞多も仕方なく交渉役を引き受けることになった。同行するのは重役の前田孫右衛門(まごうえもん)である。

 そして八月五日になった。
 十七隻の四ヶ国艦隊は下関対岸の小倉藩領の田野(たの)(うら)に布陣していた。
 山口から下関に到着した聞多と前田はとりあえず外国語が話せる戸田亀之助を使者としてユーリアラス号へ送り、二時間の発砲猶予(ゆうよ)を求めた。そして聞多は陸上で砲撃準備をしている奇兵隊などに対して「こちらから撃ってはならぬ」と発砲を(いまし)めるように注意して回った。
 ちなみに下関の市街では八月一日から三日まで亀山八幡宮で祭りが催されていた。「戦争するのは武士の役目」というのが当時町人たちの抱いていた通念であったので(ただしこの長州に限っては、その通念が通用しなくなるのだが)彼らは戦争が目の前に近づいていても祭りを楽しみ、祭りが終わった途端にさっさと安全なところへ避難していった。この点では薩英戦争時、事前に鹿児島の町から町人を避難させたのと結果的には同じかたちとなった。
 戸田亀之助は昼過ぎ頃、ユーリアラス号でキューパー提督と面会して二時間の発砲猶予を要請し、その間に井上聞多と前田孫右衛門が交渉のため来艦することを伝えた。
 キューパー提督は二時間の発砲猶予を了承したが、戸田に対して戦争の忠告もした。それをサトウが通訳した。
「よろしい、二時間待とう。ただし見ての通り、我々の軍艦はすでに戦闘準備が(ととの)っている。今にこの砲弾を君たちに御進物(ごしんもつ)するから覚悟しておきたまえ」
 聞多と前田は奇兵隊などの説得に思ったよりも時間がかかってしまった。
 二人が小舟に乗って下関の港からユーリアラス号へ向かおうとした時、すでに約束の時間を一時間過ぎていた。

 そしてこの時、ユーリアラス号から壇ノ浦(だんのうら)砲台へ向けて一発の砲弾が発射され、それを合図に四ヶ国艦隊は一斉(いっせい)に砲撃を開始した。
 この四ヶ国艦隊の砲撃に合わせて、長州側の砲台もすかさず一斉砲撃を開始した。
 下関海峡はたちまち全体が砲煙に包まれた。午後四時頃の出来事であった。

 結局聞多は使者の役目を果たせなかった。同行した前田老人は、また泣き出してしまった。
「ああ……、国事(こくじ)(あやま)った。これでもう、長州は(ほろ)びるに違いない……」
 聞多は前田に強い口調で言い返した。
「今さら(なげ)いたところで何になりますか。あとは奮戦(ふんせん)あるのみです。私は急ぎ山口へ戻るので、馬関の処置は前田様にお任せします」
 そう言って船を岸へ戻し、聞多は急いで山口へ向かった。

 こうして俊輔と聞多はギリギリの段階で和議の使者をつとめながら、どちらも間に合わなかった訳である。
 とはいえ、俊輔と聞多が使者として間に合っていたとしても、おそらく和議は成立しなかったであろう。
 二人が持参した書状によると、和議の条件として「外国船の下関海峡の通航を認める」としか書かれていなかった。一応それ以外にも日本国内の事情、例えば「外国船への砲撃は朝廷と幕府の命令によるものである」といったことも書かれてはいるが、そんなことは四ヶ国にとってどうでもいい。
 一番問題なのは「長州が下関に大量の大砲を配備している」ということなのである。
 これらの大砲が撤去(てっきょ)されない限り、四ヶ国側が和議を承知するはずがなかった。そしてこの大砲の撤去は、長州にとって絶対に飲める条件ではなかった。それゆえ、この「下関戦争」が開戦するに至ったのは必然の結果であったと言うべきだろう。


 四ヶ国艦隊は二隊に分かれた。ユーリアラス号など重量級の艦隊は長州砲台の射程圏外から長距離砲を叩き込み、それ以外の軽量級の艦隊は前線を素早く航行しながら砲撃をおこなった。
 狙いは主に前田砲台と壇ノ浦砲台で、どちらの砲台もたちまち集中砲火を浴びて多くの大砲が沈黙することになった。さらに弾薬庫に直撃弾が当たり大爆発を引き起こした。長州の砲台が沈黙したのを見て軽量級の軍艦から素早く陸戦隊が上陸し、約20門の大砲に(てつ)(くぎ)を打ち込んで使用不能にした。陸戦隊はすぐに引き上げたので被害は受けなかった。
 一方、長州側の砲台も四ヶ国艦隊に何発か命中させ、艦隊側にも死者3名、負傷者15名が出た。長州側は死者2名、負傷者10数名である。この日の戦闘はほどなく日暮れとなったので数時間戦っただけですぐに休止となった。長州の兵士たちは夜になってから砲台に戻り、砲台の修復に取りかかった。

 このように下関で戦争が始まっている頃、俊輔は山口で(なつ)かしい人物と再会した。
 高杉晋作である。
「よう、俊輔。久しぶりだな」
「高杉さん!牢に入ってたんじゃなかったんですか?また、どうして山口へ?」
「用事があるから出て来いと言われて来たんだが、一体何が起きているのかサッパリ分からん。とにかく馬関へ行って様子を見てみようじゃないか。お前も一緒に来い」
「はい。わかりました」
 高杉にそう言われては俊輔に拒否権など無い。一も二もなく承知した。
 二人は夕方、駕籠(かご)に乗って馬関へ向けて出発した。

 途中小郡(おごおり)まで行くと早駕籠がこちらへ向かってやって来た。それを高杉が止めて、何の(しら)せか聞いた。
「馬関で戦争が始まったので山口へ報告に行くところだ」
 早駕籠は、そう高杉に伝えると、すぐに山口へ向けて出発して行った。
「そうか。もう四ヶ国との戦争は始まってしまったか」
 高杉は(こと)もなげにそう言って、幾分(いくぶん)晴れやかな表情をして自分の駕籠を出発させた。
 なにしろこの男は戦争が好きなのだ。
 四ヶ国との戦争に勝ち目がないことを分かっていつつも「始まってしまったものは仕方がない」とすぐに開き直り、せいぜい敵に一泡(ひとあわ)ふかせてやろうと思案(しあん)し始めた。
 一方、俊輔はそれほどノンキな気分ではいられなかった。
 こうなることを避けるために、はるばるロンドンから帰って来たのだ。
 確かに長州へ戻って来てからは、四ヶ国との戦争を避けるのが絶望的であることを薄々分かりはじめてはいた。それでもやはり、実際に四ヶ国、特にイギリスとの戦争が始まってしまったことが分かると重苦(おもくる)しい気持ちになった。
(あの恐るべき兵器を持つイギリスと戦争することになってしまったか……。なんとか傷の浅いうちに戦争を終結させられれば良いが……)

 俊輔と高杉の駕籠は馬関へ向かって夜の道を進んでいた。

 船木(ふなき)の辺りまで来ると、また早駕籠が向こうからやって来た。
 乗っているのは井上聞多であった。高杉はすかさず聞多の早駕籠を止めた。
「おい!ちょっと待て!貴様、聞多ではないか!」
「おお!高杉か。お主、こんなところで何をしている?馬関で戦争が始まったぞ」
「それよ、そのことよ!詳しく話を聞かせてくれ」

 三人は駕籠を止めて路傍(ろぼう)で相談を始めた。聞多は二人に自分の意見を述べた。
「俺は談判に間に合わなかったが、今朝イギリスの船へ使者をやったところサトウが『今にこの砲弾を御進物(ごしんもつ)だ』と言っていたらしい。向こうはとことんやるつもりだ。開戦した以上、こちらもとことんやらねばならぬ。この際、攘夷を叫んでいる連中の腰が折れるぐらい戦争をして、連中の目を覚まさせたほうが良い。これから山口へ行って君公(くんこう)(藩主慶親)の御出馬を願い出ようではないか」
 高杉は聞多の意見にすんなりと賛成した。
 俊輔は、この二人と違って軍人としての資質はない。藩の上士であるこの二人とは気質が違うのである。ただ、二人の意見に強く反対する理由もなかったのでとりあえず同意した。

 三人は山口へ行って御前会議に出席した。そして聞多は藩主父子に対して意見具申(ぐしん)した。
「馬関の戦いは必ず敗れるでしょう。敵は次に小郡(おごおり)近海へ艦隊を進めて兵を上陸させ、山口へ進軍してくるはずです。それを阻止するため、小郡を死に場所と定めて決戦すべきです。是非とも君公の御出馬を(たまわ)りたい」
 この聞多の意見を慶親は一応承諾したが、結局のところ世子定広が出馬することになった。そして聞多は小郡代官を命じられ、高杉、俊輔と共に小郡へ出陣することになった。

 そして開戦二日目の八月六日となった。
 この日は最大の激戦となり、サトウも銃弾の下をくぐることになるのである。
 四ヶ国はこの日、長州砲台を徹底的に破壊するため早朝から陸戦隊を送り込むことになった。
 元々陸戦隊を上陸させるのはキューパー提督の念願だった。
 前年の薩英戦争では陸戦隊を上陸させられなかったことが勝利を逃した原因だったと考えていたので、この下関では必ず陸戦隊を送り込んで勝利を確定させたいとキューパー提督は思っていた。
 ところがこの日の明け方、山県小助の指揮する壇ノ浦砲台が不意を突いてフランスの艦船に砲撃を浴びせ、数人の死傷者を発生させた。これをうけてキューパー提督は上陸作戦の決行時間を早めて朝七時に作戦を開始することにした。

 サトウは早朝に起こされて「アレキサンダー大佐(ユーリアラス号艦長)に同行して上陸作戦に参加せよ」と命じられた。
 四ヶ国艦隊は上陸用舟艇(しゅうてい)を使って約二千人(そのうち四分の三はイギリス兵)の陸戦隊を上陸させた。特に激しい抵抗もなく陸戦隊は上陸に成功した。砲台を守っていた長州兵は少人数だったので敵が大挙(たいきょ)上陸してくるとすぐに退却したのだった。四ヶ国の陸戦隊は、時々遠目から鉄砲を撃ちかけてくる長州兵と小競り合いをくり返しながら、各砲台に取りついて砲門の撤去(てっきょ)作業を開始した。

 サトウは九時に前田砲台の近くに上陸した。
 サトウが参加しているアレキサンダーの部隊は前田砲台の高台場に配備されている砲門を撤去するため、崖をよじ登って行った。サトウも一緒によじ登った。サトウの周りの兵士たちはピクニックにでも来ているかのようにワイワイしゃべりながら、がむしゃらに崖をよじ登った。
 なにしろ八月六日(西暦では9月6日)ということでまだまだ暑い季節である。サトウは大汗をかいて崖をよじ登った。
 部隊が高台場に上がってみると長州兵が二十名ほどいた。彼らはイギリス兵が登って来るのを見つけるとすぐに奥へ退却していった。そして遠間から時々イギリス兵に対して発砲をくり返し、ここでも小競り合いが発生した。これによりイギリス兵の一人が足に銃弾をうけ、もう一人は味方の誤射(ごしゃ)によって背中から撃ち抜かれた。砲門はすでに長州兵によって持ち去られており、一つも残っていなかった。
 サトウたちの部隊はさらに丘を登ったり、周囲の林道を進んでみたりして索敵(さくてき)をくり返したが、長州兵と遭遇(そうぐう)することはなかった。そこで部隊は別の砲台へ移動して砲門の撤去作業をおこなうことになった。

 じきに昼になったのでサトウたちは砲台の中でランチ休憩をとった。サトウは弾薬庫の階段に座り、アレキサンダー大佐からもらった(いわし)缶詰(かんづめ)とパンを食べた。

 午後も砲門の撤去作業が続いた。相変わらず長州兵は時々遠間から闇雲(やみくも)に撃ちかけてくるだけで、その都度(つど)イギリス側も闇雲に反撃した。そういった小競り合いが続くばかりで、双方、被害はほとんど発生しなかった。
 作業中のイギリス兵たちは銃声を聞くたびにヒョイ、ヒョイと頭を下げていた。サトウもそれにつられて銃声を聞くたびにヒョイ、ヒョイと頭を下げた。しかしどう見ても当たる訳がない距離から撃たれていることが分かったので、皆その無駄な動作をやめた。

 ところが夕方近くになると、時々サトウたちの部隊に対して野砲の砲弾が飛んで来るようになった。ただしこれも遠距離なので狙いは正確ではなかった。前田砲台のところからやや奥まったところにある(かど)(いし)陣屋(じんや)からの攻撃であった。
 すでにフランスとオランダの陸戦隊は母艦への引き揚げを完了しつつあった。
 しかしアレキサンダー大佐は長州の陣地を攻撃することを決断した。そしてサトウに対して命令した。
「君も一緒について来たまえ。私のそばから離れてはならん」

 大佐の部隊は水田を横切って谷の斜面を登り、長州の陣地へ近づいていった。
 丸腰のサトウも部隊の後方からついていった。部隊の兵士たちは大声をあげて陽気にはしゃぎつつ、敵がいると思われる場所には銃を乱射しながら進んで行った。
 サトウは何も心配していなかった。
 自分たちの部隊が進撃して行けば、敵は一目散に逃げ去るだろうと思っていたからだ。

 しかし、サトウが敵陣へ近づいていくと銃弾がピュウピュウ飛んで来た。
 それはサトウの近くをかすめる勢いだった。
 そして足元には、敵と味方の死傷者が何人も横たわっていた。
 サトウは一瞬、死を予感した。

 長州兵たちは角石陣屋で激しく抵抗していたのだ。
 それは赤根(あかね)武人(たけと)が指揮する奇兵隊によるものだった。
 この時、サトウの近くにいたアレキサンダー大佐が足首を撃ち抜かれ、転倒した。大佐はすぐに担架に乗せられて後方へ運ばれていった。サトウは呆然(ぼうぜん)とそれを見送った。
 
 ところがそれと同時に、角石陣屋の長州兵は退却を始めた。
 イギリス兵はようやく長州兵を陣屋から追い落とすのに成功したのだ。そしてイギリス兵が陣屋へ入ろうとすると長州兵が陣屋を爆破するために仕掛けていった爆弾を発見し、すぐに導火線の火を消し止めた。
 サトウがその陣屋に近づいてみると、建物の前で四名の日本人と一名のイギリス人の死体が横たわっていた。サトウの記述によると「見るも無惨(むざん)な格好であった」という。

 この時の戦闘でイギリス側は死者7名、負傷者10数名(アレキサンダー大佐を含む)、長州側は死者10数名、負傷者数は不明だが相当数であったろうと思われる。「下関戦争」を通じて最大の被害が発生したのが、この時の戦闘だった。ちなみにこの戦闘の場面はワーグマンがイラストにして描いており、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に掲載した。
 後年サトウはこの時の戦闘について次のように手記で語っている。
「あれだけの小競り合いで済んだのは我々にとって幸運であった。もし日本兵が頑強に大砲を固守するか、あるいは我々が谷の斜面を()(のぼ)る際にその側面を攻撃していたら、我々の部隊はもっと多数の死傷者を出していただろう」
 この角石陣屋で赤根武人の指揮する奇兵隊が戦っている最中、山県小助の指揮する奇兵隊の部隊は別の場所で待機していたという。もしこの山県の部隊がイギリス兵の側面を突いていたら戦況はどうなっていたであろうか。もしかするとサトウも戦闘に巻き込まれて戦死していたかも知れない。

 夕闇の中でサトウはぐったりと疲れて泥まみれになっていた。
 そして腹ペコで(のど)もカラカラの状態で夜の七時半にユーリアラス号へ戻った。


 翌、開戦三日目の八月七日になると、長州軍の攻撃はほとんど無くなった。
 四ヶ国側は引き続き大砲を撤去して、それを軍艦へ搬入(はんにゅう)する作業を続けた。さらにこの日は海峡の奥にある(ひこ)(しま)にも上陸し、砲台の大砲を使用不能にした。
 そしておそらくこの日までに、前田砲台を背景にして兵士たちが写っているあの有名な写真(ベアトが撮った写真)も撮影済みだったろうと思われる。


 一方長州側では下関での完敗をうけて、また和平論が台頭(たいとう)してきた。
 船木の陣所では世子定広の御前で会議が開かれ、重役一同および高杉、聞多、俊輔らも列席した。
 重役たちは悲観的な意見を述べた。
「このままでは防長(ぼうちょう)二州は間違いなく滅亡(めつぼう)する。やはり外国とは和議を結んで、まずは幕府、諸藩の軍を相手にするしかないだろう。聞多、また馬関へ和議の使者に立ってくれぬか?」
 これに聞多が答えた。
「私が先日馬関へ使者として立ったのは、まだ開戦前だったからです。開戦した以上は、従来の藩の方針通り、外国と徹底的に戦うしかありません。もはや外国軍を相手に討ち死にあるのみです」
 しかし重役たちは全員和平論に固執(こしつ)した。
 聞多はとうとう怒り心頭(しんとう)(はっ)した。
「このように藩の責任者たちがコロコロと意見を変えるようでは、たとえ和議であれ、(いくさ)であれ、長州の体面を(たも)つことなど出来ぬ!あなたたちには(せん)万言(まんげん)(つい)やしても無駄である!私の血をもって覚悟を(うなが)す他はない!」
 そう憤然(ふんぜん)と言い(はな)つや、聞多は席を立って別室へ向かった。
 そして別室に入るとおもむろに座り込み、短刀を握りしめて切腹しようとした。
 聞多の(あや)しい素振(そぶ)りを見て追いかけてきた高杉と俊輔が、すかさずそれを止めて二人で聞多を抑え込んだ。
 聞多は叫んだ。
「ええい、離せ!俺に腹を切らせろ!俺の臓腑(ぞうふ)をつかみ出して、やつらのツラに投げつけてやる!」
 高杉は聞多の短刀を取りあげて言った。
「死に急ぐな、聞多。かつて松陰先生が言っておられた。死して不朽(ふきゅう)の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業(たいぎょう)の見込みあらばいつでも()くべし、とな。真の敵は幕府である。貴様の命は幕府と戦う時までとっておけ」
 そして俊輔も聞多に言った。
「そうだぞ、聞多。ワシに内緒で勝手に切腹するとは水臭(みずくさ)いではないか。ワシらが苦労してイギリスへ行って帰って来たのは何のためか。お主は納得できんだろうが、結果的に藩が和議を認めるようになったのは(さいわ)いだったとワシは思うぞ」
 こうやって高杉と俊輔が説得して、なんとか聞多をなだめた。

 それからしばらくして高杉と聞多が定広の御前に呼ばれた。
 定広は聞多に「止戦(しせん)講和(こうわ)」と書いた紙を渡した。
 聞多に「四ヶ国との講和談判の使者をせよ」と命じているのである。
 それで聞多は答えた。
「藩内では『まだまだ外国に負けはせぬ』と戦意旺盛(おうせい)な兵士たちが大勢おります。なぜ戦いをやめるのか私は理解に苦しみます」
 すると定広はあらためて筆をとって紙に「以権道(けんどう)講和」(権道(けんどう)をもって講和する)と書いて聞多に渡し、その意図するところを説いた。
「今や幕府と外国の両面から攻められる状況にある。よって、外国とは一旦講和するのである。その間に幕府の兵を退け、しかる後に再び攘夷をやるつもりである」
 これに対して聞多は強い口調で反論した。
「一時逃れの権謀(けんぼう)で外国と和議を結ぼうとしても相手は容易にこちらの腹を見抜きます。外国人を禽獣(きんじゅう)と申す人もいるようですが、仮に犬猫であったとしても(えさ)を見せて呼びつけておいて、その頭をぶん殴ったりすれば二度と近寄りはしないでしょう。ましてや外国人は禽獣でもなく信義(しんぎ)を重んじる人間でありますから、そのような詐術(さじゅつ)を使えば逆に怒らせるだけです。正々堂々と戦って攘夷をやったほうがよろしい」
 ここで高杉が口を挟み、聞多を室外へと連れ出した。
「おい聞多。若殿に対して無礼だぞ。そういった無礼な物言(ものい)いは(つつし)め」
 この高杉という男はどれほど高位の人物に対しても大胆不敵な態度をとる人間だが、毛利家の君公父子に対しては忠誠一途(いちず)な態度を(つらぬ)くという極端な性質を持っていた。

 そして二人が定広の御前へ戻ると、今度は「以信義(しんぎ)講和」(信義をもって講和する)と書いた紙を聞多は渡された。
 聞多は再び強い口調で反論した。
「権道と信義では正反対ではないですか。なぜそう簡単に前言を(くつがえ)すのですか。そんなことではまた攘夷へ覆るに決まっています」
 定広は苦しそうな表情で答えた。
「私は元々信義をもって和議をするつもりだった。しかし藩内の攘夷論者の目もあるのでやむを得ず権道と書いたのである」
「しからば再び朝廷から攘夷の(ちょく)が下った場合、如何(いかが)されるおつもりか?」
勅命(ちょくめい)には従わねばならぬ。(つつし)んで勅をお受けする」
「それでは外国に対する信義が(いつわ)りになりましょう。勅命であっても誤っているのなら死を()してお(いさ)めするのが朝廷に対する真の忠義です」
 ここで高杉が再び口を挟んだ。
「おい聞多、言い過ぎだぞ。いい加減、和議のお役目をお受けせよ」
 困り果てた定広はとうとう聞多に約束した。
「馬関で四ヶ国との和議が成った(あかつき)には、以後、如何(いか)に藩内で攘夷論がわき起こっても抑え込むことを約束する」
「それでは和議のお役目をお受けします。私は外国と和議を結ぶ際のお覚悟を問うたまでのこと。ご無礼の段はひらにお許しを。また、今のお約束を決してお忘れなされませぬよう」

 ともかくも、こうして長州藩は四ヶ国と講和する道を選んだ。
 しかしながら四ヶ国、特にイギリスと渡り合えるだけの人物が長州藩の上層部にはいなかった。藩主か世子が直接交渉に出て行くことは、本人も周りの人間も否定的だった。
 となると重役をデッチあげるしかない、と聞多は考えた。聞多は藩の上層部に一つの策を上申した。
「この際、今回の交渉に限って、高杉を家老の養子ということにして交渉の責任者にしましょう」
 この重大な局面で、こんないい加減な提案をするほうもするほうだが、認めるほうも認めるほうであろう。藩はこの聞多の提案を受けいれたのである。
 確かに上層部としても、誰もこんな役目は引き受けたくなかった。
 敗戦の講和使節という不名誉な役目であることに加えて、外国と和議を結ぶとなると藩内の攘夷派から命を狙われる恐れもある。事実、高杉、聞多、俊輔の三人はこのあと攘夷派から命を狙われるのである。

 この藩の決定によって高杉は筆頭家老、宍戸(ししど)備前(びぜん)の養子「宍戸(ししど)刑馬(けいま)」ということになった。
 高杉はこの時、満年齢で言えば二十四歳である。
 長州藩はこの若者をイギリスとの交渉の責任者、すなわち正使に選び、藩の命運を(たく)すことにしたのだ。他に副使として(すぎ)(とく)(すけ)(わた)(なべ)内蔵太(くらた)の二名が同行し、通訳として井上聞多と伊藤俊輔が同行することになった。
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