第22話 横浜大火と西国探索

文字数 15,708文字

 この頃横浜では、サトウにとってはウィリスと同じように生涯の友人となるミットフォードが到着した。
 彼が前任地の北京から横浜に到着したのは八月二十五日のことである。

 ちなみにこのミットフォードという男、年齢は二十九歳、生まれ育ちは正真(しょうしん)正銘(しょうめい)のエリート=ジェントルマン(貴族)で、()()えも良い。
 もし近くに若い女性がいれば、まず放っておかれないような男である。

 何を隠そう、ミットフォード自身も大の女好きであった。
 そして実は、このことが彼の日本赴任に関係していたりもするのである。

 彼は前任地の北京で、清国公使オールコックの娘(義理の娘。再婚した妻の連れ子)エイミーと恋仲(こいなか)になり、娘はミットフォードとの結婚を望んでいた。
 けれども義理の父であるオールコックは二人の結婚に反対した。
「社会的な身分が不釣り合いである」
 というのがその理由だった。オールコックは二人を引き離すためにミットフォードを日本へ転勤させたのだった。

 ここでちょっと難しい話をすると、当時のイギリスの外交官には二種類あった。
 ジェントルマンの子弟(してい)でオックスフォードやケンブリッジを卒業したエリート達が(つど)う「外交部門(Diplomatic(ディプロマティック) service(サービス))」の外交官と、それ以外の「領事部門(Consular(コンシュラー) service(サービス))」の外交官である。
 この両者は、第一章で「ジェントルマン」のことを説明した際に少し触れたように、社会的地位が大きく異なる。
 領事部門は外交部門の下位に置かれ、「領事は外交官の雑役夫(ざつえきふ)である」とか、いじわるな継母(ままはは)継姉(ままあね)に下女のようにつかえる「シンデレラ・サービス」などと呼ばれた。しかし現実には領事部門の人間がシンデレラのように外交部門へ昇進することなど、ほとんど不可能だった。

 ただし、イギリスが進出し始めたばかりだったこの東アジアにおいては、シンデレラのように昇進した男が二人いた。
 それがオールコックとパークスである。
 この二人は領事部門出身の叩き上げの外交官だが、この時は外交部門に所属する“公使”となり、さらにバス勲章(くんしょう)(じゅ)()され、サー(sir)の称号(しょうごう)を名乗ることができるようになっていた。

 ミットフォードは外務省に入省した時から外交部門に配属されたエリートである。
 オールコックからすれば、自身も外交部門に昇格してサーを名乗れるようになっていたのだから、娘とミットフォードの社会的地位を気にする必要もないように思われるが、その点の(こま)かなイギリス人の身分意識はよく分からない。
 実際ミットフォードは後年、名門貴族の伯爵(はくしゃく)令嬢(れいじょう)と結婚することになるので、まあ、やはり自分の娘(しかも義理の娘)では不釣り合いと思ったのだろう。エイミーにとってはいささか気の毒ではあるが。

 サトウももちろん、領事部門の外交官である。
 そして彼もまた、オールコックやパークスのような「シンデレラ」となるために外交部門への昇進を目指すことになるのだが、それは十年以上先の話である。

 この頃サトウとウィリスは相変わらず横浜の日本人街と外国人居留地(きょりゅうち)のあいだにある日本家屋(かおく)に住み続けていたのだが、ミットフォードもそのすぐ近くの日本家屋に住むことになった。
 その自分の新居(しんきょ)を見せられたミットフォードは、何とも言えない不思議な気分になった。
(木と紙で出来た、こんな小さくて華奢(きゃしゃ)な家に人間が住めるものだろうか……?)
 イギリス貴族(ジェントルマン)の目から見れば日本家屋は“人形の家”も同然だった。
 それでも彼はとりあえず、この小さな“人形の家”に入居することにした。そしてさっそく数人の芸者を呼び、サトウたちと入居祝いをして大いに楽しんだ。その新居とはあっけなくお別れになるとは夢にも思わずに。

 十月二十日、のちに「豚屋(ぶたや)火事」または「横浜大火(たいか)」と呼ばれる大火災が横浜の町を(おそ)った。

 この日はよく晴れた、風の強い日だった。
 午前八時五十分頃、港崎(みよざき)遊郭(ゆうかく)の近くにある豚肉屋で火災が発生し、火事を知らせる半鐘(はんしょう)が鳴り始めた。

 サトウとウィリスは朝食を食べながら
「また火事か。ここでの火事の多さにはもう()れたよ。今回は夜中に叩き起こされなくて幸運だったな」
 と語り合いつつ、わりあいのんびりと構えていた。一応サトウが表に出て様子を見てみると、なるほど、かなり離れたところで煙が上がっているのが見えた。

 そこでサトウは火事の現場を見物しようと思い、煙の方向へと歩いて行った。
 その途中、ミットフォードの家にも寄って火事の発生を知らせた。
 ヒゲを()っている最中だったミットフォードは
「よし、分かった。服を着替えたら私もすぐ見物に行く」
 とサトウに答えた。

 サトウが火事の現場へ近づくにつれて、逃げてくる人々がなだれを打って逆流してきた。家財(かざい)などを抱えている人も大勢いた。
 そしてこの頃にはもう、サトウにも火事の炎が見えるようになっていた。
 すでに岩亀楼(がんきろう)などの港崎(みよざき)遊郭(ゆうかく)は、遊郭全体に火が回っていた。

 横浜(関内(かんない))は北西側が日本人街で南東側が外国人居留地となっていたが、港崎(みよざき)遊郭はその南西に離れ小島のように存在しており、横浜の市街区から南西に()びている吉原(よしわら)通りが港崎遊郭を(つな)いでいた。
 出火(しゅっか)(もと)となった豚肉屋はこの吉原通りにあった店で、すでに吉原通りに並んでいた家屋と港崎遊郭はほとんど炎上していた。そしてその火はさらに市街区の方へ燃え広がりつつあった。

 離れ小島と化していた港崎遊郭から逃げ出すには市街区へと通じる吉原通りを通るしかなかった。
 しかしすでにこの通りは燃え上がる家屋と()(まど)う人々の()れで通れなくなっていた。
 港崎遊郭の遊女たちはまさに袋小路(ふくろこうじ)に閉じ込められてしまったのである。
 それゆえ、多くの遊女が逃げ遅れて焼死し、さながら阿鼻(あび)叫喚(きょうかん)の地獄絵図となった。なかには周囲の堀を泳いで渡ろうとして溺死(できし)した遊女も何人かいた。

 サトウは、火の手が市街区のほうへ進んでくる速さに驚き、急いで家へ引き返した。
(木と紙で出来た家が、これほど火の回りが速いとは知らなかった。この風向きでは我が家も確実に焼かれる!)

 道は家財道具を抱えて()(まど)う人々でごった返していた。
 なんとか人ごみをかき分けて家に戻ったサトウは、急いで火災に備えるようウィリスやミットフォードに声をかけた。ミットフォードは、これからのんびりと火事の見物に行こうとしていた矢先だった。
「火の手は間違いなくここまで到達する!すぐに大切な物を家から運び出せ!」
 サトウの家の周辺にはイギリス公使館の同僚たちが寄り集まって住んでいたので、それぞれ協力し合って家財道具を家の外へと運び出した。そして火の手が到達する前に、比較的軽い物は(例えば洋服の(たぐ)いや書籍および貴重品(きちょうひん)などは)大体運び出すことができた。

 サトウの場合、まっさきに頭に思い浮かんだのは英和辞書用の原稿だった。
 これが焼失してしまうと、辞書を作るために二年間苦労してきた努力が水の(あわ)になってしまうからだ。

 運び出した家財道具を火事から離れた場所へ避難させた頃には、サトウとウィリスが二年半住んできた家はあっという間に焼け落ちた。

 さはさりながら、運び出した家財道具もまだ安全とは言い切れず、しかも火事場(かじば)泥棒(どろぼう)によってすでにいろいろと持ち逃げされていた。
 そこでサトウの友人が持っていた耐火(たいか)倉庫へそれらを運び込むことにした。
 その倉庫は海岸沿いにあり、そこまで火事が燃え広がるとは思えなかった。また万一燃え広がったとしても石造りの耐火倉庫なので大丈夫だろう、と考えたのだ。それでサトウたちはすべての家財道具をその倉庫の中へ運び入れた。

 横浜の南西にある吉原通りが出火元となった大火災は北東の市街区のほうへと燃え広がり、まず最初に日本人街を蹂躙(じゅうりん)した。
 そして横浜の中心部にあった運上所(うんじょうしょ)(税関および外国人に関わる行政を(つかさど)る役所)を焼き払い、火の手はついに海岸沿いの建物まで到達した。結局日本人街は三分の二が焼き払われてしまった。

 このあと火の手は外国人居留地へも飛び火した。
 強風にあおられた炎は次々と外国人たちの建物をのみ込み、とうとう波止場(はとば)のシンボル的な存在だったジャーディン・マセソン商会の建物も炎に(つつ)まれた。
 そして火の手はさらに広がり、その近辺にあった外国人の倉庫にも燃え広がった。

 火の手はサトウたちが家財道具を運び込んだ耐火(たいか)倉庫にも及びつつあった。
 そしてこの耐火倉庫は、あっけなく炎上した。
 サトウたちは大切な家財道具が()()くされるのを呆然(ぼうぜん)と見送るしかなかった。

 この耐火倉庫は石造りだったので耐火性があると思われていたのだが、実はほとんど耐火性がなかったのだ。大火は外国人居留地の五分の一を焼き払い、夕方頃にようやく鎮火(ちんか)した。

 サトウは蔵書や衣類など多くの財産を失い、()()()のままの状態となった(一応サトウたち公使館員は後にイギリス政府から焼失した財産分の補償(ほしょう)金を支給してもらった)。
 不幸中の幸いというか、英和辞書用の原稿は肌身(はだみ)離さず持っていたので無事だった。
 ただ、サトウにとって一番悲しかったのは、愛犬のパンチが行方不明になったことだった。状況的に見て、火事の犠牲になったと考えるしかなかった。

 ちなみに「パンチ」(つな)がりで言うと、サトウの友人で『ジャパン・パンチ』を発行しているワーグマンの自宅もこのとき焼失した。
 そのため彼が長年描きためてきた絵画も焼失したと思われたが、三日後に近所の人が保管していたことが分かって無事戻ってきた。
 こういった(あわ)ただしい状況の中でも彼は横浜大火のイラストを二枚描いて、記事原稿と一緒に『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』へ送っている。そしてそのイラストと記事によって、現代の我々もこの横浜大火の様子を知ることができるのである。

 また、この火事の原因については被災直後から
「日本人がやった放火に違いない」
 と多くの外国人が噂し合った。
 実際この物語ではこれまで何度も「横浜焼き討ち」の話をやってきた訳だが、それがここへ来て「とうとう実現した」という見方も、見ようによってはできるだろう。

 関東では天狗党の騒動からすでに二年近くが過ぎており、攘夷熱はかなり下火となっていたのだが、確かにこの当時、攘夷熱がやや再燃(さいねん)してきていた。
 ただしこれは、これまでのように尊王攘夷家がたきつけた攘夷熱ではなかった。

 この頃、物価(特に米価)が高騰(こうとう)し、一揆(いっき)や打ちこわしが各地で頻発(ひんぱつ)していた。
 米価高騰の主な要因は、第二次長州征伐(幕長戦争)のために幕府が兵糧(ひょうろう)(まい)を買い占めたせいだったのだが、この米価高騰の原因を外国人のせいにする声も多かったのである。
 そのため、馬で遠乗りに出かけていた外国人が民衆から石を投げつけられる、といった事件も起きていた。
 幕府はなんとか米価高騰を(おさ)えようとして、ベトナムから外米(がいまい)を輸入するなどの対応策をとることになった。
 とにかく、こういった()(ごと)が増えていたので、外国人が
「日本人がやった放火に違いない」
 と思っても仕方がない部分もあった。

 しかし、こういった噂は次第に消えていった。
 すぐに出火元が豚肉屋であったことが突きとめられ、火事の原因も調理中の失火であったことが判明したからである。
 そもそもこの豚肉屋は市街区からやや離れており、しかも外国人を狙うのなら外国人居留地に放火するはずなのに日本人街のほうが大きな被害をうけていた。さらに外国人居留地が燃えている時に多くの日本人が消火活動や家財の運び出しに協力していた。
 こういったことから外国人たちも「自然発生的な火災だったのだろう」ということで納得したのだった。

 余談ながら、この当時の日本人はおそろしく火事に()れており、このような大火を経験してもまったく落ち込むこともなく、すぐにまた「木と紙で出来た家」を建て直した。
 当時の外国人の多くも、こういった日本人の特性、すなわち「火事で家が焼けてもすぐに平然と町の再建に取りかかる様子」について、いろいろと記述を残している。
「まだ地面が熱いうちに、まるで地面から()えてくるかのように次々と家が建つ」
「火事や天災に()ってもまるで日常茶飯事(さはんじ)のように(おだ)やかな表情をしている」
 といったような記述がいくつもある。

 この頃ちょうど日本に来ていたデンマーク人のスエンソンは次のような記述を残している。
 彼は大火の時フランスの軍艦に乗り込んで朝鮮へ出征(しゅっせい)していたので(ちなみに朝鮮の戦役で両足を負傷した)横浜にはいなかったが、大火の少しあとに横浜へ戻ってきた。
「火事の痕跡(こんせき)はほとんど(ぬぐ)()られてしまっていた。(略)魔法でもかけられたように次から次へと家が地面から()えて出た。(略)日本人はいつに変わらぬ陽気さと暢気(のんき)さを(たも)っていた。不幸に襲われたことをいつまでも(なげ)いて時間を無駄にしたりしなかった。(略)日本人の性格中、異彩(いさい)(はな)つのが、不幸や廃墟(はいきょ)を前にして発揮(はっき)される勇気と沈着(ちんちゃく)である。(略)日本人を宿命論者と呼んでさしつかえないだろう」(『江戸幕末滞在記』新人物往来社、訳・長島要一)
 こういった外国人の声は東日本大震災の時にも耳にしたような気がするが、それはともかく、当時の日本人のたくましさは現代の日本人から見ると「やや度が過ぎている」というような気がしないでもない。

 ところで、この横浜大火の場面ではイギリス公使であるパークスが一度も登場しなかったが、彼はこの時生糸(きいと)産地への小旅行に出ており、横浜を留守にしていた。
 彼は旅行先で大火の知らせをうけると急いで横浜へ戻った。そして、さっそく横浜の再建に取りかかった。

 そんな中、イギリスへ出発する十四名の留学生が、被災から(まぬが)れたイギリス領事館でパークスと面会した。大火の五日後のことだった。
 このイギリス留学計画を手配したのは幕府である。
 幕府は四年前に榎本たちをオランダへ留学生として送り出し、一年前にはロシアへ数名の留学生を送り出していた。
 そしてここへ来てようやく、イギリス留学計画も追加されたのである。
 それにしても長州や薩摩のイギリス留学計画と比べると、幕府の出遅れ感は(いな)めない。

 このイギリス留学生の中には林董三郎(とうざぶろう)(後の林(ただす))、中村敬輔(けいすけ)(後に『西国立志編』を出版する中村正直(まさなお))、川路太郎(川路聖謨(としあきら)の孫)、箕作(みつくり)大六(だいろく)(後の菊池大麓(だいろく)。理学博士)などがいた。
 パークスとしてはイギリスへ日本人留学生を送るのは、それが幕府の人間であれ薩長の人間であれ、お互いの理解を深めるためにも望ましいことだと思っていた。
 パークスは留学生のために歓送会を(もよお)し、激励の言葉を(おく)って彼らをイギリスへと送り出した。
 また、この頃パークスは幕府に対してイギリスからの海軍教官の派遣を提案して合意に至っている。「幕府のフランス陸軍教官団」の話は有名だが、実はイギリスも、幕府に海軍の教官を派遣していたのである。
 こういったパークスと幕府の関係を見れば、よく言われるところの「イギリスは薩長を後押しした」という話が、いかに一面的な見方であるか、というのがよく分かるであろう。


 さて、横浜で住居を失ったサトウはしばらく友人の家に居候(いそうろう)していたが、すぐにパークスから
「西日本の諸国を回って情報収集をしてくるように」
 との指令を受けた。
 具体的な訪問先は長崎、鹿児島、宇和島、兵庫などである。

 このパークスの指令を受けたサトウは、しばらくオフィスでムスッとした表情で仕事をしていた。
 そのサトウの様子を見て、パークスは腹立たしく思った。
(住居を失ったばかりなのに出張を命じられて、それでムスっとしているのだろう。なんという甘えた奴だ。もし出張を拒否してきたら、一言(ひとこと)ガツンと言ってやらんといかんな)

 ところがサトウの本音はまったく違っていた。
(西国行きが楽しみだなあ。長崎には一回行ってみたかったんだ。でも私が西国行きを熱望していると公使が知ったら、彼の性格からしてこの役目を他へ回すかもしれない。ここは一番、喜んでいないフリをするに限る)

 余人(よじん)にはうかがい知れない、なんとも屈折した上下関係であった。
 ともかくも、サトウは無事西国へ行けることになり、プリンセス・ロイヤル号に乗って横浜を出港した。

 そしてサトウはこの時、野口富蔵(とみぞう)という従者(じゅうしゃ)を連れていくことにした。
 野口は会津藩士の次男で、歳は二十(なか)ばだった。
 彼は数年前に会津を脱藩して箱館(函館)へ行き、当地のイギリス領事館で働いていた。その後横浜へ移り、ここ一年ほどはサトウの従者として働いていた。
 サトウはこの誠実で正直な男を気に入っていたが、何よりも「会津出身」というのがサトウの興味をひいた。
 サトウには薩長の知り合いは大勢いても、会津の知り合いは一人もいなかった。
 情報収集する身としては、やはり「両サイド」からの情報が欲しいのである。

 十一月二十四日、サトウは長崎に到着した。
 そして数日間長崎の町を歩いて回り、様々な人物と交流して情報収集につとめた。
 サトウはその間、同僚のシーボルトの異母姉で女性産科医の“楠本(くすもと)いね”にも会った。
 シーボルトと楠本いねの父であるフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトはこの約二ヶ月前、九月十日(1866年10月18日)にドイツのミュンヘンで亡くなっていた。享年七十。
 サトウは楠本いねと会った際に、父上が亡くなったことについてお()やみを述べた。すると彼女は父の記念品をいくつも見せてくれた。サトウの印象では、彼女は美しい顔立ちの女性ではあるが、ヨーロッパ人の面影(おもかげ)はほとんど見られなかった。

 実はこのシーボルト姉弟の父が亡くなったことで、サトウの同僚のシーボルトは遺産や遺品の整理のために一度ヨーロッパへ戻ることになった。
 そこでこの話を聞きつけた幕府が、ちょうどパリ万博へ使節団を送るところだったので
「使節団のヨーロッパ行きに、シーボルト氏も同行してもらえないだろうか」
 とイギリス公使館に申し込んできた。当然旅費などはすべて幕府持ちである。

 このパリ万博については第18話でモンブラン伯爵(はくしゃく)の話と一緒に少しだけ触れたが、この三カ月後に開催される予定となっていた。
 使節の代表は水戸家出身の徳川昭武(あきたけ)(清水民部(みんぶ)大輔(たいふ))である。
 彼はこの時十四歳で、慶喜の弟であった。
 そういった慶喜と昭武の関係があったために、このパリ万博使節団には慶喜の家臣である渋沢栄一も加わることになった。
 そしてこの使節に参加したことが渋沢の運命を大きく変えることになるのだが、残念ながらその話は、この物語では割愛せざるを得ない。

 また、この物語に以前出てきた人物で言うと、外国奉行の田辺太一もこの使節に参加し、さらに清水()三郎(さぶろう)も商人の立場で参加することになった。
 清水卯三郎は薩英戦争の後に五代と松木の逃走を手助けした人物だが、この時は江戸柳橋の芸者三人を連れて行ってパリで日本式の茶屋を開き、好評を(はく)することになるのである。

 そしてシーボルトは、幕府の申し出を引き受けることにした。
 無論、彼の上司であるパークスもこれを許可した。旅費などの費用が節約できるという理由もあったが、それ以上に、幕府使節の中にイギリスの外交官を加えられるというのが、まさにパークスにとっては「渡りに船」という好条件の話だった。

 このパリ万博使節団は当然のことながらフランス公使館の意向を強く受けていた。
 この使節団に合わせるかたちで昭武を含めた数名の若者をフランスに留学させることにもなっていた。これは幕府とフランスの密接な関係からしても自然な流れと言えよう。また、使節団の通訳および世話役としてはロッシュの通訳をしていたメルメ・カションがつとめることになっていた。

 このパリ万博の開催中に、パリで幕府と薩摩が宣伝戦を()(ひろ)げることになるのだが、そのことについてはここで詳しく解説している余裕(よゆう)はない。
 要約すれば、薩摩はモンブランと組んで幕府とは別の政府、すなわち「薩摩・琉球政府」としてパリ万博に参加し、さらにこれまでサトウや松木(まつき)(この頃寺島(てらしま)と改名)が主張してきた「朝廷を頂点とした諸侯連合政権の確立(かくりつ)」という論評を新聞各紙に掲載(けいさい)して反幕府的な宣伝活動を展開するのである。
 当然、幕府使節団はこれに反論した。
 その結果、万博における「薩摩・琉球政府」の独自参加の件については万博開催中に自然消滅していった。
 ただし、新聞を使った宣伝戦では薩摩側が優勢に事を運び、フランス政府は以後、幕府への支援を手控(てびか)えるようになるのである。

 なにしろロッシュの片腕であったメルメ・カションが幕府を裏切るのだから、幕府としては目も当てられなかった。
 このカションの裏切りには使節団に同行したシーボルトが深く関与していた。
 結果から言ってしまえば、使節団の一行はフランス公使館のカションよりも、イギリス公使館のシーボルトを重用(ちょうよう)したのである。

 カションという人物は、親友で幕臣の栗本(こん)鋤雲(じょうん))からも「小人」と評されるぐらい、人格的には欠陥(けっかん)の目立つ人間だったようで、しかも彼よりシーボルトのほうが通訳や世話役として有能だったために、こういう結果になってしまった。
 なんせフランスびいきのはずの幕府使節団一行がカションを軽視するというのだから、彼はよっぽど(うと)んじられたのだろう。
 このような屈辱(くつじょく)にカションが()えられるはずもなく、彼はとうとう幕府を裏切って薩摩側へ走り、薩摩の主張に沿うかたちで新聞に論評を書くようになるのである。
 こういった一連の幕府に関連する騒動が、フランス政府の対日方針に多少なりとも影響を与えたと言われている。

 ロッシュの片腕がカションであったとすれば、パークスの片腕はサトウであった。
 いわばサトウとカションはライバル同士であったと言えないこともない。
 ただしサトウにとってカションは、あまりにも物足りないライバルだった。
 しかもサトウが知らないうちにカションは一人で勝手にどこかへ消えてしまった。やはりこの二人をライバル同士と呼ぶのは、ちょっと無理があると言わざるを得ない。


 さて、そろそろ時計の針を元に戻して、話の場面もパリから長崎へと戻さねばならない。
 長崎での情報収集を終えたサトウはプリンセス・ロイヤル号からアーガス号に乗り換えて、次の目的地である鹿児島へ向かった。

 翌日、鹿児島沖に到着したサトウは三年前のことを思い出さずにはいられなかった。
(あの時は緑が青々とした真夏の頃で、戦っている時にちょうど台風が来ていた……)
 サトウがここへやって来たのは三年前の薩英戦争以来のことで、しかも彼はその時もアーガス号に乗っていた。
 今は真冬なので鹿児島の景色は当時とは全然違うが(この日は西暦では1867年1月2日で真冬である)サトウはあの真夏の出来事をまざまざと思い出していた。

 薩摩藩はイギリスの船への対応に()れていた。空砲を撃って礼砲を鳴らし、イギリス国旗を掲揚(けいよう)してアーガス号を出迎(でむか)えた。
 なにしろ四ヶ月前にはパークス一行が鹿児島を訪問しており、さらに(いそ)集成館(しゅうせいかん)ではイギリス人技術者たちが滞在して薩摩藩に技術協力をしているのである。
 この当時、ここまでイギリス人と深く関わっていたのは薩摩藩だけだったと言っていい。
 サトウはこの鹿児島でも情報収集につとめ、薩摩藩士や集成館のイギリス人たちと交流を重ねた。

 あいにく西郷や小松、さらに五代や寺島は不在だった。
 また国父(こくふ)久光の(はは)(お由羅(ゆら)(かた))が少し前に亡くなって(ふく)()中だったので藩主や久光とは面会できなかった。
 代わりに、五代たちと一緒にイギリスへ行って帰ってきた家老の新納(にいろ)刑部(ぎょうぶ)がサトウの応接を担当した。

 サトウは新納(にいろ)に長州問題のことを質問した。
「長州問題はどうなってますか?大君(タイクン)は軍隊の大部分を撤退させたと聞きましたが」
「長州はとても強い。それに正義は長州にあるのです。もはや幕府が長州に勝つ見込みはまったくありません」
「とはいえ、もし大君が直属の精鋭部隊を投入して、最初から一気に攻め込んでいたら長州を倒してたんじゃないですか?」
「いいえ。将軍には正義がないので無理だったでしょう」
「あなた方はとても長州と親しいようですね」
「いや、親しいというほどでもありません。同じ外様の大名として同情しているだけのことです」
 新納としては、たとえ相手が薩長と(ちか)しいイギリス人であるとしても「薩長同盟が成立している」ということを知られたくはなかったので、このようにすっとぼけているのである。

 実は鹿児島に着いた時にサトウは、湾内に長州の(へい)(いん)丸が停泊していることに気がついた。
 薩摩側に事情を確認すると、その船には木戸が乗っていることが分かった。
 サトウは木戸とは面識がなく、この機会に是非木戸と会ってみたかった。
 それに長州にいる俊輔や聞多の消息(しょうそく)も知りたかったので、新納に木戸のことを問い合わせてみた。
「当地に長州の木戸さんが来ているようですね。私は下関にいる友人たちの消息が知りたいので彼を訪問してみたいのですが」
「あいにく木戸さんの予定はすべて()まっています。どうしてもお会いしたいのなら今晩会うしかありません。今晩、彼の宿へ行って、そこで泊まってみたらいかがですか?」
 サトウは後年、日本各地を旅して回ることになり、その頃には日本の風習にもかなり慣れているのだが、この頃はまだそこまで慣れていなかった。
(日本の寝具と枕で寝るのはちょっとなあ……)
 とサトウはちゅうちょして、この新納の(すす)めを辞退してしまった。
 情報収集の仕事をしている身としては、これは失敗だっただろう。サトウものちに「あの時辞退したのはまずかった」と反省した。
 サトウはとりあえず丙寅丸に俊輔宛ての手紙を(たく)して、次の目的地である宇和島へ向かった。


 宇和島藩といえば有名な伊達宗城(むねなり)のいる藩である。
 ただし宗城は宇和島藩主ではなくて「前藩主」である。

 この半年後に京都で「四侯(しこう)会議」が開かれることになる。その際、宗城もこれに参加することになるのだが、この会議に参加する四侯は全員、現役の藩主ではない。
 越前の(しゅん)(がく)、土佐の容堂(ようどう)、さらにこの宗城は三人とも肩書(かたがき)は前藩主で、薩摩の久光にいたっては藩主経験すらないので「藩主の父親」(薩摩の中では国父(こくふ)と呼ばれる)という肩書しかない。
 ただ、これらいずれの藩でも最高実力者が彼ら「ご隠居(いんきょ)」であることは間違いがなかった。

 宗城は、数ある諸侯の中でも最も開明的な人物であったろう。
 彼は以前、有名な蘭学者・高野長英(ちょうえい)を藩に招いたこともあるし、そのあと村田蔵六(ぞうろく)(大村益次郎)を技術者として藩に招いたこともある。
 確かに開明的ということでは宗城の他に、佐賀の鍋島(なべしま)閑叟(かんそう)なども相当開明的だった。「科学技術的な開明」ということなら、あるいは閑叟のほうが宗城より上だったかも知れない。しかし「思想的な開明」ということでは、やはり宗城が一番開明的であったろう。

 この四ヶ月前にパークス一行が宇和島に来たことは、前に少しだけ触れた。
 その時は(こま)かな描写は割愛したが、パークス一行は鹿児島での歓迎に劣らないぐらい、この宇和島でも歓迎されたのである。
 その歓迎の仕方は、宗城や現藩主(はんしゅ)宗徳(むねえ))が「家族ぐるみ」、例えば祖父母や多くの子供たちと一緒にパークス一行を歓待(かんたい)する、というかたちだった。
 パークスは宗城たちの開放的でフレンドリーな態度に相当感銘(かんめい)を受けたようだった。

 そしてサトウが訪問したこの時も、パークスの時と同じように「家族ぐるみ」で歓迎された。
 サトウが宇和島に着くとさっそく宗城および現藩主がアーガス号を訪問し、この時も彼らの妻子たちが一緒に船へやって来た。
「彼女たちは少しも外国人を恐れず、ヨーロッパの淑女(しゅくじょ)と同じくらいの心安い態度で話しかけてきた」
 とのちにサトウは述べている。
 翌日サトウは藩主の屋敷に(まね)かれて大いに歓待された。
 鴨のてり焼き、伊勢蛯(いせえび)(たい)の焼き物など数多くの料理が並べられ、酒も次々と(すす)められた。

 この歓待の最中に宗城(むねなり)がサトウに「一対一(サシ)で話そう」と申し入れてきた。
「幕府はフランスの援助を受けて兵庫開港を進めようとしているようだが、私としては嫌いなフランスが主導するよりも、イギリスが兵庫開港を主導してくれることを望んでいる」
 この宗城の問いかけに対し、サトウは次のように答えた。
「ご存知の通り、フランスは大君(タイクン)(将軍)こそが主権者であり、大君によって条約が履行(りこう)されるべきだと考えています。しかし我々イギリスとしては、条約は日本全体と結んだものであり、大君個人と結んだものではないと考えています。ただし、どのみち我々は日本の内政に干渉する気はありません」
「だが、もし内乱が長引くとあなた方イギリスの貿易にも悪い影響が出るだろう。とにかく私としては、我が国は(みかど)を頂点とした連邦制にすべきだと思っている。これは薩摩も同じ考えである」
「確かに、私も日本が内乱状態から抜け出すにはそれしか方法がないと思っています。実はそういった意見を横浜の新聞で発表したこともあります」
「ああ、思い出した。あなたが書いた『英国策論』を私も読んだよ。まさかこんな若い人が書いたものとは思わなかった。あなたは日本の現状をよく理解している。あなたの意見はまったく正しい」

 この宗城の発言を聞いて、サトウはひどく興奮した。
 まさかこんな所で、自分が書いた『英国策論』の話を聞くとは思っていなかった。
 しかもこの聡明(そうめい)な領主から自分の著作をほめられて、内心激しく喜悦(きえつ)した。
 いや、内心どころか、その喜悦(きえつ)した表情を隠しきるのは難しかった。
 そこであわてて酒を何杯も飲み()して表情をごまかそうとしたが、逆効果だった。さらに高揚感(こうようかん)が増してしまい、何がなんだか訳がわからなくなりそうだった。

 ここでちょうど、人妻と、そうでない女性が()()じった美女の一群(いちぐん)、すなわち(おく)(サトウは“ハーレム”と書いている)の女性たちが部屋に入ってきて歌や(おど)りが始まった。
 それ以降、宗城は歌や踊りに身を任させて、政治の話をしようとはしなかった。
 ただ、しばらくしてから思い出したように
「私がアーガス号を訪問したことを新聞に出してはいけませんよ。一応、病気を理由に(みやこ)での大名会議を欠席している身なので、幕府に知られたくないからね。私は今のところ、都へは行きたくないのだよ」
 とサトウに語った。

 宴会が終わったあと、サトウは家老・松根(まつね)図書(ずしょ)の家に案内されて、そこで寝た。
 この時、アーガス号で海軍修行をしている林謙三(けんぞう)(後の安保(あぼ)清康(きよやす))も同行していたので彼も同じ部屋で寝た。林は元芸州(げいしゅう)(広島)藩士で、今は薩摩の開成所に移って薩摩海軍に所属している男である。このアーガス号での旅行中、サトウと知り合って何度か行動をともにするようになった。
 また松根図書の息子である松根内蔵(くら)も同じ部屋で寝た。松根父子は、このアーガス号の宇和島訪問に際して何かとサトウの面倒を見てくれていた。
 後で思い返すと、自分でも恥ずかしくなるくらいにサトウは酔っ払ってしまったが、楽しい飲み仲間を相手にして酔っ払ったのだから何の後悔もなく、気持ちよく寝ることができた。日本の寝具と枕を使っても。

 サトウはまったく宇和島の人々が好きになってしまった。
 特に宗城に対しては、サトウは後年、次のように評している。
「四国の小領主にしておくにはもったいないほど有能な人物だった」
 翌朝、サトウは名残惜(なごりお)しい気持ちで宇和島を後にし、次の寄港地(きこうち)である兵庫へ向かった。
 ただし、サトウの従者である野口がアーガス号に乗り遅れて宇和島に置き去りになってしまったので(野口は度々こういった遅刻をしてサトウを(あき)れさせている)松根内蔵に野口を横浜へ送り届けてくれるように頼んでおいた。


 アーガス号が兵庫に到着すると、ちょうど薩摩の蒸気船・開聞(かいもん)丸も停泊していた。
 サトウとしては今回の兵庫訪問で薩摩の小松か西郷に会いたいと思っていたので林謙三と一緒に開聞丸へ出かけてゆき、この船の船長に大坂で小松か西郷と会えるように手はずを頼んだ。
 すると船長は二人と面会できるよう、大坂の薩摩藩邸に(あて)て手紙を送ってくれた。
 サトウがこの時林を連れていったのは、林が薩摩海軍に所属している人間だからである。

 余談ながら、この林謙三のことを知っている人は多分、幕末ファンでもあまりいないだろうと思う。
 ただし坂本龍馬ファンなら知っている人がいるかも知れない。
 林は龍馬が暗殺される直前に龍馬と手紙のやり取りをしていた人物で、暗殺直後に現場(近江屋(おうみや))を(おとず)れた人物として知られている。おそらく、のちに海軍軍人として活躍したことを知る人は皆無だろうと思われるが。

 さて、サトウとしては自ら大坂へ出向いて小松か西郷に会うつもりだったのだが、翌日、薩摩側から
「西郷が本日兵庫へ向かうことになった。小豆屋で貴殿と面会したい」
 と連絡が来たので、サトウは薩摩藩が定宿にしている兵庫の小豆屋へ向かった。

 小豆屋に着いて西郷と会ってみて、サトウは「あっ」と思った。
 前年、この兵庫沖に四ヶ国艦隊が条約勅許を求めてやって来た時、胡蝶(こちょう)丸の中で出会った巨漢「島津サチュウ」と同一人物だったからである。

「私はあの時、あなたのことを『家老の島津サチュウである』と紹介されたのですが」
 このサトウの問いかけに対して、西郷は笑いながら返答した。
「それは何か手違いがあったのでしょう。私は家老ではないし、御主君(ごしゅくん)の名である島津を名乗るなどと(おそ)れ多いことはでき申さん」

 二人は型通りのあいさつを済ませたあと面談に入ったのだが、ここでサトウは困ってしまった。
 西郷は自分からはまったく話を切り出そうとせず、サトウが鹿児島訪問の話などを持ち出して興味を引こうとしても(にぶ)い反応しか返ってこないのだ。
 それでもサトウにはこの西郷という男が不思議と魅力的に見えた。
「黒ダイヤのようにきらめく大きな目玉をして、しゃべる時に浮かべる微笑(ほほえ)みにはなんともいえない親しみがあった」
 これが後世に残る、有名なサトウの西郷評である。

 とにかく「薩摩隼人(はやと)は無口である」というのは司馬遼太郎大先生の『翔ぶが如く』でも指摘されていることで、話すのを仕事にしている通訳のサトウとしては、これはいい迷惑だったろう。
 そこでサトウは一案を思いついた。フランスと幕府の関係について話せば西郷も食いついてくるだろうと思って話を振ってみたのだ。
「フランス皇帝(ナポレオン三世)から最近、大君宛の書簡(しょかん)が届いてませんでしたか?それは一橋(ひとつばし)(徳川慶喜)が受け取ったのでしょうか?」
 サトウの狙いは当たった。ようやく西郷がサトウの話に乗ってきた。
「さよう。彼はその将軍宛の書簡を受け取った。いずれ彼は大坂に諸外国の代表を呼んで、謁見(えっけん)式をやることになろう」
「なぜ一橋にそんなことができるのでしょうか?彼はまだ大君ではないはずですが」
「いや、彼は一昨日、将軍に就任した」
「なんと!そうだったんですか。これはまったく意外でした」

 慶喜はこの二日前(十二月五日)に将軍宣下(せんげ)を受け、第十五代将軍に就任していた。
 サトウはこの時たまたま関西に来ていたので、いち早くこの情報に接することになったのだった。
 このあとサトウと西郷は、これまでサトウが各地で接してきた話、すなわち兵庫開港の件や朝廷を頂点とした諸侯連合政権の件について話し合った。
 しかし西郷はすでに四ヶ月前、鹿児島でパークスと同じような話をしており、しかもサトウは元々パークスと違って西郷たちの考えに親近感を持っている人物だったので、西郷としてはパークスの時のように無理矢理サトウを幕府から引き離す必要もなかった。

 ところで西郷はなぜ、この時わざわざサトウに会いに来たのだろうか?
 西国の尊王派たちの間で有名な『英国策論』の著者がどんな人物なのか?それを確認したい、という気持ちも多少はあったのだろうが、やはり一番の動機は
(“倒幕”のために利用できるイギリス人かどうか?)
 これを確かめたかったのだろうと思う。

 ただし、このように書くと
「他人を利用するなどと、西郷がそのような悪辣(あくらつ)な人物である訳がないだろう?」
 と反論する人もいるだろう。
 筆者も西郷を(けな)すつもりは毛頭ない。むしろその真逆(まぎゃく)のつもりである。

 現実主義(リアリズム)と西郷独自の戦略観から、彼はこのような計略(けいりゃく)()っていたのだろう、と筆者は考える。
 この当時、日本とイギリスが置かれていた国際的な立場から考えれば、後進国だった日本が世界最強のイギリスを相手にして(同盟を結んでいる訳でもないのに)これに「依存」するようでは“日本の自主独立”はおぼつかない。
 様々なかけひきを(こころ)みて、利用できる部分は「利用」する、というのは当時の激烈(げきれつ)な国際社会では悪辣(あくらつ)でも何でもなく、至極(しごく)()(とう)で常識的な戦略だったであろう。
 ましてや相手は世界最強のイギリスなのだ。正攻法(せいこうほう)だけで歯が立つ相手ではないのである。

 西郷との面談の最中にサトウは持論(じろん)を語りはじめた。
 それは(おおむ)ね『英国策論』に書かれていた通りの話で、幕府はすでに政治的実権を失っており、長州再征も失敗してさらに権威(けんい)(そこ)なった。今こそ貴藩(きはん)(薩摩)が奮起(ふんき)する時でしょう、といったような内容だった。

 西郷はこの話を聞いて、サトウの本音を引き出そうと考えた。
 そしてワザとその気がないフリをしてみせた。
「我が藩はこれまで朝廷のために尽力してまいったが、まだまだ幕府は朝廷に対して絶大な影響力を持っている。しかも我が藩は世間の評判もあまりよろしくない。いっそ三年はこのまま傍観(ぼうかん)して、新将軍の手腕(しゅわん)を見届けたほうがよかろうと存ずる」

 この西郷の発言を聞いてサトウは驚いた。
「三年とは何事ですか。あまりにも悠長(ゆうちょう)過ぎるのではないですか」

 西郷はこのサトウの本音を聞いて「手応えあり」と感じた。
(ありがたい。この若者は本気で我々の後押しを考えているようだ。おそらく幕府を支援しているフランスを意識してのことだろう。なんにせよ、以前のようにイギリスとフランスが共同で幕府を支援することはなさそうだ。あとはフランスも幕府から引き離すことができれば、さらに良い)

 サトウはこの時二十三歳だった。一方、西郷は数えで三十九歳だった。
 西郷はこれまで何度も激しい政治闘争をくぐり抜けてきており、胆力(たんりょく)(きた)えられていた。
 西郷から見れば、サトウはただの青二才に過ぎなかった。

 この若きサトウは西郷の人間的な魅力にひかれて、これ以降ずっと西郷を信用し続けることになる。西郷の腹の中にこのような深謀(しんぼう)遠慮(えんりょ)があったことなどまったく気がつかなかった。
 およそ四十年後、サトウは西郷の書簡を見せられて、そこで初めて多少の疑念を抱くことになるのだが(サトウとしてはそれを知らなかったほうが幸せだっただろうが)西郷に対する親しみは終生(しゅうせい)変わることはなかった。
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