第33話 最後の攘夷決戦

文字数 11,551文字

 堺事件が決着したことによって、上方(かみがた)に残っていたイギリス、フランス、オランダの三ヶ国代表は「京都での(ミカド)との謁見(えっけん)」に(のぞ)むことになった。

 イギリスとオランダは元より京都への招待を受諾(じゅだく)する方針だった。
 問題はフランスのロッシュの対応である。
 堺事件が起きる前までは、ロッシュは京都への招待、すなわちそれは「新政府を承認する」という事とほぼ同義になる訳だが、これに強く反対していた。

 しかしやはり、堺事件によって一変して立場が強くなったロッシュは、新政府からの京都への招待を受けいれる方針に転換した。ただし、一応建前上(たてまえじょう)
「京都での謁見をイギリスに独占させる訳にはいかないから、仕方なく行くのだ」
 などと述べているが、もし堺事件がなければ、フランスはいずれ頭を下げてでも天皇に謁見させてもらわないといけなくなるところだったので、まったくもって「(わざわい)転じて福となす」という形になった。


 そして三ヶ国の京都での謁見は二月三十日と決まった(誤字ではない。旧暦なのでこういう日付もある)。
 そこでその数日前から三ヶ国の代表団は、大坂から京都へ向かって順次出発して行った。

 京都に西洋諸国の代表団が入るのは初めてのことである。
 この少し前にサトウ、ウィリス、ミットフォードなどのイギリス人が入京してはいるものの、これはほとんど個人レベルの話で、しかも薩摩藩や土佐藩が独自で招待しただけの話だった。

 ところが今回の入京は、なんと「御所で(みかど)(天皇)と謁見(えっけん)する」のである。
 これはまったく、多くの日本人にとっては驚天(きょうてん)動地(どうち)の話だった。

 それゆえ当初は
「せめて大坂で謁見するという形にしてはどうか?」
 という意見もあった。
 しかしこの謁見計画を外国人の側から支援してきたサトウは
「大坂での謁見では正式な謁見にならないので京都で謁見すべきである」
 と強く主張してきた。
 そして「旧弊(きゅうへい)一新(いっしん)」の気持ちが強い大久保一蔵が強く主張して、京都での謁見が決まった。

 けれども朝廷内ではまだまだこの謁見に多くの公家たちが反対していた。
 おそらく岩倉具視や三条実美(二人とも幕府時代には長らく御所から追放されていた人物だが)などを除けば、ほとんどの公家が反対していたと思われる。

 そもそも幕末の攘夷の発信源は孝明(こうめい)天皇であり、朝廷だった。
 だからこそ、これまで多くの志士たちが尊王攘夷に(じゅん)じて(たお)れてきたのである。

「外国人が御所で帝に謁見するなど、もし久坂玄瑞が生きていたら何と言ったであろうか?」
「尊王攘夷の長州が開国の幕府に勝ったのに、その結果、外国人が御所で帝に謁見することになろうとは夢にも思わなかった」
 と、この動乱の時代を生きのびてきた尊王攘夷の志士たちは言いたかったであろう。

 それは朝廷内で薩長を応援してきた多くの公家たちも同じ気持ちだった。
 そういった公家たちはしきりに反対工作をおこなったものの、大久保や岩倉たちによってそれらの反対工作はことごとく潰されていった。

 そして今まさに、謁見は実現されようとしていた。


 三ヶ国の宿舎はイギリスが()恩院(おんいん)、フランスが相国寺(しょうこくじ)、オランダが南禅寺(なんぜんじ)と決まった。
 サトウたちイギリス公使館員および騎馬護衛兵の一行は二月二十八日、東山の知恩院に入った。
 京都の人々は外国人の一行を見るのが初めてだったので(みやこ)大路(おおじ)には多くの見物人がつめかけた。サトウの日記によると「彼らはいたって静かに見守っていた」と書かれている。

 翌二十九日、サトウやパークスは三条実美、岩倉具視、山階宮(やましなのみや)など有力な公家の屋敷を挨拶に回った。
 挨拶が終わって宿舎へ戻ると伊達宗城(むねなり)、後藤象二郎、それに俊輔がサトウやパークスたちに会いに来た。翌日の謁見の段取りを打ち合わせるために来たのだが、ここで俊輔たち日本側は驚くべき話を聞かされた。

「サトウは(ミカド)謁見(えっけん)するメンバーに入ってないので、通訳は日本側に任せる」
 とイギリス側から言われたのである。

 日本側からすれば、もちろんパークスの前ではそんなことは言わなかったが
「サトウこそが『英国策論』を書いた一番有名なイギリス人で、イギリス公使館の最重要人物である」
 と思っていたので皆が驚いた。
 イギリス側で謁見の場に参列するのはパークスとミットフォードだけである。
 ただしサトウやウィリスといったその他の公使館員たちも御所の控えの間には随行することになっている。

 この時サトウが謁見の場に加わらなかった理由は定かではない。
 後年のサトウやミットフォードの著書では
「この頃のサトウは本国イギリスの宮廷(きゅうてい)に仕えた経験がなかったから帝に謁見する資格がなかったのだ」
 と書かれている。無論ミットフォードは上流階級なのでその資格があった。

 要するに身分的な問題ということであった。
 けれどもこの二ヶ月後、実は大坂でサトウは天皇に謁見することになるのである。この大坂でのケースはいろいろと細かな事情が異なるにせよ、とにかく、その時は謁見するのである。
 この大坂での謁見の時にサトウは
「正式な礼装用の服がなくて困った」
 と書いているので原因はそのあたりにあったのかもしれないが、この翌日の謁見に加わらなかった本当の理由はよく分からない。多分パークスの気まぐれか何かであろう、と筆者は思う。

 結局、式の次第(しだい)は次のように決まった。
 天皇((のち)の明治天皇)が紙に書いてある文章を読み上げ、続いて山階宮(やましなのみや)がそれを再度読み上げる(これは天皇がまだ十六歳なのでこのような形式になった)。

 次にそれが英訳されたものを通訳の俊輔が読み上げ、その英文をパークスに手渡す。
 そしてパークスが答辞(とうじ)を述べて、それを通訳の俊輔が日本語に訳して天皇に言上(ごんじょう)する、という手順である。


 普通に考えれば、熟練(じゅくれん)の通訳者であるサトウが晴れの舞台をつとめるべきだ、と誰もが考えたはずだった。
 しかし俊輔がそれに取って代わる形となった。
 この通訳の任を俊輔につとめさせようとしたのは、木戸だった。木戸が新政府の上層部にはたらきかけてこのような形になったのである。

 打ち合わせが終わった後、俊輔は一人(ひとり)知恩院に残ってサトウと話をした。
「先ほど岩倉さんがワシに言ってました。かつては自分も攘夷だったが今は開国に一変した、イギリスの朝廷支援には感謝している、などとあからさまに言い過ぎて、イギリスは気分を害さなかっただろうか?と」
「いいえ。我々は率直(そっちょく)な態度のほうが好きなのです。のらりくらりとまわりくどく言われては以前の幕府と何も変わりません」
「それにしても驚きました。あなたのように英語も日本語も正確に話せる人が通訳をやらずに、私のような人間が通訳をやることになるとは。まったく心苦しい限りです」
「政治の世界では通訳の技量などより重要なことがいくらでもあるのです。伊藤さん、(ミカド)の通訳という大任をしっかり果たしてください」
「私のような卑賎(ひせん)な身で主上(しゅじょう)のお(そば)近くにお仕えするなど、誠に(おそ)れ多いことです」
「兵庫知事になり、今度は帝の近くに仕えるようになって、まるで伊藤さんの大好きな太閤秀吉のような大出世ですね」
「いやいや、滅相(めっそう)もない。そんなに良い事ばかり続きませんよ。政治の世界は一寸先は闇です。何が起こるか分かりません」

 サトウは「驚きと喜びと嫉妬が入り交じった複雑な気持ち」で、俊輔を見つめた。
(伊藤は私を(はる)かに追い越して行ってしまった。とはいえ、日本のような若い国と大国イギリスを比べる事自体が間違いなのだ。若い彼らはこれからますます進歩して行くだろう。おそらく我々外国人は日本から退場していくことになるだろう……)
「伊藤さん。またイギリスへ行きたいですか?」
「イエス!今度こそもっとしっかりイギリスを見て回りたい。そして五十年、百年先には日本をイギリスのような強い国にしたい」
「五十年、百年先ですか」
「夢のような話かもしれないが、こんな私でも主上(しゅじょう)のお側近くにのぼれるようになったのだから、将来もしかしたら、日本がイギリスに追いつくことだってあるかも知れませんよ」
「我が大英帝国は百年先でも世界一ですよ」


 翌、謁見当日、サトウたちイギリス代表一行は午後一時に知恩院を出発して御所へ向かった。

 知恩院を出ると祇園(ぎおん)北部をまっすぐ西へ向かって進み、白川(しらかわ)を渡って新橋通りを進む。そして(なわ)()通り(現、大和(やまと)大路(おおじ)通り)を右へ曲がって北上し、それから三条大橋を渡る予定となっていた。
 このルートは結構狭い道が続き、イギリス人一行と家屋(かおく)の距離はかなり近い。

 公使館付き騎馬隊十数名と中井弘蔵(こうぞう)(のち)の弘。元薩摩藩士で後藤の関係者)が一行の先頭を進み、続いてパークスと後藤象二郎が進み、さらにサトウが続いた。全員騎馬である。
 その後方には陸軍歩兵部隊の数十名が徒歩で進み、ミットフォードやウィリスが駕籠(かご)で続いた。さらに一行の周囲を日本側の護衛役として肥後藩兵三百名が固めていた。

「狂信的な憂国の志士の襲撃をうける番が、いよいよ我々に回ってきた」
 とサトウは著書で書いている。

 列の先頭が縄手通りに突き当たり、右へ曲がってしばらく行くと、左右の家屋(かおく)の陰から一人ずつ白刃(はくじん)を振りかざした男が飛び出して来た。

 左側からは短髪で僧侶のような三十歳ぐらいの男が、右側からは総髪で医者のような二十歳ぐらいの男が、同時に先頭の騎馬隊に襲いかかった。
 二人はとにかく狂ったように刀を振り回し、イギリスの騎馬隊に斬りかかった。

 不意を突かれたイギリスの騎馬隊は大混乱に(おちい)った。
 しかし護衛の肥後藩兵たちは全くやって来る様子はなかった。

 中井はすぐに馬から飛び降りて、右側の医者のような男に斬りかかっていった。
 斬り結んでいるうちに中井は礼装用の長袴(ながばかま)(すそ)がからまって仰向(あおむ)けに転倒した。そこで相手は中井の首を狙って斬りおろしたが、とっさによけたので頭部の浅手(あさで)で済んだ。
 と同時に、中井は相手の胸に刀を突き刺していた。相手はひるんで中井に背を向けた。

 この時、列の中団から後藤が駆けつけて来た。後藤はその男の背中に斬りつけ、男は地面に倒れた。
 そこへ中井が「チェストー!」と叫んで首に一撃を加え、その男の首をはねた。


 まだ道を曲がっていなかったサトウは、右折先で何が起きているのか分からなかった。
 とはいえ何度か叫び声が聞こえ、しかも列が混乱している様子からして、何かただならぬ事が起きているのは分かった。

 そう思った瞬間、列の左側から血刀(ちがたな)を振りかざした男がこちらへ向かって猛進(もうしん)して来るのが見えた。
 その僧侶のような男は、傷と返り血で顔が(しゅ)に染まり、恐ろしい形相(ぎょうそう)をしていた。

 その男はなぜか、彼の標的であるはずのパークスがすぐ近くにいるのに気づかず、サトウに向かって一直線に走って来た。

 男がサトウに斬りつけて来た瞬間、サトウはとっさに馬首をその男へ回した。
 斬撃(ざんげき)は馬の首に当たって、サトウの体から()れた。

 そして男はサトウの(そば)を通り過ぎて、さらに後方のイギリス人に斬りつけながら列の後方まで走って行った。

 あまりに唐突過ぎて死の恐怖を感じる暇もなかったが、まったく危機一髪のところであった。
 薩英戦争と下関戦争以来、サトウにとっては三度目の命拾いということになった。


 列の後方で駕籠に乗っていたミットフォードは異変に気づくとすぐに駕籠(かご)から飛び降りた。
 そして駕籠を横にして道をふさぎ、男の逃げ道を(さえぎ)った。

 そこでイギリス陸軍歩兵部隊の隊長が兵士たちに「その男を斬れ!」と命令した。
 兵士たちは数人がかりで男を銃剣で突いた。男は何ヵ所か傷を受け、刀もはじかれて落としてしまった。

 すると男は家屋の中に飛び込んで逃走をはかり、兵士たちがその後を追った。
 このあと男は家屋の中庭で(つか)まった。拳銃の弾があごに当たって意識不明となったところで逮捕されたのである。

 この襲撃で十名のイギリス兵と中井が負傷し、さらに馬丁(ばてい)が一名負傷した。死者が出なかったのは不幸中の幸いだった。

 しかし当然のことながら、この日の謁見は中止となり、イギリス代表団は知恩院へ引き返すことになった。
 怪我(けが)(にん)の治療にはウィリスや軍医が当たり、またパークスは御所で待っているフランス、オランダ両代表に手紙を書いて事件の発生を伝えた。


 この時すでにフランス代表団とオランダ代表団は御所の(ひか)えの()(虎の間)に入って、イギリス代表団の到着を待っていた。
 これらの代表団を接待(せったい)するのは俊輔の役目だった。俊輔は彼らに茶菓子やタバコなどを出してもてなしていた。

 ところが肝心のイギリス代表団の到着が遅い。
(イギリスは一体どうしたのだ?途中で何かあったのだろうか?)
 と俊輔は心配した。

 そこへパークスが書いたロッシュ宛の手紙が届き、同時に護衛役の肥後藩兵からもイギリス代表団が浪士に襲われて多数の負傷者が出た、との(しら)せが届いた。

 俊輔は愕然(がくぜん)とした。が、それと同時に
(これをこのままロッシュたちに伝える訳にはいかない)
 と思った。

 急いで上司の山階宮と伊達宗城のところへ行って、次のように報告した。
「今は仏、蘭の両代表に事件のことを知らせるべきではありません。もしこの事を知れば謁見式を辞退すると言い出すかもしれません。このまま仏、蘭両国の謁見式だけ先にやってしまいましょう」
 山階宮と宗城はこの俊輔の提案を了承した。

 ともかくも、いよいよ俊輔が謁見式で通訳をつとめる晴れの舞台がやってきた。
 最初に紫宸殿(ししんでん)の謁見の間に呼ばれたのはフランス代表だった。

 真ん中で天皇が椅子に座り、その左右に山階宮、岩倉、三条たちが(ひざまず)いていた。
 段取りは予定通り、用意した書面を天皇と山階宮が読み上げ、それを俊輔が英語で読み上げた。
 ただしこのフランス代表にはロッシュ専属のフランス語通訳(塩田(しおだ)三郎(さぶろう))が同行していたので、ロッシュとのやり取りはすべて塩田を介しておこなわれた。
 ちなみにこの謁見に同行したトゥアール艦長は、通訳をしていた俊輔の服装(直垂(ひたたれ))について「彼はまさにピエロの格好をしていた」と著書に書いている。

 フランスの儀式が終わると、次にオランダ総領事のポルスブルックが謁見の間に呼ばれた。
 謁見の儀式はフランスと同じだった。ポルスブルックの報告書によると、やはりこの時も俊輔が英語で通訳をしたようである。

 この日の謁見式が終わると宗城や東久世といった外国事務総督はもちろん、有力な公家や大名が続々と知恩院のイギリス宿舎を慰問(いもん)に訪れた。当然のことながら俊輔もこれに同行した。

 知恩院は野戦病院と化していた。
 ウィリスや軍医たちが負傷者の治療に当たったところ、多くは重傷化を避けられそうだったが、片腕が再起不能になっている者が二名いた。

 捕まった犯人は三枝(さえぐさ)(しげる)という男で、彼もまたウィリスの治療をうけた。
 また首を切られた犯人は朱雀(すざく)(みさお)という男だった。
 二人とも生粋(きっすい)の攘夷家で、鳥羽伏見の戦いの時は陸援隊の流れをくむ隊に所属して、高野山での挙兵に参加していた。

 三枝は捕まってからは神妙(しんみょう)になり
「外国人を今まで一度も見たことがなかった。こんなに親切とは知らなかった。事前に知っていたらこんな事はやらなかっただろう。同僚(朱雀)が死んだことは知っているので自分の首も早くはねてほしい」
 などと語った。

 ウィリスの手紙によると、三枝は斬り込むに当たって書状(おそらく“斬奸状(ざんかんじょう)”であろう)を用意しており、そこには
「京都の町が外国人医師によって(けが)された」
 と書いてあったらしい。
 要するに三枝たちが狙っていたのはウィリスだったのである。
 そのウィリスは、三枝を治療した際に彼と親しく話もしており
「自分をつけ狙っていた暗殺者と話をするのは不思議な感じがする」
 と故郷への手紙で書いている。

 三枝と話をしたのはウィリスだけではない。ミットフォードも彼と話をしている。
 そしてミットフォードも
「自分を殺そうとしていた相手と話をするのは奇妙な感じがするものだ」
 と著書で書いている。さらに
「犯人はサトウが日本語学者として有名なことは知っていたが、サトウが何人(なにじん)なのかは知らず、また自分が斬り込んだ相手も何人(なにじん)なのか知らなかった」
 と書いている。

 このウィリスとミットフォードの記述から分かることは、おそらく三枝たちはこの直前にサトウやウィリス、それにミットフォードが入京したことを聞きつけて、外国人が京都へ入ったことに憤慨(ふんがい)して斬り込みを決意したのだろう。

 パークスは今回の事件をうけて日本側に次のような声明を伝え、猛省(もうせい)(うなが)した。
「攘夷思想によって外国人を襲撃した者を処罰する際は、神戸事件や堺事件のような“切腹”を命じるのではなく、“斬首”など不名誉な死罪を科すことが必要である。今回の事件は私に対する以上に、(ミカド)に対する重大な罪であると認識させるべきである」

 新政府は岩倉、三条たちの連名でパークスに謝罪状を提出し、負傷者への慰謝料の支払い、三枝の斬首などを確約した。
 ちなみに勇敢に戦った後藤と中井には、後にイギリス政府から記念の(つるぎ)(おく)られた。


 俊輔は木戸とともに知恩院のサトウの部屋を訪れた。
「あなたに怪我(けが)がなくて本当に良かった。我が国の狂信者たちが起こした暴挙(ぼうきょ)に心からお()びします」
「まさに間一髪(かんいっぱつ)でした。下手(へた)をすれば今頃死んでいたか、腕の一本も無くなっていたでしょう。神に感謝します」
 木戸が憂鬱(ゆううつ)そうな表情で言った。
「バカな奴らだ。せっかく幕府を倒したというのに。なぜそこで満足しなかったのか。あのように古臭い攘夷を信じている狂信者がまだいたのか」
 俊輔は過去の自分を反省するかのように、つぶやいた。
「まあ、今この場で言うべきではないのかも知れませんが、少し気の毒ではありますな。無知の罪というやつです。もし私が洋行していなかったら、ひょっとすると今頃あんなふうになっていたかも知れません」

 木戸は攘夷の思想が無意味でなかったことを分かっている。彼らの無鉄砲で命知らずな行動があったればこそ、幕府は倒れたのである。
 また大久保一蔵がよく言っている「外国人を打ち払うといった目先の小攘夷よりも、富国(ふこく)強兵(きょうへい)を進めて西欧と同じ国力をつける、すなわち大攘夷こそが重要である」という考え方もある。
 けれども、そういったことを外国人のサトウの前で言うのは、それこそ今この場で言うべきではないような気がしたので、別の言い方をした。
「……我々長州や薩摩はこれまで散々攘夷を利用して幕府を苦しめてきたが、今度は我々が反対勢力からいろんな口実で苦しめられることになるだろう。とにかく、すぐにでも外国人への襲撃は厳罰(げんばつ)(しょ)(むね)を広く世間に知らしめることだ」

 サトウは冗談でも言うようにおどけて言った。
「まったく世の中、不公平です。彼らを利用したあなたたちが襲われるのなら自業自得(じごうじとく)でしょうけど、なぜ私が襲われなければいけないのですか?私は(ミカド)や朝廷のためになることをずっとやってきたというのに。訳がわかりません」
 俊輔は感慨深(かんがいぶか)げに言った。
「世の中は訳のわからないことばかりですよ。外国人が御所で帝と謁見し、私が主上(しゅじょう)のお側でお仕えし、狂信者たちが外国人の列に斬り込む。今日のこんな話を、地下の松陰先生や来原さんに話してもおそらく信じてもらえないでしょうね」
 もう一度サトウがおどけて言った。
「伊藤さんが帝の英語の通訳をやってることが一番信じてもらえないと思いますよ」
「まったくだ」
 と俊輔と木戸が笑って答えた。
 ここで一同からハハハと笑い声があがりそうになったのだが、多数のイギリス人負傷者が近くに横たわっていたので、三人は笑うのを遠慮した。

『一外交官の見た明治維新』(岩波書店、訳・坂田精一)には次のような一節がある。
「この明らかに英雄的な気質をもった男が、祖国をこんな手段で救うことができると信ずるまでに誤った信念をいだくようになったのを遺憾とせずにはいられなかった。しかし日本の暗殺者の刃に(たお)れた外国人の血も、またその報復として処刑された人々の生命も、やがて後年その実を結んで、国家再成の樹木を生ぜさせた大地に肥沃(ひよく)の力をあたえたのであった」

 このいわゆる「パークス襲撃事件」を最後にして、これ以降外国人を狙った「攘夷襲撃事件」は完全に影をひそめることになった。

 なにしろ外国の代表団が御所で天皇と謁見する時代となったのだ。
 攘夷が消滅するのは当然のことであった。

 ここまで実に長かったが、とうとう攘夷の火が消えた。消えてしまった。


 三月三日、このめでたい節句の日に、イギリス代表団の謁見式が改めて御所で行なわれることになった。

 謁見(えっけん)()にのぼったのはパークスとミットフォードのみで、サトウやウィリスは控えの間で待機していた。
 謁見の形式はフランスやオランダの時と同じで、天皇の言葉を俊輔が通訳した。それは次のような内容だった。
「貴国の帝王(ていおう)(ヴィクトリア女王)がご健勝であることを願ってやみません。今後両国の関係がますます親密となり、永久不変に続くことを希望します」

 ただし、この日のイギリスの謁見についてのみ、次の一文も追加された。
「去る二月三十日、貴殿(きでん)参内(さんだい)の途中、不慮の出来事が起きて式典が延期となったのは深く遺憾に思います。本日改めてお会いできたことは大変喜ばしいことです」

 こういった天皇の言葉を俊輔が通訳して、パークスとミットフォードに英語で伝えた。
 これに対するパークス公使の答辞(とうじ)
「陛下、女王陛下は健在でございます。陛下がお尋ねの両国懇親(こんしん)の件について我がイギリス政府に報告することは私の大いなる喜びとするところです……云々(うんぬん)
 といった(本当はもっと長文の)外交儀礼的な返答がなされた訳だが、これも俊輔が日本語に通訳して天皇に言上(ごんじょう)した。

 これは幕末の最後を(かざ)る、実に象徴的な場面である。

 以後、伊藤俊輔こと伊藤博文は、この明治天皇とともに明治日本の政治を牽引(けんいん)して行くことになる。

 一方、このとき御所の控えの間で待機していたサトウは、明治日本の政治の世界にそれほど大きく関わることはなく、以後「学者的外交官」の道を歩んで行くことになる。


 この象徴的な場面をもって、伊藤俊輔の物語を終了にしたいと思う。
 そしてサトウの物語も、基本的にこれで終了である。

 ただし、サトウのほうは最後に大きめの余談が一つ残っている。
 この十数日あとに江戸でおこなわれる西郷と勝の交渉、いわゆる「江戸開城」の話である。

 この江戸開城には
「サトウやパークスが関わっていた」
 と、よく言われることがある。
 いわゆる「パークスの圧力」というやつである。
 実際のところサトウやパークスが江戸開城にどれほど関わっていたのだろうか?

 この『伊藤とサトウ』の小説で、サトウの物語は基本的に『遠い崖』(萩原(はぎわら)延壽(のぶとし)、朝日新聞社)をベースにしてきたので、ここでもやはり『遠い崖』7巻「江戸開城」の内容を紹介したいと思う。
 サブタイトルに「江戸開城」と付いているだけあって、この中ではその当時のサトウやパークスの動きが詳しく紹介されている。

 京都での謁見が済んだ後、サトウやパークスたちイギリス公使館員は(ミットフォードだけ上方(かみがた)に残して)横浜へ帰った。
 横浜に着いたのは三月八日のことでパークスは三ヶ月ぶり、サトウは四ヶ月ぶりの横浜帰還となった。

 サトウはさっそくパークスから命令を受けて、翌三月九日に江戸へ出て来ることになった。
 またこの頃、駿府(すんぷ)(現、静岡市)では幕府からの使者、山岡鉄太郎(てつたろう)(鉄舟)が西郷と会って降伏条件の談判をしている。

 江戸総攻撃の予定日は三月十五日である。
 有名な西郷と勝の高輪および田町での談判はその前日と前々日、すなわち三月十三日と十四日なので、この段階でもう数日しか残っていなかった。
 サトウが江戸総攻撃の前に西郷や勝と連絡を取るためには十日、十一日、十二日の三日間しかなかった訳である。もちろん、それまでお互いがどこで何をしていたのか?ということも知りようがなかった。

 この『遠い崖』7巻「江戸開城」が出版される以前は、主に『史談会速記録』の渡辺(わたなべ)(きよし)の談話「江城攻撃中止始末」を元にして
「西郷が江戸総攻撃を中止したのは三月十三日にパークスの圧力があったからで、それを仕組んだのはサトウと親しかった勝である」
 といったような説が多く聞かれた。

 しかしこの『遠い崖』7巻「江戸開城」の解説では
「サトウは西郷・勝会談の情報を事前につかんではおらず、勝とも会ってない。パークスが新政府軍の渡辺清たちに激怒した(圧力をかけた)のは三月十三日ではなくて三月十四日である。したがって西郷・勝会談の前にパークスの圧力が届いた可能性は低い」
 としている。ただし
「西郷がパークスの圧力を受けなかった訳ではなく、江戸総攻撃を唱える新政府内の主戦派(板垣退助など)を(おさ)えるために西郷がパークスの圧力を「利用」したのであって、パークスの圧力に従属(じゅうぞく)させられた訳ではない」
 とも解説している。
 実際西郷は板垣や京都の主戦派を抑えるために「パークスも江戸総攻撃や慶喜を殺すことに反対している」といった理由を使って、パークスの圧力を「利用」した。

 筆者の考えは、こうである。
 この江戸開城で重要なのは
「慶喜が恭順し、旧幕府軍の責任者が勝になったこの段階で、そもそも基本的に西郷など交渉当事者のほとんどすべてが江戸総攻撃に反対している」
 ということである。
 西郷、勝、パークス、サトウ、誰も戦火で江戸を焼きたいなどとは思っていない。

 例外なのは兵士たちの戦闘意欲(士気)を下げたくない新政府軍の指揮官だけである。
 確かに西郷はその指揮官の一人ではあるが、だからといって旧幕府軍がよほど強硬に抵抗しない限り、江戸を焼くつもりなどない。そんなことをしても意味がない。

 あとは西郷と勝という、この交渉事を得意とした二人による条件闘争の問題である。
 「何がなんでも三月十五日に総攻撃をしなければならない」という理由はないのだから、別にパークスの圧力があろうとなかろうと、西郷がとりあえず攻撃を延期する判断をしたのは当然のことだろう。
 そして両者の条件闘争はこの後もしばらく続き、ついには上野戦争(彰義隊戦争)で完全決着となるのである。ただしその決着をつけたのは長州の大村だが。

 “パークスの圧力”をことさら唱える人は
「西郷や勝が江戸開城を成功させたなどと偉そうに言うが、所詮列強(れっきょう)(特にイギリス)の圧力に屈しただけのことじゃないか」
 と西郷や勝、特に西郷の江戸開城に果たした役割を矮小化(わいしょうか)したい、という思惑があるように思えてならない。

 しかし『遠い崖』の著者、萩原延壽先生は以下のように述べている。
「外国勢力と接するさいの西郷の態度の中に、これを「利用」しようとする動きは見られても、これに「依存」しようとする傾向は見られなかった。外交関係を重視するといっても、それを「利用」するのと、それに「依存」するのとでは、本質的な相違がある。西郷に濃厚に見られたのは前者の態度であって、ときにそれは「謀略」の様相を帯びることさえあったが、ともかくそこには「依存」の従属性とはっきり縁の切れた、独立の気概と呼びうるものを看取(かんしゅ)することができた」
 西郷は大国(イギリス)を利用しても、依存はしない。筆者もこの意見に賛成である。

 とにかく、渡辺清の談話「江城攻撃中止始末」に書かれているように「たまたま新政府軍の人間が横浜へやって来た」という偶然によってパークスは江戸開城に関わることになった訳だが(一応これも萩原先生は「西郷の謀略」の可能性に含みを持たせた書き方をしているが)サトウはどうみても関わっていない。

 西郷と勝が談判した高輪および田町の薩摩藩邸は、サトウが住んでいた高輪の高屋敷(たかやしき)からさほど遠くないので何か接触があっても良さそうな感じもするが、サトウの報告書を見る限りまったく気がつかなかったようである。

 とはいえ、もし接触できていたとしてもサトウに何かできたとは思えない。
 相手は西郷と勝という老練(ろうれん)な交渉人で、しかも大政治家である。
 サトウは黙ってなりゆきを見ているしかなかったであろうし、実際それが正解だっただろう。サトウのような政治的駆け引きに(うと)い人間が下手(へた)に手を出しても、火傷(やけど)するのがオチだったろう。


 倒幕が成り、新政府が始動しつつあるこの時をもって、サトウの役割は終了した。
 そしてそのことを本人も自覚した。

 この約一ヶ月後、サトウは賜暇(しか)申請、すなわち有給休暇を取っておよそ七年ぶりにイギリスへ帰国するための申請をした。

 幕末日本を駆け抜けた、青年サトウの冒険は、これで終わったのである。
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