第9話 賠償金問題、決着

文字数 10,914文字

 俊輔が京都から横浜へ向かった頃、江戸城ではイギリスへの賠償金支払いを「やむなし」とする意見が大勢(たいせい)となっていた。

 しかし老中(ろうじゅう)(かく)の小笠原長行(ながみち)図書頭(ずしょのかみ))が強硬に支払い反対を唱えていた。
「今、賠償金を支払ってしまっては、後々大事(おおごと)になりますぞ!断固支払いを拒絶すべきでござる!」
 この小笠原の意見に対し、江戸の“留守政府”における最高責任者の一人、御三家尾張(おわり)藩主の徳川茂徳(もちなが)が怒りをあらわにして反論した。
「イギリスが『これ以上もう待てぬ』と言って来ておるのだ!もはや仕方がないではないか!」
「イギリスが何と言おうと、ここで妥協(だきょう)してはなりませぬ!」
「うるさい!図書頭(ずしょのかみ)!これ以上の問答は無用じゃ!」

 茂徳はここで会議を打ち切って最終決定を発表した。
「これまで談判を進めてきた通り、分割払いで支払うことを認める。これが最終決定である!」
 ところが意外にも小笠原は、この最終決定を冷静に受けとめていた。
 実は小笠原にも慶喜同様、ひそかな策謀(さくぼう)があったのである。

 このあと横浜でニールと神奈川奉行の浅野との間で交渉がおこなわれ、五月三日(6月18日)に14万ドル、その後一週間ごとに5万ドルを支払い、合計44万ドルを支払うという形で合意にいたった。
 ニールとしては、これで支払いの具体的な目処(めど)がついたので大いに安心した。

 一方、京都から東海道を下った慶喜は駕籠(かご)に乗ってゆっくりと江戸へ向かっていた。
 そして(みや)熱田(あつた))宿から別途(べっと)、江戸へ急使を送った。馬で急ぎ江戸へ向かったのは水戸藩士(けん)一橋家家臣(かしん)の武田耕雲斎(こううんさい)一行であった。

 江戸城に着いた武田はすぐに小笠原長行と面会し、慶喜からの書状を伝達した。
「うむ、承知(しょうち)(つかまつ)った。一橋様にそう伝えてくれ」
 小笠原はすぐに幕議の席へ向かった。
 そして慶喜からの書状を幕閣たちに見せつけて宣言した。
「将軍後見職(こうけんしょく)の一橋様より書状がござった。賠償金の件は、一橋様が到着するまで支払いを見合わせるべし!そして五月十日をもって横浜・長崎・箱館(函館)を鎖港(さこう)すべし!」
 幕議に出ていた一同は愕然(がくぜん)とした。


 そして最初の賠償金支払い期日の五月三日(6月18日)になった。
 この日の直前、横浜の運上所(うんじょうしょ)(税関および外国人に関わる行政を(つかさど)る役所)にいる神奈川奉行・浅野のところへ江戸城から書状が届いた。
 浅野は憂鬱(ゆううつ)であった。
(支払い期日の当日に、このような無体(むたい)な話がイギリスに通ると思っておるのか、江戸の幕閣は……)
 それでも浅野は気を取り直してイギリス公使館へ向かった。

 ニールは公使館の応接室で浅野を出迎えた。
「おー、浅野サン。予定より早いじゃないか。もう賠償金を運んできたのか?」
「いや。実は……」
 浅野は(にが)りきった表情でニールに書状を手渡した。

 その書状には
「江戸の老中小笠原から支払い中止の命令が来たので支払うことが出来ない。さらに談判のため、あと二日間の猶予(ゆうよ)をもらいたい」
 と書いてあった。

 即座にニールは激怒した。
「ふざけるな!」
 そう言うや、書状をビリビリとやぶって浅野に投げつけ、部屋から出て行った。
 ニールは別室で日本に対する通告書を書いた。そしてその通告書を部下に持たせて浅野に渡した。
 そのニールの書状には
「十二時間の内に賠償金の全額が支払われないと、キューパー提督に強制手段の発動を命じる」
 と書かれていた。

 浅野は真っ青になった。そしてその書状を持ってきた公使館員に対して言った。
「この事を急いで江戸へ伝えるので、早まった行動はしないようにニール殿へお伝えくだされ!」

 このあと横浜の運上所と江戸城の間で緊迫(きんぱく)したやり取りがつづけられた。
 ところがこの時、小笠原によってさらにダメ押しがなされた。
 至急、談判のため横浜へ行く、と約束した小笠原が
「急病で行けなくなった」
 とニールに書状を送りつけたのである。

 これで日英交渉は完全に決裂した。
 ニールは「もはやこれまで」と判断してキューパー提督に一切の判断を(ゆだ)ねた。
 そしてこのことを各国公使館へ連絡し、さらに横浜の居留(きょりゅう)(みん)に対して「“非常事態”に備えるように」と勧告(かんこく)を出した。

 横浜は再び恐慌(きょうこう)(おちい)った。
 前回の騒動の時と同じように、日本人はいっせいに横浜から逃げて行った。
 もちろん江戸の町も恐慌に陥った。
 幕府は品川など海岸沿()いの住民に退去命令を出した。そして大名や武士に対して
「イギリスと戦争になる可能性が高いので銘々(めいめい)覚悟せよ」
 と通告した。

 この時キューパー提督の命令によってイギリス艦隊から二隻の軍艦が江戸へ向かって北上を開始した。
 これにより、品川を警備していた兵士たちは騒然(そうぜん)とした。ただし、この軍艦は偵察(ていさつ)のために江戸へ近づいただけだったので、これで戦闘が開始されることはなかった。

 キューパー提督は、すぐに武力行使を発動することはなかった。
 日本側から攻撃を受けない限り武力行使は一週間延期する、と宣言した。
 キューパー提督が以前ニールに伝えたように、彼は横浜・長崎・箱館の居留民を同時に守る戦力はイギリス側にそろっていないと判断していたからだ。
 そのような判断の(もと)で、彼は横浜の外国人居留民に対して
各々(おのおの)自国の船へ緊急避難するように」
 と声明を発した。

 この声明によって横浜の外国人居留民は一時パニックになりかけた。
 しかしすぐにフランスのジョレス提督が
「我々は絶対に横浜を守りきってみせる」
 と力強い声明を出したため、パニックは収まった。

 この騒動をうけてイギリス公使館ではサトウとウィリスも多忙を(きわ)めていたが、二人はお茶を飲んで休憩しながら今回のキューパー提督の処置について話し合った。
 ウィリスはキューパー提督の弱腰(よわごし)姿勢を苦々(にがにが)しく見ていた。
「キューパー提督は我が大英帝国(イギリス)威信(いしん)が傷ついても平気なのか?まったく決断力の欠片(かけら)もない」
 サトウはキューパー提督にそれほど批判的でもなかった。
「確かにちょっと優柔不断だね。でも、そのおかげでまだ戦争になってないから我々にとっては良かったじゃない」
 ウィリスは海軍士官から聞いた噂話(うわさばなし)をサトウに語った。
「提督の部下から聞いた話では、彼は一度も実戦で大砲を発射した経験がないらしい」
「それじゃあ、そんな指揮官の(もと)で戦争になったら、大変な事になるんじゃないの?」
 しかしこの二人は遠からず、そのキューパー提督の指揮の(もと)で戦争を経験することになるのである。



 一方、俊輔は四月下旬に横浜へ入っていた。
 さらに五月一日には山尾が、五月六日には聞多と野村が横浜に到着した。
 ちなみに聞多は以前書いたように志道(しじ)家を離れて井上家へ戻り、今は「井上(いのうえ)聞多(ぶんた)」と名乗るようになっている。

 この四人に加えて、洋行者がもう一人増えることになった。
 遠藤謹助(きんすけ)という男である。
 彼は上士の家柄ではあったが嫡男(ちゃくなん)(長男)ではなかった。それでも彼は以前から洋学を(こころざ)しており、横浜で聞多や山尾と一緒に壬戌丸の航海練習にも参加していた。彼は今回の洋行計画を許可した藩の重役・小幡(おばた)彦七(ひこしち)高政(たかまさ))の縁者だったので、その小幡から推薦してもらって洋行に参加することになったのだった。
 これでロンドン行きの洋行者は合計五名ということになった。

 俊輔は横浜に着いてから桂に命じられた「鉄砲の買い付け」に奔走(ほんそう)した。ところが
「これから我々外国人と日本人が戦争するかも知れないのに、日本人に鉄砲を売れる訳がないだろう?」
 このように言われ、どこの外国商社も長州に鉄砲を売ってくれなかった。
 俊輔はその(むね)を手紙にしたためて桂へ連絡した。まあ俊輔にとっては最早(もはや)どうでもいい話、とまでは言わないまでも、すでに気持ちは自分が洋行することで一杯だった。とにかく、自分が日本でやるべき仕事はこれで終わった、と安心した。

 長州藩は今回の洋行の手配を、横浜で藩の御用達(ごようたつ)をしている伊豆(いず)(くら)商店を通じてイギリスのジャーディン・マセソン商会に依頼することにした。
 五月六日、五人を代表して聞多がジャーディン・マセソン商会の横浜支店長ガウアーに会いに行き、洋行の手続きを相談した。一応その前に山尾からガウアーへ話がいっていたので大体のことは話が済んでいた。
 ガウアーは聞多に洋行の段どりを説明した。
「わかりました。五月十二日に上海へ行く船があります。それで行くことにしましょう。渡航費とロンドンでの一年間の生活費、あわせて一人千両になります」
「一人千両だと?!」
「それでもロンドンでの生活は難しいかもしれません」

 聞多は愕然(がくぜん)とした。藩からもらっていた金は全部で六百両しかないのだ。
(六百両では足りるまいと覚悟はしていたが、まさか一人千両、すなわち五千両も必要とは!しかし一旦やると決めた以上、たかが五千両がないからといって今さらあきらめてたまるか!)
「ガウアーさん、必ず五千両は用意する。これは武士の(たましい)の刀である。これをあなたに預ける。この刀にかけて金は必ず用意する」
「あなたの気持ちはわかりました。しかしこの横浜で戦争が始まってしまえば、どのみちこの話はキャンセルになりますよ」
「大丈夫!戦争など起こりはせん!我々は必ずロンドンへ行くんじゃ!」
 聞多は、何の根拠もなかったが精一杯強がって答えた。

 聞多は横浜で俊輔に相談した。金のことにかけては人一倍自信のある聞多をもってしても、今回の件はさすがに参った。何しろ時間が無いのである。
「時間さえあれば京都へ連絡して金を使う了承をとるんだが、いまやそんな時間も無い。俊輔、何か良い方策(ほうさく)はないか?」
(さいわ)い鉄砲代金としては使わなかった一万両が残っている。だがこれを使うにしても、どのみち藩の了承がいる。江戸の藩邸にはその責任者がおらん」
「俊輔。鉄砲を買う時、伊豆倉は今回の洋行について何か言ってなかったか?」
「言っていた。実はあまり良い返事ではなかった。伊豆倉の貞次郎(さだじろう)はともかく、その上の支配人、大黒屋(だいこくや)六兵衛(ろくべえ)が幕府を怖れてあまり良い顔をしていない、と」
「そうか。あと最後に残ったツテはあの人だけだな……」
「あの人?」
村田(むらた)(ぞう)(ろく)だ」
「ああ、あの火吹き達磨(だるま)のような顔をした洋学先生か」
 とにかく聞多は急いで村田蔵六のところへ向かった。


 俊輔は一人で横浜の埠頭(ふとう)の近くに出てみた。
 横浜のイギリス公使館で忙しく仕事をしていたサトウも、息抜(いきぬ)きのため横浜の埠頭の辺りへ散歩に出かけた。

 俊輔は海をみつめながら物思(ものおも)いにふけった。
(金のことは確かに心配だが、あの聞多のことだ、おそらくなんとかやり()りするだろう。一番問題なのは幕府とイギリスが戦争をするかも知れないということだ。こればかりは我々の力ではどうすることも出来ない。日本のため長州のため、そんなことは今はどうでもいい。こんな洋行の機会など二度とないかも知れないのだ。我々だけのために、今は神仏にすがってでも、なんとか戦争を回避してもらいたいと祈るばかりだ)

 あまりにも虫のいい話であろう。
 野村弥吉や遠藤謹助がそう思うのであれば、まだ話はわかる。
 けれども俊輔、聞多、山尾がそう思ったとしても神仏は「それはあまりにも虫のいい話だろ?」とあざ笑うだろう。
 なぜなら俊輔たちはこれまで御殿山を焼き討ちし、しかも京都では幕府に対して「攘夷を実行しろ!」とけしかけていた張本人(長州藩内の過激派)の一味(いちみ)だったのだから。もしここで幕府がイギリスに対して攘夷を実行したならば、それこそ「本来の目的が成就(じょうじゅ)された」と喜ぶべき(すじ)の話であろう。

 かたや、そのすぐ近くではサトウが同じように戦争の回避を祈っていた。
(まだ日本に来て一年も経っていないのに、もしこれで日英が戦争になればおそらく日本とはお別れになるだろう。ようやく日本や日本語のことが分かりかけてきたというのに、このまま日本を去るのは実に残念だ。それに、まだあの美しい黒髪の日本女性と、(だれ)一人(ひとり)として知り合いになっていないというのに)
 サトウのほうは、どうやら来日直後の頃とあまり違いはないようであった。

 二人はふと、お互いのことに気がついて目を合わせた。
 しかし特に気にも止めず、お互いそのまま別れ別れに帰っていった。
 この二人がちゃんと出会って、その時は、自分たちの祖国のために戦争回避に奔走(ほんそう)することになるのだが、それはもう少し先の話である。



 俊輔とサトウが横浜ですれ違っている頃、神奈川奉行の浅野はフランス軍艦セミラミス号を訪れ、ベルクール公使およびジョレス提督と面会していた。

 浅野はベルクールにイギリスへの仲裁(ちゅうさい)を申し込んだ。
「ニール殿が我々との交渉を完全に拒絶しているので、貴殿(きでん)らと相談する以外に(すべ)がないのです」
 ベルクールは()()なく答えた。
「あれだけイギリスに対して無礼な対応をすれば、交渉を拒絶されるのは当たり前だ」
 これに重ねるようにジョレスが言った。
「我々は横浜の外国人を守るために海兵隊を上陸させるつもりだ」
 浅野は真っ青な表情になって尋ねた。
「それは横浜を占領するという意味なのですか?」
「いや。土地の一部を()りて兵を駐屯(ちゅうとん)させるだけだ。土地の所有権は日本のままである」
 このジョレスの答えに対し浅野は汗をかきながら絞り出すように言った。
「……もし横浜で騒乱が発生した場合は、それもやむを得ないと存ずる」

 そして会談の争点は「賠償金支払い」と「攘夷実行」の話に移った。浅野は説明した。
「賠償金の支払いを取りやめたのは一橋様が朝廷から“外国人追放令”を受けて、それに従わざるを得ないからです」
 “外国人追放令”という言葉を聞いてベルクールとジョレスは怒りをあらわにした。
「外国人追放令?もし本当にそんな命令が出されれば、日本は我々によって完全に破壊されるだろう」
 浅野は弁明した。
「いえ。一橋様は“外国人の友”なので本気ではありません。そういうフリをしないと朝廷や攘夷派から責められるからそうしているだけなのです。小笠原殿も一橋様と同じです。小笠原殿は武力に訴えてでも朝廷を説得する覚悟なので、いずれ賠償金は支払われることになるでしょう」
 これに対してベルクールが答えた。
「しかしイギリスはもう武力発動の寸前だ。今日の件はイギリスに伝えるが、とにかく早く支払い手続きに入ったほうが良いだろう」
「承知しました。さっそく江戸の幕閣と相談します」
 そう答えて浅野は江戸へ向かった。

 五月八日、江戸城――。
 浅野からの報告を受けても、江戸の幕閣は支払いの決断ができなかった。
 江戸の幕閣たちは皆、弱りきっている。
 事ここに至っては「もはや支払うしかない」と誰もが分かっているのである。けれどもそれを(みずか)ら言い出してしまっては、後々自分が朝廷から責任を追及されることになる。しかも今後攘夷(じょうい)()から命をつけ狙われる可能性もある。だから誰も言い出せないのである。

 この時の幕府内の状況を福地源一郎は手記で次のように語っている。
(これ)(支払い)に同意しては後日の(わざわい)ありと恐れ、各々(おのおの)内心『誰かな(これ)(せん)(けつ)せよかし』と(いの)ったる状況にてありき」
 ところがここで小笠原が一人(ひとり)立ち上がって意見を表明した。
「こうなったら私が船で大坂へ行き、直接朝廷を説得する!」
 周囲の幕閣たちは怪訝(けげん)な表情で小笠原に問いかけた。
「今から行くのか?そなたが戻ってくるまでイギリスが待ってはくれまい?」
 しかし小笠原は周囲の幕閣たちの声を無視して一人で出て行ってしまった。
 そして小笠原は品川で幕府の蒸気船、蟠竜(ばんりゅう)丸に乗り込んだ。余談ながら、この蟠竜丸は安政五年(1858年)の日英修好(しゅうこう)通商(つうしょう)条約調印(ちょういん)の際にイギリスから贈呈(ぞうてい)されたエンペラー号という蒸気船である。


 同じ頃、神奈川宿では京都から東海道をゆっくりとやって来た一橋慶喜が到着していた。
 その慶喜を神奈川奉行の浅野が訪問した。慶喜は浅野にたずねた。
「役目大儀(たいぎ)。ところで、まさかイギリスに賠償金を支払ってはおるまいな?」
 これに浅野が答えた。
「はい。『まだ』支払ってはおりません」
 慶喜は浅野に目配(めくば)せをして、それからうなずいてみせた。
 浅野は慶喜の合図を受けとって、やはりうなずいて返事をした。

 そして慶喜は浅野に命令した。
「至急、馬を用意せよ。これから急いで江戸へ向かう。なんとしても支払いをやめさせなければならぬからな」
 慶喜は神奈川から馬で江戸へ向かって急行した。

 一方、品川で蟠竜丸に乗り込んだ小笠原は大坂へは向かわず、夜になってから横浜に入港してきた。
 小笠原は浅野を蟠竜丸に呼んで、今回の事情を説明した。
「今になっても幕閣は賠償金の支払いを(けっ)しかねている。なれど、一度支払うと明言した以上、それを履行(りこう)せねば日本の(はじ)となるゆえ、()一存(いちぞん)で支払いを実行することにした。ただし、賠償金を支払うのと同時に、この“鎖港(さこう)通告書”を各国へ通達せよ」
 浅野は小笠原の(めい)をうけて、そのままフランス公使館へ直行した。
 
「賠償金を一括(いっかつ)で支払う?!」
 ベルクールは目を丸くして驚いた。浅野は賠償金支払いの説明を続けた。
「はい。先ほど小笠原殿から一括支払いの許可が出ました。賠償金はすでに運上所に用意してあり、明日間違いなく支払います。我々はニール殿から一切面会を断られておりますので、この(むね)、貴殿からニール殿にお伝え頂きたい」
 浅野はさらに説明を続けた。
「そしてこれが先日お話しした“外国人追放令”の通告書です。小笠原殿の署名(しょめい)入りです」
「なんと!本気だったのかね、あれは!?」
「いえ。本気ではありません」
 ベルクールは困惑せざるを得ない。それで浅野が説明を加えた。
「これは朝廷や攘夷派を刺激しないために書かれた、あくまでタテマエに過ぎないものです」
「とにかく、我々はこのような通告書には断固として抗議する!」
「それこそ我々の望む所なのです。朝廷や攘夷派を説得するために、断固とした抗議声明を通告してください」
 さすがにベルクールは(あき)れた表情で答えた。
「なぜ、そこまで回りくどいやり方をするのか?実力で京都をおさえたほうが手っ取り早いではないか」
 これに対し浅野は力強い表情で答えた。
「実はその方策(ほうさく)も現在計画中なのです。近いうちに京都へ兵を送る予定なので、いずれ英仏両国に援助を要請(ようせい)するつもりです」

 とにかくベルクールは、この浅野からの回答をイギリス公使館のニールへ報告しに行った。
 ニールはベルクールから話を聞くと呆れた表情で感想を述べた。
「全くふざけた奴らだ。日本人という連中は。しかし無駄な血を流さずに、しかも一括(いっかつ)で賠償金を獲得できたのはもっけの幸いだった。あとは薩摩の賠償金だけだが幕府が支払ったのだから、まあおそらく薩摩も素直(すなお)に支払うだろう。とにかく、これで一件落着だな」

 44万ドルの支払い作業は翌日から三日間かかった。
 すべて銀貨で支払われ、清国(中国)人の貨幣(かへい)検定人が銀貨の検査を担当した。これらの賠償金はイギリス艦隊のユーリアラス号、エンカウンター号、バール号に三分割して積み込まれたのであった。


 こうして小笠原の独断によって急転直下(きゅうてんちょっか)賠償金は支払われたのだが、これは最初から慶喜と小笠原が裏で筋書きを描いていた、とも言われている。おそらく神奈川奉行の浅野も途中からその筋書きを知らされていたのだろう。

 慶喜は元々(もともと)開国主義者である。
 また小笠原も京都にいた時
勅命(ちょくめい)とあらば利害(りがい)得失(とくしつ)も考えずに攘夷を受け入れるのは(おんな)子供(こども)のやり方で、将軍家のやり方ではない」
 と幕閣へ諫言(かんげん)したほどの人物だった。朝廷に従ったまま攘夷を実行するような人物ではない。

 しかし慶喜の父は尊王攘夷の元締(もとじ)めだった水戸の烈公(れつこう)・徳川斉昭(なりあき)で、母は公家の有栖川宮家(ありすがわのみやけ)出身の貞芳院(ていほういん)である。慶喜は血筋から言っても朝廷尊崇(そんすう)の念が(あつ)く、勅命による攘夷鎖港(さこう)命令には逆らえない。
 それに加えて、幕府があらかじめ期日を定めて賠償金を支払うとなると、それを力ずくで阻止しようとする連中が現れる可能性もあった。慶喜の周囲には水戸から来ている家臣も大勢いる。それゆえ、策謀(さくぼう)は極秘のうちに進めなければならなかったのだ。

 とにかくこれで、幕府の賠償金支払いの件は落着した。
 ただし「外国人追放令」および「幕府(小笠原)の京都への出兵計画」さらには「薩摩藩の賠償金支払いの件」の話がまだ残っている。しかしながらそれらは次回以降で語ることになろう。
 今はこの騒ぎと時を同じくして横浜で苦闘している俊輔たちの様子に目を向けなければならない。



 聞多は横浜で村田蔵六と面会した。
 村田は元々憮然(ぶぜん)としている表情をさらに憮然とさせて、聞多にたずねた。
「このように騒がしい横浜へ呼び出して、一体何のご用ですか?」
「村田洋学先生。我々五人はロンドンへ洋行することに決めました」
「そうですか。それは素晴らしいことです。これからは英学をおさめるのが一番よろしい」
「ですが、洋行費用として五千両が必要なのです。なんとか先生に藩から五千両を引き出して頂きたい」
「五千両!?そのような大金を私が引き出せるはずがありません」
「私はイギリスの商人に刀を預けて約束してきました。五千両が手に入らなければ私は切腹して死ぬ覚悟です!」

 蔵六は黙ったまま何も言わなかった。聞多は嘆願(たんがん)をつづけた。
「あるいは、勝手に村田先生の名目(めいもく)で伊豆倉から五千両を引き出し、あとは村田先生が小田原あたりで誰かに殺された、ということにしてしまえばどうか?と、いきり立っている同志もおります」
 これにはさすがに村田もギョッとした。
 なにしろ聞多、俊輔、山尾は藩内でも札付きの連中なのである。この連中なら確かにそれぐらいのことはやりかねない。

 しかしそう思いながらも、なぜか村田はこの時、目の前にいる聞多のことが(あわ)れに見えた。
 せっかく横浜まで来て、洋行を目前にしながら苦心してあえいでいる、この五人の若者たちをどうにかしてロンドンへ送りこんでやりたい。村田は純粋にそう思った。
「わかりました。あなたと一緒に伊豆倉へ行って貞次郎さんに頼んでみましょう」

 それから村田と聞多は伊豆倉の貞次郎を訪れ、鉄砲買い付け金の一万両を担保(たんぽ)になんとか五千両を貸し出してもらいたいと頭を下げた。特に村田の大きな頭を下げたのが()いたのだろうか、貞次郎は支配役の大黒屋六兵衛の説得を引き受けた。
「まあ周布様とのお約束もございますから。天野屋(あまのや)利兵衛(りへえ)じゃございませんが『貞次郎も男でござる!』。なんとか六兵衛さんを説得してみましょう」
 結局、万一問題が起きた時は長州藩では村田蔵六が、大黒屋側では佐藤貞次郎がすべて責任をとるということで、五千両が貸し出されることになった。

 これで洋行費用の問題は解消され、さらに日英間の戦争も回避され、ようやく洋行計画が軌道(きどう)に乗った。

 俊輔は五月十日付けで父十蔵宛の手紙を書いた。
 その手紙の中で、京都で会っていた時に言えなかったことを釈明(しゃくめい)した。
「今の急務は外国の事情を知り、海軍の勉強をすることです。長州藩のお役に立つため三年間だけ留学をお許し願いたい」
 手紙にはそういった内容のことを書いたのだが、ここで正直に「五年」と書かず「三年」と書いたのは、やはり家族を心配させたくなかったからだろう。

 五月十一日の夜、三日間におよんだ横浜での賠償金の積み込み作業が終わりかけていた頃、同じ横浜の佐野茂(さのも)という料亭で五人の留学生および村田蔵六、佐藤貞次郎が送別の(うたげ)を開いた。
 生きて帰国できる保証もない彼らにとっては「これが日本で飲む最後の酒になるかも知れない」と感じたか、あるいは「なに、海外といってもどれ程のことはあるまい。五年後には故郷に(にしき)(かざ)るのだ」と思って飲んだか、少なくとも俊輔や聞多のような楽天家は後者であったろうと思われるが、その予想は大きく外れることになる。

 さらにこの日、五千両借用(しゃくよう)の経緯を書状に書いてまとめ、聞多を筆頭に五人の名前で署名(しょめい)し五月十一日付けで藩に提出した。おそらく書状を預かったのはこの宴の席にいた村田であっただろう。
 この書状の中で、藩から勝手に大金を()()りしたことを謝罪し、その罪は万死(ばんし)に値するが志を果たせない場合は生きて帰らない、決死の覚悟でおこなった非常手段だったのです、と哀訴(あいそ)している。
 さらに書状の終わりのところでは「()きた器械(きかい)を買ったと思ってお(ゆる)し願いたい」とも書かれている。
 俊輔はこの宴の中で歌を()んだ。
丈夫(ますらお)の (はじ)(しの)びて行く旅は 皇御国(すめらみくに)(ため)とこそ知れ」
 この時の俊輔にとっては、この洋行も尊王攘夷の延長線上にあったということである。

 そろそろ宴も終わりに近づいてきたので村田が五人に対して最後の訓示(くんじ)を述べた。
「諸君らは西洋の“技術”を身につけた『()きた器械(きかい)』となりなさい。“技術”こそが物事を解決するのです」
 そう言って村田は、これ以降のジャーディン・マセソン商会とのやり取り、および外国船に乗り込む手配を貞次郎に委任(いにん)した。

 貞次郎は五人を引き連れ、夜の横浜の街路(がいろ)早足(はやあし)で進んだ。運上所の役人に密航がバレれば全員死罪は(まぬが)れない。貞次郎は慎重に五人を案内し、無事、彼らをジャーディン・マセソン商会の重役宅へ引き入れた。
 そしてそこで五人は(まげ)を切り落とし、用意してあった洋服に着替えた。
 俊輔たちは切り落とした髷を貞次郎に(たく)した。
「すっかり厄介(やっかい)をかけた。あと、これは最後の願いだ。我らの(まげ)を村田洋学先生に形見(かたみ)として渡してくれ」
「かしこまりました。お気をつけていってらっしゃいまし」
 そう言って貞次郎は去って行った。

 夜中の零時ごろ、五人はジャーディン・マセソン商会のガウアーの手引きで、重役宅の裏手の海岸からカッター(はしけ船)に乗り込んで沖の蒸気船へと向かった。上海行きのチェルスウィック号という蒸気船である。
 その時、五人のうちの誰かが
「まるで夜逃げするみたいだな……」
 とつぶやいた。
 俊輔は心の中で「何を言うか」と思った。
(お主らは松門ではないから気にも()めまいが、松陰先生が九年前に果たせなかった夢をワシがやり()げるんだ!)
 五人は無事、チェルスウィック号に乗船することが出来た。しかし船員たちは幕府に密航がバレることを怖れ、用心のために五人を石炭(せきたん)置き場に押し込んだ。

 ともかくも、こうして長州の五人の若者は密航に成功したのであった。

 正式な記録として残っているものでは(また事故で漂流した例などを除けば)この翌年に新島(にいじま)(じょう)が箱館からアメリカへ密航し、更にその翌年には薩摩の五代(ごだい)(さい)(すけ)(とも)(あつ))、松木(まつき)弘安(こうあん)寺島(てらしま)宗則(むねのり))などがヨーロッパへ密航することになるが(いわゆる薩摩スチューデント)、この「長州ファイブ」の密航は、他と比べると極めて早い時期に敢行(かんこう)されている。
 それはやはり「黒船密航を試みた吉田松陰を出した長州藩だからだろう」と筆者などは安直に考えてしまうのだが、ちょっと安直すぎるだろうか。

 しかし、危険を(おか)して海外へ向かう五人の行動とは裏腹(うらはら)に、この二十四時間ほど前(五月十一日の午前二時頃)彼らの故郷長州の下関(しものせき)では、五月十日の攘夷期日に合わせてアメリカ商船に砲撃を開始していたのであった。

 彼らはまだ、その事を知らなかった。
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