第10話 英を除く仏蘭米との下関砲撃戦

文字数 12,898文字



 文久(ぶんきゅう)三年五月頃の長州藩は、後から考えればバカバカしくなるほど両極端であった。

 かたや横浜からは若者五人をロンドンへ密航留学に送り出し、かたや下関(しものせき)ではアメリカ商船に砲撃を加えて攘夷実行を開始していた。
 これほど自己矛盾(むじゅん)が激しく、非合理的な行動をした藩というのは他に例がないであろう。
 とはいえ、これはある意味「結果がどちらに(ころ)んでも対処できるようにしておく」というリスクヘッジの一種と言えるかもしれない。そういう意味では長州は「抜け目がない」とも言えよう。ただ、人によっては「なんと無節操(むせっそう)な連中であることよ」と(あき)れるかもしれない。
 冷静な人間から見ればバカバカしいとしか言いようがないかもしれないが、この「とにかく行動する」「とにかくやってみる」という馬車(ばしゃ)(うま)のようなエネルギーがなれば、(のち)の結果もおそらくなかったであろう。

 さて、この長州藩の行動について見る前に前回の話で触れた、幕府が出した「外国人追放(鎖港(さこう))令」のことをまず書かなければならない。

 生麦事件の賠償金(44万ドル)支払い問題については、幕府の一橋慶喜と小笠原長行(ながみち)謀略(ぼうりゃく)駆使(くし)してイギリスに支払ったことはすでに書いた。
 そしてその支払いの際、幕府は各国に対して「外国人追放(鎖港)令」を通告した。
 この通告は攘夷期日である五月十日に合わせたもので、日付は五月九日付けになっており、さらに小笠原長行(図書(ずしょ)(のかみ))の署名が入っている。
 その内容を現代語訳すると大体次の通りである。
「書類でもって申し上げます。日本国民が外国との交際を望んでいませんので外国人には退去してもらい、港を閉鎖するよう京都にいる将軍から命令があり、私が交渉するよう委任(いにん)されました。委細(いさい)は面談の席で申し上げますが、まずは書類でお知らせします。 小笠原図書頭」

 この通告を出す時に神奈川奉行の浅野氏祐(うじすけ)がフランスのベルクール公使に対して「断固とした抗議声明を通告してもらって結構です」と述べていたが、実際各国代表からは浅野も青ざめるほど激烈(げきれつ)な抗議声明が返ってきた。
 例えばイギリスのニール代理公使の場合は
「このような通告は全ての国の歴史において前例を見ないものであり、事実上全ての条約締結(ていけつ)国に対する“宣戦(せんせん)布告(ふこく)”に(ひと)しい」
 といったような内容だったが、他国も(おおむ)ね同様だった。

 そしてサトウには「この小笠原が通告してきた外国人追放令を英訳する」という仕事が(まか)された。
 サトウは通訳として初めて公式な仕事を(まか)されたのである。
 ただしニールはこの仕事をサトウの同僚通訳であるユースデンとシーボルトにもやらせており、三通りの翻訳を作成させるようにした。

 ユースデンの肩書は日本語書記官(しょきかん)で、当時の一番正式な通訳である。ただし彼はオランダ語(蘭語)と英語の通訳であり、日本側に蘭語の通訳がいることを前提とした通訳だった。江戸時代には長崎に蘭語の通訳がいたので蘭語を使える通訳は日本側にかなり存在した。そして彼らがいないとユースデンの仕事は成り立たず、さらに言うと日本語と英語を直接通訳できる人間があらわれると彼の仕事はなくなるのである。ちなみにこの時も彼は、日本側が蘭語で提出してきた外国人追放令を英語に翻訳した。

 そしてシーボルトの肩書は臨時(りんじ)通訳官(つうやくかん)である。彼についてはちょっと詳しく解説する必要がある。彼はオランダ生まれのドイツ人で、サトウより三歳年下の十六歳である。父は1828年に「シーボルト事件」を引き起こして日本から追放された人物で、1859年に再来日を許可された父に同行して来日した。ところがその父はこの来日した年に単身で帰国する事になり、その際父はオールコック公使と面談して息子をイギリス公使館に雇ってもらった。それ以来すでに三年以上日本語を勉強し、さらに蘭・仏・独の三ヵ国語を使えた。ただし英語は母国語ではないので決して上手(じょうず)ではない。ちなみに彼は長崎に女性産科医(さんかい)の“楠本(くすもと)いね”という異母姉もいる。

 一方、サトウの肩書は通訳生(つうやくせい)である。まだ日本に来てから一年も経っておらず、この三人の中では一番の新米(しんまい)である。
 とはいえ、日本語の読解(どっかい)は非常に難しく、サトウもシーボルトも単独では不可能なので、二人とも日本語教師(サトウの場合は高岡)の助けを借りてこの外国人追放令を翻訳した。
 初めて正式な仕事を任されたサトウの喜びは相当なもので、彼は完成した翻訳を親友のウィリスに見せて喜びを分かち合った。
 後年サトウは次のように語っている。
「私が初めて自分の訳文を作った時、友人のウィリスが自分のことのように喜んでくれた。その時の嬉しさは決して忘れられない。三人の翻訳の内どれが最も忠実な訳であるか誰も言い得る者はいなかったが、ウィリスと私にはもちろん分かりきっていた」

 ただし一応本当のところも言っておくと、イギリス政府への報告にはユースデンが蘭語から翻訳したものが正式な報告書として提出され、サトウとシーボルトの翻訳は参考資料として添付(てんぷ)されるにとどまった。


 この賠償金支払い問題が決着したあと、慶喜は賠償金の支払いを止められなかった責任を取って関白(かんぱく)鷹司(たかつかさ)輔煕(すけひろ)(あて)て将軍後見職の辞表を提出した。しかしその辞表は朝廷から否決(ひけつ)された。
 一方、小笠原も責任を一身に背負って辞職する覚悟を決めているのだが、彼の場合、その前にもう一つ重要な仕事が残っていた。
 それは蒸気船で幕府歩兵を(ひき)いて京都へ()(のぼ)る、という仕事である。
 しかしながらその小笠原の「率兵(そっぺい)上京」の話をする前に、まずは下関での砲撃事件のことを書かなければならない。


 現在、下関(しものせき)市と北九州市を(へだ)てている関門(かんもん)海峡は、かつては下関(しものせき)海峡あるいは馬関(ばかん)海峡と呼ばれていた。日本海と瀬戸内海、そして太平洋を(つな)ぐ海上交通の要衝(ようしょう)で、海運のチョークポイントである。チョークポイントとは、その狭い地域を確保するだけで戦略的に絶大な影響力を行使できる場所のことをさす。

 「五月十日の攘夷期日」というのは、これまで見てきたように幕府にとっては「建前(たてまえ)(じょう)の外国人追放(鎖港)令」に過ぎず、攻撃されてもいないのに「無差別に外国船を打ち払う」というものではなかった。
 けれども長州藩の過激な攘夷主義者たちは、まさに文字通りの攘夷実行期日として受けとめた。

 五月十日、下関対岸の小倉藩領の田野浦(たのうら)にアメリカ商船ペンブローク号が(しお)()ちのため停泊(ていはく)していた。
 下関海峡は狭いため潮の流れが急で、最も速い所では約10ノット(時速20km弱)に達することもある。それゆえ逆流では進みづらく、下手をすると座礁(ざしょう)するおそれもあるため潮待ちをしていたのだった。このペンブローク号を、下関側で見張(みは)りをしていた長州藩兵が発見した。

 この日の夜、下関の光明寺(こうみょうじ)に久坂玄瑞、入江九一ら長州攘夷主義の精鋭(せいえい)たちが集結した。
 ちなみにこの一党に高杉晋作は加わっていない。
 彼はまだ萩の山奥で(いおり)に引きこもったままだった。おそらく久坂や藩の正規兵がどれだけやれるか「お手並(てな)拝見(はいけん)」といった心持(こころも)ちであったろう。

 長州藩は藩内すべてが過激な人間ばかりだったという訳ではない。
 この日、下関に出張してきていた総責任者の毛利能登(のと)は砲撃を自重(じちょう)していた。その()()らない態度に光明寺の一党はいきり立っていた。
「何?お奉行(ぶぎょう)様が攻撃を自重せよ、だと?」
「バカな!幕府が攘夷期日を本日と決めた以上、誰に遠慮する必要があるんじゃ!」
「そうだ!夷狄(いてき)()つべし!」

 この興奮状態の中で入江が久坂に決断を迫った。
 久坂は師松陰のことを少し思い浮かべて、それから決断した。
「今の()に欠けているものは“果断(かだん)”の一語(いちご)なり!他人が何と言おうとも、(おのれ)の信念を(つらぬ)くのみ!今宵(こよい)、我が長州が攘夷決行の先陣を切る!」
 長州の攘夷戦争は、この久坂の決断によって始まったと言っていい。

 砲台からの砲撃では対岸の田野浦まで砲弾が届かないので、庚申(こうしん)丸と癸亥(きがい)丸の二隻の船で攻撃をしかけることになった。二隻は大砲を発射する準備をして静かに夜の海を進んで行った。
 日付が変わった深夜午前二時頃、亀山砲台の号砲を合図に、長州の二隻はペンブローク号への攻撃を開始した。

 夜中にいきなり砲撃をうけたペンブローク号の船員たちは、何が起きたのか訳が分からなかった。船員たちは最初右往左往(うおうさおう)するばかりだった。ただしちょうど出航準備のため蒸気機関を動かし始めたところだったので、とにかくすぐにその場からの脱出を試みた。
 しばらくの間ペンブローク号は長州の二隻から砲撃をうけつづけた。しかしなんとか振り切って脱出することに成功した。長州側からは十数発の砲弾が発射されたものの直撃弾は無く、二、三発、軽微(けいび)なかすり(きず)を受けただけにとどまった。

 客観的に見て、これが「戦勝」と言えるのかどうか疑問である。
 けれども下関の長州陣営はこの「戦勝」をおおいに喜んだ。そしてこの「戦勝」の(しら)せはすぐに長州全体に(かなり大げさな尾ひれを付けて)ひろがり、人々を歓喜(かんき)させた。
 ペンブローク号は横浜から長崎へ向かう途中だったのだが、この長州藩からの攻撃によって下関海峡を通ることをあきらめ、長崎行きも断念した。そして南の豊後(ぶんご)水道(すいどう)(四国と九州の間を通って太平洋へ出るルート)から直接上海へと向かうことにした。


 数日後、ペンブローク号は上海に到着した。
 その更に数日後、横浜から出発した俊輔たちのチェルスウィック号も上海に到着した。

 チェルスウィック号は長江(ちょうこう)揚子(ようす)(こう)河口(かこう)付近から黄浦(こうほ)(こう)に入り、上海の租界(そかい)のほうまで進んで行った。
 その辺りまで来ると港には外国船が数え切れないほど停泊していた。まだ上海近郊では太平(たいへい)天国(てんごく)軍と交戦している状態とはいえ、街には商館が林立(りんりつ)しており、五人はその発展ぶりに目を見張った。
 聞多(ぶんた)はこれらの無数の外国船に衝撃をうけ、即座に攘夷の不可を(さと)った。
「こんな大勢の船に攻撃されたら日本はひとたまりもない。攘夷なんて無理だ!そうだろう?俊輔」
「日本を出てまだ何日も経ってないのにもう信念を変えるとは、だらしないぞ、聞多」
「いや。今までは国のためと思って攘夷を唱えてきた。だが本当は開国のほうが国のためになると分かった以上、正直に自分の非を改めたとしても、恥でも何でもあるまい」
「いやいや。意志(いし)薄弱(はくじゃく)だ、無節操(むせっそう)だ。ワシは認めん」
 とにかく五人は上陸してジャーディン・マセソン商会の上海支店へ向かうことにした。

 この前年に高杉晋作や五代(ごだい)(さい)(すけ)(とも)(あつ))が乗った千歳(せんざい)丸が上海に来た時は、高杉は上海の発展ぶりに目を見張りながらも上海が西洋列強の植民地状態になっていることに衝撃をうけ、西洋に対して強烈な闘志(とうし)を抱いて帰国したものだが、聞多もまた上海の様子に衝撃をうけ、こちらは強烈な開国主義者になってしまった。
 人の見る目は十人十色(といろ)であるのが世の(つね)といっても、この二人はちょっと両極端すぎるであろう。
 このあと聞多は上海から周布(すふ)政之助(まさのすけ)に手紙を送り「攘夷は不可能(ふかのう)、開国は不可避(ふかひ)」と説明したところ、周布は「わずか上海を見ただけでにわかに豹変(ひょうへん)するとは」と一笑(いっしょう)()した。

 ちなみに、これは余談と言うべきかどうか少々微妙なのだが、高杉たちの千歳丸が上海に来た時に汚水(おすい)が原因と思われるコレラで三名の病死者が出ていた。そして第一章で図書館から借りてきた本をサトウに見せた兄エドワードも、二年後にこの上海でコレラにかかって客死することになる。二人の兄弟が極東の地で再会することは、残念ながら無かった。

 さて、五人はジャーディン・マセソン商会の上海支店長にかけ合ってロンドン行きの手配をしてもらおうとした。五人の中では野村弥吉(やきち)が多少は英語を使えたので彼が支店長にかけ合った。
 一応、横浜支店長ガウアーからの紹介状を持って来ていたので五人がロンドンへ行きたいことは伝わったようだが、この上海支店長が何を言っているのか、野村でさえ聞き取れなかった。
 むこうは日本語がわからず、こちらは英語がわからない。いろいろとゼスチャーを(まじ)えて会話を試みたところ、ようやく少し意味が通じた。

「どうやら、我々がイギリスへ行く目的は何か?と聞いているらしい」
 と野村は言った。
 それを聞いた聞多は、あらかじめ“海軍”を意味する英語だけ覚えていたので
「ナビゲーション!(Navigation)」
 と即答した。が、山尾はそれに疑問を感じた。
「ちょっと待ってくれ、聞多。“海軍”はネイビー(Navy)じゃなかったか?」
 それでも聞多は気楽に受け流した。
「まあ似たようなもんだろう。大丈夫、大丈夫」
 山尾は心配だったので少し考えてみたが、結局聞多と同じ結論に至り、そのまま放置した。
(俺の記憶では確かナビゲーション(Navigation)は航海術。でも実際俺は(じん)(じゅつ)(まる)()(がい)(まる)を動かしたくて留学したんだから航海術を習うのは本意でもある。聞多の言う通りナビゲーションでもネイビーでも似たようなものか……)

 この「ネイビー」と「ナビゲーション」を間違えて俊輔と聞多がエラい目にあったというエピソードは、この「長州ファイブ」に関する本では必ず出て来る有名なエピソードだが、実際本当のところはどうだっただろう?
 このあと上海からロンドンまでの道のりは、俊輔と聞多がペガサス号という300トンクラスの小さな帆船(はんせん)で、山尾、野村、遠藤はホワイト・アッダー号という500トンクラスの一回り大きめの帆船で行くことになるのだが、のちの山尾の話では山尾たちはそれほど(ひど)い扱いはされなかったという。もちろんそれは山尾たちの側に多少英語の話せる野村がいたので、ちゃんと事情を説明して支払った金額に見合う待遇(たいぐう)をうけられた、ということもあっただろう。

 しかしもし仮に聞多がちゃんと「ネイビー」と答えていたとしても、俊輔と聞多がしっかりと英語で事情を説明できない以上、おそらく二人の待遇は変わらなかったであろう。
 「ネイビー(海軍)」であれ「ナビゲーション(航海術)」であれ、船の動かし方を教わるために実地研修をさせられることに変わりはないのだから。
 大体「ネイビー(海軍)」の勉強を商社であるジャーディン・マセソン商会に依頼すること自体「初手(しょて)から間違っている」と気づくべきであったろう。

 彼ら五人は横浜から出発する時に村田蔵六から「技術」を学ぶように訓示(くんじ)を受けた。これ以降の彼らの人生をながめてみても山尾たち三人はまさに「技術屋」(テクノクラート)の道を歩むようになる。一方、俊輔と聞多は「政治」の道を歩むようになる。
 山尾たちの船では測量の方法なども学んで山尾は「勉強になった」と述べている。最初から「ナビゲーション(航海術)」を学ぶつもりだったのだから、それを苦痛とも思わなかっただろう。
 しかし俊輔と聞多は技術を学ぶことに向いてなかった。だから彼らにとって「ナビゲーション(航海術)」しかも蒸気船でもない風帆船(ふうはんせん)の航海術を学ぶことなど苦痛以外の何ものでもなかっただろう。

 ところで前述したように、五人が上海へ到着する少し前に、彼らの故郷下関で砲撃を()びたアメリカ商船ペンブローク号も、このとき上海に入港してきていた。
 実はこの事件のことが江戸や横浜へ伝わるのは十数日後のことになるのだが、この上海ではすでに英字新聞でこの事件が報じられていた。被害を受けた当事者が上海にいたのだから当然のことだった。
 ただしその英字新聞の記事に五人が気づいた形跡はまったく無い。
 この五人の英語力では、それもやむを得なかったと言える。まあ、もし知ることが出来たとしてもどうする(すべ)もなかったであろうが……。
 とにかく彼らがこの事件、ならびに「これ以降の事件」について知ることになるのは、彼らがロンドンに着いてからのことである。
 そんな訳で俊輔たち五人はしばらく上海で渡航の準備をし、そのあと別々の船でロンドンへ向かって出発した。


 そして五月十五日(6月30日)、横浜のサトウにとってちょっと大事なことがあった。
 サトウが二十歳(はたち)の誕生日をむかえたのだ。
 下関の砲撃事件のことなど知る(よし)もないサトウとウィリスは、相変わらず二人で祝杯をあげて楽しんでいた。


 話を下関の砲撃事件に戻す。
 砲撃事件はペンブローク号だけにとどまらず、被害者はその後も出続けた。

 五月二十三日、フランスの通報(つうほう)(かん)キャンシャン号が下関海峡へやって来た。
 ペンブローク号のニュースが上海から横浜へ届くのは五月二十六日のことなので、下関でそんな事件があったとは(つゆ)知らず、横浜から長崎へ向かっていたキャンシャン号は普段通り下関海峡を通過しようとしていた。

 今度は前回と違って陸上砲台の射程(しゃてい)距離だったため、まず前田(まえだ)砲台が砲撃を開始、さらに壇ノ浦(だんのうら)砲台やその他の砲台も次々と砲撃し始めた。

 前回の砲撃事件と同じように、いきなり砲撃されたキャンシャン号の船員たちは最初、何が起きたのか理解できなかった。
 とにかくキャンシャン号はすかさず応戦した。
 ただしこの艦は武装(ぶそう)艦ではないため長州側に被害をあたえることはほとんどできなかった。キャンシャン号は一刻(いっこく)も早く下関海峡を通り抜けようとして必死に西へ進んだ。

 キャンシャン号は結局七発被弾(ひだん)したものの、なんとか海峡を通過することに成功した。船体に穴が開き浸水(しんすい)するほどの被害を受けたが、ポンプで排水(はいすい)作業を続けてなんとか二日後、長崎港の入り口に到着した。

 そこへちょうど長崎から横浜へ向かうオランダの軍艦メデゥサ号が通りかかった。
 キャンシャン号からボートが()()けられ、メデゥサ号に下関での砲撃事件を報告した。
 これをうけて、メデゥサ号のカセムブロート艦長はオランダ総領事(そうりょうじ)のポルスブルックに進言した。
「これはどうも、瀬戸内海は避けたほうが良さそうですね、総領事」
「それは無理だよ、艦長。あなたは昨夜のパーティで『下関で砲撃されたら反撃して壊滅(かいめつ)させてやる』と豪語(ごうご)してたじゃないか」

 長崎には横浜より先にペンブローク号が砲撃された情報が上海から届いていたのである。それでカセムブロート艦長は長崎を出る前日に、西洋人のパーティでこのように豪語していたのだった。
 カセムブロート艦長は苦しい表情でポルスブルックに反論した。
「……だけど、下手(へた)したら本当に撃沈されるかも知れませんよ!」
 これにポルスブルックは答えた。
「下関を避けて横浜の連中から臆病者(おくびょうもの)と笑われるぐらいなら、そのほうがマシだ。それに日本にとって我がオランダは長年の友好国なのだ。大丈夫だよ」
 しかしカセムブロート艦長は納得しなかった。それでポルスブルックはやむなく高圧的に命令を(くだ)した。
「何かあったら私が責任を取る。下関を通りたまえ。これは命令だ」

 ところがポルスブルックの予想は見事に裏切(うらぎ)られた。
 メデゥサ号が下関海峡に入ると、たちまち長州の庚申(こうしん)丸、癸亥(きがい)丸が襲いかかってきた。さらに沿岸の砲台からも砲撃を()びせられた。
 ただし前の二回と違って今度のメデゥサ号は軍艦である。当然ながら即座に反撃を開始した。

 攘夷戦も三回目に突入して、初めて長州は本格的な砲撃戦を経験することになった。
 ちなみにこの戦闘の様子を西洋人が描いた絵画(かいが)が今も残っているが、晴れ渡った青空の(もと)、メデゥサ号、庚申丸、癸亥丸、沿岸の砲台が砲撃戦をくり広げている様子が(あざ)やかに描かれている。
 メデゥサ号は不意を()かれた形になったので徐々(じょじょ)に被害が拡大していき、ついに死者四名、負傷者数名を出すにおよんだ。
 メデゥサ号の艦内ではそこかしこに船員たちが倒れており、まさに修羅場(しゅらば)と化していた。
 カセムブロート艦長は倒れている船員たちを指さして、ポルスブルックに叫んだ。
「こんなに戦死者が出たのは、あなたの責任ですよ!」
 自身も負傷して頭から血を流しているポルスブルックが、必死の形相(ぎょうそう)で反論した。
「今は言い争ってる場合じゃない!私への批判は、この危機を切り抜けてから改めて聞く!」
 メデゥサ号はその後も被弾し続けたが、(から)くも海峡を突破(とっぱ)することに成功した。
 二十発の被弾(ひだん)でボロボロになったメデゥサ号は、船体の修理をしながら横浜を目指すことになった。

 一方、この戦いにおける長州側の被害は軽微(けいび)で、戦死者も出なかった。メデゥサ号を撃退した下関の長州陣営は勝どきをあげた。
 このように三回の攘夷戦を戦い抜いた長州藩の勢いは、まさに天を()くが(ごと)くであった。

 五月二十六日、下関でアメリカ商船ペンブローク号が砲撃されたという情報が、ようやく横浜に届いた。
 (おり)しも横浜にはアメリカ軍艦ワイオミング号が停泊していた。
 この軍艦は先頃(さきごろ)の日英交渉で横浜がパニックになった時、アメリカ人居留民(きょりゅうみん)を保護するために香港からやって来て、そのまま横浜に残っていたのだ。
 この頃アメリカは南北戦争の()最中(さいちゅう)だった。
 この艦は北軍の軍艦で、アジア海域を荒らし回っていた南軍のアラバマ号を掃討(そうとう)するのが主な任務だった。しかしこれまでずっとアラバマ号を発見できずにいた。
 自国のペンブローク号が下関で砲撃されたという情報を聞いて、ワイオミング号のマクドゥーガル艦長はすぐさま部下に命令した。
「よし。我々の獲物(えもの)はアラバマ号から長州に変更する」
 戦功(せんこう)()えていたマクドゥーガル艦長は即座に長州への報復(ほうふく)攻撃を決断した。五月二十八日、ワイオミング号は横浜を出撃して下関へ向かった。

 続いてフランス艦が砲撃された(しら)せも横浜に届いた
 無論、公使のベルクールはすぐに幕府役人へ抗議した。
「フランスに対するこのような行為は言語(ごんご)道断(どうだん)である!」
 さらにベルクールと一緒に抗議に来ていたジョレス提督が
「我々の艦隊は長州藩主に砲撃の理由を問いただすため下関へ向かう。場合によってはその場で長州に賠償金を請求する」
 と幕府へ()げて、すぐに出撃準備にとりかかった。
 まず五月三十日に哨戒(しょうかい)(てい)タンクレード号が、その翌日にはジョレス提督を乗せた旗艦(きかん)セミラミス号が横浜から出撃して行った。
 ジョレス提督は下関へ行く途中、偶然オランダのメデゥサ号と出会った。そしてメデゥサ号のカセムブロート艦長から下関での(くわ)しい戦況を確認した。

 このあとメデゥサ号は横浜に入港したが、横浜の人々はメデゥサ号の生々しい傷跡(きずあと)を見て下関での砲撃事件を実感することになった。

 横浜のサトウとウィリスは、被弾してボロボロになったメデゥサ号を海岸から(なが)めながら、この下関での事件について話し合った。ウィリスはサトウに砲撃事件の感想を述べた。
「また(ひど)くやられたもんだな。よく沈没(ちんぼつ)しなかったものだ」
 横浜での戦争が回避されてホッとしていたサトウは、意外なところで戦争が開始されて驚いていた。
「オランダは昔から日本の友好国だったんじゃないの?オランダを攻撃する意図がよくわからないね」
「どうやら下関では無差別に外国船を砲撃しているらしい。ただし今のところ我がイギリスの船への砲撃は確認されていない」
 サトウはこの前やった翻訳(ほんやく)の仕事のことを思い出した。
「どうもこの連中の無差別砲撃は、この前翻訳(ほんやく)した“外国人追放令”と無関係とは思えないな」
「聞くところによると、この砲撃は長州(チョーシュー)とか長門(ナガト)とかいう領主の仕業(しわざ)らしい」
「薩摩や水戸はこれまでよく耳にしたけど、長州というのはあまり聞いたことがないな」
「ニール代理公使は薩摩へ賠償金を取りに行くのを優先するか、長州の事件のほうを優先するか、今考えているらしい。このままイギリス船への砲撃がなければ、やはり行き先は薩摩だろうな」
 サトウが長州のことを意識したのは、この時が初めてだった。


 三回の攘夷戦争を戦い抜いた長州藩は、まさに得意の絶頂(ぜっちょう)にあった。
 長州藩内では「実際に戦ってみれば何のことはない」「西洋人など恐るるに足らず」こういった楽観論が(ただよ)い始めていた。
 一応この楽観論を否定して「長州の防備(ぼうび)など西洋から見れば豆腐の壁のようなものだ」と水を指すような発言をした西洋兵学者も一人いたのだが、彼は急進派によってその日のうちに殺されてしまった。
 この頃、久坂玄瑞は攘夷実行の成果(せいか)を朝廷と幕府へ報告するため京都に行っていた。
 そして六月一日、攘夷を実行した長州藩に対して朝廷から
「攘夷期限に(たが)わず夷狄(いてき)掃攘(そうじょう)に及んだ事は大義(たいぎ)である。いよいよもって精励(せいれい)し、皇国(こうこく)武威(ぶい)を世界に(かがや)かすべし」
 との(ほう)(ちょく)(くだ)された。


 この(ほう)(ちょく)(くだ)されたのと同じ日に、長州が皮肉な運命にみまわれるとは誰も予想していなかった。
 この日、アメリカ軍艦ワイオミング号が下関海峡に姿を(あらわ)した。
 ワイオミング号は約1,500トンの船で砲6門を装備している。イギリスの旗艦ユーリアラス号やフランスの旗艦セミラミス号はどちらも3,000トン級で砲も30門以上装備している大型艦だが、それらと比べると中型艦の部類に入るだろう。
 ワイオミング号は国旗を引きおろして奇襲(きしゅう)をしかけ、海峡の奥深(おくふか)くまで突き進んだ。
 奇襲をしかけられた長州側は、たまたまこの日手薄(てうす)な状態だった。
 前田(まえだ)砲台と壇ノ浦(だんのうら)砲台がわずかに砲撃しただけで、あっさりと下関市街の方まで突入を許してしまった。そしてそこでワイオミング号は長州の庚申(こうしん)丸、癸亥(きがい)丸、壬戌(じんじゅつ)丸の三隻を発見した。
 ワイオミング号のマクドゥーガル艦長はこの三隻を攻撃目標と定めた。国旗(星条旗)を掲げるよう部下に命令し、すぐさま攻撃を開始した。

 ここにワイオミング号と長州海軍との戦闘が開始された。
 ワイオミング号は長州の三隻の船、下関の砲台、下関の市街へと向けて、とにかく大砲を撃ちまくった。そのなかでも壬戌丸が長州の旗艦であると見て、これを攻撃目標と定めた。
 この戦闘の直前、世子(せいし)毛利定広(さだひろ)は山口へ帰るために下関でこの壬戌丸に乗り込もうとしていた。世子(せいし)公が乗船するため派手な装飾がなされており、それが原因で攻撃目標とされてしまったのだった。
 敵艦の襲来(しゅうらい)を知った毛利定広は急いで陸上に引き上げた。そんな事情もあって、この日の長州側の迎撃(げいげき)態勢はつねに後手(ごて)後手(ごて)に回ってしまった。ちなみにこの壬戌丸は、サトウが来日する時に乗ってきた、あのランスフィールド号である。

 ワイオミング号は海峡の中を所狭(ところせま)しと暴れ回り、壬戌丸を追撃した。一方、壬戌丸は砲門を装備していなかったので、すぐさま戦線(せんせん)離脱(りだつ)(はか)った。
 ワイオミング号は途中、浅瀬(あさせ)座礁(ざしょう)するなど危険な場面もあった。しかしなんとか離礁(りしょう)に成功して再び壬戌丸を追撃し、とうとう壬戌丸に数発の砲弾を命中させた。

 その命中弾のうち、特に機関部への直撃弾では即死者数名が出る大被害となった。
 やがて壬戌丸は海中へと沈んでいった。乗組員の多くは泳いで船から逃れた。
 続いて庚申丸が撃沈され、癸亥丸も大破させられた。
 さらに亀山(かめやま)砲台が破壊され、下関の市街にも数発が着弾して被害をうけた。

 ただし強襲をしかけたワイオミング号も無傷では済まなかった。長州側の砲撃によって20数発を被弾。死者5名、負傷者数名を出すに(およ)んだ。
 とはいえ、長州海軍の壊滅的(かいめつてき)な被害、さらに陸上での被害を見れば、長州側の惨敗(ざんぱい)であることは明白だった。
 満足する戦果(せんか)をあげたワイオミング号は意気揚々(ようよう)と横浜へ引きあげていった。


 この戦いの四日後、長州が新たな迎撃(げいげき)態勢を(ととの)える(いとま)もなく、フランスの軍艦二(せき)(セミラミス号とタンクレード号)が下関海峡へやって来た。
 この日の戦闘は一方的な展開となった。
 フランスの二隻は前田砲台と壇ノ浦砲台を砲撃。射程距離および火力の差で、これを難なく沈黙させた。この砲撃戦によるフランス側の被害は軽微(けいび)であった。
 その後フランスは250名の陸戦隊をボートに乗せて上陸作戦を敢行(かんこう)した。
 長州はわずかに小銃や弓矢で迎撃したものの、あえなく撤退。あっさりと陸戦隊の上陸を許してしまった。
 フランス陸戦隊は長州軍の武器庫を焼き、前田(まえだ)村の民家を焼き払った。また長州の大砲に(てつ)(くぎ)を打って使用不能にした。
 この時になってようやく長州の騎馬武者たちが下関から前田へ援軍(えんぐん)に向かった。しかし海岸沿いに進んでいた援軍はフランス艦から艦砲(かんぽう)射撃の(もう)(しゃ)を受けて、()()りになってすぐに引き返していった。
 そのためフランスの陸戦隊は長州からの抵抗も受けず、ゆうゆうと母艦(ぼかん)へ引き上げた。
 そして長州への報復(ほうふく)()たしたフランス艦隊は、長州側との交渉はひとまず取り止めにして横浜へと帰って行った。


 長州藩はこの攘夷戦争の直前に外国軍隊からの防御を考慮(こうりょ)して、海に面した従来の居城(きょじょう)(はぎ)から内陸の山口(やまぐち)へ本拠地を移転していた。
 攘夷戦争で思わぬ敗北をきっした藩主父子は、“東行(とうぎょう)”と称して隠遁(いんとん)生活を決め込んでいた高杉晋作を山口に呼び出した。
 藩主父子は高杉に下関の防衛策を(こう)じるよう命じた。
 これに対して高杉が答えた。
「有志の士を(つの)り、一隊を創立すべし。名付けて()兵隊(へいたい)といわん」
 こうして奇兵隊はここに誕生をみることになった。
 この(のち)、長州狂奔(きょうほん)の原動力として何度も激戦をくぐり抜けることになる奇兵隊は、この攘夷戦争が生み出した産物とも言えよう。



 この頃、戦争に向けて動き出していたのは長州藩だけではない。
 幕府も同じようにこの時、兵を動かしていた。
 五月二十七日、小笠原長行(ながみち)(ひき)いる幕兵(ばくへい)は、イギリス商人から高値(たかね)でチャーターした蒸気船二隻に横浜で乗り込み、一路(いちろ)大坂を目指した。総勢(そうぜい)約1,500人の軍勢である。
 小笠原の目的は二つあった。
 一つは京都に拘束(こうそく)されている将軍家茂(いえもち)を江戸へ連れ戻すこと。もう一つは、あわよくば京都の攘夷派勢力を一掃(いっそう)することである。

 横浜を出港した小笠原勢は、外国船で大坂に上陸することは(はばか)られるため、紀州(きしゅう)由良(ゆら)港で幕府の船に乗り換えて五月二十九日に大坂に上陸した。そして幕府軍はすぐに京都へ向けて進軍を開始した。

 この幕府軍には福地源一郎(げんいちろう)と、彼の上司にあたる水野忠徳(ただのり)も加わっていた。水野忠徳は(もと)外国奉行で、今回、小笠原の参謀(さんぼう)役として作戦に参加していた。余談ながら、福地は(のち)に自著で「幕末の三傑」として水野忠徳、岩瀬忠震(ただなり)、小栗忠順(ただまさ)の名前をあげている。
 今回の小笠原の率兵(そっぺい)上京は極秘裡(ごくひり)に計画が進められた。
 水野・福地の両者と親密(しんみつ)な関係にある幕府官僚・田辺太一(たいち)は「我々でさえ、この出兵計画にはまったく気がつかなかった」と(のち)に語っている。

 にもかかわらず、なぜかこの計画はすでに朝廷の知るところとなっていた。
 幕府軍の入京をおそれた()(ぎょう)たちは、すぐに京都の将軍や幕閣に、小笠原たちの入京をやめさせるよう命じた。

 在京中の将軍家茂(いえもち)や幕閣には「幕府軍で京都へ攻め込む」という決断など、もちろんできる訳がなかった。そのため小笠原の軍勢へ何度か使者を送り、上京を見合わせるよう説得につとめた。
 しかし(よど)まで来ていた小笠原たちは使者の説得を受け入れず、数日、()問答(もんどう)をくり返した。
 特に参謀(さんぼう)役の水野が小笠原を激励した。
「“承久(じょうきゅう)故事(こじ)”の再現を()さない覚悟が必要でござる!この機を(のが)せば千載(せんざい)()いを残しましょうぞ!」

 鎌倉幕府が後鳥羽(ごとば)上皇を軍勢でもってねじ伏せ、上皇たちを流罪(るざい)に処した“承久(じょうきゅう)の乱”を意識するほど、水野は強硬な姿勢だった。
 けれども入京禁止を命じる家茂自筆の書状が届けられ、小笠原は万事休(ばんじきゅう)すとなった。

 ただしこれと同時に朝廷は、家茂の江戸帰還を許可した。やはり小笠原の軍勢は朝廷にとってそれなりに脅威(きょうい)だったのだ。
 家茂は船で江戸へ戻るために、六月九日、京都を出発して大坂へ向かった。家茂は途中、淀にいた小笠原たちも回収して大坂へ入った。このあと家茂は大坂を出港し、六月十六日、約四ヶ月ぶりに江戸へ帰還した。

 結局小笠原の率兵上京は、家茂の江戸帰還は成功させたものの「京都(朝廷)の改革」という点では全くの失敗に終わった。
 そして小笠原は懲戒(ちょうかい)処分となり、職も罷免(ひめん)させられた。
「イギリスへの賠償金の支払い」「外国人追放令の宣告(せんこく)」「朝廷を(おびや)かした軍事行動」
 これらの汚名(おめい)を一身に引き受けて、小笠原長行(ながみち)は職を退(しりぞ)いたのであった。
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