第29話 江戸薩摩藩邸焼き討ちと昇進問題

文字数 9,648文字

 京都での王政復古の政変は、すぐに大坂の各国代表団にも伝わった。

 しかし京都や朝廷のことをまったく知らない外国人たちにとっては(オランダ代表のポルスブルックのみ、以前京都に入った事があるが)一体京都で何が起きているのかさっぱり見当がつかなかった。
 サトウは従者の遠藤に薩長側の情報を、野口に幕府や会津側の情報を収集させて状況の把握につとめた。そのおかげでサトウはかなり正確な情報を得ることができたのだが、数日後、もっと目に見えるような形でサトウは幕府の実情を知らされることになった。

 慶喜が幕府軍(会津・桑名などの軍も含む)を引き連れて京都から大坂へ下ってきたのである。十二月十三日のことだった。

 慶喜は、とにかく戦争を避けたがっていた。
 仮に戦争をしたとしても、幕府軍一万五千人に対し薩長軍は多くて五千人なので負けるとは思わなかったが、そんなリスクを(おか)さなくても
「戦争を避けさえすれば再び権力を掌握(しょうあく)できる」
 と慶喜は見ていた。

 このまま京都にとどまれば京都で薩長軍と衝突する危険性が高い。
 もし衝突した場合、守るのに適さない京都の二条城にいては防ぎきれない可能性もある。だったらこの際、難攻不落の大坂城へ移ったほうが安全である。
 それに大坂へ移れば大坂湾を押さえることができる。そうなれば京都への物流を遮断することができ、戦略上、有利になる。そして、これは万一の可能性だが、逃走する際の逃走経路も確保できる。慶喜はそう考えたに違いない。

 「慶喜が大坂へ下ってきた」という情報に接した時にサトウが抱いた印象は
(これで慶喜は万事休すだ。日本の歴史では天皇を擁するほうが常に勝っている。慶喜は京都を去るべきではなかった)
 というものだった。
 サトウは日本学者になることを目指していただけに当時の在日外国人のなかでは一番詳しく日本の歴史について知っていた。これほど端的に情勢を読みきった外国人はおそらくサトウだけだったであろう。

 ただし今回の慶喜下坂に関して言えば、そもそも慶喜には戦う意志が無かったのだから、ちょっと酷な見方だったかもしれない。
 京都に残るのであれば武力をもって天皇を取り返すしかなく、それをやれば即開戦になることは間違いない。だからこそ、京都に残る訳にはいかず、地の利のある大坂へ下ったのである。
 この策は、消極的ではあるが(臆病と言えば臆病だが)ひとまず妥当な選択だったと言うことも可能だろう。


 サトウとミットフォードは幕府軍の行列を見物するため、大坂城の北にある京橋の先まで行ってみた。
 周囲の日本人に話を聞くと、もうしばらくで前将軍(慶喜)がここへやって来るという。
 歩いている兵士たちの衣装は様々だった。西洋の銃を持って西洋式の格好をしている兵もいれば、日本古来の鎧兜(よろいかぶと)を着て槍や弓を持っている兵士もいた。

 行列の中にサトウの知っている士官、窪田(くぼた)泉太郎(せんたろう)を見かけた。
 窪田は伝習隊歩兵頭並で、前年二月に本牧(ほんもく)で実施された日英合同軍事演習の際に日本側の指揮をとっていた。サトウはその時窪田と知り合って、それ以来何度か会ったことがあった。

「窪田さん、どうして都から落ちてきたんですか」
「なーに、いずれ仇敵(きゅうてき)薩長とは一戦を交えることになろう。その時は勇ましく先駆けて、花と散ってみせるさ」
「勇ましい男はこんな風に退却しませんよ」
御所(ごしょ)の近くで戦えば(みかど)に害がおよぶかもしれん。それゆえ上様は大坂へ下ったのだ」
「いかなる理由があろうと御所を手放すべきではなかった。あなた方は御所に向かって攻撃できないでしょう?」
「確かに上様の場合はそうだ。だが我々家来は別である。我々は我々の流儀でやる」
 こう言って窪田は去っていった。

 それからしばらくすると、馬に乗った慶喜が近づいてくるのが分かった。周囲の日本人が皆ひざまずいて静かになったからである。
 慶喜は軍帽をかぶり、帽子から黒い頭巾(ずきん)のような布がたれていた。

 慶喜の顔はやつれ、目はうつろで、悲しそうな表情だった。
 サトウとミットフォードは立ったまま脱帽して礼を示した。
 しかし慶喜は二人に気がつかない様子だった。
 慶喜の周囲には老中の板倉勝静、会津の松平容保(かたもり)、桑名の松平定敬(さだあき)などもおり、板倉は二人に気がついて返礼の会釈(えしゃく)をしていった。

 サトウの心境は複雑であった。
 なにしろサトウは俊輔たち薩長反幕勢力の友人たちと親しく付き合っている。そして『英国策論』を書いて幕府の没落に大きく貢献してきたのである。事実、日本の政治体制はサトウが『英国策論』で書いた通り、天皇を頂点とするかたちに移行しつつあった。

 慶喜があのように零落(れいらく)したのは自分にも責任がある。
 自分の行動によってこのような結果が導き出されることは、頭ではわかっていたが、実際に零落した慶喜の姿を目にすると心が痛んだ。

 なにしろ慶喜は前将軍、すなわち「日本の主権者だった人間」で、以前大坂城で謁見(えっけん)した時には実に堂々と振る舞っていたものだった。それが一年も経たぬ内に、これほど痛ましい様子に変わるとは。
 若く感受性の強いサトウにとってはショックだった。

 このあと、サトウたちが京橋のあたりまで戻ってくると偶然パークスに出会った。パークスもこの行列を見物しに来ていたのだ。
 しかしパークスにはサトウのような繊細な神経はない。というよりも、サトウとは真逆の性格である。
「明日さっそく大坂城を訪問して大君(タイクン)(慶喜)に謁見(えっけん)しよう。サトウ君、幕府にその旨を伝えてくれたまえ」
 こう、パークスはあっさり言った。

 サトウは「非常識だ」と思った。
(この幕府の没落に、多少なりとも貢献してきた我がイギリスに、今日の明日でいきなり会ってくれる訳がないじゃないですか、公使!)
 と言いたい気分だった。しかし仕事は仕事なので嫌々ながらも幕府に面会を申し込む文書を送った。
 サトウの感触では、どうみても翌日の謁見は難しそうに思えた。

 実際この頃大坂に来ていた福地源一郎も自著で
「十二月十三日は上様を出迎えるため府外まで出かけた。上様は御疲労と聞いていたが私は平伏して頭を下げていたのでご尊顔を拝することはできなかった。軍勢が大坂城に入ると城内は混雑を極めた」
 といったようなことを書いており、確かに大坂城内は慶喜と軍勢の到着でごった返し、パークスとの面会どころではなかっただろう。

 そして翌日、案の定、幕府役人からの返事を聞いてパークスがいつもの如く烈火のように怒りだした。幕府側の返事は次の通りだった。
「今日はこれからフランス公使(ロッシュ)との接見があるので、明日ならいつでもイギリス公使と接見する」

 フランスに先を越されたパークスは幕府役人に激しい口調で言った。
「フランスの後回しにされてたまるか!外交官としては私のほうがロッシュ氏より上席(じょうせき)であり、上様(うえさま)(慶喜)と謁見する優先権は私にある!私は今すぐ大坂城へ行く!」
 そしてパークスはサトウと護衛兵に随行を命じて、すぐに大坂城へ向かった。

 サトウはいつも通り呆れはしたが「この上司(じょうし)(パークス)だから仕方がない」とあきらめ、どしゃぶりの雨をついて皆と一緒に大坂城へ向かった。

 サトウがちょっと遅れて大坂城の白書院(しろしょいん)(謁見の間)に着くと、先に着いていたパークスが、今まさに慶喜と会おうとしていたロッシュをつかまえて罵声(ばせい)()びせていた。
「大英帝国を出し抜いて先に大君と面会しようとは、何たる礼儀知らずか!」
「我がフランスの正式謁見を邪魔するあなたこそ、恥知らずにも程がある!」
 白書院のすぐ近くでフランス公使と(ののし)()いのケンカをしている上司を見て、サトウはまったく心が冷える思いだった。結局幕府側が仲裁して、英仏両公使が同時に慶喜と謁見することになった。

 謁見の間では慶喜の前にパークスとロッシュが座って三人で会談することになり、サトウはパークスの隣りに座って通訳を担当した。
 また慶喜の脇には会津の松平容保、桑名の松平定敬、さらにはフォックスこと平山敬忠(よしただ)が筆記役として座っていた。

 慶喜はパークスとロッシュに京都で起きた政変について一通り説明した。そして二人に意見を求めた。
 二人は慶喜に対して、国家のために内戦を避けようとする慶喜の姿勢は正しい、として称賛した。もちろんロッシュは、パークスよりも礼賛(らいさん)的な言葉を使って慶喜の行動を()(たた)えた。

 パークスは、慶喜はこれからどのような方針をとるつもりなのか?ということを知りたくていくつか慶喜に政策判断に関わる質問をしてみたが、慶喜はその質問に明確な答えを示さなかった。
 慶喜の説明では
「京都で新政府を立ち上げた連中は仲間割れが激しく、いずれ行きづまって自己崩壊するであろう。また外交権についてはいまだに自分、すなわち徳川家に責任があるので、何かあれば自分に言ってもらいたい」
 ということだった。

 そして「今日は疲れているので」と言って謁見を終了した。
 慶喜の目の前で通訳をしていたサトウから見ても、慶喜は疲れてやせ衰えているように見えた。
(以前この部屋で謁見した時は実に堂々として誇らしい姿をしていたのに、こうも落ちぶれてしまうものか……)

 城から帰る途中、パークスがサトウに謁見の感想を述べた。
「彼(慶喜)には知恵はあるようだが戦う気持ちが欠けている。また決断力も無さそうだ。私が見たところ、彼の反対勢力である薩摩はその真逆だ。行動力があり、勇気もある。この政変がどういう結果になるにしても、私は薩摩の態度を好ましく思う」

 以前の謁見以来すっかり慶喜に入れ込んでいたパークスも、ここへきて失望の色を隠さなくなった。
 パークスという男は、人格や品性の面では欠点だらけだが、自身がアロー戦争の交渉時に清国政府から殺されかけても屈服しなかったように
「政治家の価値は勇気があるかどうかで決まる」
 という硬骨の気質をもった男だった。


 この日の二日後、大坂城の白書院で六ヶ国代表が慶喜との謁見式をおこなった。
 六ヶ国とはイギリス・フランス・オランダ・アメリカ・プロシア(ドイツ)・イタリアである。

 この謁見式で六ヶ国代表は「中立宣言」を表明した。
 一方慶喜は「いまだ外交権は徳川家にある」と宣言した。

 この六ヶ国代表の「中立宣言」を作成するにあたっては事務方としてサトウも大きく関わった。
 慶喜の強い味方であるロッシュは「中立宣言」の中に
「大君(慶喜)への最大限の同情を表明する」
 という表現を入れようとしたが、これはパークスの反対によって阻止され、逆にパークスは六ヶ国代表の首席の地位をロッシュに譲ることで妥協をはかった。
 こういった調整をするためにサトウは各国代表の間を奔走(ほんそう)し、さらに「中立宣言」を日本語へ翻訳する作業も手がけたのだった。

 ところで、サトウやパークスの前では弱々しく振る舞っていた慶喜だったが、その一方でフランスのロッシュとは何度も非公式で面会し、徳川家が巻き返すための策について相談していた。
 ロッシュは、慶喜がこのように追いつめられても気落ちすることなく
「フランスは従来通り、大君を全面的に支援する」
 と慶喜に誓った。ロッシュはむしろ慶喜が追いつめられていく様子を「戦略的撤退」と見て、高く評価してさえいた。

 そしてロッシュはシャノワーヌ陸軍大尉らフランス軍事顧問団を大坂へ呼び寄せるよう慶喜に進言し、慶喜もこれを受けいれた。彼らは後に蒸気船に乗って江戸を出発し、鳥羽伏見の戦いの頃に大坂へやって来るのである。

 余談ながら、この頃大坂から小型蒸気艇に乗って兵庫へ向かっていたミットフォードとイギリスのケッペル提督は、冬の嵐に()って沈没しかけていた。
 ミットフォードは出発前
「天気が悪い上に大坂湾は浅瀬が多いので危険です。やめたほうがいいでしょう」
 と言って提督を止めようとしたが、提督は
「陸の人間に何がわかるか。海のことは海の男に任せておけ」
 と言ってとりあわず、出発した。
 しかし途中ですさまじい風が吹き荒れて嵐となり、船はいまにも沈みそうになった。提督は
「こんな目に遭ったのは初めてだ!」
 とミットフォードに叫んだ。確かに、世界の海を股にかけてきた海の(ふる)強者(つわもの)が、日本の内海でこんな目に遭うとは思いもしなかっただろう。
 それでもとにかく、ミットフォードと提督はなんとか兵庫沖に停泊していたロドニー号にたどり着いた。
 ところがそのあと、アメリカ艦隊のベル提督が乗っていたボートが大坂湾で嵐に遭って沈没し、提督を含めた十名が死亡したという情報がミットフォードに届いた。
 実はミットフォードたちが遭難しかけていた海域にはアメリカのボートもいたのだ。そして彼らは助からずに沈没してしまったのだった。
 このニュースは誤ってロンドンの新聞に伝わり、ケッペル提督やミットフォードが大坂湾で死亡したと報道されたそうである。この事故があったのは十二月十四日(1868年1月8日)の夜のことであった。


 それから数日後、サトウは大坂の薩摩藩蔵屋敷を訪問して寺島陶蔵(とうぞう)(後の宗則(むねのり))と会った。
 この二人は、当時の日英外交を一番客観的に知悉(ちしつ)している人間だったと言っていい。
 また以前も触れたように、サトウが書いた『英国策論』と、寺島がイギリス外務省に提案した意見は非常に内容が似かよっており、この二人は考え方も近い似た者同士だった。

 このころ寺島は京都の大久保からの指示で、外国代表に通達するための布告文を作成していた。
 ちなみにこの布告文の原案を作ったのはモンブランだった。そのモンブランの原案を寺島が手直しして完成させたのである。布告文の中身をざっと述べると
「天皇を元首にして、列藩会議で国の方針を決める」
 といった内容だった。実際短い文章で、あまり複雑なことは書かれていない。

 慶喜が六ヶ国代表と会って「いまだ外交権は徳川家にある」と宣言したのを受けて、大久保や寺島は(あせ)っていた。
 新政府ができた以上、本来であれば新政府が六ヶ国代表に対して外交方針を表明しなければならなかったのである。

 しかしこの頃の新政府はそれどころではなかった。
 西郷、大久保、岩倉に反対する親慶喜勢力、すなわち容堂や春嶽などが巻き返しをはかり、慶喜に突きつけた「辞官(じかん)納地(のうち)」、特に徳川家の削封(さくほう)(四百万石から二百万石への削封と言われている)を緩和(かんわ)させ、さらに慶喜を新政府へ招き入れることまで働きかけていたのである。
 実際、岩倉あたりは容堂たちの要求を受け入れる方向に傾きつつあった。新政府の内部は慶喜の読み通り、崩壊寸前だったのである。

 もちろん寺島はサトウにそんな新政府の内情までは話さなかったが、慶喜から「辞官納地」の返事待ちなので、新政府による六ヶ国代表への布告表明は今しばらく見合わせたい、とサトウに述べた。
 それに対してサトウが答えた。
「私もその意見に賛成です。とにかく、あなたがた新政府に何より求められているのは、我々外国代表を京都へ招待して、帝と謁見させることです。そうすれば我々が新政府を正式に承認したことになるでしょう」
「承知した。その準備が整い次第、各国代表を京都へ迎えたいと思う」
 寺島はこう答えつつも頭の中では、外国代表の京都招聘(しょうへい)は無理だと思った。
(おそらくそんなことは当分不可能だろう。確固とした政府が出来上がらない内に外国代表を京都に呼んでも、新政府の脆弱(ぜいじゃく)さを外国にさらすだけのことだ。しかも、京都に外国人が入るとすれば公家や浪士たちが怒りだすだろう。そうなったら何が起こるか分からん……)


 この新政府の窮状(きゅうじょう)を結果的に救うことになったのは、江戸における薩摩藩邸の焼き討ち事件だった。
 そして周知のように、この事件が鳥羽伏見の戦いの引き金になったのである。焼き討ち事件は十二月二十五日のことだった。

 この事件はよく、次のように言われている。
「幕府を挑発して戦争(鳥羽伏見の戦い)を起させるために、西郷が江戸で仕かけた罠だった」
 具体的には、薩摩藩の益満(ますみつ)休之助(きゅうのすけ)伊牟田(いむた)尚平(しょうへい)が西郷の指示をうけて、江戸および関東近郊で浪士を使って攪乱(かくらん)工作をおこない、それが薩摩藩邸の焼き討ちにつながったのだ、と。

 その一方で、最近の学説では
「西郷が関東の攪乱工作を指示したのは何ヶ月も前のことで、そのあと大政奉還などもあって攪乱工作には中止命令が出されており、関東の暴発は西郷の知らないうちに起こったものだ」
 とか、もっと極端なものでは
「西郷は鳥羽伏見の戦いに勝てるとは思っておらず、江戸での暴発など望んでいなかった」
 という見方もある。

 確かに前者の意見、すなわち「西郷の罠だった」という説は、のちに鳥羽伏見の戦いで薩長が勝つことを知った上での「後付け論」的な要素が強い。
 とはいえ、後者の意見、すなわち「西郷は知らなかった」という説も不自然な点が多く(本当に西郷が江戸での暴発を望まないのなら、もっと強硬に止めたはずであろう)簡単に認めることはできない。

 江戸で暴発が起きたのも、鳥羽伏見で戦いが起きたのも、多分に偶然の要素が強かった、というのは事実であろう。

 しかし鳥羽伏見での戦いの様子を見る限り、薩長軍は事前に周到な準備をして
「自分たちが狙った通りの勝ちパターンに敵を誘い込む」
 ということを考えて戦争を始めており
「逆に幕府軍はあまりにも無為無策だった」
 ということである。これだけは明白に言える。

 幕府は終始受け身の状態で、かつ無防備すぎたのである。

 この薩摩藩邸焼き討ちではフランス軍事顧問のブリュネが作戦を立てた。
 作戦に参加した部隊は幕府伝習隊や庄内藩など佐幕諸藩の兵およそ二千人で、三田の薩摩藩上屋敷を包囲して砲弾を撃ち込んだ。薩摩藩士や浪士たちは打って出たが多勢に無勢で四十九名が戦死、百六十二名が捕縛された。
 ただし伊牟田のように包囲を突破して品川に停泊していた薩摩の(しょう)(ほう)丸に逃げ込んだ者も二十八名おり、また各地へ逃走した者も何名かいた。
 そしてその翔鳳丸に対して幕府の回天丸が砲撃を加え、江戸湾内で海戦が展開された。翔鳳丸は何発か被弾したものの、なんとか回天丸を振り切って大坂湾へ向かった。
 戸川残花(ざんか)の『旧幕府』では、この時回天丸に乗っていた幕臣が明治になってからこの海戦を次のように振り返っている。
「薩艦(翔鳳丸)には今日海軍部内に最も有名なる某将校も乗組ありて、当時魚腹に葬らざりしは、実に国家のため慶すべき事なりと言うべし」
 『荒井郁之助(いくのすけ)』(吉川弘文館、原田朗)ではこの「某将校」とは東郷平八郎のことであろう、と書いてある。とりあえず、このとき翔鳳丸に伊東祐亨(すけゆき)が乗っていたことは間違いないようである。

 この薩摩藩邸焼き討ち事件ではサトウの友人だった薩摩の柴山良助が捕縛され、のちに自決した。
 サトウが柴山の死を知るのはこの約一ケ月後のことだが(同時に南部弥八郎も死んだと聞かされるが実は南部は生きていた)サトウは日記に
「彼らの仇を討ってやりたいものだ」
 と書いている。


 この事件が大坂に伝わったのは十二月二十八日のことで、サトウたちのイギリス公使館に伝わったのは翌二十九日のことだった。
 ところが、この時サトウはプライベートな問題に気を取られ、幕府と薩摩の開戦のことなど全くそっちのけの状態だった。

 兵庫領事に任命されたばかりだった同僚のマイバーグが、兵庫(正確には神戸村)に赴任した直後に突如病死したのである。十二月二十七日のことだった。
 サトウが同僚の急死を悲しんだのは無論のことである。特にミットフォードは、横浜大火で家を焼かれた際にマイバーグの世話になっていたので彼の死を深く悲しんだ。
 しかし、マイバーグの死によって空いた兵庫領事のポストをめぐって、サトウはパークスに苦情を申し立てたのである。

 ハッキリ言ってサトウはこの頃、自信過剰だった。
 日本語の会話能力、さらに読解能力でサトウの右に出る外国人はいない。
 また数多くの日本人と関係を持っていた。その中には幕府の上級役人はおろか、西郷や木戸といった反幕府勢力の首脳などもいた。そして『英国策論』を書いて多くの日本人から「イギリスの名士」と見られていた。
 イギリス公使館では、パークスは別格としても「自分ほど重要な人物はいない」という自負があった。

 それなのに兵庫領事のポストは、自分より下位にあると思っていたラウダーが獲得した。
 サトウの自尊心が、これを許さなかった。

 すぐにパークスの部屋へ行き、異議を申し立てた。
「公使、今回の人事異動は、ラウダーが私より有能だということですか?」
「ラウダーは兵庫の副領事である。だから慣例に従って現地の副領事を領事に昇進させたまでのことだ」
「では、これは緊急の措置ということでしょうか?正式に決定する際には、本当にふさわしい人間が兵庫領事になれるということですか?」
「本当にふさわしい人間とは誰のことを言っているのか知らんが、まあ緊急の措置である。だが君もいずれ順番がくれば領事になるのだし、そんなに慌てなさんな」
「それは本当ですか?私は本当に、領事になれるのですか?」
 これを聞いてパークスは少しギクリとした。

 実のところパークスは、この有能な通訳であるサトウを領事として手放す気はないのである。
 以前第22話でこの当時のイギリス外務省における「外交部門(Diplomatic(ディプロマティック) service(サービス))」と「領事部門(Consular(コンシュラー) service(サービス))」のことを解説したが、領事部門に所属するサトウにとっては領事になることが出世の頂点である。
 ちなみにこの時、旧暦ではまだ十二月だが、西暦では兵庫開港が1月1日であったように既に1868年の1月になっている。実はこの1月からサトウは「日本語書記官」という、通訳としては最高のポストに昇進して年俸が700ポンドになったばかりだった。ただし領事になれば、場所にもよるが大体年俸は800から1,000ポンドなのである。
 日本語書記官に昇進したばかりなのに(しかもまだ二十四歳で)いきなり兵庫領事のポストを要求するサトウも確かに幾分ずうずうしくはあるが、領事部門の人間としては領事職を目指すのは当然のことである。
 しかしそれ以上にサトウが気にしていたのは
(ひょっとしてパークス公使は、私を領事として手放す気が無いのではないか?)
 ということだった。

 先に結論を言ってしまえば、サトウのこの悪い予感は的中してしまうのである。
 サトウはこのあと十五年ほど日本で勤務を続けるのだが、その間一度も領事に昇進することなく、日本語書記官としてパークスの手元に置かれ続けることになるのである。

 パークスはサトウを(さと)すように言った。
「田舎の開港場で年俸800ポンドの領事をやるよりも、江戸で日本語書記官を続けるほうが快適な暮らしができると思わないか?サトウ君」
「いいえ。その考え方には承服できません。私は本省に意見書を提出するつもりです!」
「君の考え方はあまりにも独善的すぎるぞ!もし仮に今回、君が兵庫領事になったとしても、次は別の日本語書記官が君を飛び越して江戸の領事になるかも知れないぞ!そうなってもいいのか?」
「それでも構いません」
「……いったん公使館から領事館へ出てしまえば、もう上は望めないじゃないか。君はユースデンに次ぐ通訳の地位にある。ユースデンはオランダ語しかできないから事実上、君が通訳の首席だ。私が公使でいる間は、間違いなく君が通訳の首席であることは保証する」
「……領事の話とは別に、それは全く、そうあってもらいたいものです」
 このあとサトウは親友のミットフォードやウィリスにもこの件を相談して、いろいろと力づけてもらったりした。
 そんなこんなで、年明けの一月三日に鳥羽伏見の戦いが勃発するまで、サトウは日本の政治状況のことなどすっかり忘れて、自身の昇進問題に気を取られていたのだった。
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