第26話 フランスの使われ者

文字数 10,517文字

 イカルス号事件の話をする前に、この時期の土佐藩と坂本龍馬について少し解説が必要だろう。

 この物語ではこれまであまり土佐藩のことには言及(げんきゅう)してこなかった。第4話で三条・姉小路の両勅使が江戸へやって来た時に少し言及したぐらいで、武市(たけち)半平太などは一度も出てこなかった。坂本龍馬も薩長同盟や幕長戦争以外の場面ではほとんど登場しなかった。

 けれどもこの時期、すなわち慶応三年後半の話をするにあたってはイカルス号事件のことも含めて、土佐藩と坂本龍馬の話をしない訳にはいかない。
 よく「薩長(さっちょう)土肥(どひ)」と言われるように、土佐はこの段階になってようやく中央政局へ乗り出すことになった。ちなみに肥前(ひぜん)(佐賀)が中央政局へ乗り出してくるのはさらに後のことで、この物語での出番はほとんどない。
 この時代はどこの藩でも尊王攘夷党と佐幕党が対立していたが、禁門の変を(さかい)にしてほとんどの藩では尊王攘夷党が粛清(しゅくせい)されるかたちになった。ところが、尊王攘夷の総本山である長州藩が幕長戦争で勝ったことにより再び各藩の事情は混沌(こんとん)とし始めたのである。

 そういった事情は土佐藩も同じだった。
 土佐藩では禁門の変の後に武市半平太の土佐勤王党が壊滅(かいめつ)させられた。
 ところがここへ来て、再び尊王攘夷が息を吹き返したのである。
 実際の長州藩は、尊王の部分は()るがなかったとはいえ、攘夷の旗印(はたじるし)はとっくに捨て去って「尊王開国」に転向(てんこう)していたのだが、その渦中(かちゅう)にあった当時の人々からすれば
「尊王は必ず攘夷と一揃(ひとそろ)いのもの」
 として受けとっていた人がほとんどだった。この固定観念のせいで、翌年二月には土佐人が堺事件を引き起こすことになるのだが、それはまだ先の話である。

 基本的に藩外で活動していた坂本龍馬と中岡慎太郎は別として、このころ活発に中央政局に乗り出していた土佐藩士としては後藤(ごとう)(しょう)二郎(じろう)(いぬい)退助(たいすけ)(後の板垣退助)が代表的な存在であろう。
 以後、この二人が土佐藩内で重要な役割を(にな)っていくことになる。
 郷士(ごうし)などの集団だった土佐勤王党の流れをくむ龍馬や中岡と違って後藤も乾も上士(じょうし)であり、二人は土佐藩の代表者として振る舞うことができた(ただし最終決定はすべて容堂が決めるのである)。

 この慶応三年の段階に至って土佐藩内では驚くべき変化が起きた。
 土佐勤王党と上士との間には根深い対立があったというのは有名な話だが、その対立を乗り越え、龍馬と後藤が、さらに中岡と乾が手を握ることになったのである。

 そして龍馬と中岡は薩摩藩とのコネを持っていた。
 このコネを利用して後藤と乾は西郷や小松などと面会して五月には「薩土(さっと)密約(みつやく)」を、さらに六月には「薩土(さっと)盟約(めいやく)」を結んだ。
 その約定(やくじょう)の詳しい内容は割愛するが物凄くシンプルな言い方をすれば、龍馬と後藤は「大政奉還路線」を、中岡と乾は「武力倒幕路線」を重視して薩摩と約定(やくじょう)を結んだ、と言うことも可能だろう。

 とにかく薩摩としては、特に四侯(しこう)会議のあと武力倒幕を決意した西郷としては、土佐が接近してきたことは渡りに船だった。
 武力倒幕のためには一藩でも多く味方が欲しいのである。
 土佐の藩論が武力倒幕路線と大政奉還路線とで揺れ動いているとはいえ、これからじっくりと説得して武力倒幕の方向へ引っ張ってくれば良いだけのことだった。
 もしそれに失敗して土佐藩が大政奉還路線で決着するとしても、別に薩摩にとって不利益はない。
 なんにせよ、西郷としては龍馬などの土佐人たちと大いに協議して、まさにこれから幕府への圧力を強めようとしていたところだった。

 ところが、その矢先にイカルス号事件という思いもよらない出来事が発生し、土佐藩、なかでも海援隊の隊長である坂本龍馬はこの事件解決のために忙殺(ぼうさつ)されることになったのである。

 龍馬はこの事件のことを大坂で知った。
 それゆえ長崎での詳しい状況など知る(よし)もなかった。
(もし噂通り、本当に我が海援隊士がイギリス人を斬殺していたとしたら、俺や海援隊は無論のこと、土佐藩もイギリスから敵対視されることになろう。そうなったら薩摩との盟約どころの話ではない。俺も土佐藩も完全に中央政局から()()されてしまうだろう……)

 龍馬はこれまでワイルウェフ号やいろは丸を海難(かいなん)事故で失った経験があり、不運を()(しの)ぶ精神力は人一倍(きた)えられていた。けれども、今回ばかりは時期が時期だけに、一瞬心が折れそうになった。
(今は部下を信じることだ。我が海援隊士がそんなことをやるはずがない。万一やっていたとすれば必ず自首してるはずだ。犯人が(つか)まってないということは、彼らが犯人ではないということだ。イギリス相手の談判では、とにかくこれで押し通す)
 龍馬は腹をくくった。


 大坂に着いたパークスはイカルス号事件のことで(いつもと変わらぬ態度ではあるのだが)幕閣相手に強談判(こわだんぱん)を開始した。

 かたや幕閣としても、パークスから言われたことはさておき、実際のところ土佐藩に嫌疑をかけていた。
 水面下で土佐と薩摩が反幕府的な動きをしているのを幕閣が知っていたのかどうか、それは定かではないが、ともかくも長崎から聞こえてくる噂から
「おそらく犯人は土佐藩士であろう」
 と推定したようである。

 談判の結果、パークスと幕府の代表者が土佐へ出向いて土佐藩と交渉することになった。
 パークスの通訳としてサトウが同行するのは無論のことである。
 幕府の代表は外国総奉行の平山が選ばれ、トミーこと米田(こめだ)も同行することになった。

 そしてこのことを土佐へ伝えるために土佐藩士の佐々木三四郎(さんしろう)(後の佐々木高行(たかゆき))も大坂から土佐へ向かうことになったのだが、あいにく土佐藩の船が近くになかった。
 そこで佐々木は薩土盟約を結んだ関係から西郷に助力(じょりょく)を求めたところ、西郷は(こころよ)く薩摩の三国(みくに)丸を貸してくれることになった。
 それに加えて西郷は佐々木に助言も与えた。
「拙者も以前パークスと談判したことがござる。彼との談判は実に難しい。少しでもスキを見せるとしつこく追及(ついきゅう)してくるので不用意な言葉を使ってはなりません。あとは彼の(いきお)いに飲まれることなく、堂々と公明正大に対処することが肝要(かんよう)でござる」

 佐々木は深々と頭を下げて西郷に礼を言い、急いで三国丸が停泊している兵庫へ向かった。
 佐々木が兵庫に着いて三国丸に乗り込んだところ、佐々木の後を追うようにして龍馬が兵庫にやって来た。龍馬はすかさず三国丸に乗船して佐々木に書状を渡した。
「これは越前公(春嶽)から老公(容堂)宛の書状だ。イギリスとの談判に関する助言が書かれている。土佐へ持っていって老公に渡してくれ」

 春嶽との太いパイプを持っている龍馬は春嶽から容堂宛の手紙を(たく)され、急いで届けに来たのだ。京都での政治工作に忙しい龍馬は、佐々木に手紙を渡したらすぐに京都へ戻るつもりだった。
 けれども上士である佐々木としては、浪士同然の龍馬からいきなり容堂や春嶽といった大物の名前を出されて面白いはずがない。しかも事件を引き起こした疑いをかけられているのは龍馬の海援隊である。文句の一つも言いたくなろう。
「偉そうな顔をして言うな。今回のような始末になったのも元はと言えばお主ら浪人どもが徒党(ととう)を組んで、長崎で暴れたからではないか」
「何を言うか!俺の部下は絶対にイギリス人を斬っておらん。もし斬っていれば必ず自首するか、切腹しているはずだ。お主は土佐人よりもパークスの言うことを信用するつもりか!」
 こうやって言い合っているうちに三国丸は土佐へ向けて出発してしまった。
 (はか)らずも龍馬は、数年ぶりに土佐へ帰郷することになったのである。


 この間サトウは、パークスに同行して幕閣との会談、さらには将軍慶喜との会談に加わって通訳の仕事をするなど忙しい毎日を送っていた。
 そんなある日、西郷がサトウの宿舎を訪ねてきた。サトウが土佐へ向かう数日前のことだった。

 応接間に案内されると西郷はさっそくサトウに質問を()びせた。
「イギリスはずいぶん土佐をお疑いのようだが何か証拠でも出てきましたか?それとも何か幕府に吹き込まれましたかな」
「いいえ。今のところ証拠はありません。けれども我々は必ず犯人をつきとめます。今は土佐人が一番あやしいので土佐へ行って調べるだけのことです」
「土佐人は最近イギリスを見習って「議事院」という制度を日本に導入しようとしていると聞く。イギリスは土佐を敵に回すべきではないでしょう」
「急いで日本に議会制度を導入しようとしても逆に失敗して国が混乱するだけです。時間をかけて慎重に導入したほうが良いでしょう」
「しかし今の幕府が存続するよりはマシでしょう。サトウさんは『英国策論』で朝廷を頂点とした諸侯連合政権を説いておられたはずだが、最近は気が変わったようですな」
「いいえ。私の考えは変わっておりません。私は今でもそれが日本の正しいあり方だと思っています」
「いや、変わったでしょう。幕府はフランスを使って薩長を()ち、イギリスを使って土佐を討とうとしている。今の将軍とフランス公使の関係をご覧なさい。もし幕府の狙い通り薩長土を討って幕府が専制(せんせい)を強めれば、貿易の利益はすべてフランスが手に入れることになるでしょう。利用されるだけのイギリスは、まるでフランスの使われ者ですな」
「何を言いますか!我がイギリスがフランスに(おく)れを取ることは断じてありません!無礼でありましょう!」
「まあ私の話をよくお聞きなさい、サトウさん。イギリスは兵庫開港にあれだけ尽力(じんりょく)したのに貿易の旨味(うまみ)は幕府とフランスが独占することになるでしょう。なぜなら幕府は大坂の豪商たちを一つにまとめて特権組織を作り、兵庫の貿易をその組織に独占させようとしている。もちろんこれはフランスが幕府に助言した結果である。イギリスや諸藩の商人は兵庫の貿易で利益を得るのは難しくなるでしょう」

 これはサトウにとって初耳の話だった。
 イギリスにとって不利益になるのももちろん容認できないが、それに加えてイギリスが標榜(ひょうぼう)する「自由貿易」を無視した幕府のやり方も看過(かんか)できなかった。
 のちにサトウからこの話を聞いたパークスは、激怒して幕府に抗議することになるのである。

 サトウは多少の戸惑(とまど)いを(おぼ)えながらも西郷に回答した。
「……先日、私があるフランス人と話をした際に、彼は私に言いました。いずれ日本も統一国家になる必要がある。そのためには英仏が協力して薩長を()(ほろ)ぼすべきだろう、と。しかし私は答えました。長州一国さえ討てない幕府に何ができようか。幕府は弱すぎて支えるに(あたい)しない、と。我がイギリスが薩長や朝廷の味方であることは西郷さんがよくご存知でしょう。もしフランスが薩摩や長州へ兵を進めようとしても、イギリスが必ずそれを押しとどめてみせます。あなた方が望めばイギリスは援助を()しみません」

「まことにありがたいお話だが、日本の変革は我々日本人の手でやらなければならぬ。外国人の手を(わずら)わせては、まことに面目ないことである」

 西郷の目的は、これまでもずっとそうであったように「イギリスを幕府から引き離す」ことだった。
 決してイギリスに援軍を求めに来た訳ではない。
 イギリスに「依存」すればする程、それだけ大きな借りを作ることになり、日本の独立は(あや)うくなる。イギリスを「利用」することはあっても「依存」してはならない。それが西郷の信条だった。

 西郷がこのように急きょサトウのところへやって来たのは、江戸の柴山たちから最近のイギリス公使館、特にサトウの様子が幕府寄りになってきていると報告があったからである。
 さらに言えば、イカルス号事件によってイギリスと土佐藩の関係が悪化しつつあったので薩土盟約の関係上、土佐藩を擁護するためにやって来たのである。

 サトウを挑発し、なおかつ幕府とフランスによる兵庫貿易の独占計画を打ち明けたことによって「イギリスを幕府から引き離す」という目的はそれなりに達成できたと思われたので、西郷は満足して帰っていった。
 一方サトウは、西郷に「利用」されたとはまったく気がつかず「自分の申し出を辞退した西郷の姿勢は道理にかなっている」と思い、これ以降も西郷のことを敬愛し続けるのである。


 そしてこの数日後、サトウとパークスは土佐へ向かって出発した。
 ただしその途中で徳島へ立ち寄ることになった。
 以前サトウの日本語教師をつとめ、『英国策論』の日本語訳にも協力した徳島藩の家臣、沼田寅三郎(とらさぶろう)がサトウたちを徳島に招待したので、土佐へ行くついでに徳島へ立ち寄ることにしたのである。

 同じ四国の宇和島藩に招待された時と同様に、サトウやパークスは藩主親子(蜂須賀(はちすか)斉裕(なりひろ)と世子茂韶(もちあき))に歓待(かんたい)された。
 ただし訪問当初は天気の悪さと段取りの悪さにパークスが(いつものように)癇癪(かんしゃく)を起して
「たかが日本の大名ごときと会うのに、こんなに待たされてたまるか!」
 と叫び出す場面もあったが、それ以降は順調に事が運んでパークスも大人しくなった。
 そして訪問終了の頃にはパークスも徳島藩の誠意のこもった歓迎ぶりに心の底から満足するようになっていた。

 余談ながら藩主斉裕(なりひろ)は宴会の途中サトウの耳元でささやくように
「私はそろそろ隠居して、イギリスへ旅行にでも行こうと思ってます」
 と語った。しかしながら彼はこの五ヶ月後、鳥羽伏見の戦いの最中に病のため急死する。
 そして息子の茂韶(もちあき)家督(かとく)を継ぐことになるのだが、彼は後年オックスフォード大学へ留学するために「父の代わりに」とでも言うべきか、イギリスへ行くことになるのである。

 徳島をあとにしたサトウとパークスは八月六日、土佐の須崎(すさき)に到着した。
 サトウたちはこの時バジリスク号という中型の軍艦一隻で土佐へやって来た。

 数年前の生麦事件と薩英戦争の再来、とまではいかないにしても、土佐藩内は「イギリスの軍艦がやって来る」ということで騒然としていた。
 ただし生麦事件との比較で言えば、今回のイカルス号事件は犯人が土佐人かどうかは判明しておらず(生麦事件は薩摩藩士が実行犯であることは明白だった)パークスの個人的な「断定」によって犯人扱いされた土佐人たちの(いきどお)りは、間違いなく薩摩人以上であったろう。

 須崎は高知城下から2、30kmほど南西にある港町である。
 高知の浦戸(うらど)湾は入口が狭く、しかも水深が浅いのでこの須崎が談判の場所として選ばれたのだが、それにも増して高知を避けた理由は、この騒然とした状態でイギリス軍艦が高知に近づいたら何が起こるか分からず、危険(きわ)まりなかったからである。

 実際この須崎においても三ヶ所の砲台は既に臨戦(りんせん)態勢(たいせい)をとっており、さらに乾退助に(ひき)いられた部隊が「(しし)()り」と称して陸上を駆けずり回って演習をおこなっていた。
 ちなみにこの部隊の中には後に堺で事件を引き起こすことになる箕浦(みのうら)猪之吉(いのきち)や西村佐平次(さへいじ)といった士官たちもいた。

 サトウやパークスが乗ったバジリスク号はそういった陸上の雰囲気を察知(さっち)して、こちらも臨戦態勢をとって須崎港の外側に停泊することにした。
 一方、湾内には先に到着していた幕府の回天(かいてん)丸、さらに土佐藩の夕顔(ゆうがお)という小型の蒸気船が停泊していた。
 薩摩藩の三国丸で土佐へ帰郷した坂本龍馬は、この夕顔に乗り移って待機していた。
 当初、談判は大善寺(だいぜんじ)という須崎の寺でおこなう予定だったのだが、この騒然とした状況を(かんが)みてバジリスク号でおこなうことになった。

 まず幕府の平山と米田がパークスのところへやって来て現状を報告した。
 しかし、そもそもこの事件の証拠は何も出て来ておらず、幕府も土佐人に嫌疑をかけているとはいえ土佐藩に無理を()いるつもりもなかったので、おざなりな捜査(そうさ)しかしていなかった。

 平山からの報告を聞いたパークスは(いつものように)怒鳴(どな)りつけた。
「一体何のためにここまでやって来たのか!あなたたちは子どもの使いか!役立たずにも程がある!」
 平山は困窮(こんきゅう)した表情をしてパークスに釈明(しゃくめい)した。
 通訳をするサトウから見ても、この古狐(ふるぎつね)(平山)の様子は実に痛々しく思えた。

 次に土佐藩の後藤象二郎がバジリスク号にやって来た。
 土佐藩は後藤にパークスとの談判を(ゆだ)ねたのである。後藤はパークスに対して土佐藩の方針を説明した。
「犯人が土佐人であるという証拠は何もない。しかしたとえ犯人が土佐人でないとしても、捜査には全力を()くす」

 パークスは土佐藩を(あなど)っていた。
 自分はイギリスを代表する人間であり、相手をするのは日本国の代表者だけである。
 大名のごときは一喝(いっかつ)して事を済ませるに限る、と思っていた。
 それゆえパークスは恐ろしい剣幕(けんまく)で(いつものことだが)後藤に対してまくしたてた。
「いや、犯人は土佐人に決まっている!これだけ状況証拠がそろっていれば疑う余地はない!私は土佐藩との友好を望んではいるが、この問題は国と国との問題であり、談判の相手は幕府だけである!土佐藩の釈明(しゃくめい)を聞くつもりはない!」

 このパークスの傍若無人(ぼうじゃくぶじん)な態度に対し、後藤は冷静な表情で答えた。
「一体公使は談判のために土佐へ来たのか、それとも挑戦するために来たのか、拙者(せっしゃ)は理解に苦しむ。土佐藩の代表者たる拙者に向かってそのような態度をとるのは、公使に談判の意志がないということであろう。ならば談判はここまでである。あとは好きになされよ」

 この後藤の言葉を聞いて、通訳のサトウも驚いたが、サトウから説明をうけたパークスも驚いた。
 しかしパークスは自説(じせつ)()げず、この日の談判は物別れに終わった。

 このあと後藤はサトウと個別に会って苦情を述べた。
「公使の乱暴な言葉づかいは実に無礼である。あのような態度では本当にこの土佐で恐るべき事件が起きかねない」
「私だってあのような乱暴な言葉を通訳したくはない。だけど本当のことを伝える必要がある。後藤さんがそこまで懸念(けねん)されるのなら、公使に直接言ってみたらどうですか?」
「承知した。今度会った時に忠告(ちゅうこく)してみよう」

 以後、数日に渡ってイギリス・土佐藩・幕府の間で談判が続けられた。
 しかしこの土佐では新しい証拠は何も出て来なかった。
 というか、むしろ海援隊のアリバイを示す証言が出て来る始末で、パークスはますます不機嫌になった。

 そして再び後藤がバジリスク号を訪問した。
 パークスは後藤に対して次のように()げた。
「土佐での捜査は終了する。今後は長崎にサトウを派遣して捜査を続ける。ついてはお互いの友好関係のためにサトウを使者として前藩主(容堂)のところへ派遣したい」
 これに対して後藤が答えた。
「もし我々の間に友好関係があるというのなら公使自身が老公(容堂)に面会してはどうか。もし友好関係にないのであれば誰が老公に面会しても無駄である」
 脇にいたサトウは、いらだちの色を隠せないパークスの通訳をしながらも、心の中で思った。
(公使がこんな回りくどい手配をしなくても、私に任せてくれれば土佐藩士たちと話をつけて、なんなく高知へ入ってみせるのに……)

 さらに後藤がパークスに対して苦言を呈した。
「前回の公使の態度はまことに礼を欠いていた。拙者のような謙虚(けんきょ)な人間が代表者だったから良かったが、他の者であればただでは済まなかっただろう」
 サトウはこの後藤の苦言をハラハラしながら通訳したが、パークスはなんとか癇癪(かんしゃく)を起さずに後藤との面談を(まっと)うした。

 と言うよりも、パークスはかえって後藤に好感を持ったのである。
 そしてそれはサトウも同様だった。

 彼らからすると後藤のようにハッキリと物を言う人間のほうが好きなのである。
 さらに勇気や胆力がある人間であればなおさら尊敬に値する。
 逆にあやふやな事しか言わず、何を考えているのか分からない人間、しかもそれで卑屈(ひくつ)だったりすれば軽蔑(けいべつ)するしかない。

 サトウは後年、次のように手記で語っている。
「後藤はこれまで我々が会った日本人の中では最も聡明(そうめい)な人物だった。それでパークス公使は大変気に入った。私の感触では、後藤よりまさっていた人物は西郷ただ一人だったと思う」
 サトウが高く評価していた西郷と後藤は、この時点での武力倒幕路線と大政奉還路線におけるそれぞれの中心人物だった訳だが、この二人とここまで密接に付き合っていながら、()しいかな、サトウはそれらの計画が水面下で進行していることに気がつかなかった。


 この後パークスは事件の捜査をサトウに(まか)せて、バジリスク号で江戸へ帰っていった。
 残されたサトウは土佐藩の夕顔に乗って長崎へ行くことになった。
 もちろん、この夕顔に潜伏(せんぷく)している龍馬も、サトウと一緒に長崎へ行くのである。
 龍馬は今回せっかく土佐へ帰郷したのに結局何も出来ず、実家や藩外の各地へ手紙を書くぐらいしかやることがなかった。
(せっかく土佐へ帰ってきたのに高知の実家にも帰れんとは……。まったく憎むべきはイギリス人よ。奴らが難癖(なんくせ)をつけてこなければ今頃京都で政治活動を続けていたものを……)

 同じ頃サトウは「龍馬の代わりに」とでも言うべきか、高知城下に来ていた。

 ただし高知城下の見物が目的ではない。というか高知の町はいまだに騒然とした状態が続いており、イギリス人のサトウが町を見物するなど到底(とうてい)不可能だった。
 サトウは容堂に会いに来たのである。
 段取りはすべて後藤が手配した。サトウは町はずれにある開成館(かいせいかん)で容堂と面会した。

 容堂はサトウに会うと
「あなたのお名前はかねがね聞き及んでいた。是非一度会いたいと思っていたがこんなに若い人だとは思わなかった」
 と述べた。これに対してサトウは
「こちらこそお目にかかれて光栄です」
 と答えた。
 そして容堂は今回の事件についての所感(しょかん)をサトウに述べた。
「犯人が土佐人なら逮捕して処刑する。たとえ犯人が他藩の者であっても捜査には全力を()くす。実は友人の越前公(春嶽)から『イギリス人が憤激(ふんげき)しているからこの事件については示談(じだん)したほうが良い』と書いた書状が届いたが、自分はそんなことはしない。あくまで事実に(そく)して事件を処理するつもりである」
 それからサトウと容堂と後藤はこの問題についていろいろと話し合った。さらに容堂は、ヨーロッパの国際情勢やイギリス議会のことに興味を示し、それらについてサトウに質問した。

 このあと酒席が用意されることになり、髪を華麗(かれい)()()げた美女たちが酒や(さかな)を運んで部屋に入ってきた。
 彼女たちに(しゃく)をしてもらって楽しく酒を飲んでいると、なぜか容堂は解剖学(かいぼうがく)の勉強に使うヨーロッパ製の男女の等身大模型(もけい)を運び込ませ
「後学のためにこれをバラバラにして見せてしんぜよう」
 とバラバラにした人体を見せつけた。サトウは気持ちが悪くなった。しかし容堂自身も、自分から見せておきながら
「気持ちが悪くなったから失礼する」
 といって別室へ行ってしまった。それでもサトウが帰り際にその別室へあいさつに行くと、容堂は一人で酒を飲み続けていた。

 サトウが感じた容堂の印象は次のようなものであった。
「彼は背が高く、少し痘痕(あばた)顔で、歯が悪く、早口だった。彼はひどく体の具合が悪いようだったが、それは全く大酒のせいだろう。私が見たところ、彼は偏見(へんけん)が少なく、政治思想も決して保守的ではなかった。しかし薩長と協力して改革を進めていく意思があるかどうかは疑問に思えた」
 
 この二日後、サトウと龍馬を乗せた夕顔は土佐を出発して長崎へ向かった。
 この航海の最中、サトウは体調が悪いこともあって船内の土佐人たちとまったく会話をしなかった。
 なにしろ土佐人からすればイギリス人は憎むべき相手だったのだから皆サトウに対して無愛想(ぶあいそう)だった。

 なかでも龍馬が一番サトウを憎んでいた。
 イギリスから容疑者扱いされた海援隊の隊長であり、しかもそのせいで京都における政治活動を台無しにされたのである。龍馬が激怒するのは当たり前であろう。
 龍馬は船内でサトウを見かけた時に「こいつ、斬り殺してやろうか」と思ったぐらいだった。

 反対にサトウのほうは龍馬のことをまったく知らなかったので
「またあの人相の悪い男がこちらをにらんでいる」
 ぐらいにしか思わなかった。

 まさかこの人相の悪い男が西郷と昵懇(じっこん)で薩摩と長州の仲を結び、後藤とも昵懇で大政奉還を()(すす)めているとは、サトウは夢にも思わなかった。

 龍馬が海援隊の隊長で、今回嫌疑(けんぎ)をうけている張本人である、というのをサトウが知るのは長崎に着いてからのことである。

 とにかくサトウにとってこの夕顔の船内は針のむしろと言っていいほど居心地(いごこち)の悪い場所だった。
 それでも後藤が乗っていればサトウもまだ気楽に話すことができただろうが、後藤はこの事件の担当から(はず)れて、佐々木三四郎が担当者として長崎へ向かうことになった。


 翌日の八月十四日、夕顔は下関に到着した。
 この下関で龍馬は佐々木に妻のお龍を紹介した。佐々木の手記には次のように書いてある。
(さい)(だに)(龍馬)の案内にて稲荷町大坂屋に休息。才谷の妻(お龍)の住家に才谷と同伴。同妻は有名なる美人の事なれども(けん)婦人(ふじん)(いな)やは知らず」

 一方サトウも下関に上陸した。が、こちらは美人が相手ではない。
 顔に刀傷を持つムサ苦しい男、井上聞多(ぶんた)が相手である。一月に大坂で会って以来の面会だった。
「俊輔なら今、長崎へ行っている。サトウさんも長崎へ行くのなら多分()こうで会えるだろう」
 聞多はこう、俊輔のことをサトウに説明したが、長州藩の状況については言葉を(にご)して、あまりサトウに語ろうとしなかった。

 サトウは多少怪訝(けげん)に思いながらも、下関をあとにして長崎へ向かった。

 聞多の口が(かた)かったのは理由がある。
 江戸のサトウやイギリス公使館が幕府寄りになりつつある、という柴山たちの情報は、すでに西郷のところに届いていた。
 そしてその情報は長州にも届いていたのである。
 西郷が武力倒幕を準備しているこの時に(()しくもこの日、京都の小松帯刀邸で西郷が長州藩士たちと初めて挙兵(きょへい)計画を相談している)幕府側へ寝返るおそれのあるサトウに対して、薩長の人々が情報を閉ざすようになったのは当然の反応というべきであろう。
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