第5話 武州金沢襲撃事件

文字数 11,820文字

 この頃、俊輔の友人である志道(しじ)(ぶん)()(後の井上(かおる))は横浜で英学修行をしていた。

 長州藩は聞多たち数人に横浜での英学修行を命じ、藩がイギリスのジャーディン・マセソン商会から買ったランスフィールド号に乗せて航海術の修行もさせていた。
 この船については「サトウが来日した時に乗っていた船である」ということを以前書いた。実は元々この船は同商会が薩摩藩へ売ろうとしていたのだが(その交渉を担当していたのは薩摩の小松帯刀(たてわき)だった)その直後に生麦事件が発生したためイギリスの商社である同商会としてはイギリス人を斬った薩摩藩には売れなくなってしまい、それを長州藩が買い取ったという経緯(けいい)があった。

 この買い取り交渉をしたのが横浜で長州藩の御用達(ごようたつ)をしている伊豆(いず)(くら)商店の番頭の佐藤貞次郎(さだじろう)で、さらには聞多であった。代金は11.5万ドルで、この船は購入後“(じん)(じゅつ)(まる)”と名付けられた。長州藩は自藩の船の名前に配備された年の干支(えと)を付けるようにしており、この文久二年(1862年)の干支である(じん)(じゅつ)を船名として付けたのである。

 この日、聞多の修行仲間である山尾(やまお)庸三(ようぞう)が横浜の伊豆倉商店へ来て、ここへよく立ち寄る村田蔵六(ぞうろく)(後の大村益次郎(ますじろう))と店の中で談じ込んでいた。
「やはり村田先生が(おっしゃ)っていた通り、外国人の船長を解雇したのは失敗でした。我々だけではあの蒸気船を上手く動かせません。蒸気を()くことすらまだ満足にできませんし、ようやく船が動いたと思ったら後ろへ進みだすやら(いかり)は上がってないやらで、まったく先が思いやられます」
 これに対し村田は()()なく答えた。
「上手くいかないのは当たり前です」

 壬戌丸は最初、外国人の船長を雇って船の動かし方を習っていたのだが「攘夷を標榜(ひょうぼう)する我が長州が外国人を雇うなどもっての(ほか)である。即刻解雇すべし」という意見が強くなり、そのあと日本人だけで修業することになったのだった。このとき村田は外国人の船長を解雇することに反対していた。

 山尾は俊輔と同じく武士の身分ではない。
 奉公人(ほうこうにん)の身でありながら武士になることを志して江戸へ出て、長州藩と縁故(えんこ)のある斎藤弥九郎(やくろう)の剣術道場「練兵館(れんぺいかん)」に入って桂小五郎と知り合い、その下で働くことになった。そのあと箱館(はこだて)奉行(ぶぎょう)の所属船亀田丸(かめだまる)でロシアのニコラエフスクへ行ったり、箱館(函館)で洋学を学んだりした。俊輔も長崎で洋式軍学を学んだ経験があり、しかも同じ桂の下で働いているということもあってこの両者はなんとなく境遇(きょうぐう)が似ている。

 村田は以前、神奈川宿でヘボンに英語を学んでいたが、この頃ヘボンは横浜へ移ってきていた。ヘボンが建てた「ヘボン邸」は現在写真が残っており、場所を見ると谷戸(やと)(ばし)のすぐ近くにあり、居留地(きょりゅうち)20番にあったイギリス公使館のすぐ近くにある。そこに村田もしばらく通ったものと思われる。
 村田は山尾にたずねた。
「諸君らは藩から英学修行の費用として百両を下げ渡されたそうだが、聞くところによると港崎(みよざき)遊郭(ゆうかく)あたりでほとんど使い果たしたとか……」
 港崎(みよざき)遊郭(ゆうかく)とは当時横浜にあった遊郭の総称のことである。有名な店としては岩亀楼(がんきろう)があるが、ここは外国人向け遊女(ゆうじょ)(いわゆるラシャメン)専用の店であり、それ以外にも日本人向けの遊郭が十数件あった。
「ああ、知ってたんですか……。いや、軽輩(けいはい)の身である私がそんなところへ自分から行くわけがないでしょう?すべて聞多が悪いんです。あいつは金使いの感覚が鈍いのか、後先(あとさき)考えずにしょっちゅう遊郭へ()りだして女たちに金を散財してしまうんですよ」
「最近高杉君たちが『外国公使を斬る』などと言って騒いでいるとか……。しかしまあ洋学を志している君には多分、無縁な話だろうね」
 山尾は少し答えに悩んだあげく、(しぼ)り出すように言った。
「……ですが、高杉さんや聞多も決して洋学嫌いという訳ではないんですよ。でも、私には攘夷や開国といった難しいことはよくわかりません。とにかく我々が船を動かすためにはもっと航海術を学ばなければなりません。一番良いのは私自身が海外へ行って修行することですが、私の身分ではおそらく洋行は難しいでしょう……」

 英語のことわざで「悪魔の話をすれば悪魔が現れる」というのがある通り、この聞多の話をしている時、まさに聞多が山尾と村田の前に現れた。
「おっ山尾、ここにおったんか。ちょうど良かった。ようやくイギリス公使たちの金沢(かなざわ)見物のことが……。あっ、これはこれは、村田洋学先生もおられたんですか。どうもご無沙汰しております」
 聞多は山尾に途中まで言いかけたが村田が同席していることに気がつき、話を途中でやめた。
 そして村田に辞去(じきょ)のあいさつをして山尾を店から連れて行ってしまった。
 一人残った村田は怪訝(けげん)な表情で二人を見送った。
(イギリス公使の金沢見物……?)



 この日の夜、同じ横浜にいるサトウはいつものバーでウィリスと酒を飲んでいた。
「せっかくのクリスマスシーズンだというのに家族とも会えず、この横浜で寂しく過ごしている我ら二人の独身野郎に乾杯だ」
 そう言って(さかずき)を差し出してきたウィリスに、サトウは笑って乾杯した。
「今夜は艦隊の乗組員たちが大挙(たいきょ)して岩亀楼(ガンキロー)へ遊びに行ってるみたいだな。サトウはついて行かないのか?あそこは別に女を買わなくてもストリップショーが見れるぞ」
 当時横浜にいた(ぼう)イギリス人が「岩亀楼では若い(おど)り子たちが歌に合わせて『ヤア、ヤア、ヤア』と声をあげながら衣装を一枚ずつ脱ぎ捨てていくショーをやっており、イギリス艦隊の提督(ていとく)と士官たちがそれを鑑賞して大いに楽しんだ」といったような記録を残している。
 そのウィリスの質問にサトウが笑って答えた。
「ハハハ。別にストリップショーなんかわざわざ金を出して見に行かなくても、日本人はいつもそこらじゅうで裸をさらしているじゃないか。今は冬だからほとんど見かけないけどさ」
 実際、当時の日本人は裸に対する羞恥(しゅうち)(しん)というものがまったく無く、当時訪日(ほうにち)した外国人が日本人の裸を見てビックリしたという記述を数多く残している。銭湯でも混浴(こんよく)は珍しくなく、外国人の目からすればまったく(うらや)ま……、いや「けしからん」と感じたことであろう。

 サトウも以前横浜の近くを馬で散策していた時に、通りかかった民家の庭で若くて美しい娘が露天風呂に入っている光景を目撃した。そして事もあろうにその娘は、珍しい外国人のサトウに興味を持ったのか素っ裸(すっぱだか)のままでサトウの近くまで飛び出して来たのだ。
 サトウは当惑(とうわく)のあまり馬から(ころ)げ落ちそうになったが、なんとか馬を疾駆(しっく)させてその場から逃げ去った。
 当時外国人たちが馬で出かける時は「別手組(べつてぐみ)」という幕府騎馬隊の護衛が付くことが多かった。この時もサトウには数人の別手組が付いていたが彼らはサトウの様子をからかって
「今晩は岩亀楼へでも行きますか」
 と笑ってサトウを冷やかした。
 別に彼らには悪意があった訳ではない。当時の日本男性からすれば女郎(じょろう)()いなど外食に出かける程度の感覚で、別に(はじ)でもなんでもなかった。
 けれどもサトウは西洋人で、しかもこのとき彼はまだ十九歳だった。純情(じゅんじょう)なのである。
 すぐさま別手組の連中に向かって
「それ以上いやらしいことを言うと承知しないぞ」
 と言って彼らを黙らせたのだった。
 サトウは「岩亀楼に行って女郎を買う」ということにも抵抗はあったが、それより何よりこの当時のサトウは勤めだしたばかりだったので金も無かった。

 そして実はウィリスも金が無かった。
 サトウは以前、岩亀楼のことでウィリスに質問してみたことがあった。
「この前ワーグマンが『あの岩亀楼というのは“若い婦人の教育所”だよ』って言ってたんだけど……」
 その話を聞いてウィリスは爆笑した。ちなみにワーグマンというのは風刺(ふうし)漫画誌『ジャパン・パンチ』を創刊したことで有名な絵描きである。牛の背に乗って横浜の街路を()り歩くという奇行癖(きこうへき)のある男だったがサトウの友人で、この当時はイギリスに一時帰国中だった。
「ハハハ。そりゃ、ワーグマンにからかわれたんだよ、サトウ。確かに日本の遊郭では小さい頃から遊女(ゆうじょ)に教育を受けさせるケースもあるようだが、売春(ばいしゅん)宿(やど)である事に変わりはない。岩亀楼(ガンキロー)一言(ひとこと)で言えば「豪華な売春宿」だな。俺もたまにはあそこで息抜きしたいとは思う。だけど医者として横浜の性病患者がいかに多いか知ってるからな。だからあまり行きたいと思わない」
 そして最後にウィリスは(さび)しそうな表情で、もう一言(ひとこと)付け加えた。
「まあ行きたくても、そんな金もないしな……」
 実はウィリスがイギリスから日本へやって来た最大の理由は「金を稼ぐため」だった。まとまった金を故郷へ仕送りしなければならないのだ。
 彼がイギリスの病院に勤めていた頃、病院で働いていた女性を妊娠させてしまい、この一年程前、生まれた子供をウィリスが引き取った。現在その子は兄の家に預けられており、ウィリスは養育費を送金せねばならないのである。

 さて、とにかくこの二人が岩亀楼とはあまり縁がないことは以上の通りであり、回想場面はひとまずここまでにして、話をこのクリスマスシーズンの場面に戻す。
 ウィリスは酒を飲みながらサトウに言った。
「ところでニール代理公使は本当に今度の1月2日に金沢(かなざわ)へ観光に行くつもりなのかい?真冬だぜ。確かにイギリスの冬と違ってここは晴れの日が多いけどさ」

 この金沢というのはもちろん加賀(かが)(現在の石川県)の金沢ではない。武州(ぶしゅう)金沢のことである。横浜から10数キロ南に位置する入江(いりえ)景勝地(けいしょうち)で、現在の地名でいえば京急電鉄・金沢(かなざわ)八景(はっけい)駅あたりのことである。ここは横浜の外国人にとっては鎌倉、江の島と並んで定番の遊覧コースとなっており、ニールはその日サトウたち数人の公使館員を連れて金沢八景へ観光に出かけようとしていたのだ。

 サトウはウィリスに答えた。
「まったく新年早々(そうそう)物好(ものず)きな話だよね。多分もうすぐ江戸の御殿山(ごてんやま)(新公使館)へ移ってしまうから、その前に一回行っておこうと思ったんじゃないかな」

 このイギリス公使一行の金沢行きを高杉や聞多たちが襲撃しようとしているなどと、サトウやウィリスはもちろん知る(よし)もなかった。



 同じ頃、横浜で村田と別れた聞多と山尾は、高杉晋作たちのいる品川の土蔵(どぞう)相模(さがみ)(相模屋)に到着した。
 さて、この物語にもいよいよ重要な男が登場することになる。
 言わずと知れた高杉晋作である。
 これまで名前だけは度々(たびたび)登場していたが、本人が登場するのはこれが初ということになる。

 ここ数日間、高杉は久坂たち長州藩士数人とこの土蔵相模に居続(いつづ)け、ずっと酒を飲んでいる。もちろん(おんな)とも遊び、この酒の席にも妓たちが(はべ)っている。
 酒を飲みながら久坂が幕府への不満を叫んだ。
「将軍が病気といって勅使に会おうとしないのは、どうせ仮病に決まっている!あるいは、幕府に攘夷を周旋(しゅうせん)している我が長州が(まわ)りから信用されていないということだ!」
 これに対して高杉が答えた。
「けっ!信用されなくて当たり前だ。ついこの前まで航海(こうかい)遠略策(えんりゃくさく)なんぞと開国を唱えていた長州が、急に攘夷だと言い出して誰が信用するか」
「何ィ?高杉!貴様がのうのうと上海へ行っている間に、俺たちが長井(ながい)を引きずり()ろすのにどれだけ苦労したか……」
「長井が失脚したのは結局薩摩のおかげではないか。そして薩摩は生麦で攘夷の(じつ)もあげた。とにかく薩摩に遅れをとることだけは許されん。奴らがイギリスの商人を斬ったのなら、我々はそれを上回(うわまわ)るイギリス公使を斬ってやるんじゃ!」
「高杉、それはちょっと軽率(けいそつ)だぞ。今、若殿(定広)が幕府に攘夷の周旋をやっている最中(さいちゅう)だ」
「幕府に攘夷を周旋するなどと無駄なことはよせ、久坂。まったく周旋周旋とやかましいことだ。周旋なんぞは俊輔にでもやらせておけ!あいつは松陰先生からも周旋の才能があると言われてたからな。もっとも、あいつの身分ではそんな大役をやれる訳はないが……」

 この時ちょうど聞多と山尾が高杉たちの部屋に入ってきた。
「今、横浜から戻った」
「おう、聞多、どうだった?イギリス公使館の様子は」
朗報(ろうほう)を持ってきたぞ」

 高杉は部屋にいた(おんな)たちをさがらせた。
「今度の十一月十三日、イギリス公使一行が武州(ぶしゅう)金沢へ物見(ものみ)遊山(ゆさん)に出かけるそうじゃ」
「金沢八景か……。よし、そいつらを斬ろう!」
 高杉は即決した。


 ここで高杉晋作という男のことを少し解説しておきたい。

 以前、吉田松陰が斬首された場面で松陰と高杉の関係に少しだけ触れた。言うまでもなく高杉と久坂は松陰の松下(しょうか)村塾(そんじゅく)における二大巨頭(きょとう)である。ただし高杉の場合、その村塾の中でも「(あば)れ牛」の異名を持つほど負けん気が強く、手の付けられない男として有名だった。
 俊輔より二歳年上で、身分は俊輔や山尾などとは比べ物にならない上士(じょうし)の家柄であり、村塾生の中では最高の家格(かかく)の持ち主だった。彼は藩の学校には()()らず、親の目を盗んでこっそりと夜な夜な村塾へ通った。松陰はこの高杉に非常な期待をかけ、熱心に教育した。
 松陰の死後、高杉は航海術の修行や剣術の修行などに打ち込んでいたが、この年の夏、上海へ視察に行った。この上海視察のことは第1話でも触れた通り、当時サトウも清国(中国)に滞在中だった。
 当時の清国はアロー戦争(第二次アヘン戦争)に敗北してからまだ二年足らずで、しかも上海近辺では太平(たいへい)天国(てんごく)の乱が猛威を振るっていた。そんな上海の治安を清国政府が(たも)てるはずもなく、上海はイギリス軍などの外国人軍隊((じょう)勝軍(しょうぐん)のウォードやゴードンが有名。ただしウォードはちょうどサトウ来日と同じ月に戦死した)によって守られていた。
 サトウの上海滞在中、太平天国軍が上海を襲撃しに来たので彼は拳銃(ピストル)を握ってホテルの外に飛び出てみると上海市民は大混乱になっていた、というサトウの記録も残っている。
 五代才助(さいすけ)(後の(とも)(あつ))達と上海の惨状を()の当たりにした高杉は「日本を清国の二の舞にしてはならぬ」と深く心に(きざ)んだ。
 読者の方々は「なるほど。だから高杉は帰国後、過激な攘夷活動に走るのだな」と思ったかも知れない。確かにそれは当たっていなくもないのだが、当たっているのは半分だけである。
 高杉は開国の必要性はわかっている。なにより彼はこの上海視察の前に「西洋行き」を願い出ているぐらいだった。
 ちょうどこの頃、幕府初の(けん)(おう)使節団(いわゆる竹内使節)がヨーロッパへ行っている。本来は高杉もこの遣欧使節に加わるはずだったのだが長州からは一名しか加われなかったため代わりに(すぎ)徳輔(とくすけ)が参加することになった。そのあと高杉は久坂たちと長井(ながい)雅楽(うた)を斬ろうとしていたところ、桂がそれをやめさせるために高杉を上海へ行かせたのだ。
 高杉は上海で個人的な買い物として拳銃(ピストル)を二丁買ってきたが、ついでに藩の買い物として蒸気船も一隻、勝手に長崎で契約してきた。ただしこれは後で藩から却下(きゃっか)された。
 要するに高杉としては
「まともな開国をするためには外国から言われたままの開国ではなく、一回ちゃんと攘夷をやって武士の(たましい)を見せつけてやろう」
 と考えた訳であるが、もっと端的(たんてき)に言ってしまえば
「薩摩にも西洋にも負けてたまるか」
 という、ただそれだけの気持ちで闘志を燃やしていたのであろう。
 常識をもってしては世の中を変えることはできない。師である松陰が高杉たちに「狂挙(きょうきょ)」をすすめたように、狂人になって猪突(ちょとつ)猛進(もうしん)しなければ世の中は変わらない。
 以後、彼は松陰のあとを引き継ぐかのように「狂挙」を重ねていくことになる。


 ここでもう一人、俊輔の友人である志道(しじ)聞多(ぶんた)(後の井上(かおる))のことについても、その略歴(りゃくれき)を述べておきたい。
 聞多も高杉と同じく上士の身分である。生まれ育った湯田(ゆだ)村(現在の山口市湯田(ゆだ)温泉(おんせん))の井上家も上士格だが、後に養子に入った萩の志道(しじ)家も上士格であり、年齢は高杉より四歳年上である。ただし彼は松下村塾とは関わりがなく、俊輔と知り合ったのは江戸でのことだった。武士の身分でもない俊輔や山尾から「聞多」と呼び捨てにされるというのは面妖(めんよう)な話にも見えるが、どうもそういった部分にはこだわらない性格らしい。そのくせ後世(こうせい)、短気ですぐ怒るので「(かみなり)じじい」とあだ名されるというのだから、この男の感覚はまったくつかみどころがない。
 後世の話と言えば、彼は明治時代に汚職(おしょく)問題などを引き起こした金権(きんけん)政治家として有名である。西郷隆盛から「三井の番頭(ばんとう)さん」と呼ばれたように、実際その後も三井家との昵懇(じっこん)間柄(あいだがら)はつづき、また今度一万円札の顔になる渋沢(しぶさわ)栄一(えいいち)とも昵懇となる。明治時代の政治や財政にまつわる彼の逸話などはあげればキリがないので割愛するが、ある種のトラブルメーカーであったことは事実であろう。
 とにかく大蔵(おおくら)大臣まで務めることになる人間であり、元々金に関することには自信があったものと見え、それは幕末の彼の活動においてもその片鱗(へんりん)随所(ずいしょ)でうかがえる。
 彼は尊王攘夷の拠点である松下村塾出身という訳でもなく、逆に江戸で蘭学や砲術を学んだ上に横浜で英学修行までしているのだから、本来高杉たちの過激な攘夷グループとは縁がないはずだった。にもかかわらずこの当時率先(そっせん)してイギリス公使襲撃作戦に関わっているのは、よほど高杉に感化されたのか、それとも自分も少し関わった来原良蔵の横浜襲撃未遂(みすい)事件の影響か、あるいは友人である俊輔からの影響か、その点よくわからない。
 なにしろこの男の行動基準というのは(後世も含めて)よくわからないのだ。


 高杉が「よし、そいつらを斬ろう!」と叫んだ場面に戻る。

 ところがそれを今度は聞多が止めた。
「公使の護衛に()ち取られた場合、あるいは首尾(しゅび)よく公使を斬ったとしても切腹は(まぬが)れず、どのみち死あるのみだ。それは別に構わんが、今我らはこの相模屋だけでも五十両の借金がある。このまま死んだのでは借金を苦にして死んだと思われるだろう。それでは武士の面目(めんぼく)が立たぬ」
 高杉が聞多に言い返した。
「俺が上海で買って来た西洋式の(くさり)時計をお前に渡しただろ。あれを売れと言ったではないか。途中で落っことしたんじゃないだろうな?」
「あんな壊れかけた時計が売れるものか!まず誰かに修理してもらえ!とにかく、他の借金や金沢への討ち入り費用を考えると合計百両の金は必要だ」

 これほどの金を用意するとなると、やはり藩の会計に()け合うしかない。江戸藩邸の会計担当者は来島(きじま)又兵衛(またべえ)である。
 一同は誰が又兵衛に掛け合うかを決めるために藤八拳(とうはちけん)(お座敷(ざしき)(げい)の一種で“きつね拳”とも言い、ジャンケンと同じように(きつね)猟師(りょうし)庄屋(しょうや)の三種類のポーズで勝ち負けを決める)でホイッ、エイヤッと勝負をして、結局聞多が負けた。
 金の工面(くめん)にかけては自信のある聞多としても今回はさすがに自信がない。
 なにしろこの前もらった横浜での英学修行用の百両もすでに使い果たしているのだ。しかしこの晩、聞多はこの土蔵相模で馴染(なじ)みのお(さと)と寝物語で話している時に一つの妙案を思いついた。

 二日後、なぜか(とう)の来島又兵衛が土蔵相模にやって来た。
 いや、もちろん聞多たちに会いに来たのではない。又兵衛の馴染みのお(なつ)という女郎(じょろう)に会いに来たのだ。
 来島又兵衛というと大体大河ドラマでは禁門(きんもん)の変((はまぐり)御門(ごもん)の変)の場面で馬に乗って槍を振り回して最後には薩摩の西郷に討ち取られる、という印象が強い。とにかく武骨で好戦的というイメージが流布(るふ)しているように思われる。こういった会計担当者として登場するのは、おそらく大昔に作られた「幕末の土蔵相模を舞台にした(ぼう)白黒映画」ぐらいのものであろう(ただし又兵衛が会計担当者だったのは史実(しじつ)であるらしい)。

 又兵衛が時々この土蔵相模に来ていることは聞多も薄々(うすうす)承知しており、聞多はお里から又兵衛の馴染みがお夏であることを聞き出した。そして「お夏が又兵衛に会いたがっているから店に来てくれるように」とお夏に手紙を書かせたのだ。

 又兵衛がお夏との逢瀬(おうせ)を楽しんでいる部屋に、聞多はいきなり乗り込んできた。そして代わりにお夏は部屋から出ていった。もちろんすべて事前の打ち合せ通りである。
「聞多、これは一体何事(なにごと)か!」
 又兵衛はカンカンに怒った。当たり前であろう。聞多はすぐさま頭を下げて又兵衛に懇願(こんがん)した。
「横浜での学費百両拝借(はいしゃく)の件、なにとぞお聞き届け頂きたくお願いにあがりました」
「そのようなことは藩邸で申すがよかろう。大体お前たちには前に一度百両渡してあるではないか。おおかた遊郭にでも出入りして使い果たしてしまったのであろう。これ以上は一両も貸せぬ」
「なるほど確かにたまには息抜きのため遊郭へも参りましたが、横浜では家賃や物の値段が高く、それで前の百両はほとんど使い果たしてしまいました。なにとぞ、あと百両お下げ渡しくださるようお願い申し上げます」
「とにかく、そのような金はない」
「お言葉ではございますが、来島様の(ふところ)にはお夏からの手紙といっしょに百両があるのではございませんか?」
 又兵衛はアッという表情をして真っ青になった。

 聞多はお夏の手紙に「お夏が最近物入(ものい)りで手元が苦しく、金子(きんす)百両をお貸し願いたい」とも書かせていたのである。お夏にご執心(しゅうしん)の又兵衛がそれを断るはずがなく、またこの事を口外(こうがい)できるはずもないことを承知の上で、聞多はそのように仕組んだのだった。

 ともかくも、こうして聞多はまんまと藩から百両せしめた。
 その百両を持って聞多が高杉たちのところへ戻ってみると、高杉と久坂が怒鳴(どな)り合いのケンカをしていた。
 久坂は高杉に言う。
「イギリス公使を斬ったところで何になる。長州が幕府から責められるだけではないか。我々はまさに犬死にだ!」
 高杉がこれに反論する。
「犬死にではない!我が長州の攘夷が本気であることを世間に見せつけることが一番重要なのだ。さすれば世間は長州を信用する!」
 しかし久坂は納得しない。
「今、京と江戸では尊王攘夷の気運が高まってきているのだ。攘夷を実行するために日本中の志士が力を合わせ、一致協力して外国に戦争をしかけるべきだ」
「そんなのは書生(しょせい)論だ。時勢(じせい)は待って出来るものではない。誰かが率先(そっせん)してやらねば出来ぬものだ。邪魔するようなら異人を斬る前にお前を斬るぞ、久坂!」
「おお、斬るなら斬れ!藩に迷惑をかけるぐらいなら今斬られたほうがマシだ!」

 この二人のケンカには誰も手が出せなかった。しかし戻って来たばかりの聞多が置いてあった酒をガブガブと飲みはじめ、カラになった徳利(とっくり)を投げつけて叫んだ。
「俺がこんなに苦労して百両作ってきたというのに、お前らは何だ。俺は面白くないぞ!」
 それから手当たり次第に酒や料理を高杉と久坂めがけて投げつけ
「お前らにはこの百両はやらん!」
 と言って部屋から出て行こうとしたので皆が「まあまあ落ち着け」と聞多をなだめにかかった。それで結局、高杉と久坂のケンカは消えてしまった。

 そして金沢での襲撃計画は予定通り十一月十三日に決行と決まり、その前日に神奈川宿の旅籠(はたご)下田屋(しもだや)に集合することになった。
 この計画に参加したのは高杉、久坂、聞多、山尾庸三たち総勢十数名であった。


 一同は決行前日に下田屋へ入り、ここで一晩を過ごした。
 そして翌早朝、皆が金沢への出陣準備をしていると山尾が外の異変に気がついた。
「おいっ、外の様子が変だ」
「何?計画がバレたのか?」
「どうやらそうらしい。幕府の同心(どうしん)らしき連中が二、三十人ほど集まっている」
 すかさず高杉が刀をつかんで立ち上がり、皆に下知(げち)した。
「やむを得ん。斬り開いて突破するぞ」
 皆が「おう」と刀をつかんで建物を出ようとすると、ちょうど三条、姉小路の両勅使(ちょくし)から(つか)わされた使者が久坂(あて)の書状を持って下田屋へやって来た。

 その書状には「幕府は攘夷実行を受けいれそうなので、今は暴挙を(つつし)むように」と勅使からの命令が書かれていた。
 久坂から回された書状を高杉が読み終わらないうちに、聞多が叫んだ。
「聞くな、聞くな、そんな命令!ここまで準備して今さら引き下がれるか!」
 この男は以前、来原の横浜襲撃を止めるため説得しに行ったことがあるくせに、自分は人の説得を受けいれないというわがままな男であった。
 しかし、そうは言っても勅使からの命令を無視するわけにもいかず、皆がああだこうだと言い合っているうちに、今度は定広からの使者である山県(やまがた)半蔵(はんぞう)(後の宍戸(ししど)(たまき))がやって来た。
君命(くんめい)である。全員、梅屋敷まで出頭せよ。そこで若殿がお待ちだ」
「山県さん!なぜ我々のことが若殿のお耳に入ったのですか?」
「うむ。土佐の容堂公から若殿のところへご注進があったようだ」

 おそらく両勅使と容堂への情報漏洩(ろうえい)は、この計画に反対していた久坂玄瑞からなされたものと見るのが妥当(だとう)だろう。いくら高杉とはいえ、定広からの命令には逆らえない。皆ぞろぞろと蒲田(かまた)の梅屋敷へ向かった。

 皆が梅屋敷に到着すると、そこでは定広が待っていた。
 ちなみにこの梅屋敷は一ヶ月前にサトウも立ち寄って(ムスメ)たちに見とれていた、あの梅屋敷である。
 定広自身が梅屋敷まで馬を飛ばして家臣たちを止めにきたのは、下手(へた)に部下を派遣して薩摩が伏見(ふしみ)でやったこと、すなわち「寺田屋事件の二の舞になるのを恐れたから」ということもあるだろうが、おそらく数ヶ月前に「来原の説得に一旦成功しながらも切腹させてしまった」という自責(じせき)の念から今回は自分自身でやって来た、ということでもあったろう。

 土下座して恭順の姿勢を見せている高杉たちを前にして、定広はこんこんと説諭(せつゆ)の言葉を述べた。
「諸君の志には誠に感服するが、今は勅使のお役目を補佐するために不才(ふさい)微力(びりょく)な私に力を貸してほしい。諸君のような有志(ゆうし)の若者を死なせるのは()しい。どうか思いとどまって藩に帰参(きさん)してもらいたい」
 このように主君から親身に説得されたので一同は感涙(かんるい)にむせんだ。そして大人しくその命に従った。
 ただし高杉だけは涙も流さず、平然と計画の本質を順序立てて定広に説明したといわれている。
 このあと定広から一同に酒が下され、ささやかな酒宴となった。


 ところがこの場にあの周布(すふ)政之助(まさのすけ)も、すでに酒が入った状態でやって来て更に酒を飲みはじめた。
 ()の悪いことに、この場には容堂から派遣されてきた土佐藩士四名も来ていた。その内の一人は後に日清戦争などで勇名をはせる「独眼(どくがん)(りゅう)将軍」山地(やまじ)忠七(ちゅうしち)(後の元治(もとはる))である。
 周布と土佐藩士というと、この八日前にも(ひと)悶着(もんちゃく)あったばかりだが、案の定この日も帰り際に一騒動、起きてしまった。まあ先日の騒動の第二ラウンドとでも言うべきであろうか。

 酔っ払った周布は馬上から土佐藩士たちにむかって放言(ほうげん)した。
「容堂公の尊王攘夷は口先だけでござろう!幕府が攘夷に踏み切らぬのは容堂公が尊王攘夷をチャラかしなさるからだ!」
 この暴言を土佐藩士たちが許すはずもなかった。
「一度ならず二度までも我が主君を侮辱(ぶじょく)するとは、もはや許せん!」
 そう言って山地たちが周布に斬りかかろうとしたので、久坂や聞多たちがそれをなだめて制止しようとしたところ、高杉が刀を抜いて
「なるほど貴殿(きでん)らの怒りはもっともである。お手を(わずら)わせるには及ばない。代わりに拙者がこの男を斬り捨てる。それでは周布殿、お覚悟めされよー!」
 そう言って周布にバッサリと斬りつけた。
 が、馬の尻を少し斬っただけで、馬はヒヒーンと悲鳴をあげて周布を乗せたまま駆け出し、あっという間に遠くへ走り去って行った。

 まったくもって芝居か歌舞伎のようでちょっと出来過ぎな話であるが(昔TVドラマでもこのようにやったらしいが)実際史書にもちゃんとそのように書かれているエピソードである。

 ただ一点疑問があるのは、よく史書の中の説明で
「聞多が聞いた話では、十一月十三日は西洋ではサンデー(日曜)という休日で、その日は遊山(ゆさん)に行く習慣があるので公使たちは金沢へ行くのだ」
 という記述があるが、実際この十一月十三日はサトウとウィリスが話していたように西暦では翌年の1月2日にあたり、この日は日曜日ではなくて金曜日なのだ。外国には日本のような「正月三が日」という習慣もない。聞多が情報を聞き違えたのだろうか?真相はよくわからない。

 この話はこの後、土佐藩側がこのままでは納得しなかったため結局定広が土佐藩邸へ()びに行ったり、(ばつ)として周布を国許(くにもと)へ帰すと約束しながら改名だけさせて江戸に残留させたり、といった余談もあるが、そろそろ俊輔に再登場してもらわないといけないので、それらは割愛(かつあい)する。

 とにもかくにも、高杉たちが武州金沢でイギリス公使(実際のところニールは代理公使なのだが)を襲撃する計画はこのようにして立ち消えとなり、ニールやサトウたちは金沢への遊覧旅行から無事帰ってきたのであった。


 この事件の後、高杉たちは藩邸へ引き戻されて謹慎(きんしん)を命じられた。しかしながら彼らはその「攘夷実行」の決意を変えなかった。
 この謹慎中に高杉たちは「御楯(みたて)(ぐみ)」を結成した。
「金沢での計画は失敗したが百折(ひゃくせつ)不屈(ふくつ)の決意で「攘夷実行」を貫徹(かんてつ)して国の御楯(みたて)となる。次は必ず攘夷の(じつ)をあげてみせる」
 こういった血盟書(けつめいしょ)を作って全員で署名、血判(けっぱん)した。

 この御楯組にはその後つぎつぎと同志が加盟してきたのだが、ちょうどこの頃江戸に到着した俊輔もただちにこれに加盟した。
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