第19話 条約勅許

文字数 21,192文字

 サトウとパークスは蝦夷地(えぞち)に来ていた。慶応元年八月のことである。
 それほど重要な目的があった訳ではないが、新しい日本公使となったパークスとしては三つの開港地(長崎、横浜、箱館(函館))のうち箱館だけまだ見てなかったので視察のため、さらには箱館を主な寄港地(きこうち)としているロシアの様子を探るため、箱館へ来たのであった。
 ちなみにロシアは「五ヶ国条約」の一国であるにもかかわらず、自国に近い箱館を日本での主な活動の場としており、横浜を主な活動の場としている英仏蘭米とはあまり交流がなかった。
 それゆえ下関戦争の時の四ヶ国艦隊にもロシアは参加していなかった。
 実際この頃の箱館は人口もあまり多くなく、貿易量は輸出輸入ともに日本全体の2、3%程度で、貿易港としてはあまり重視されていなかった。ただロシアのみが、自国に近い中継基地として箱館を重視していたのだ。

 実はサトウも箱館は初めてだった。
 サトウの日記にはこのとき見た箱館の様子がいろいろと書いてある。なかでも特筆すべきは、サトウ本人も「大望(たいもう)がかなった」と喜んでいるように、アイヌの人々に会ったことだった。
 パークスや海軍士官たち、さらに箱館の領事館員たちと一緒に落部(おとしべ)(むら)(現、八雲町(やくもちょう))まで馬で遠足に行き、アイヌの集落を訪れた。
 そして相変わらずサトウは
「ピリカ・メノコ・トナスモ・モコロ(美しい娘よ、はやく寝たい)」
 などと片言(かたこと)のアイヌ語を使って、アイヌの女性たちに声をかけたりした。
 ただしサトウは
「アイヌの女性は口のまわり一面に入れ墨をしているので、みにくい」
 と日記に書いている(その一方で「男性はうつくしい」と書いている。男性に対して「うつくしい」とは、何とも不穏当な表現ではなかろうか)。

 ちなみに、サトウたちが去って一ケ月後ぐらいのことと思われるが、この落部村のアイヌ集落で墓があばかれ、骨が持ち去られるという事件が起きた。
 犯人は数名のイギリス人で、箱館のイギリス領事館員およびその関係者であったことが後に裁判で明らかになった。
 ヨーロッパでは博物学者たちがアイヌ人に興味を持っており、アイヌの骨が高く売れるということで盗掘(とうくつ)されたようである。
 この事件は後にイギリス公使のパークスもイギリス人の犯罪であることを認め、アイヌの人々に対して賠償するよう当事者たちに命令した。
 日本でパークスがこれほどまでに低姿勢を示したのは、多分これが最初で最後だったろう、と思われる。


 箱館から横浜に戻って来たパークスは本国外務省からの訓令(くんれい)に接した。
 それは「300万ドルの賠償金問題」と「兵庫開港」の現状報告を求める、という内容だった。
 「300万ドルの賠償金問題」とは、下関戦争の章で紹介したように、前任のオールコック公使が長州ではなくて幕府に請求した、例の賠償金のことである。
 この300万ドルというのはオールコックが「ふっかけて請求した途方(とほう)もない金額」で、これを支払うか、または下関など瀬戸内海の港を開くか、の二者択一を幕府に突きつけ、結局幕府は支払うことを選んだ、ということは以前書いた。
 また幕府の横浜鎖港政策が撤回された場面で、今後イギリスにとっては「条約勅許(ちょっきょ)」の獲得が最重要課題となり、オールコックがそれに着手しようとしていた矢先に帰国させられた、ということも以前書いた。

 本国外務省からの訓令を受け取ったパークスは、ただちに四ヶ国艦隊を率いて大坂湾へ向かうことを決心した。
 そうすることによって「条約勅許」「300万ドルの賠償金問題」「兵庫開港」といったこれらの問題を一気に片づけてしまおうと考えたのである。
「武力を背景に、押せるところまで押す」
 これが清国でやってきたパークスのやり方で、彼としては「同じアジアなんだから日本でも同じようにやるだけだ」と単純に考えただけのことだった。

「艦隊を率いて大坂湾へ向かう」
 という発想自体は、以前から英仏公使たちが何度か試みようとしていた案だった。
 けれども京都からほど近い大坂湾に外国艦隊が近づけば、京都の朝廷が激怒するのは必至(ひっし)で、さらに全国の攘夷派を刺激することにもなる。
 それゆえ幕府は英仏公使たちに
「それだけは絶対にやめて欲しい」
 と懇願(こんがん)して、これまではずっと思いとどまらせてきたのである。

 ところが今度のパークスは、幕府の都合などいちいち忖度(そんたく)する男ではない。
「幕府は一国の政府として他国と結んだ条約を確実に履行(りこう)しろ。もし朝廷からの勅許を得られないとすれば、幕府は一国の政府としては認められない。ただそれだけのことである」
 パークスの理屈としては、こうである。

 実際確かにその通りで、幕府の人間からすればグウの()も出ないほどの正論であろう。
 ()りも良し、東の天狗党が(つぶ)れ、西の長州も潰れかけており、攘夷熱はほとんど消滅しつつある。そして幕府は横浜鎖港政策を捨てて開国へと(かじ)をきったのだから、条約勅許を獲得するのに何の障害があるのか?とパークスとしては言いたかったに違いない。
 とにかく、パークスからすれば留守番の老中が一人だけ残っている江戸の政府を相手にしてもラチがあかない。長州再征のため大坂に入っている将軍家茂(いえもち)および幕閣たち、さらには京都の朝廷(天皇)までひっくるめて全勢力を相手にするべく、彼は大坂湾へ乗り込む決心をしたのである。

 パークスは幕府と交渉するにあたって次のような条件を提示した。
「幕府が次の三つの条件をすべて満たせば、賠償金300万ドルの三分の二、つまり200万ドルの支払いを免除(めんじょ)する」
一、兵庫開港と大坂開市を二年早める
二、条約の勅許を得る
三、輸入関税を一律5%に引き下げる
 ただし一の条件については、従来の取り決めでは1868年1月1日に開く予定となっているので「二年早める」となると、すでに開港・開市の期限まで二ヶ月弱ということになる。

 パークスがこの中で一番重視しているのは、二番目の条約勅許(ちょっきょ)である。
 そしてこの条件提示の中には書かれていないが、幕府が朝廷から条約勅許を得られない場合は
「四ヶ国が実力を行使して、直接京都へ行って朝廷から勅許を獲得する」
 と、そこまでパークスは強硬に押すつもりだった。
 そのための四ヶ国艦隊であり、実際パークスは大坂でこのように幕府へ通告するのだ。

 さはさりながら、これほど強引なパークスの手法に他の三国(仏蘭米)が納得するであろうか?
 特に幕府を擁護する立場にあるフランスのロッシュが、このパークスの手法に賛成するであろうか?
 実はロッシュも賛成したのである。
 もちろんロッシュとしてはパークスに主導権を取られたくないのでパークスの作戦に心の底から賛成している訳ではない。しかしイギリスを牽制(けんせい)しつつ幕府にも助言を与えるため、()えてこの四ヶ国艦隊に参加することにしたのである。

 さらに言えば
「条約勅許を獲得することは幕府にとっても諸外国にとっても良いことであり、反対する理由がない」
 というのがロッシュの正直な気持ちだったであろう。
 そしてオランダとアメリカは英仏に追随する形で賛成した。
 なにしろオランダは軍艦一隻が参加するだけで、アメリカにいたってはこの当時日本近海に一隻の軍艦もなく、イギリスの軍艦に便乗する形の参加であり、この二国がイギリスに異を唱えるはずもなかった。

 四ヶ国艦隊はイギリス軍艦五隻、フランス軍艦三隻、オランダ軍艦一隻の合計九隻で大坂湾へ向かうことになった。
 以前、下関戦争をおこなった際は十七隻の艦隊だったので、それと比べると今回の規模は約半分である。
 ちなみに薩英戦争、下関戦争と、イギリス艦隊はこれまでずっと旗艦はユーリアラス号が、艦隊司令官はキューパー提督がつとめていたが、今回は旗艦がプリンセス・ロイヤル号に、そして艦隊司令官はキング提督に変更になっている。

 そしてサトウは今回も正式な通訳として参加することになった。
 ただしシーボルトも一緒である。ウィリスは今回も留守番になった。
 サトウが関西に上陸するのは今回が初めてである。
 艦隊作戦に参加するのは薩英戦争、下関戦争に続き、サトウにとってこれで三度目ということになる。
 九月十三日、サトウを乗せた四ヶ国艦隊は横浜を出発した。
 三日後、艦隊は兵庫沖に到着し、幕府との交渉を開始した。



 サトウのいる兵庫沖からさほど遠くない大坂には、将軍家茂と幕府軍がいた。
 彼らが江戸から「将軍進発」したのはおよそ五ヶ月前のことで、大坂に入ってから長州再征の動きは止まったままだった。
 幕府は長州を甘くみていたのだ。
「前回、尾張の徳川慶勝を総督とした幕府軍にあっさりと降伏した長州なのだから、今回将軍が進発して大坂に出て行けば、ひとたまりもなく降伏するであろう」
 そう思っていたのだが、長州は降伏しなかった。
 これまで長州の内情をずっと書いてきたように、正義派が実権を握った長州は徹底抗戦(いわゆる「武備(ぶび)恭順(きょうじゅん)」)の構えをとっているのだから当然である。
 アテが外れた幕府としては、長州の各支藩の藩主を大坂に呼びつけようとしたものの、これもことごとく藩主たちが「病気」と称して出頭(しゅっとう)を断ってきた。

 事ここに及んで、いよいよ幕府は腰を上げざるを得なくなった。
 四ヶ国艦隊が大坂湾に到着した九月十六日、家茂は京都に入って「長州再征討」の勅許を朝廷に奏請(そうせい)した。すでに六月の段階で朝廷から
「再征討が必要なら勅許なしでも、臨機応変に征討を始めてもよろしい」
 と許可がおりているのにわざわざ勅許を求めたのは、朝廷の後ろ盾を得て、世間へ向けて長州再征討を声高にアピールするためだった。

 ここで「勅許(ちょっきょ)」(=朝廷の許可)について少し整理しておく。
 この九月には「長州再征討の勅許」と「条約勅許」という二つの勅許問題が並行して進んでいるので話がややこしい。
 順番で言えば先に「長州再征討の勅許」が朝廷に奏請され、次に「条約勅許」が朝廷に奏請されることになる。
 そしてこの二つの勅許奏請に対して、薩摩藩、特に大久保一蔵が大々的に妨害をくわだて、幕府の邪魔をするのである。

 まず「長州再征討の勅許」について。
 前年の長州征伐における西郷の対応、そして長崎での俊輔、聞多に対する小松の対応、さらにはヨーロッパでの五代、松木の対応を見れば、薩摩藩がすでに幕府を見限っていることは明らかである(ただし薩摩藩全体が反幕府という訳ではなく、薩摩藩内にも幕府寄りの保守勢力がいるにはいる)。
 むろん、大久保も幕府を見限っていた。
 だからこそ、幕府の長州再征討を何としても阻止(そし)しようと薩摩寄りの公家に働きかけた。
 具体的な公家の名をあげると近衛(このえ)忠房(ただふさ)中川宮(なかがわのみや)山階宮(やましなのみや)などである。大久保は彼らに入説(にゅうぜい)をくり返して長州再征討の勅許がおりないよう裏工作に(はげ)んだ。
 この時大久保が
「すでに一度降伏している長州を討つのは名義がない。“非義(ひぎ)勅命(ちょくめい)”は勅命にあらず」
 と言ったというのは有名な話である。

 この大久保の妨害工作に対して、ことごとく立ちはだかったのが禁裏(きんり)御守衛(ごしゅえい)総督(そうとく)の一橋慶喜だった。
 慶喜の短い政治家人生のなかで一番光り輝いていたのは、おそらくこの時であったろう。

 大久保が関白(かんぱく)二条斉敬(なりゆき)の屋敷を訪れて長々と入説をくり返し、二条関白の参内(さんだい)を足止めしていたのを受けて慶喜は激怒して言った。
「たかが大久保一人の匹夫(ひっぷ)が入説しているだけのことで、関白が参内に遅れるとは奇怪(きっかい)至極(しごく)である!」
 このあと慶喜は参内してきた二条関白を()()せ(一説には将軍や自分の辞職もチラつかせたという)九月二十一日、長州再征討の勅許を見事に獲得した。

 大久保は慶喜に敗れたのである。
 ただし、これはまだ慶喜と大久保の戦いの序幕(じょまく)()りたに過ぎなかった。


 そのころ兵庫にいたパークスたち四ヶ国艦隊は幕府との交渉の準備を進めていた。
 それに加えて、彼らは兵庫港に上陸して視察もおこなっていた。
 早期開港になるか、予定通り二年先の開港になるか、そのどちらにせよ開港するのは間違いないのだから(ただし日本側は決してそのように考えてはいないのだが)、その時に(そな)えて港の下見(したみ)をおこなっていたのである。

 サトウは連日兵庫に上陸して歩き回り、時には数キロ東北にある神戸村まで足を運んだ。
 兵庫の真光寺(しんこうじ)清盛(きよもり)(づか)能福寺(のうふくじ)、さらに湊川(みなとがわ)(兵庫と神戸の間を流れていた旧湊川)などの周辺を歩き回って町の様子を観察し
「湊川はすばらしい川で、水源のある山麓(さんろく)のあたりは非常に景色が美しい」
 といった感想を日記に記録している。

 先回りして述べてしまうと、開港された後に外国人たちが住みつくことになるのはこの兵庫港ではなくて、数キロ東北にある神戸村のほうである。
 ここには勝海舟や坂本龍馬がいた神戸海軍操練所(そうれんじょ)があったぐらいで人があまり住んでおらず、その海軍操練所もこの時すでに閉鎖されていた。
 兵庫と神戸の関係は、神奈川宿と横浜の関係と似ている。
 神戸も横浜も元々あまり人が住んでいなかったので、外国人は自分たちの思うように町を設計することができた。彼らが兵庫ではなくて神戸を選んだのも、そういった理由があったからである。
 おかげで神戸も横浜も、その名残(なご)りである「異国(いこく)情緒(じょうちょ)」といった雰囲気を今に残している。何の因果(いんが)か、その後どちらも巨大地震に見舞(みま)われて町が壊滅(かいめつ)する、といった点でもこの両者は似ているのだが。

 九月二十三日、兵庫沖に停泊(ていはく)していたプリンセス・ロイヤル号において幕府代表と英蘭米三ヶ国代表の会談がおこなわれた。ただし三ヶ国代表と言っても基本的にはイギリスのパークスが前面に立って幕府代表と談判(だんぱん)する形である。
 一方フランスのロッシュは独自路線を取り、自国の軍艦で待機することにした。
 ロッシュはここで(ひそ)かに幕府代表に助言を与えるつもりなのである。

 幕府代表は老中の阿部正外(まさと)豊後守(ぶんごのかみ))、外国奉行の山口直毅(なおき)駿河守(するがのかみ))、大坂町奉行の井上義斐(よしあや)主水正(もんどのしょう))の三名である。
 ちなみにこの日サトウは大坂へ視察に出かけていたので、通訳はシーボルトが担当することになった。

 会談がはじまるとさっそくパークスは阿部に対して、賠償金200万ドル免除の件と、その引きかえとして三つの条件(兵庫開港の早期開港、条約勅許、関税引き下げ)を提示し、なかでも条約勅許は今回絶対に獲得するよう迫った。
 しかし幕府代表の阿部はやんわりとそれを拒否した。
「現在幕府は困難に直面しており、条約勅許の獲得は困難である」

 パークスという男は、相手が「あいまいな言葉」で言い逃れしようとするのを絶対に許さない、強烈な性格の持ち主である。
 その点、日本人は逆に「あいまいな言葉」を好む傾向にあり、ある意味パークスとは水と油のような関係と言える。
 パークスは阿部に対して次々と追及(ついきゅう)の言葉を投げかけた。
「その困難とは一体何なのか?」
「外国のことなど何も知らない多くの日本人は、自分たちの置かれている状況を何もわかっていない。無知な連中が攘夷を唱えて朝廷へ入れ知恵するので、幕府は朝廷を説得するのに手を焼いている」
「どういった連中が攘夷を唱えて幕府に抵抗しているのか?具体的に名前をあげてもらいたい」
「例えば長州がその一つである」
「長州が攘夷を唱えていたのは過去の話であり、今では下関を開港して外国と貿易する意志もあると聞いているが?」
「長州がそのように言っているのは一時的なものであり、武器などを手に入れるための方便(ほうべん)に過ぎない」
「幕府が貿易の利益を独占して、朝廷や大名へ分け前を与えないから彼らは不満を唱えているのではないのか?なんにせよ、そういった日本国内の不和は我々外国人にとっては関係のない話であり、幕府が一国を代表する政府であると言うのなら、条約を遵守(じゅんしゅ)するために抵抗勢力を制圧すべきであろう」
「大名が自由に貿易できない現在の制度は改めるべきだと我々も考えている。どのような制度が適切であるのか、現在検討中である」

 この最後の阿部の発言は、一見、何の問題もない発言のように見える。
 しかしパークスはこの阿部の発言を執拗(しつよう)に追及しはじめた。

 それというのも、以前紹介した三年前の「ロンドン覚書(おぼえがき)」があったからである。
 これは竹内使節とオールコックが取り決めた覚書だが、この取り決めのなかでは江戸・大坂・兵庫・新潟の開市(かいし)開港(かいこう)を1868年1月1日まで延期する条件として「貿易に関する規制撤廃(てっぱい)」が定められており、その具体的な項目として
「大名が直接外国人と貿易することを(さまた)げてはならない」
 という条件があった。
 そしてこの条件に違反した場合の罰則(ばっそく)規定(きてい)として
「日本が約束不履行(ふりこう)の場合は即座(そくざ)に開市開港を要求できる」
 と定められている。

 阿部は「大名が自由に貿易できない現在の制度」と発言しており、「大名が直接外国人と貿易することを妨げてはならない」というロンドン覚書に日本が違反していることを(みずか)ら認めてしまったのである。

 おそらく阿部はそういった細かい事情を理解していなかったか、あるいはもし違反状態であったとしても、これまでずっと見逃してくれていたのだから今回も深く追及されることはあるまい、と軽く考えていたのだろう。
 しかしながらパークスがこの「失言」を見逃すわけがなかった。
「大名が直接外国人と貿易することを妨げてはならない、というロンドン覚書に幕府が違反していることは絶対に容認できない。我々は本来であれば今回提示した三つの条件とは無関係に、兵庫開港を要求できる権利を持っているのである。にもかかわらず、それを要求しないのは我々が幕府に友好的な精神を示しているからである。もし幕府が我々に対しても友好的な精神を示すのであれば、三つの条件を受けいれて、さらに賠償金200万ドルの免除も手に入れるべきである。それができないというのなら、幕府は賠償金の免除という利益を手放すだけにとどまらず、兵庫開港を無条件で要求されることにもなるだろう。なお、大名のなかには我々との交際を強く望み、友好的な精神を示してくる人々がいるが、我々が彼らと交際することは条約でまったく禁止されていない、ということも付け加えておく」
 このパークスの厳しい追及に対して阿部は次のように答えた。
「現在、日本国内は“人心(じんしん)()折合(おりあい)”の状態にあり、条約勅許や兵庫開港が認められるとは到底思えない。おそらく我々は賠償金を支払うことになるだろう。とにかく、四ヶ国の提案を持ち帰って検討するので、後日あらためて回答する」
 こうして初日の会談は終了した。
 幕府側は、イギリスがこれまで以上に強硬な姿勢であることを知って少なからず動揺(どうよう)した。
 ちなみに阿部たち幕府側の代表は、このあとフランスのロッシュとも会談したが、この段階では格別な助言などは無かった。まずは幕府側がどう対応するのか?それが決まらないうちは助言のしようがないからである。


 一方、船で大坂へ行っていたサトウは天保山(てんぽうざん)で上陸して小舟に乗り換え、安治川(あじかわ)旧淀川(きゅうよどがわ))をさかのぼって大坂城の近くまで探索(たんさく)していた。
 時々上陸しては町の様子を見てみたが、大坂の人々はおおむねサトウたち外国人に友好的だった。
 一方、幕府役人の官僚的で融通のきかない態度にイライラとさせられた。すぐに細かな規則を持ち出してサトウの移動を制限しようとするのだ。しかしサトウたちが「我々は断固として先の道へ進む」と強い態度に出ると、役人たちは簡単に折れて、逆に謝ってきた。

 この頃、兵庫港には薩摩の蒸気船胡蝶丸(こちょうまる)も停泊していた。
 サトウはこの胡蝶丸の薩摩藩士たちとも交流してすでに情報収集にあたっていた。サトウが胡蝶丸を訪問することもあれば、薩摩藩士たちがプリンセス・ロイヤル号のサトウを訪問することもあった。
 薩摩藩士たちはサトウを食事に誘い、時には「オンナゴチソウ(女御馳走)」に誘うこともあった(ただしこの「オンナゴチソウ」、要するに遊女屋行きの計画は日程が合わず、(ぼつ)になったようである)。
 サトウの目にはこの両者、すなわち幕府役人と薩摩藩士の態度が、きわめて対照的に(うつ)った。
 サトウは幕府役人に対して
(彼らは弱いくせに偉そうにしたがる。そのくせ我々数人のヨーロッパ人が怒鳴(どな)りつけるとすぐにそのなりをひそめる。なんと意気地の無い連中であることか)
 と軽蔑(けいべつ)の念を抱きはじめていた。


 パークスから強硬な要求を突きつけられた幕府は、今回も右往左往(うおうさおう)するばかりだった。
 先の会談が終わった後、阿部はパークスに回答期限として数日の猶予(ゆうよ)をもらいたいと申し出た。
 ところがパークスはそれを拒否して
「明日、回答せよ。さもないと我々は直接京都へ向かうことになろう」
 と強硬な態度で阿部に迫った。
 これがパークスのやり方というか、往々(おうおう)にして外国人に見られる傾向ではあるが「最初に強く出て(最初に高めの要求を出して)、そのあと少しずつ要求を引き下げていきながら交渉を有利に進める」という「()()きの基本」を徹底的に守る人間なので、とにかく幕府に対してゴリ押しで迫ってきた。

 結局次の会談は翌日おこなうということに一応はなったものの、翌日幕府は使者を送って二日間の猶予を求め、とりあえずパークスもそれを渋々(しぶしぶ)了承した。
 阿部はパークスの強硬な態度にまったく面食らってしまった。そしてやむなく
「兵庫の開港を認める。ただし朝廷に勅許は求めない」
 という方針を打ち出し、同僚の老中、松前(まつまえ)崇広(たかひろ)伊豆守(いずのかみ))とその方向で事を運ぼうとした。
 このとき阿部は外国奉行の山口直毅に対し
「なあに、もし何かあれば俺が腹を切れば済むことだから、是非(ぜひ)この方針でパークスに回答するつもりだ」
 と、その決意のほどを語った。

 しかしこの阿部たちの方針を慶喜が耳にして、すぐにストップをかけさせた。
 二年前の「五月十日の攘夷期日の決定」および「生麦賠償金支払い」の騒動の時にも触れたように、慶喜は血筋から言っても朝廷尊崇(そんすう)の念が強く、勅許を無視するような阿部、松前両老中のやり方は絶対に認められなかった。
 このあたりが、幕府権力の強化を優先する阿部、松前などの老中たちと、朝廷との協調関係を優先する慶喜との大きな違いであり、両者の間には見えない壁が存在していた。
 そしてこのあと阿部、松前の両老中は朝廷から厳罰(げんばつ)をうけて罷免(ひめん)させられた。
 老中が朝廷の命令で辞めさせられるというのは前代未聞の出来事だった。

 ともかくも、慶喜の指示によってパークスのもとへ使者が送られ、回答期限の延期を求めることになった。延期してもらっている間に慶喜は、朝廷から条約勅許を引き出すつもりであった。
 パークスのもとへ送られた使者は若年寄(わかどしより)の立花種恭(たねゆき)出雲守(いずものかみ))と大坂町奉行の井上義斐(よしあや)だった。
 回答期日として決められていた九月二十六日、立花たちはパークスのもとへ出向き
「阿部は急病で来られなくなった。朝廷に条約勅許を求めるのは今回が初めてなので、説得には数日を要する。是非あと十五日間の猶予をもらいたい」
 と申し出た。

 パークスはこの立花の申し出に激怒した。
 約束の日に阿部本人が来ず、しかも回答延期を求められたというのも立腹(りっぷく)の要因だが、さらに怒りを感じたのは
「幕府が朝廷に条約勅許を求めるのは今回が初めて」
 という部分であった。
 この条約勅許の話は前年オールコックがいた頃から幕府に要求していたことで、幕府はその時「条約勅許をとりつける」とイギリスに約束していたのだ。しかしこれまで幕府はずっと約束を無視し続けて、しかも何の努力もしてこなかったということがここへ来てとうとう判明した。

 パークスは机をバンバン叩き、立花たちに対し
「なんという(はじ)知らずな言い草か!幕府の人間は噓つきばかりだ!」
 と思いっきり暴言を()びせかけた。

 立花はパークスの無礼な態度に我慢の限界を感じていた。
(一国を代表する人間に対してなんたる暴言か!このような無礼を許すくらいなら、むしろ今この場で公使を斬り捨て、返す刀で切腹したほうがマシだ。さりとて、イギリス公使を殺してしまえば日本全体に害がおよぶであろう。どうしてくれようか……)
 それからパークスはさらに立花たちを追及した。
「回答期限を延期すれば本当に(ミカド)を説得できるのか?その証拠(しょうこ)があるのか?」
 すると大坂町奉行の井上が立ち上がって
「このようなことに証拠を示すなど、できるわけがない!されど、我が国には大切なことを(ちか)う時には血判(けっぱん)をする風習(ふうしゅう)があるので、今この場で血判を押してしんぜよう」
 そうパークスに向かって言い、(わき)()しを抜いて指を切るゼスチャーを見せた。
 本来血判を押す際には、指を少しだけ切って血判用の血を少し流すだけのことなのだが、パークスたち外国人にはその意味が通じず
「井上は指を一本切断して、証拠として差し出すつもりか」
 とパークスたちは勘違いした。

 さすがにこれにはパークスも驚いて、井上に刀をおさめるように言った。そして
「そこまで言うなら仕方がない。十日間だけ猶予を与えよう」
 と立花たちに回答した。
 後年、慶喜は次のように語っている。
「井上は刀を抜き(みずか)ら指を切って外国人に証拠を示そうとした。井上はこの時に限らず度々(たびたび)指を切ろうとして外国人を説得したというが、その後、実際に指を切ったと聞いている」
 井上がこのあと本当に指を切断したという事例があったのかどうか、あるいは話が誇張(こちょう)されて慶喜に伝わったのか、その真相(しんそう)はよく分からないが、とにかく立花と井上は十日間の猶予を獲得するのに成功した。


 この日、サトウはプリンセス・ロイヤル号でパークスの通訳をした後、再び薩摩藩の胡蝶丸を訪問した。胡蝶丸はこの日、兵庫を出港して鹿児島へ帰ると聞いていたので、最後にもう一度情報収集をしておこうと考えたのだった。
 船内へ入ると例によって薩摩藩士たちは気軽にサトウに話しかけてきた。

 そしてサトウが船室へ入ると、一人の巨漢(きょかん)寝台(しんだい)で横になっていた。
 その男はサトウが部屋に入ってきたのに気づき、やおら起き上がって座席へと移り、居住(いず)まいを(ただ)した。
 大きな瞳を輝かせて、穏やかな表情でサトウを見つめているその男は、一言も言葉を発しようとはしなかった。

 サトウは、その男に対する薩摩藩士たちの接し方がことさら礼儀正しいのを見て
(どうやらこの人物は薩摩藩の重要人物であるらしい)
 とすぐに感じ取った。
 この船で顔なじみになった薩摩藩士が、その男のことをサトウに説明した。
「彼は島津、薩州(さつしゅう)で、家老に相当する人物です」
 これを聞いてサトウは、この人物が「島津サチュウ」という名前だと思い込んでしまった。
 “薩州(さつしゅう)”とは薩摩藩のことを指す、当時の一般的な呼称(こしょう)である。
 説明した薩摩藩士は「島津家」と言いかけて「薩州(さつしゅう)」と言い直しただけだったのだが、薩摩(なま)りで聞き取りにくかったせいか、サトウはその男の名を「島津サチュウ」と勘違いしたのである。
(ひょっとしてこの人物は、あの有名な島津久光(ひさみつ)ではなかろうか?)
 とサトウは思った。

 言うまでもなく、この男は久光ではない。西郷吉之助(きちのすけ)隆盛(たかもり))である。

 そしてもちろん西郷は家老でもなく、しかもこの時はサトウに本名も言わなかった訳だが、サトウが信用できる人物かどうか分からなかったので、一応用心のため西郷は本名を明かさなかったのだろう。
 サトウの日記には後日
「あの島津サチュウは、実は西郷であった」
 と訂正が書き加えられることになる。それは(のち)にサトウが西郷と正式に面談をして判明することであり、この場では何も言葉を()わさなかった。

 これがサトウと西郷の出会いであった。
 サトウは不思議な雰囲気を持つ男の印象を胸に()めつつ、この日はこのまま胡蝶丸を後にした。
 この日の夜、胡蝶丸は鹿児島へ向けて出発して行った。


 一方、幕府内部はますます混乱の度を深めていた。
 阿部、松前の両老中は朝廷からの命令で辞めさせられた。
 これを受けて、将軍家茂(いえもち)は朝廷に辞表を提出した。
 そして「江戸へ帰る」と言い残して大坂城を出て、伏見へと向かったのである。
 家茂の辞表には
「私は幼弱(ようじゃく)不才(ふさい)なので将軍職は慶喜に()()いでもらう。慶喜であれば朝廷にも通じ、政治能力もあるので外交交渉の大任(たいにん)もつとまるであろう」
 といったようなことが書かれていた。

 この将軍辞職の宣言は「朝廷が幕府老中を辞めさせる」という越権(えっけん)行為に対して、将軍が抗議の意志を示すためになされたものであった訳だが、おそらくこの宣言の中には家茂の本音もかなり含まれていたであろう。
 幕府権力の強化を優先する阿部、松前の両老中と、朝廷との協調関係を優先する慶喜が大坂城内で論争した時、その採決(さいけつ)を求められた家茂はどちらにも決断を下せず
「どうとでもしてくれ」
 と言い、ただ涙を流すだけだった。

 家茂はこの時、弱冠(じゃっかん)二十歳(はたち)である(満年齢では十九歳)。
 彼は部下に対する思いやりがあり、人徳のある将軍ではあったが、この内外波乱の時代を(おさ)めるには荷が重すぎたと言うべきだろう。
 なにより、幕府という組織自体が老朽化(ろうきゅうか)して(こわ)れかけていたのだから、彼一人がどう頑張ったとしても、もともと支えきれるものでもなかった。

 朝廷から条約勅許を引き出すために京都で活動していた慶喜は、この将軍辞任、江戸帰還の話を聞いて急いで伏見へ向かった。
 そして伏見で家茂に謁見(えっけん)し、さらに老中たちとも接見(せっけん)して、将軍辞任、江戸帰還を思いとどまらせた。
「今一度、拙者(せっしゃ)が死力を()くして朝廷に開港の不可避を()き、条約勅許を奏請(そうせい)いたす。上様(うえさま)は江戸に戻るのではなく、二条城へお入りいただく」
 以後、慶喜は御所(ごしょ)に乗り込んで条約勅許の獲得を目指すのである。

 回答期限まで残り三日となった十月四日、パークスたち四ヶ国側に阿部、松前の両老中が罷免(ひめん)されたという話が届いた。この日プリンセス・ロイヤル号を訪れた外国奉行の山口がその旨を伝えたのだった。
 回答期限ギリギリになってもまだ幕府と朝廷がもめているのを知ったパークスは、とうとう日本側へ最後通牒(つうちょう)を突きつけた。
「回答期限までに文書による回答が無い場合は、我々の要求は正式に拒絶されたものとみなし、我々は“自由行動”を開始する」
 この“自由行動”とは「京都へ進撃する事も含む」という意味で、最後通牒を突きつける時の常套句(じょうとうく)であった。
 無論、その文言(もんごん)の意味するところは正確に幕府へ伝えられたので、幕府もあらためて四ヶ国の強硬な姿勢を思い知ることになった。
 サトウは当時の日記で次のように書き残している。
「もし幕府が条約勅許を得られなければ我々は戦争することになるだろうが、そうなったほうがむしろ物事がスッキリするかも知れない」
 薩英戦争と下関戦争という二度の戦争を経験したサトウが、幕府と戦争することをそれほど安易(あんい)に考えていたとも思えないが、薩英戦争と下関戦争を経験したあとに俊輔たち長州人、および胡蝶丸の薩摩人との交友関係が強まったサトウとしては、いっそ一度幕府と戦争をしたほうが幕臣たちの本心が見えるようになるのではないか?と思ったかも知れない。

 そしてこの同じ十月四日の夜、慶喜は御所(小御所(こごしょ))で御前(ごぜん)会議に出席した。
 この会議は孝明天皇が御簾越(みすご)しにやり取りを聞くかたちの会議で、幕府側は慶喜のほかに京都守護職・松平容保(かたもり)、京都所司代(しょしだい)・松平定敬(さだあき)、さらに老中格の小笠原長行(ながみち)が出席し、朝廷側は関白(かんぱく)二条斉敬(なりゆき)、中川宮、近衛忠房(ただふさ)など十名が出席した。

 松平容保(かたもり)と松平定敬(さだあき)は兄弟で、慶喜と合わせて「いわゆる(いち)(かい)(そう)」とよく呼ばれている。
 (いち)は慶喜の一橋家、(かい)は容保の会津藩、(そう)は定敬の桑名(くわな)藩のことで、幕府への忠誠心が強いのはともかく、朝廷への忠誠心もそれに勝るとも劣らない、という立場の人々である。
 そして小笠原長行は二年前、生麦賠償金騒動の時に慶喜と協力して支払いを実行し、そのあと率兵(そっぺい)上京を計画して懲戒(ちょうかい)処分となった男であるが(第四章で記述済み)この頃また幕閣として復帰していたのだった。

 慶喜はくり返し朝廷側を説得し、条約勅許を(くだ)されるよう訴えた。
「今や四ヶ国艦隊と開戦寸前の状況です。しかしすでに開港済みの横浜、長崎、箱館の勅許を(くだ)されれば、四ヶ国艦隊は退去することでしょう。されど、もし勅許を拒絶すれば、外国人は主上(しゅじょう)(孝明天皇)の(とうと)さをわきまえぬ者にて、この(みやこ)へ兵を送ると叫んでおります。兵が迫って来てから和議を(こう)じようとしても手遅れでございます」
 ちなみに慶喜の方針としては兵庫開港のことは後回しにして、とにかく開港済みの横浜、長崎、箱館の勅許を引き出すことに論点を絞る方針だった。
 慶喜は演説を続けた。
「彼らと無謀(むぼう)に戦っても()(やぶ)るのは難しく、かりに一時(いっとき)は勝利を得たとしても、そのあと万国の兵が日本へ押し寄せてくることでしょう。そうなれば幕府の存亡(そんぼう)はともかく、朝廷や日本全体の安否(あんぴ)さえおぼつきません。万民が塗炭(とたん)の苦しみを受けることは何としてでも避けねばなりません。横浜、長崎、箱館の勅許さえ下されれば戦争は避けられるのです」
 このように慶喜が懸命(けんめい)に訴えても、朝廷側は容易に勅許を出そうとはしなかった。
 そしてこのあとも慶喜たちと朝廷との間で激論が続いた。

 ところが会議が深夜に入ってから、薩摩藩と関係が深い近衛忠房(ただふさ)が意外な提案を持ち出した。
「朝廷より四ヶ国艦隊へ使者を送り、とりあえず回答期限の延期を申し入れ、その間に有力諸侯(しょこう)を京都へ招聘(しょうへい)して諸侯会議を開いて対応を決定すべし」
 これは薩摩の大久保一蔵が画策(かくさく)したものだった。
 朝廷からの使者としては大原重徳(しげとみ)を四ヶ国艦隊へ派遣し、大久保などの薩摩藩士がこれに随行(ずいこう)して補佐(ほさ)する、という案だった。大原重徳(しげとみ)は三年前に勅使(ちょくし)として島津久光と江戸へ下向(げこう)しており、近衛忠房(ただふさ)と同じく薩摩藩との関係が深い公家である。

 朝廷が直接外国と交渉する、という案はこれが初めてだった。
 また、諸侯会議(雄藩(ゆうはん)会議)を開くというのは西郷や大久保が盛んに主張している案で、これによって幕府から外交権を、ひいては政権そのものを雄藩連合に移してしまおうという計画だった。
 一旦(いったん)はこの案が最終決定として会議で決まりかけた。
 しかし慶喜たち幕府側が猛烈に反対して、朝廷からの使者派遣案を取りやめさせた。
 さらに会議が翌日に入ってから、慶喜は在京諸藩の代表者三十余名を御所に緊急招集(しょうしゅう)した。そして彼らに御前会議の場で意見を述べさせたのである。
 彼らのうち条約勅許に反対したのは薩摩藩と備前藩だけだった。それ以外は全員、条約勅許に賛成したのである。
 慶喜の目論見(もくろみ)通りの結果となった。

 これで勢いを得た慶喜は最後の手段にうってでた。
「ここまで申し上げても勅許を(いただ)けないのであれば、拙者はこの場で切腹いたします。我が(いち)(めい)()しむところにあらず。されど、そのあと我が家臣が何をしでかすか分かりませんぞ。そのお覚悟があれば存分になされよ。しからば、これにてご免」
 そう言い放って慶喜は席を立とうとした。
 すでに翌日の夜になっており、会議が始まってから二十四時間を越えていた。
 さすがに関白以下すべての公家たちは慶喜に抵抗する気力を失っていた。
 そして慶喜の要求通り、朝廷は条約勅許の御沙汰書(ごさたしょ)を幕府へ(くだ)すことになったのである。


 今回も慶喜は大久保の策謀をしりぞけて、見事に勅許を獲得した。
 慶喜の完勝と言っていい。

 ただし、その勅許の文面は
「条約の()、御許容(きょよう)あらせらる。至当(しとう)処置(しょち)致すべき事」
 と書かれており、さらに続けて(こま)かな条件が書かれてはいるが、一番重要なのは
「兵庫は()められ(そうろう)(こと)
 と書かれていることである。

 これは「兵庫の早期開港を止める」という意味にとどまらず、「兵庫の開港自体を止める」という意味で朝廷は書いたのである。
 慶喜も横浜、長崎、箱館の勅許を引き出すために、この点では朝廷に譲歩した。
 しかしもちろん、パークスたち四ヶ国側がこんなことを承知するはずがなく、やはりあとで問題となるのである。


 この二日後、回答期限の最終日である十月七日に老中の本荘(ほんじょう)宗秀(むねひで)伯耆守(ほうきのかみ))と外国奉行の山口が条約勅許の獲得をパークスに報告するため、プリンセス・ロイヤル号を訪れた。
 案の定、パークスは「兵庫は止められ候事」の文面を見て激怒した。
「兵庫開港を止めるとは何事だ!しかも(ミカド)印璽(いんじ)(ハンコ)も押してないではないか!こんなものはペケだ!」
 そう叫んで、パークスは御沙汰書を本荘に向かって投げつけた。

 そこですかさず外国奉行の山口がとりなしをして
「我が国の風習では勅状(ちょくじょう)に天皇の印璽は使わないのです。また兵庫開港を止めるというのは早期開港を止めるという意味で、開港自体を止めるという意味では決してありません。幕府に対して『至当(しとう)処置(しょち)致すべき事』と書いてある以上、兵庫を開港しない訳がありません。とにかく一旦(いったん)帰って文面について確認してきますので、後刻(ごこく)あらためて出直します」
 そう言って本荘と山口は一旦プリンセス・ロイヤル号から退去した。

 そして二人はフランス軍艦のロッシュのところへやって来た。
 ロッシュは通訳のメルメ・カションを通じて二人に話しかけた。
「イギリスの船ではどうでしたか?やはりパークスは怒ってましたか?」
 本荘がロッシュに答えた。
「いやまったくイギリスの船では酷い目にあった。パークスは大変立腹(りっぷく)しておった」
「そうでしょう、そうでしょう。あいつは(ひど)いやつです。いつもこけおどしばかり使います」
 とにかく本荘と山口にとってはロッシュが(たの)みの(つな)だった。二人はロッシュに対して
「兵庫は止められ候事、についてパークスから追及されて困っている」
 と言って助言を(あお)いだ。

 ロッシュはしばらく考えてから二人に策を(さず)けた。
「老中が連名でサインをして、兵庫も大坂も必ず後日開くということを追加で書き入れてください。それを持っていって私がパークスに()(はか)らいましょう」
 しかし残り二名の老中の署名を得るには、この日が回答期限だったのでもう時間がなかった。
 となるともう、(にせ)の署名を書くしかない。
 幸い本荘に随行(ずいこう)してきた祐筆(ゆうひつ)(当時の書記官(しょきかん))が残り二名の老中の署名が入った(ひか)え書類を持っていた。
 山口は覚悟を決めて本荘に
(にせ)署名(しょめい)でやるしかありませんな」
 と進言した。すると本荘は
「これは大事件じゃな」
 と答えた。そこで山口は本荘に覚悟を決めるよう(うなが)した。
「パークスがあのように怒っているのですから仕方がないではないですか。つまり、もし何かあれば私と御老中が罪を(かぶ)れば良いのです」
 結局本荘は山口の進言を受け入れた。そしてロッシュの言う通り追加の(ただ)し書きを書き入れ、さらに(にせ)の老中の署名を書き込んだのだった。

 あとはロッシュと山口がそれを持ってパークスの所へ行った。
 ロッシュとパークスはしばらく論争したが、その後パークスは「これで良しとする」と山口に了承した。

 かくして条約勅許の問題は、戦争になることもなく、一件落着したのであった。


 さて、結局のところパークスが幕府へ提示した「三つの条件」と「賠償金200万ドルの免除」の話はどうなったのだろうか?
 その結果は以下の通りである。

 一つ目の「兵庫、大坂を早期に開く」の条件は満たされなかった。
 二つ目の「条約勅許」の条件は満たされた。
 三つ目の「輸入関税を一律5%に引き下げる」は、ここでそのやり取りを描くことはなかったが、これも幕府側(最終日に回答した老中の本荘宗秀)によって条件が受け入れられた。
 
 結果としては、一つ目の条件だけが満たされなかった訳だが「賠償金200万ドルの免除」の条件は「三つの条件がすべて満たされた場合」というものだったので、結局、下関戦争の賠償金300万ドルは全額幕府が支払うことで確定したのである。

 要するにパークスとしては、何も手放すことなく、艦隊による威嚇(いかく)のみで「条約勅許」と「輸入関税を一律5%に引き下げる」を手に入れた訳である。
 サトウは日記で次のように書き残している。
「パークスは表では喜んでいないようなふりをしていたが、裏では非常に喜んでいた。パークスはキング提督とお互いの功績(こうせき)(たた)え合っていた」
 ただし後年サトウは次のように手記で語っている。
「実は我々が京都まで押し出して行くには連合艦隊の兵力が不足していたし、もしそれが充分だったとしても、パークスが本国政府から与えられていた権限では、武力を行使するのは難しかった」

 先述したように、下関戦争の時は十七隻の連合艦隊だったが、この時は九隻だった。そのうちイギリス軍艦は五隻である。そしてもし仮に戦争となった場合、すでに幕府と密接な関係になりつつあったロッシュ(フランス)がイギリスと共同歩調をとったかどうか。
 しかもこの時大坂には長州再征用の幕府軍約二万が駐屯していたのである。さらに尊王攘夷に情熱を燃やす、戦意(せんい)旺盛(おうせい)な会津兵などもいた。
 確かに、仮にこの一戦で幕府が勝てたとしても、それをきっかけとしてイギリスは再度、大挙(たいきょ)して押し寄せてくるという危険性はあった。
 しかしそれも、実際にふたを開けて見なければ分からない話である。

 筆者が思うに、この時のパークスが本当に京都へ攻めのぼる覚悟があったかどうか、その可能性は非常に低かったであろうと思う。
 ちなみに上記で示した三つ目の条件、「輸入関税」の件に少しだけ触れておきたい。
 関税の問題はいろいろとややこしい話なのであまり深く論じるつもりはない。とにかく幕府はイギリス側の要求をほぼ無条件に受け入れた。そしてこの後も日英の間で協議が続けられ、翌年五月に「(かい)(ぜい)約書(やくしょ)」という貿易協定が調印されるのである。

「明治政府の最大目標は、関税自主権の回復と、領事(りょうじ)裁判(さいばん)制度の撤廃(てっぱい)だった」
 と一般的にはよく言われているが、この「関税自主権」の問題というのはパークスが日本へ押しつけた、この「改税約書」に起因(きいん)しているのである。

 いや。確かにそれ以前からすでに日本の「関税自主権」はかなり制限されてはいた。けれども「アロー戦争に敗れた清国並み」に低い関税率を押しつけられたのは、この「改税約書」からなのである。
「そもそも長州が下関戦争を引き起こしたから、こんな“改税約書”を押しつけられることになったのだろう?」
 そう考えるむきもあるだろう。
 特に幕府を擁護する立場であれば、そう考えるのが当然だろう。実際、外国奉行の田辺太一も、後年そのようなことを述べている。

 筆者が思うに、実際のところ幕府上層部の判断としても「むしろ、ただそれだけの理由で、簡単にイギリスの言い分を認めたのではないか?」と疑っている。
 それは、要するに彼らの考えは
「我々幕府が悪いんじゃない。悪いのは長州である。もし後々大きな問題になったとしても、それは長州が原因を作ったから、そうなったのである。()めるなら長州を責めよ」
 という理屈である。
 要するに「責任転嫁」であり、また「開き直り」でもある。
 一国の政権を(にな)っている政治家の取るべき態度ではなく、子どものように感情的な態度だが、あながちこの筆者の疑念はそれほど大きく外れてはいないだろう、と思う。

 当時の幕府上層部の無能さ、および商売や金銭に対する無理解さというのは、現代の我々からすると想像を絶するものがある。
 それを証明する具体的な事例は、福沢諭吉の『福翁(ふくおう)自伝(じでん)』にいくらでも載っている。
 例えば、ある上級役人が外国へ行く時に、三井の商人から当時のドル相場を聞いて
「なるほど昨今(さっこん)のドル相場は安くない。しかし三井はずっと前に買い入れた安いドルも持っているのだろう?拙者(せっしゃ)の一分銀はその安いドルと両替してもらいたい」
 と述べたという。それを脇で聞いていた福沢は次のような感想を抱いた。
(どうも無鉄砲なことを言う奴だ。金を両替するのに、安い時に買い入れた金などとそんな(しるし)がどこに付いているか。安いも高いもその日の相場で決まったものを、相場外れにせよ、と平気な顔で言うとは)

 また福沢が「コンペティション」という英語を“競争”と訳した時に、それを上級役人に見せたところ
「ここに“(あらそい)”という字がある。これはどうも(おだ)やかでない。一体どういった意味であるか?」
 と(たず)ねられたので福沢は次のように答えた。
「別に何も珍しいことはありません。日本でも商人がやっているように、たくさん売ろうとして値段を安くすれば、隣りの店もまた安くして客を呼ぼうとする。それでもって物価が決まるのです。これを名づけて“競争”というのでござる」
「なるほど、そうか。西洋の流儀はキツイものだね」
「何もキツイことはありません。それですべての商売が成り立っているのです」
「なるほど、そう言われれば分からないことはないが、なにぶんどうも“争”という字は穏やかでない。これでは()老中(ろうじゅう)へお見せすることができない」

 さらに余談を加えると、幕臣として外国との交渉に従事していた田辺太一、福地源一郎などは開国当時の老中の仕事ぶりについて次のような記述を残している。
 この物語では割愛したが、安政六年(1859年)の横浜開港時に金銀の通貨取引が問題になった。
 この外国為替(かわせ)の問題は話がややこしいので詳細はここでも割愛するが、当時の英国公使オールコックと老中の間部(まなべ)詮勝(あきかつ)(越前鯖江(さばえ)藩主)がこの問題について話し合った時、老中の間部は為替のことがまったく理解できず、答えに(きゅう)して次のように答えたという。
拙者(せっしゃ)は日本では大名と申す者でござる。金銀のことなど生まれてこのかた考えたこともない。幕府の財務(ざいむ)勘定(かんじょう)奉行に、藩内の財務は家老に任せている。それゆえ、この問題は勘定奉行と外国奉行にお聞き願いたい」
 この間部の発言を聞いたオールコックは次のように答えた。
「やれやれ。日本はまったくうらましいお国柄(くにがら)だ。それで行政をつかさどる大臣がつとまるというのだから」
 この会談の筆記役をつとめていた田辺は
「安政の大獄で強権を発動している御老中が、外国人にはこんな情けない対応しかできないとは、と筆記をしながら(ひそ)かに(まゆ)をひそめたものだ」
 と、当時のことを回顧(かいこ)している。
 また福地の回顧録によると、このあと外国奉行につとめる幕臣たちの間では、会議の席で答えに(きゅう)すると
「拙者は大名でござる。左様(さよう)なことは存じませぬ」
 と冗談を言うのが流行(はや)ったという。

 まあ、当時の幕府上層部の能力というのは()てしてこの程度のものだが、とにかく幕府は300万ドルの支払いと関税の引き下げに同意したのである。ただし幕府は300万ドル全額を支払うことはできず、結局残りの分は明治新政府に引き継がれることになる。
 サトウは後年、次のように手記で語っている。
「三つの条件のうち二つの条件、しかも最も重要なものを獲得できた。しかし大君(タイクン)政府(幕府)は300万ドルの支払いを完済(かんさい)しなかった。そしてこの問題は維新後になっても、()えず明治政府とイギリス公使との間で憤激(ふんげき)と悪感情の(たね)となったということを、私は言っておかなければならない」


 結局幕府は、薩摩や長州と違って、イギリスと戦うことはしなかった。
 しかし、もしこの時幕府とイギリスが本当に戦っていたらどうなっていたか?

 勝敗のことはひとまず脇へおくとして、幕府の延命(えんめい)だけを考えるのであれば、この時イギリスと戦うべきだっただろう。
 もし本当に「イギリスが京都へ攻めのぼる」というのであれば、幕府としてはもっけの(さいわ)いと言うべきだったろう。

 なぜなら、外国と戦争をすれば国は一発でまとまるからである。
 言葉を何万言(なんまんげん)(つい)やしたところで国をまとめるのは難しい。
 しかし外国と戦争をすれば一発でまとまるものである。
 しかもこの時の場合、後年の、例えば明治六年の(せい)(かん)論争のように「外征(がいせい)」で国をまとめようとするのではなくて、明らかな「防衛(ぼうえい)戦争」なのである。
 無論、名義のない戦争では第三者から反発をうけるであろう。その点、今回のイギリス(パークス)は
「条約を勅許しない日本が悪いのである。だから京都へ向けて進撃するのだ」
 と開戦理由を唱えていた訳だが、これで本当に戦争の名義が立ったであろうか?

 逆に幕府としては、天皇のいる京都を防衛するのはどんな理屈をも超えて、国内的には「絶対的な正義」を得られたはずである。
 もしそうなれば、薩長も幕府を支援してイギリスと戦わざるを得なかったであろう。

 幕府は長州と戦争をするよりも、イギリスと戦争をしたほうが延命できたはずである(ただし戦争の結果によりけり、という条件付きだが)。
 まあ、幕府がそういった決断を下せるような組織集団でなく、またそういった決断を下せる人材が上層部にいなかったというのはこれまで散々見てきたところであり、今回のような結果になったのはある意味、必然的だったとも言えるだろう。

 少なくとも、会津藩としては、このとき戦っていれば後年のような「悲劇」はなかっただろう。
 そして実際、会津藩はこの時イギリスと戦う気がマンマンだったのだ。
 まあ「歴史にIFは無い」ので、言っても仕方のない話ではあるけれど(おそらく、もしそうなっていたとしても、また別の形で「悲劇」に()う藩が出たかも知れないし)。

 ただし先述したように、この時のパークスが本当に京都へ攻めのぼる覚悟があったかどうか?筆者は疑問に思う。
 そして、もし京都へ進撃した場合「日本国内が“反英”で一つにまとまってしまうかもしれない」という可能性には、パークスも気がついていただろう。
 イギリスの侵略のパターンは「分断(ぶんだん)統治(とうち)」が基本である。
 まず相手の国内に敵対勢力を作りだして、国内対立を(あお)って国力を(おとろ)えさせ、しかる(のち)に植民地化を狙う、というのが基本である。
 そのイギリスが、今回のようなやり方で「京都へ攻めのぼる」などという愚策(ぐさく)をやるとも思えない。
 そもそも以前キューパー提督がいた頃の戦略は、戦争になった場合は「海上封鎖(ふうさ)をおこなう」というのが基本方針であったし、それが一番効果的な戦略であろう。イギリスがわざわざ名義も利益も無い陸上戦闘(京都への進撃)をやって、自国の兵士を犠牲にするとは思えないのである。



 さて、そろそろ空想の話から、現実の歴史の話へと戻らねばならない。
 条約勅許を獲得したパークスたちは、その二日後に大坂湾から退去した。
 艦隊は横浜へ戻り、サトウも横浜へ帰って来たのだが、パークスを乗せた船は下関経由で上海へ向かった。一旦イギリスへ帰っていたパークスの妻子が上海まで戻って来たので、それを迎えに行くためである。

 そんな訳で数日後、パークスは下関に到着した。
 そしてパークスが乗ってきた船に高杉晋作と伊藤俊輔が訪問した。
 パークスと高杉と俊輔は、以前長州がイギリスへ伝えた「下関開港」の件について話し合った。
 高杉は開口一番、次のようにパークスへ意見を述べた。
「我が長州は今のところ下関を開港するつもりはない。我々は現在、幕府との戦争準備が忙しいので貿易問題にかかわっている余裕がないのである」
 結局長州は、というか高杉は、下関開港をあきらめたのである。

 この高杉の隣りに座っていた俊輔、それに聞多、上杉宋次郎(そうじろう)らの奔走によって、長州はすでに長崎のグラバーから薩摩名義で武器や蒸気船を入手できるようになっていた。それゆえ、藩内の反対派(特に攘夷派)を刺激してまで下関開港にこだわる必要がなくなっていたのだ。
 もちろん高杉はそういった事情をわざわざパークスには話さなかったが、パークスは後にグラバーや長崎領事館のガウアーから薩長提携の話を聞いて、その事情を理解するに至った。


 一方、横浜へ戻ったサトウは、留守中に流布(るふ)していた滑稽(こっけい)噂話(うわさばなし)をウィリスから聞かされた。
「アメリカ公使が殺され、パークスは捕虜(ほりょ)になり、サトウとシーボルトが殉職(じゅんしょく)し、幕府はまた賠償金を支払うことになった、という噂がどこからともなく流れてきたんだ。そんなことがある訳ないだろ、と思ってたけど、万が一ということもあるから心配したよ」
 留守中の江戸や横浜では「大坂では幕府とイギリスが戦争をしているようだ」という憶測(おくそく)が多少はあったようである。
 しかし艦隊が無事横浜へ帰ってくるとそういった風説(ふうせつ)もすぐに消えて、いつも通りの平穏な状態に戻った。

 とにかく、朝廷から条約勅許を引き出すことに成功した幕府は、賠償金や関税の問題は別とすれば、これで逆に外国との関係は良好な状態となり、開国政策はほとんど定着しつつあった。
 天狗党が消え、長州も消滅寸前、そして条約勅許が()りた今、攘夷の火は風前(ふうぜん)灯火(ともしび)となったかのように見えた。
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