第7話 イギリス艦隊、横浜集結

文字数 12,458文字



 前回の末尾で「物語は文久(ぶんきゅう)三年に突入する」と言っておきながら、少しだけ文久二年の()れの話にさかのぼる。

 高杉たちが御殿山(ごてんやま)のイギリス公使館を焼き討ちする三日前、幕府の外国奉行(ぶぎょう)・竹本正雅(まさつね)と神奈川奉行・浅野氏祐(うじすけ)の二人が横浜のイギリス公使館のニール代理(だいり)公使を訪問した。
 竹本はニールに言った。
「幕府は現在、朝廷を背後で(あやつ)っている二、三の攘夷派大名の陰謀(いんぼう)によって苦しめられている。御殿山で建設中の公使館を放棄(ほうき)して、別の場所へ移転してもらえないだろうか?」
 ニールは竹本に質問した。
「二、三の攘夷派大名とは誰のことか?」
 竹本は少し考えこんでからニールに答えた。
「……我々が話したということは必ず秘密にしてもらいたいのだが、それは薩摩と長州である」
「とにかく、今さら完成間近(まぢか)の公使館を放棄することなどできない。大君(タイクン)(将軍)は、朝廷の命令を拒否することができないのか?」
「将軍は朝廷の命令には従わなければならない。来春(らいしゅん)将軍が上洛する際、将軍が朝廷を説得して攘夷を(あきら)めさせるつもりである」
 竹本はこれに続けて、ニールにかなり突っ込んだ発言をした。
「もし説得に失敗した場合、内戦になる可能性が高い。その時貴国(きこく)は将軍を助けてくれるだろうか?」
 ニールは、表情(かお)にこそ出さなかったものの、内心かなりの衝撃(しょうげき)を受けた。ニールはこのとき初めて幕府の危機的な立場を思い知らされたのだ。
「……その時は、苦境(くきょう)に立つ大君(タイクン)政府をできる限りサポートするつもりである」

 そしてこの三日後、御殿山の公使館は高杉たちによって焼き討ちされたのである。

 あまりにタイミングが良すぎるため幕府が(みずか)ら焼いたか、あるいは少なくとも焼き討ちを黙認(もくにん)したのではないか?とニールは疑った(実際幕府はこのままウヤムヤにして焼き討ちを黙認したのでニールの疑いは当たっていないこともない)。
 とにかくニールは、急な事態に備えて「イギリス艦隊の横浜集結」を香港のキューパー提督(ていとく)要請(ようせい)した。

 御殿山の公使館を焼き討ちされて江戸居住(きょじゅう)の望みを()たれたサトウは、しばらくの間落胆(らくたん)してはいたものの、ちょうどその頃、横浜の公使館でウィリスの隣室が空いたのでサトウはそこへ移り住んでウィリスと共同生活を始めた。
 二人で建物の片隅(かたすみ)居間(いま)として使用し、料理人や召使(めしつか)いを共同で雇った。この居間ではサトウの日本語教師である高岡やウィリスの日本語の勉強相手である小林小太郎(こたろう)という少年も一緒に食事をして生活していた。小林少年は以前から公使館に住み込んで働いており、時々ウィリスに日本語を教え、代わりにウィリスから英語を学んでいた
 
 そして日本の(こよみ)でも年が明けた一月一日(1863年2月18日)、この頃から本国(イギリス)のラッセル外相よりニールのもとへ生麦事件の処理に関する指令が次々と届き始めた。
 その内容はニールもたじろぐ程、日本に対して強硬(きょうこう)なものであった。

 まず幕府に対しては
一、殺人事件に対する公式な謝罪を要求
二、犯罪に対する罰として10万ポンド(40万ドル)の支払いを要求
三、この要求を(こば)んだ場合、幕府の船舶(せんぱく)拿捕(だほ)ないしは海上封鎖(ふうさ)を実施する
 ちなみにこの10万ポンド(40万ドル)とは日本の通貨に換算(かんさん)すると約31万両で、およそ新式蒸気船四隻分の金額である。

 次に薩摩藩に対しては
一、イギリス士官立会(たちあ)いの(もと)、殺人犯を死刑に処する事を要求
二、被害関係者への賠償金として2万5千ポンド(10万ドル)の支払いを要求
三、この要求を拒んだ場合、薩摩藩の船舶の拿捕ないしは海上封鎖を実施する
 ただし、この薩摩藩への要求には(ただ)()きがあり「船舶の拿捕ないしは海上封鎖」にとどまらず
「ただし状況によっては薩摩藩主の居城(きょじょう)を砲撃することも含む」
 と書かれていた。

 この強硬な本国からの指令をニールは深刻に受け止めた。
 しかし救いとしては一月(ひとつき)前、御殿山の公使館が焼かれた直後に艦隊集結の要請を出してあったことだった。
 この時、すでに旗艦(きかん)ユーリアラス号以下のイギリス艦隊は香港を出発し、続々と横浜へ向かって移動中だった。
 第2話で生麦事件の当日たまたまユーリアラス号が横浜に到着していた場面があったが、実は当時キューパー提督は「日本の海上封鎖が可能かどうか?」を調査するためにやって来たのだった。
 調査の結果
「江戸湾と瀬戸内海の出入り口を押さえる事は可能で、それで十分日本に対する有効な圧力になる」
 と本国政府に報告していた。今回の指令に海上封鎖の指示があるのは、この調査に(もと)づいたものであった。

 その後、横浜には次々とイギリス艦隊の船が集結し始めた。
 そしてこのイギリス艦隊の集結から逃れるかのように(一応当初の予定通りではあるのだが)二月十三日、将軍家茂(いえもち)上洛(じょうらく)()につき、江戸から出て行ってしまった。
 当初は経費節減のため船を使って海路上洛する案もあったのだが、横浜に外国艦隊が集結している中、海路を進むのは危険として結局従来通り陸路で上洛することになった。
 ちなみにこの陸路上洛の費用は150万両かかったと言われている。

 江戸を出た翌日、京都を目指す将軍の一行は東海道の神奈川宿を通過した。
 そのころ横浜のイギリス公使館の居住区ではサトウとウィリスと高岡が居間で食事をしていた。
 ご飯とみそ汁とおかずで食事をしている高岡が、不機嫌(ふきげん)そうな表情でウィリスに言った。
「ウィリスさん。ご飯にジャムをかけて食べるのはやめてください」
「なんで?美味(おい)しいのに。高岡も試してみたらどうだ?」
「いいえ、結構です」
 サトウは二人のやり取りを無視して話を変えた。
「あーあ、東海道まで行って大君(将軍)一行の様子を見学したかったなあ」
 これにウィリスが答えた。
「それはやっぱり無理だろ。そもそもの問題の発端(ほったん)が東海道を通る大名行列で起きた事件で、しかもこの緊張関係の中で我々外国人が大君の行列に近づくのは無理さ」
「まあね。横浜の近くを通る大君の側も、我々イギリスのことを気にしてるだろうしね」
 横浜に無頼(ぶらい)な外国人が多いことを(うれ)いているウィリスがジャムかけご飯を食べながら愚痴(ぐち)っぽく言った。
「それにしても、もしリチャードソンたちの事件が無かったら、先頭には大君が、最後部には(みかど)がいるような行列でも、無頼(ぶらい)な外国人は平気で無礼(ぶれい)な事をやっただろうよ」

 将軍が江戸を出発した六日後、イギリス公使館の書記官ユースデンが船で横浜から江戸へ向かった。ニールからの通告を江戸の幕閣へ伝えるためだった。ただしこのとき江戸城は、責任者不在の“留守(るす)政府”状態だった。
 将軍上洛に先立(さきだ)ち、松平春嶽と一橋慶喜はすでに京都へ入っていた。さらに将軍上洛に伴って幕府首脳部も京都へ行ってしまい、江戸は責任者不在の状態となっていた。

 イギリス本国からの指令を受けたニールは、幕府へ対して正式な要求書を突きつけた。
 その内容は要約するとおおむね次の通りである。
・生麦事件の謝罪と、その賠償金10万ポンド(40万ドル)の支払いを要求
・さらに保留中だった第二次東禅寺(とうぜんじ)事件の賠償金1万ポンド(4万ドル)の支払いを要求
・回答期限は20日間(1863年4月26日=文久三年三月九日まで)
 最後に、要求が拒絶された場合「日本は非常に悲しむべき結果に見舞われることになるであろう」と書かれていた。

 ちなみにこのニールの通告書を翻訳した役人の中に福沢諭吉もいた。福沢は自身の手記で次のように書いている。
「二月十九日、長々とした公使の公文が来た。その時に私共が翻訳する役目に当たっているので夜中に呼びに来て(中略)三人で出掛けて行って夜の明けるまで翻訳したが、これはマアどうなることだろうか、大変なことだ、と(ひそ)かに心配した」

 将軍家茂は三月四日に入京した。
 三代将軍家光(いえみつ)以来230年ぶりの将軍上洛である。ただし家光の頃と違って今回は朝廷から呼びつけられる形での上洛であり、将軍はこのあと朝廷や尊王攘夷派から散々苦しめられることになる。
 この将軍上洛に先立(さきだ)って、清河(きよかわ)八郎(はちろう)たちの「浪士組(ろうしぐみ)」がすでに入京していたことは「新選組(しんせんぐみ)」のエピソードとして有名な話であろう。そして清河は幕府をあざむき、将軍警護のためと称して集めてきた浪士組を朝廷直属の攘夷組織へと改変し、この後「横浜襲撃」をくわだてるのである。
 これに異議(いぎ)を唱えた近藤(こんどう)(いさみ)芹沢(せりざわ)(かも)たちは会津藩主で京都守護職の松平容保(かたもり)に後ろ(だて)を求め、後の新選組の誕生へと繋がっていくことになる。
 すでに浪士組が入京した際に足利(あしかが)三代将軍(尊氏(たかうじ)義詮(よしあきら)義満(よしみつ))の木像の首が加茂川(かもがわ)の河原にさらされ(もちろんこれは徳川幕府へ対する嫌がらせであり、浪士組の隊士たちもこれを目撃している)、その少し前には佐幕派と見られていた池内(いけうち)大学(だいがく)賀川(かがわ)(はじめ)などが京都で暗殺されていた。

 将軍上洛の前に入京していた一橋慶喜と松平春嶽は朝廷と折衝(せっしょう)(かさ)ね、これまで通り幕府に「大政(たいせい)」を委任するよう働きかけていた。
 そして当然のことながら生麦問題も懸案(けんあん)事項の一つとして朝廷へ報告された。この頃にはニールの通告内容が江戸から京都に届いていたのである。

 慶喜は朝廷に対して次のように進言した。
「イギリスはこの様に申しておりますから、賠償金を支払わねば必ず戦争になります。ですが我が方の武備(ぶび)の充実はまだまだ不十分で必勝の見込みは全く立っておりません。もし戦えば皇国(こうこく)全土が焦土(しょうど)と化す恐れがございます。その事を主上(しゅじょう)(孝明天皇)にもお覚悟して頂くために何卒(なにとぞ)御前(ごぜん)にて奏上(そうじょう)することをお許し頂きたい」
 しかし慶喜の願いは聞き入れられず、とうとう幕府は在京の諸大名に対して次のような通達を出した。
「イギリスの申し立ては受け入れ(がた)く戦争になる可能性が強い。従って各藩は自国へ帰って粉骨(ふんこつ)砕身(さいしん)、戦争に備えよ」
 尊王攘夷の気運が激しいご時世(じせい)の中、イギリスへの賠償金の支払いを認めるなどと朝廷はもちろんのこと、幕府でさえも言い出せる雰囲気ではなかったのである。
 そして三月三日には関白(かんぱく)鷹司(たかつかさ)輔煕(すけひろ)から清河の浪士組に対して「江戸でイギリスとの戦争に備えるように」との通達も(くだ)された。


 イギリス艦隊の横浜集結以来、江戸の住民は激しく動揺(どうよう)していた。妻子(さいし)を田舎へ避難させたり、家財道具を大八車で田舎へ運び去るなど、上を下への大騒ぎとなっていた。
 もちろん横浜の住民も動揺していた。
 日本人は次々と横浜の店をたたんで去って行き、外国人居留民(きょりゅうみん)たちは「緊急時」のために備え、何度も住民集会を開いて打ち合わせをする、という状況だった。

 そしてサトウと高岡が横浜の先行きについて話し合っている時、小林少年の母親がやって来て彼を連れて行ってしまった。
 小林少年の母親と対応した高岡が部屋へ戻ってきてサトウに言った。
「小太郎は母親が連れて行ってしまいました。しばらく田舎へ避難するそうです」
「わかりました。それで、幕府は賠償金を支払うのか、戦争を選ぶのか、高岡さんはどう思いますか?」
「これは私の個人的な見解(けんかい)ですが、幕府はとにかく時間稼ぎを狙っているようです。その間に防御を固めるつもりなのでしょう。そして最後には必ず戦争になる、と私は思います」
 サトウは暗澹(あんたん)たる気持ちになった。

 イギリスが設定した回答期限である1863年4月26日(文久三年三月九日)の二日前、神奈川奉行の浅野がニールを訪問した。
 浅野はニールに訴えた。
「現在、将軍や幕閣が京都へ行っているので、回答するにはどうしても時間がかかるのです。是非(ぜひ)あと30日間、期限を延長して頂きたい」
 ニールは厳しい表情で答えた。
「いや、30日も待てない。どうしてもと言うのであれば、あと15日だけ猶予(ゆうよ)を与える」
 こういったやり取りがあって、回答期限は5月11日(三月二十四日)まで延長されることになった。

 このころ横浜にはイギリス艦隊の船が十数(せき)集まっていた。そしてフランス極東艦隊の旗艦(きかん)セミラミス号もそこへ合流した。
 フランスは生麦事件に直接関係はないのだが、フランスのベルクール公使やジョレス提督はイギリスに同調し、日本と戦う姿勢を示したのだった。
 フランスのジョレス提督はイギリスのキューパー提督と会見して次のように宣言した。
「私はあなたを助けて、日本と存分に戦うつもりだ」
 そしてベルクール公使は幕府に対して屈服(くっぷく)するように(おど)しをかけた。

 福沢諭吉はこの時のフランスの対応を次のように語っている。
「ベルクールという者がどういう気前だか知らないが、大層(たいそう)な手紙を幕府に出してきて、今度の事についてフランスは全くイギリスと同説だ。いよいよ戦端(せんたん)を開く時にはイギリス共々、軍艦をもって品川沖を暴れ回る、と乱暴な事を言うて来た」
 幕末の英仏関係でよく言われるのは
「イギリスが薩長を、フランスが幕府を支援して英仏は対立関係にあった」
 というものだが、それはフランス公使がベルクールからロッシュに代わった後の話である。

 それからしばらくしてイギリスのニールとキューパー、フランスのベルクールとジョレスが横浜で四者会談をおこなった。
 ベルクールは次のように主張した。
「我々の権益(けんえき)を確保するための方法は二つしかない。日本全体と戦争するか、あるいは幕府を援助して幕府の敵対勢力、すなわち攘夷派を叩くか、この二つである。おそらく幕府は我々の援助を受け入れるのではなかろうか?」
 ニールは以前、外国奉行の竹本正雅から「もし説得に失敗した場合、内戦になる可能性が高い。その時貴国(きこく)は将軍を助けてくれるだろうか?」と言われたことを思い出した。
 ニールはベルクールの主張に対して次のように答えた。
「幕府が素直に賠償金を支払うことが一番望ましい。しかし内戦に深入(ふかい)りしないという前提であれば、その提案も可能だろう」
 ニールとしては、これでもかなり踏み込んだギリギリの選択であった。

 出来ればニールも日本との開戦には踏み切りたくないのである。
 日本の内戦に介入することは本国政府から(いまし)められており、なんとか威嚇(いかく)だけで幕府が屈服してくれることを望んでいた。
 もし日本と開戦した場合、横浜はもちろんのこと、同時に長崎と箱館(函館)の居留民の安全もニールは確保しなければならない。
 ところが「その安全を確保するだけの戦力は到底(とうてい)イギリスには無い」と隣りにいるキューパー提督から断言されており、もし開戦となった場合、居留民は全員停泊中(ていはくちゅう)船舶(せんぱく)に緊急避難させるしか方法がないのである。

 居留民の安全確保と貿易の権益確保のため、開戦の決断はなるべく先送りしたい、というのがニールの本音(ほんね)であった。


 将軍上洛の数日後、高杉晋作と志道(しじ)聞多(ぶんた)が入京した。
 二人は長州藩士がよく利用している池田屋に入った。むろん、この池田屋は翌年新選組が討ち入る、あの池田屋である。
 この二人が入京したのであるから、二人がこのあと何日間も花街(はなまち)で遊び回っていたのは言うまでもない。
 もしこれに伊藤俊輔(しゅんすけ)が加わっていたならば、その遊興の度合(どあ)いが更にふくらんだことは間違いない。
 しかしこのとき俊輔はまだ入京していなかった。彼は江戸で桂の(めい)を受けて尊王攘夷の本場・水戸へ行き、水戸の志士たちを京都へ連れて行く引率(いんそつ)(かか)りとなって、この頃ちょうど京都へ向かっている最中だった。

 前年の暮れに高杉、久坂、聞多、俊輔たちが御殿山を焼き討ちした後、高杉と俊輔はそのまま江戸にとどまっていたが、聞多は焼き討ちの嫌疑を避けるために、というよりも祇園(ぎおん)(きみ)()と会うために、さっそく京都へ向かった。
 久坂は焼き討ちの直後、佐久間象山(しょうざん)と会うために信州(しんしゅう)松代(まつしろ)へ向かった。象山は松陰の師だったのだから久坂にとっては「師のさらに師」ということになる。
 このころ象山は九年ぶりに蟄居(ちっきょ)(罰としての自宅謹慎(きんしん))の身から解放されようとしていた。蟄居の原因は、九年前に松陰が下田で黒船に乗って「密航」しようとしたのを助けたからであった。
 その自由の身となる象山を長州へ招聘(しょうへい)するために久坂は象山と会ったのだ。けれども象山は長州藩の申し出を断った。
「長州が言うような今すぐの攘夷は不可能である。今は海外の進んだ技術を取り入れて武備(ぶび)の充実および海軍の強化を(はか)るしかない」
 というのが象山の回答だった。
 このあと久坂は松代から京都へ入り、この池田屋で聞多に象山の話を伝えた。

 聞多がイギリスへの「密航」を考えたのは、この象山の発言を聞いたことが原因である。

 とまあ、一応一般的にはそのように言われているし、ほとんどの歴史書がそのように書いている。
 けれども筆者は疑問に思う。
 「武備の充実、海軍の強化」などということは、この当時誰でも考えていたことだ。
 桂も高杉も、その他の藩士たちも、皆そんなことは当然考えていた。そして桂も高杉もヨーロッパへ行きたがっていた。しかしこの二人は藩の中枢(ちゅうすう)にいたためヨーロッパへ行くことを藩が許さなかった(高杉が上海へ行くのがせいぜいだった)。

 そもそも海外へ行くためには幕府の許可がない限り「密航」して行くしか方法がないのである。
 聞多の着眼点で一番重要なのは、この「密航」という手段を本当に実行しようとした、という点にこそあるのではないか?

 まともな人間であれば、こういった発想は普通出て来ないはずで、また仮に思い浮かんだとしても実行に移そうとは思わないであろう。バレれば幕府から重罪として(とが)められるのだから。
 しかも更に悪いことに、長州は「攘夷」を標榜(ひょうぼう)する最右翼(さいうよく)の藩なのだ。
 もしこの「密航(洋行)」が世間に()れれば「裏切り行為」として非難殺到となるのは必定(ひつじょう)である。

 この異常な神経の持ち主である聞多でなれければ「密航」など、とても実行に踏み切ろうとは思わないであろう。
(そういえば象山は松陰の「密航」に連座(れんざ)して蟄居になってたんだよな。ん、待てよ?「密航」?そうか!海外へ行きたければ「密航」すれば良いじゃないか!どうせ御殿山を焼き討ちしたんだから今更これ以上「密航」の罪を恐れるのも無意味だ。いや、むしろ海外へ逃げたほうが安全かも知れない)
 おそらく聞多の思考回路としては、こんなところだったろう。

 聞多は高杉にこのイギリスへの密航案を伝えた。
 すると高杉はすぐに賛成した。この男も普通の神経の持ち主ではないのである。
 そして久坂にも伝えたところ、やはり久坂は反対した。「イギリス公使館を焼き討ちしたばかりなのに、そのイギリスへ行ってどうするんだ?」と。
 後世の人間から見れば、この久坂が反対した態度は頑迷(がんめい)に見えるかも知れない。しかし当時の感覚からすれば久坂の判断は当然だったと言えよう。
 久坂たちからすれば幕府を窮地(きゅうち)に追いつめることが最優先なのだ。何年もかけてイギリスへ留学させて技術者を育てている余裕(よゆう)は(その時間も金も)ない。そんなものが倒幕(とうばく)の役に立つのか?と。しかもバレれば藩が窮地に(おちい)るのだから反対するのは当然だろう。

 しかしそれでも聞多はなんとか久坂を説得した。
 さらに聞多は直接藩主慶親(よしちか)にこの話を言上(ごんじょう)した。聞多は以前慶親の小姓(こしょう)をしていたのでこのような強引なこともできた。
 けれども慶親は「そんな話は直接藩主に願い出るものではない」と聞多を(さと)した。当たり前の話であろう。こんな無茶な話を「そうせい」と言う訳がない。
 ただし聞多はこれを「不許可とされた訳ではない」とポジティブに受けとめて「いずれ藩の重役を説得してやろう」と考えた。そして慶親は「その話はそれまでとして、江戸にいる高杉を京都へ連れて来るように」と聞多に命じた。
 聞多は藩主からの命で高杉を江戸から連れて来て、前述の通り京都の池田屋へ入った。そして二人は連日花街(はなまち)で遊び回っていたという訳である。


 数日後、池田屋にいる高杉と聞多のところへ入江(いりえ)九一(くいち)野村和作(のむらわさく)の兄弟がやって来た。入江と野村は松下村塾出身で高杉とは知友(ちゆう)の仲である(ただし身分は俊輔同様、高くない)。
 この兄弟は松陰から高く信頼されていたが、特に入江のほうは高杉、久坂、吉田稔麿(としまろ)と並んで(ぞく)に「松下村塾の四天王」と言われている。兄弟で姓が違うのは弟の和作が野村家へ養子に出たからである。
 入江は(きび)しい表情で高杉に迫った。
「今この京では(わか)殿(との)定広(さだひろ))はじめ藩の有志者(ゆうししゃ)たちが国事(こくじ)奔走(ほんそう)しているというのに、なぜ君たちは妓楼(ぎろう)で遊んでばかりいるのだ」
 高杉は(ごう)(ぜん)とした表情で答えた。
「幕府に攘夷督促(とくそく)周旋(しゅうせん)するなど、そんなまどろっこしい事はいくらやっても無駄だ」
 入江はムッとしつつも高杉に忠告した。
「とにかく君たちの遊興は目に余る。我々国事に奔走するものは遊興を(つつし)まねばならん。これから妓楼(ぎろう)へ出入りする者は切腹させることにした。君たちにもそれを了承してもらいたい」
「切腹を怖れて女郎(じょろう)買いもできない軟弱な男に何ができるか!俺は今からさっそく妓楼へ行くぞ!止められるもんなら止めてみろ!」
 高杉はそう激しく言い返すと、そのまま部屋から出て行った。

 聞多はヤレヤレといった表情で入江に対して言った。
「お前たち、高杉とは付き合いが長いくせに、あんな風に言ったら逆効果なことも分からんのか」
 入江は悔しそうな表情で言った。
「今、我が藩は本当に大事な時期を迎えているのだ。あいつが一度(ひとたび)動けば大きな力を発揮するのに……。なぜ素直に国事に(はげ)まないのか」
「まあ、あいつはやる時にはやる男だから、多少の女遊びぐらいは大目に見てやれよ」
「“多少”じゃなかろう。あんたも含めて」
(こま)かいことを言うな。そんなケツの穴が小さい料簡(りょうけん)じゃ我が藩は志士たちからの声望(せいぼう)を得られんぞ。……それはそうと俊輔から聞いたんだが、お前たちの妹が俊輔のところへ(とつ)いだそうだな」

 これを聞いて、入江と野村の表情が一層(いっそう)暗くなった。入江が答えた。
「そうなのだ……。すみ子もかわいそうに……」
 聞多は苦笑いをして言った。
「あんな女好きでスケベエな男に嫁ぐ女は、どこの誰であれ残念ながら幸せになれるとは思えんな。あいつが将来出世でもすれば話は別だが……」

 俊輔はこの年の一月に萩の父・十蔵(じゅうぞう)から「こちらの家でお前の嫁を迎えるつもりだが、お前は構わないか?」と手紙で尋ねられ「あいにく私は当分帰れそうにありませんが、家で嫁を迎える分には構いません」と返事の手紙を出した。
 現代の感覚からすると随分といい加減な「嫁取り」のように見えるかも知れないが、これは当時長州藩にあった「()()()け」という習慣によるものである。当時は「家」を重視する社会だったので現代のような恋愛結婚はほとんどなく、父母が結婚相手を決めるのが普通だった。この「()()()け」は父母が遠方(えんぽう)で働いている息子の嫁を、先に家へ迎え入れておくという習慣である。

 入江兄弟は俊輔と同じ松下村塾出身者である。それゆえ俊輔が入江兄弟の妹であるすみ子のことを知っていた可能性がない訳ではないが、その後の手紙のやり取りなどを見る限り、俊輔のすみ子に対する関心がそれほど高かったようには思えない。
 ともかくも、すみ子は萩の伊藤家へ入り、一応これで俊輔は既婚者(きこんしゃ)ということになったのである。


 それから数日後、まだ俊輔が京都に到着する前の三月十一日、京都では“賀茂(かも)(しゃ)行幸(ぎょうこう)”が挙行(きょこう)された。
 行幸とは天皇が皇居を出て外出することをいう。在位中の天皇の行幸は二百数十年ぶりの事だったので多くの人々が(みやこ)大路(おおじ)に参集し、(みな)神仏を(おが)むように祈りを(ささ)げた。
 この行幸は天皇が賀茂神社で攘夷祈願(きがん)をするための式典だった。
 ただし狙いは攘夷祈願だけではなく、幕府の権威失墜(しっつい)を世間に見せつける狙いもあった。この行幸の行列には将軍家茂および幕閣、さらに在京の諸大名なども随行(ずいこう)してお供をした。
 この時、馬に乗った将軍家茂のすぐ近くから高杉が
「いよっ、征夷(せいい)大将軍(たいしょうぐん)!」
 と声をかけたエピソードは有名であろう。
 この高杉のヤジが幕府の権威失墜にどれほど影響があったのかは定かではない。おそらくそれよりも、この行幸においては将軍家茂も孝明天皇の鳳輦(ほうれん)(天皇が乗る輿(こし))に対しては頭を下げざるを得ず、その場面を世間に見せつけた事こそが一番端的(たんてき)に幕府の権威失墜を象徴していたであろう。

 この賀茂社行幸を画策(かくさく)したのは長州藩だった。
 それは京都の一般民衆も承知しており、初めて天皇の鳳輦を(おが)むことができ、「これは本当に長州様のおかげだ」と口々に感謝していたという。
 このあと高杉は何を思ったか、頭を()って東行(とうぎょう)と名乗り(西行(さいぎょう)法師(ほうし)にあやかったものだが、これも有名なエピソードであろう)十年の賜暇(しか)を願い出た。藩はそれを許し、高杉は自由な()を得ることになった。



 一方横浜では三月も中旬を過ぎて回答期限の三月二十四日(5月11日)が近づきつつあり、住民たちの混乱はそのピークを迎えようとしていた。
 特に日本人住民たちは幕府の朝令(ちょうれい)暮改(ぼかい)によって右往(うおう)左往(さおう)させられていた。
「イギリスと戦争になった時には家屋(かおく)を明け渡せ?」
「この前、お(かみ)から『戦争は起きないから安心せよ』という通達があったばかりではないか!」

 こういった幕府の場当たり的な通達に振り回され、日本人住民の横浜からの流出は歯止めがかからなかった。さらにこの混乱の中で火事場泥棒(どろぼう)的な騒ぎも頻発(ひんぱつ)した。商取引のトラブルで日本人が外国人から銃で撃たれて負傷するという事件が発生したり、逆に日本人が外国人を刃物で脅すといった事件も発生していた。
 戦争が近づきつつあった横浜は、まったくカオスな状態に(おちい)ってしまったのだった。

 そしてその被害はサトウの住居にもおよぶことになった。
 ある日の朝のこと、ウィリスがサトウと共同で使っている居間へ入ってくると、サトウと高岡があわてて何かを探している場面に出くわした。いつも料理人と召使(めしつか)いが用意している朝飯も、まだテーブルには置かれていなかった。
 ウィリスは二人にたずねた。
「あれ?朝メシは?」
 サトウはえらい剣幕(けんまく)で答えた。
「それどころじゃない!料理人と召使いが逃げた!金とか食器とか、いろいろ持ち逃げしたらしい!」
「ええっ?本当か!」
 そのとき高岡が「あっ!サトウさん!」と叫んだ。サトウとウィリスは同時に高岡のほうを振り向いた。
小銭(こぜに)入れは大丈夫でした!」
 高岡は(うれ)しそうに小銭入れをサトウに見せた。
 サトウは苦笑いをしながら答えた。
「ハハハ、そうですか……。それは良かったですね……」

 後年サトウは次のように手記で語っている。
「料理人や召使いはピストル、日本刀、また銀だと勘違いしていたスプーンやフォーク、さらには昨晩の飯の残りまで持って逃げていった。この前々日、両替用として召使いに預けておいた多額の日本貨幣(かへい)をわざわざ私に返している事を考えると、この盗みはまことに奇妙なものだった」

 こういった騒動が横浜でくり返されている最中(さなか)、横浜に停泊中のユーリアラス号の艦内で日英仏の会談がおこなわれた。
 ニールは外国奉行の竹本正雅(まさつね)に対し強く抗議した。ちなみにサトウはまだ正式な通訳官になっていないので、この会談には参加していない。
「今の横浜の混乱は目に余るものがある。幕府が通達を出して、日本人の流出を止めることは出来ないのか?」
 竹本は答えた。
「あなた達が『この横浜で戦争はしない』と明言(めいげん)してくれれば、日本人の流出は止まるだろう」
 竹本はベテランの外国奉行でなかなか老練(ろうれん)である。ニールはムッとしたが、すぐに話を変えた。
「……ところで、幕府は賠償金を支払う意思があるのか?」
「幕府としては支払いに応じる用意はある。ただし“賠償金”の名目ではなくて、例えば『イギリスに発注した艦船が日本に届く前に沈没した』という名目での支払いが好ましい」
 ニールは厳しい表情で言い返した。
「それはダメだ。日本人の蛮行(ばんこう)によってイギリスの名誉と威信(いしん)が傷ついたことに対する賠償金でなければ意味がない」
 竹本は反論した。
「しかし“賠償金”として支払えば、攘夷派が蜂起(ほうき)して日本は内戦になってしまうのだ」
 ここでフランスのベルクールが意見を挟んだ。
「幕府の苦境は我々も承知している。幕府が本気で攘夷派を壊滅(かいめつ)させるつもりであれば、我々二国は幕府に対して軍事援助をする用意がある」

 竹本はこのベルクールの申し出を聞いて、表情が真っ青になった。
 竹本はしばらく沈思(ちんし)黙考(もっこう)して、そして答えた。
「その申し出はありがたいが、幕府は自分たちの力で攘夷派を屈服(くっぷく)させたいし、屈服させるつもりである」
 これに対してニールが意見を述べた。
「もし我々の提案を拒否するのであれば、今後いかなる事態が起きても一切の責任は幕府にある。それでも提案を拒否するのか?」
 竹本は苦しい表情で答えた。
「とにかく、今しばらく時間を頂きたい。もし英仏による軍事援助の話が外部に()れれば、ますます攘夷派がいきり立って幕府は危機に直面することになる。この件は極秘事項なので文書でやり取りすることはできない。私が直接京都へ行って将軍に相談するので、今しばらく回答期限を延長して頂きたい」
 結局、再度期限を延長して、5月23日(四月六日)に回答するということで、この日の会談は終了になった。


 しかしこの頃、京都の幕府首脳部は混乱の(きわ)みにあった。
 当初、将軍家茂の京都滞在は十日間の予定だった。それに対し長州などの攘夷派は将軍の京都引き止めを画策(かくさく)した。一方、逆に幕府側でも「京都守護のために将軍は滞京すべき」と主張する会津などの勢力がいて、結局将軍の京都滞在は長引くことになった。
 そして攘夷派は前回の“賀茂社行幸”に引き続き、今度は“石清水(いわしみず)八幡(はちまん)行幸”を画策し、再度将軍も行幸に供奉(ぐぶ)するよう勅命(ちょくめい)が下った。もちろんこれも画策したのは長州藩だった。

 政事(せいじ)総裁職の松平春嶽は、辞表(じひょう)を提出した。
 開国もならず、攘夷もならず、さらに朝廷から「大政(たいせい)委任」も拒否された幕府は「もう“大政(たいせい)奉還(ほうかん)”するしかない」と幕閣に訴え、春嶽は辞表を提出したのである。
 そして春嶽は三月二十一日、その辞表の正式な受理(じゅり)を待たずに勝手に福井へ帰って行った。

 その数日前には薩摩の島津久光(ひさみつ)が入京していた。
 イギリス艦隊の「生麦報復(ほうふく)」に備えて薩摩に帰っていた久光だったが、孝明天皇から度々上京を求められ、短期間だけ上京したのだった。
 しかし公武合体派である久光にとって、長州主導の尊王攘夷派が強すぎる京都では、しかも短期間の滞在では()(すべ)がなかった。
 久光は四日後に京都を去り、そしてさっさと帰国してしまった。
 いつ薩摩にイギリス艦隊が襲来(しゅうらい)するとも限らず、長く留守にすることはできなかったのだ。
 さらに土佐の山内容堂(ようどう)も京都を去って帰国してしまった。
 結局京都の幕政はただ一人、一橋慶喜(よしのぶ)の肩に背負わされる形になったのである。


 そしてこの頃すでに清河(きよかわ)八郎(はちろう)たちの浪士組(ろうしぐみ)も京都を去って江戸へ向かった。
 清河は近藤勇や芹沢鴨から命を狙われていたのだが、それを上手くすり抜けて江戸へ向かった。
 清河の最終目的は、以前少し触れたように、「横浜襲撃」である。
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