第30話 鳥羽伏見の戦い

文字数 9,578文字

 話をサトウの昇進問題から江戸の薩摩藩邸焼き討ちの件に戻す。

 焼き討ちがあったのと同じ日、大坂では太宰府から到着した井上聞多(ぶんた)や三条実美(さねとみ)ら五卿が上陸して、その後すぐに京都へ向かった。
 そして焼き討ちの三日後、すなわち十二月二十八日に江戸から大目付の滝川具挙(ともたか)播磨守(はりまのかみ))が大坂に到着。江戸で「開戦」したことを報告し、これ以降、大坂の幕府軍も「開戦」へ向けて一直線となる。
 もし聞多や五卿の大坂到着が数日遅れるか、江戸での焼き討ちが数日早く行われていれば、聞多や五卿は大坂に着いたとたんに捕まっていた可能性もあったろう。それを考えれば、確かに江戸での暴発は無計画なものであったかも知れない。

 旧暦でも年が明けた一月一日、慶喜は「討薩(とうさつ)(ひょう)」に署名して、幕府軍の京都進撃を裁可(さいか)した。

 この「討薩の表」の内容を大まかに言うと、朝廷に対して
「先月九日の政変(王政復古のクーデター)は朝廷の真意ではなく、まったく薩摩藩の奸臣(かんしん)(西郷と大久保のこと)の陰謀であることは明白で、特に江戸での無法行為は許しがたく、この奸臣どもをお渡しくださらない場合は、やむを得ず我々の手で誅戮(ちゅうりく)を加えます」
 と述べた内容のものである。

 これほど強烈な薩摩への宣戦布告に署名しておきながら、後に慶喜は『徳川慶喜公伝』や『昔夢会筆記』で
「開戦の報を聞くに及んでは万事休すと決心し」「このような始末になりたるは終生の遺憾(いかん)なり」「いかようとも勝手にせよ、と言い放ちしこそ一期の不覚なれ」
 と述べている。

 慶喜が戦争を避けようとしていたのは事実である。
 戦力的に見て、戦争をしても負ける可能性は低いだろうが、そんなリスクを(おか)さなくてもただ待っているだけで、敵は自壊すると思っていた。
 事実、京都では容堂や春嶽が慶喜に有利な方向へ話を進めつつあった。が、江戸の連中が勇んで「開戦」に踏み切ってしまったので、大坂でも戦わざるを得なくなった。

 一旦戦争を決意したのであれば、万全の策を講じて必ず勝たねばならない。
 ところが慶喜にはその覚悟がなかった。
 さらに言えば、上層部や作戦を指揮する指揮官クラスの人間にもその覚悟がなかった。
 これまで散々書いてきたように幕府上層部は無能ぞろいなのである。

 その一方で薩長側は
「初戦で負けた場合は天皇を擁して中国地方へ逃げ、諸国の兵を蜂起させる」「錦の御旗(みはた)を用意する」「戦闘の際には地の利を活かす」
 といった万全の策を講じて戦いに臨んでいた。

 そして何よりも重要なのは、この物語でずっと書いてきたように薩長の兵は戦争経験が豊富で、その間ずっと戦争を避けてきた幕府軍よりも兵士の士気が高かった、ということである(幕府側でも例外的に、会津兵は戦意旺盛(おうせい)で士気は高かったが)。

 鳥羽伏見の戦いは偶然の要素が強かったのは事実だが、ここに至るまでの歴史の流れを見ていれば、幕府軍が惨敗したのは必然の結果だったと言うべきだろう。


 一月二日、幕府軍は大坂を出発して淀、伏見方面へ向かった。
 また海上ではすでに小競り合いが発生していた。開陽丸などの幕府艦隊が薩摩の艦船に対して威圧的な行動をとり、のちに砲撃戦に発展。この砲撃戦には春日丸も参戦していたが、この時は確かに東郷平八郎が乗っていた。
 この海戦の結果、徳島沖で薩摩の船(江戸から大坂へ脱出してきた(しょう)(ほう)丸)が自焼沈没した。ただし乗組員は全員脱出して上陸することに成功した。

 そして一月三日。この日が鳥羽伏見の開戦の日である。戦闘が始まったのは夕方のことだった。
 この日、幕府軍は淀から鳥羽街道に入って北進した。一度はかなり京の近くまで進んだのだが、ここを守っていた薩摩軍に戻るよう強制されて城南宮(じょうなんぐう)のあたりまで押し戻された。

 薩摩軍がこの位置まで押し戻したのは、ここの地形が兵を展開するのに都合が良かったからである。薩摩軍は街道の周囲に広がる田畑の(しげ)みや竹藪に銃隊を(ひそ)ませるよう配置した。
 京都の朝廷に提出するための「討薩の表」を懐に入れた滝川具挙(ともたか)はここで薩摩軍の隊長と「道を通せ」「いや通さん」と押し問答をくり返した。
 このとき滝川は兵士たちに戦う準備をさせていなかった。信じられないことに、銃に弾も込めさせていなかったのである。幕府の威光と大兵力の威圧によって、薩摩軍が道を開けるとでも思ったのだろう。

 愚かと言うしかない。
 薩摩軍がそんなに弱気だったら幕府軍を城南宮(じょうなんぐう)まで押し返すはずがないではないか。その時点でなぜ、薩摩軍が本気であることに気づかなかったのだろうか。

 この押し問答が物別れとなった後、幕府軍は無防備のまま進軍を再開した。
 これに対し、薩摩軍の大砲と小銃は一斉射撃で応えた。

 鳥羽街道に轟音(ごうおん)()(ひび)いた。

 無防備に縦隊を組んでいた幕府軍は、それを取り囲むように展開していた薩摩軍の攻撃によって無惨にもなぎ倒され、街道は真っ赤な血で染まった。

 当然のことながら幕府軍は大混乱となった。滝川は幸運にも弾をくらわなかったが、彼の乗っていた馬が暴走しだして自軍の後続部隊に向かって突進し、部隊の混乱に拍車をかけることになった。

 このあと幕府軍はなんとか持ち直して反撃態勢を整えたものの、最初につまづいたのが(ひび)いて防戦一方となった。
 季節は真冬である。あっという間に日が沈み、大規模な戦闘は一旦収束(しゅうそく)した。そして結局幕府軍は下鳥羽(しもとば)まで後退することになった。

 かたちはどうであれ、この鳥羽での初戦に勝ったのは薩摩軍にとって大きかった。
 特に西郷にとってこの戦勝の報告は何よりの果報であった。
「鳥羽での一発の砲声は百万の味方を得たるよりも嬉しかりし」
 西郷の有名なセリフである。
 これまで御所で西郷や大久保を「蛇蝎(だかつ)の如く」避けて、再び幕府側になびきそうになっていた公家たちも、これ以降、幕府追討を決心するようになった。


 鳥羽での轟音は伏見にも達し、これを聞いた薩摩軍は伏見でも砲撃を開始した。
 伏見の新政府軍は薩摩軍のほかに長州軍、さらに土佐軍もいた。ただしこの土佐軍は容堂から参戦を禁じられていたためカカシ同然で、実際に戦力となったのは薩摩軍と長州軍だけである。
 一方、伏見の幕府軍には会津軍や新選組などの精鋭部隊がいた。

 そしてここでも新政府軍は地の利を活かすために御香宮(ごこうぐう)や高台に兵を配置して、幕府軍の拠点である伏見奉行所へ大砲や鉄砲を撃ちかけた。
 伏見の戦いは鳥羽と違って市街戦である。
 鳥羽街道の戦いは(あか)りがないので日暮れと共に一旦収束したが、こちらは伏見奉行所をめぐっての攻防戦のため戦闘は深夜まで続いた。

 会津軍や新選組は確かに精鋭ではあるが、薩長軍の銃砲に対して刀や槍で勝てるはずがなかった。
 特に会津軍と対峙した長州軍は、幕長戦争で散兵戦術を駆使して幕府軍を撃退した手練(てだ)れなのである。
 会津兵の白兵突撃は次々と長州軍のミニエー銃によって撃ち倒されていった。ただしのちにサトウが会津軍の負傷兵から聞いたところでは「薩摩は元込(もとご)め銃を使っていた」という話もあるので、ひょっとすると元込め式のスナイドル銃も使っていたかもしれない。元込め銃は先込めのミニエー銃よりも早く撃てる。

 新選組の土方歳三はこの戦いで「刀の時代は終わった」と痛感したようだが、これまで戦争を経験したことがなかったのだから仕方がない。一度でも戦争を経験していればそんなことはすぐに分かったことだろう。薩摩や長州のように。
 鳥羽伏見という、一番重要な戦いでそれに気づいたというのは、手遅れと言うにしてもあまりにも手遅れ過ぎる気づきであったろう。

 結局幕府軍は伏見でも惨敗をきっした。
 伏見奉行所は新政府軍の攻撃によって焼き払われ、幕府軍は淀方面へ後退していった。
 ちなみに井上聞多はこのとき前線には出ておらず、長州軍が陣を置いていた東福寺(とうふくじ)にいた。そしてこのあと聞多は後詰めの軍を呼びに行くため長州へ戻り、そのあと山陽、山陰の平定軍に参加することになる。

 この日の夜、サトウのところに遠藤がやって来て戦争が始まったことを告げた。
「サトウさん、ついに伏見で戦争が始まりました!」
 自身の昇進問題に気を取られていたサトウも、これを聞いてようやく正気に戻った。
 すぐ高いところに登って京都の方角をながめてみた。すると確かに大きな火の手があがっているのが見えた。伏見の町が燃えているようだった。
 伏見で戦っている長州軍のことを心配する遠藤ほどではないにしても、サトウも戦争の先行きがどうなるのか心配になった。
(とうとう始まってしまったか……。一体どういう結果になることか……)


 開戦二日目の一月四日。
 大坂ではサトウがたびたび訪問していた土佐堀の薩摩藩蔵屋敷が焼き払われた、とサトウは報せをうけた。しかしこれは寺島たち薩摩藩士がこの日の未明に藩邸に火をかけた結果だった。寺島たちは急いで大坂から脱出した。

 そして鳥羽と伏見の戦いは、この日も新政府軍が優勢に戦いを進め、幕府軍はじりじりと淀の方へ後退していった。
 確かに鳥羽方面での戦いでは幕府軍が局地的に盛り返す場面もあったのだが、ほとんど焼け石に水の状態だった。なにしろ幕府軍の総指揮官である陸軍奉行・竹中重固(しげかた)丹後守(たんごのかみ))が現場におらず、前日の戦いも含めて、ろくに作戦の指示を出してないのだから組織立った戦いができるはずもなかった。

 また土佐軍がこの日、新政府軍として参戦することになった。もはや戦場で立ち往生していることは許されず、容堂の命令を無視してでも参戦せざるを得なくなった。
 ちなみにこの日の戦闘では、幕府軍が京都から大坂へ下って来た時にサトウと話していた士官、窪田泉太郎が戦死した。

 一方、御所では新政府軍の優勢をうけて、かねてから岩倉具視、大久保一蔵、品川弥二郎らが用意していた錦の御旗(みはた)錦旗(きんき))を出動させることが決まった。仁和寺宮(にんなじのみや)嘉彰(よしあき)親王が征討将軍に任命され、錦旗と節刀が授けられた。仁和寺宮一行はそれらを携えて、この日、薩摩軍が本陣を置いていた東寺(とうじ)に入った。

 そして開戦三日目の一月五日。戦いの大勢はこの日に決した。
 幕府軍はこの日までに鳥羽方面も伏見方面も、本営のある淀の近くまで後退していた。
 それでもこの日の午前中は結構しぶとく踏みとどまって戦っていた。

 ところが昼頃、錦旗をひるがえした仁和寺宮(にんなじのみや)一行が淀の近くまで進出した。
 両軍の兵士は最初、この旗が一体何であるのか分からなかった。

 それはそうだろう。元ネタは『太平記』の時代に後醍醐天皇が(かか)げたという説から持って来ており、五百年以上前の話である。誰もその姿かたちなど知らなかった。いわば伝説の旗である。
 しかしこれが「錦の御旗」であるということが徐々に兵士たちへ伝わっていった。五百年の時を超えた伝説が、現実の物となって目の前に現れたのである。
 効果はてきめんだった。新政府軍の士気は大いにあがり、幕府軍の士気は急激に衰えた。

 さらに、これまで中立を守っていた諸藩も雪崩(なだれ)をうって新政府側につきはじめた。
 昼過ぎ、幕府軍が淀城に入城しようとしたところ、淀藩に拒絶された。
 幕府軍はやむなく石清水八幡まで後退することになった。

 大坂にいたサトウは、幕府軍の負傷兵を運ぶ数隻の川船を目撃した。また幕府軍は淀から後退する際に、敵の進撃を(はば)むため淀大橋を焼き払ったという話も耳にした。

 翌六日、石清水八幡の川向うにいた津藩藤堂軍が新政府側に寝返り、幕府軍へ向けて砲撃を開始した。
 そして新政府軍は石清水八幡への渡河(とか)作戦を敢行。幕府軍はあっさりと追い落とされ、あとは全軍瓦解(がかい)状態で大坂へ退却していった。


 この日、大坂の各国代表は幕府軍の敗北をハッキリと告げられることになった。
 幕府の役人は
「もはや我々は外国人を保護することはできないので、各々が身を守るために適切な処置をとってもらいたい」
 とパークスやロッシュたちに通告したのである。

 大坂では幕府の人間も、外国人も、そして住民も、皆がパニックになった。
 幕府軍がこんなに早く惨敗するなど、誰も予想してなかったのだから当然だろう。

 とにかくパークスは、大坂城の玉造門(たまつくりもん)近くに設置していた公使館事務所から退去することを決めた。そして翌日から公文書類などの荷物をイギリス軍艦へ運び出すために、川船を多数用意するよう指示を出した。
 サトウたちはこの日の夜、あわただしく公文書類の荷造りをして、それからようやく眠りにつくことができた。

 同じ頃、大坂城の大広間では慶喜が居並ぶ将兵たちに向かって激を飛ばしていた。
「これより予が直々に出馬して薩長の賊どもを成敗する。皆出陣の用意をせよ!」
 この慶喜の激を聞いて将兵たちは皆(ふる)()ち、感涙(かんるい)にむせた。

 このあと慶喜は板倉、容保、定敬などの側近を引き連れて城を脱出。
 八軒屋の船着場から船に乗って天保山沖にいたアメリカ軍艦イロクォイ号へ向かった。そして数時間後、開陽丸が天保山沖に到着するとイロクォイ号から開陽丸へ乗り移った。
 このとき開陽丸の艦長、榎本釜次郎(かまじろう)武揚(たけあき))は作戦会議に参加するため上陸中で、艦を空けていた。慶喜は副艦長の沢太郎左衛門に命じて開陽丸を江戸へ出発させた(ただし沢は江戸へ向かうフリをして大坂湾内をウロウロして時間を稼ぎ、戦線離脱を阻止しようとしたのだが結局見破られ、その後江戸へ向かうことになった)。

 このとき大坂城にいた桑名藩士の手記には
「舌の根も乾かぬ内に人にも告げず、関東へ逃げ下られるとは如何なる事か。天魔の所為(しょい)とも言うべきか」
 と書かれている。

 またこの前後に、江戸からシャノワーヌらフランス軍事顧問団が大坂に到着したが、もちろんすでに手遅れだった。
 シャノワーヌたちは着いた途端(とたん)に江戸へ折り返すことになった。

 慶喜が逃げたあと、大坂城内にいた福地源一郎のところへ松平太郎(外国奉行の組頭)がやってきて次のように告げた。
「君は何をそんなに落ちついているのか!上様はもうお立ち退きになったぞ。早く城を落ちる用意をしたまえ!」
「何をバカなことを。そんな不吉な冗談はやめてくださいよ」
「何が冗談だ。嘘だと思うなら御用部屋か御座の間へ行って見てこい」
 福地が急いで御用部屋へ行ってみると「御用部屋のほうへ赴き覗いて見たるに、内閣は寂として一人の影も見えざりけり」という状態だった。

 このあと福地は兵庫へ逃れて柴田剛中などと一緒に蒸気船に乗って江戸へ向かうことになった。慶喜から大坂城に置いてきぼりにされた者としては、福地は比較的苦労せずに済んだほうだったと言えるだろう。
 慶喜が京都から下坂してきた時、その落ちぶれた姿を見て慶喜に同情していたサトウも、数日後、慶喜の逃走を聞くと
「慶喜は江戸へ向かったと言われている。我々にどこへ行ったか教えないとは酷い奴だ」
 と慶喜に対する悪口を日記に書いている。
 しかしそれも、置き去りにされた幕府軍の将兵たちの無念さに比べれば、さしたるものではなかったろう。このあと幕府軍の敗残兵たちは一旦紀州へ逃れる者、陸路江戸まで歩いていく者、それぞれ散々なかたちで落ちのびていったのである。

 慶喜が逃げたとはつゆ知らず、大坂で戦争があると思っていたサトウたち各国代表団は翌朝、急いで大坂城から退去した。そして川口(かわぐち)(現、大阪市西区川口)の外国人居留地、または天保山沖の軍艦へ移ることにした。川口に残ったのはイギリス人だけで、他の国はすべて軍艦へ退避することにした。

 慶喜に置いていかれた敗残兵ほどではないにしても、こちらの各国代表団もそれなりに苦労させられることになった。
 なにしろ日本の統治機構(幕府)がいきなり消滅してしまったのである。各国代表は急いで退避するため持てるだけの荷物を船に乗せて旧淀川を下っていった。

 この時のことをミットフォードは次のように書き記している。
「私の大坂からの脱出は非常にはらはらさせられるものであった。他の公使館員は、すでに述べたように小舟で河川をくだり、それから軍艦で兵庫へ向かったのである。公文書類をつめた大きな箱のてっぺんに、ずんぐりとした山のような格好でうずくまっていた、あの巨大なウィリスの姿が私の脳裡から消えることがあるだろうか」(『ある英国外交官の明治維新』ヒュー・コータッツィ、中央公論社、訳・中須賀哲朗)

 このときイギリス以外の各国代表は天保山から船に乗ろうとしたところ天候が悪くて船に渡れず、ろくに食べ物もないままオンボロ家屋で一晩過ごすことになった。
 川口に残っていたサトウの日記では
「彼らのことは気の毒だと思ったが、同時に自分たちはそうならずに済んだので、ちょっとだけ良い気分になった」
 と書いている。

 さらに翌日になったが、まだ大坂では戦争が始まらなかった。
 サトウは自分専属の別手組を連れて大坂城へ偵察に行ってみた。

 それにしても、この六名の別手組も複雑な気持ちであったろう。
 彼らは幕臣なのである。幕府軍が惨敗して平気でいられる訳がない。
 しかしこの外国人警備の仕事をしているうちは身分的にも、また物理的にも中立な立場にあり、安全なのである。すでに負けが確定している幕府に殉じるため江戸へ帰る、という決意をするのは無理であった。それをやるとすれば、この身分を捨てて「賊軍に参加する」ということになるのだから。
 確かに彰義隊などはのちにそれを実践することになるのだが、余談ながら『幕末の武家』という本で塚原渋柿園(じゅうしえん)が当時の幕臣の気持ちを次のように書いている。
「朝廷からはもとより賊!しかして主家の眼からは不忠の臣!いわば勝ってもその命に背いた(とが)で切腹と言われても一言もない。負ければ当然縛り首!ちと落ち着いた料簡から考えると、何の趣意で誰のために、この命がけの難渋な戦争をするのか、わからぬといえば実にこれほどわからぬ事はない(中略)ただその名利を棄てた、至愚な、馬鹿意地の心地にみずからも安んじて、士を養う三百年のその恩に一命をなげうつ、いわゆる我が主あってその他を知らぬ三河武士の、狭い、小さい孤忠というのを世人も憐れんで、買ってくれたのでもありましょうかね?」

 さて、サトウたちが大坂城へ行ってみると幕府軍の兵士たちは誰も残っていなかった。
 しかし大坂の民衆たちが城内に集まって来ていた。別手組に調べさせたところ幕府軍は皆逃げて、慶喜も逃げてしまったことが分かった。玉造門の近くのイギリス公使館事務所は無事な状態で残っていた。

 しばらくするとフランス兵の一隊がやって来たのでサトウが話を聞くと、フランス公使館は大坂の民衆によって略奪がおこなわれ、さらに民衆が石を投げてきたので八、九人、撃ち殺してきた、と聞かされた。

 大坂の民衆も「フランスは幕府の味方」という意識があったのか、幕府が負けた今となってはフランスに対してなら略奪しても構わないと思ったのだろうか。ただし、翌日には結局イギリス公使館も略奪されるので、あまり外国人の違いが分かっていた訳でもなさそうである。
 幕府という統治機構が一瞬にして消滅し、大坂の民衆も、そしてフランス兵も、相当無秩序な状態になってこのような騒動が起きてしまったようだが、それにしても、このフランス兵による「八、九人の撃ち殺し」が、後にいろいろと引き起こされる事件と無関係であったかどうか。

 このあとサトウは川口に戻るとウィリスと一緒に天保山へ向かった。そこに数名の会津兵が負傷したまま置き去りにされているらしく、彼らの傷の手当てをするウィリスに付いて行くことになったのだ。
 これ以降、この「戊辰戦争」においてウィリスは各地で負傷者や病人の手当てをすることになるのだが、この日の会津兵に対する救護活動がその第一歩ということになる。

「負傷していた会津兵はウィリスが傷の手当てをしてくれたことに非常に感謝し、イギリス人は世界で最も善良かつ親切な国民だと信じたようであった」
 とサトウは手記に書いている。
 サトウはこの会津兵たちと親しくなって鳥羽伏見での戦争の様子をおしえてもらった。彼らは次のように語った。
「淀城や藤堂兵の寝返りがなければ勝てた。幕府伝習隊はすぐに逃げ出す役立たずどもだった」

 この会津の負傷兵たちを見て、サトウの従者である野口富蔵も辛かったであろう。
 ただし、彼もやはり別手組と同じく、だからと言って会津へ帰るようなことはしなかった。というよりも、野口はこの一年後、サトウと共にイギリスへ行くのである。ちなみに野口の弟の留三郎(とめさぶろう)は、のちに上野の彰義隊戦争で戦死することになる。

 この負傷した会津兵の保護にはプロシア公使のブラントも関わっており、彼らを保護するためにブラントは天保山にとどまっていた。この時たまたま幕府軍の士官が通りかかったのでブラントが呼び止めると、その士官は榎本釜次郎だった。
 榎本は大坂城へ金や重要書類を取りに行くため上陸したのだった。ブラントが会津の負傷兵の面倒をみるよう榎本に強く言うと、榎本は部下に負傷兵を船へ収容するよう命令し、そのまま大坂城へ向かった。

 余談ながらブラントと会津藩というと、ブラントの部下だったヘンリー・スネルが後の会津戦争で会津藩を軍事的に支援して「平松武兵衛(ぶへえ)」を名乗り、敗戦後、数名の会津人を移民としてアメリカの「ワカマツ・コロニー」へ連れて行くことになる(ただしこの移民計画は結局失敗に終わった)。そしてヘンリーの弟エドワルドは長岡藩の河井継之助(つぎのすけ)にガトリング砲を売り込むなど武器商人として暗躍した男である。この兄弟は「スネル兄弟」あるいは「シュネル兄弟」と呼ばれている。
 さらに余談の余談で言うと、ブラントの意向をくんだドイツ商人ゲルトナーは、後に榎本の「蝦夷(えぞ)共和国」から箱館(函館)近郊の七重村(ななえむら)(現、七飯町(ななえちょう))に三百万坪という広大な農地を九九年間租借(そしゃく)するなどして北海道進出を目論(もくろ)むが、結局のちに明治新政府が62,500ドルという多額の補償金を支払ってその土地を買い戻すことになる。


 さて、翌一月九日、ようやく長州兵が大坂にやって来て大坂城を接収した。
 しかしそれと同時に城では大火災が発生した。
 幕府側と新政府側のどちらが火を付けたのかは不明である。なんにせよ、これで慶喜との謁見の際にサトウたちが招かれた白書院などの豪華な御殿もすべて焼け落ちてしまった。

 パークスはこの日、公使館を一旦神戸へ移すことを決断した。しかしこのパークスの決断にサトウは不満だった。
 新政府側の要人にはサトウの友人が大勢いる。イギリス人が大坂にとどまっても酷い扱いをうけるはずがない、という自信がサトウにはあったからである。
 しかし公使の命令には逆らえないのでサトウたちイギリス人は翌日、船で神戸へ向かった。

 神戸に着くと、ちょうど幕府の柴田剛中や福地源一郎などが船に乗って江戸へ向かおうとしているところだった。
 また幕府の運上所(うんじょうしょ)(現、神戸地方合同庁舎の辺りにあった)の建物は「敵に渡すぐらいなら焼いてしまおう」ということで焼かれる寸前だったのだが、外国代表団がそれを押しとどめて幕府から運上所の建物を譲り受けた。

 さらにこの辺りにはかつて勝海舟や坂本龍馬がいた神戸海軍操練所(そうれんじょ)があり、その廃屋の一部をイギリスが譲り受けてイギリス領事館としていた。それは運上所のすぐに近くにあった。


 そしてサトウたちが到着した翌日の一月十一日(1868年2月4日)、神戸で大きな事件が起きた。
 まだ鳥羽伏見の戦いが終わってから幾日も経っておらず、新政府のかたちが整わないうちに発生した「戦後」初の外交問題となる事件である。

 そしてはからずも、この事件が伊藤俊輔の運命を大きく変えることになるのである。
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