第6話 御殿山と塙次郎

文字数 12,426文字

 俊輔が江戸に到着した四日後の十一月二十七日、勅使(ちょくし)到着後一ヶ月近く延期となっていた勅使と将軍との対面がようやく実現した。
 将軍家茂(いえもち)は勅使に対して(ほう)(ちょく)攘夷(じょうい)を約束した。
 すでに幕府上層部はその覚悟を固めていたとはいえ苦渋(くじゅう)の決断であったろう。以後、来春二月の将軍上洛(じょうらく)にそなえて幕府や諸藩は(あわ)ただしく動き出すことになる。十日後、勅使は京都へ帰るために江戸を出発し、勅使護衛のために山内豊範と毛利定広も京都へ向かった。

 江戸に帰って来た俊輔は久しぶりに土蔵相模で聞多と再会した。
「やはり品川の女は良い」
「京の女はダメかね」
「いや、久しぶりに江戸へ戻ってきたら、ここの馴染みの(おんな)から(ふみ)をもらったんでさっそく会いにきたのだ」
「俺は久しく京へ行っておらんので京の女が恋しい」
祇園(ぎおん)(きみ)()が寂しがっとったぞ」
「まあ将軍もいずれ上洛するし、近いうちに俺も京へ行くだろう。それまではおあずけだ」
「ところで金沢一件(いっけん)謹慎(きんしん)()けたのか?」
「なに、あんなのは形式的なものに過ぎん。だからこうして相模屋にも来ているのだ」

 それから俊輔は聞多から金沢の件を(くわ)しく聞いた。
「……そうだったのか。まったく相変わらず高杉さんは“(あば)れ牛”だな。あの人に関わると命がいくつあっても足りん」
「それにしても金沢の件は残念だった。もう二度と失敗は許されん。実は今、高杉と次の計画を準備中だ。内々で焼玉(やきだま)をいくつか作らせている」
「焼玉だと?そんなものを何に使うのだ?」
「俺もまだハッキリとしたことは知らん」
 焼玉(やきだま)とは、この時代に燃料としてよく使われていた炭団(たどん)(炭を団子(だんご)状にしたもの)に似ているが、それに火薬を混ぜ込んで発火するようにしたものだ。そして高杉は、前回の金沢一件では情報が漏洩(ろうえい)して失敗したので、今回はその直前まで情報を知らせないことにしたのだった。
「俊輔も計画に参加するかね」
「ワシも御楯(みたて)(ぐみ)に入ったんだから当たり前だろう」
 そう言いつつも俊輔は内心(おび)えていた。
(なにしろ高杉さんの計画だからな。下手したら地獄行きだな……)

 十二月十日、この日、横浜に竹内保徳(やすのり)下野守(しもつけのかみ))を代表とした幕府遣欧(けんおう)使節団の一行(いっこう)が一年ぶりに帰国した。一行が乗船しているのはフランスのエコー号という船だった。
 総勢三十八名の使節団の中には福沢諭吉(ゆきち)もいた。
 福沢は万延(まんえん)元年(1860年)の(けん)(べい)使節に続いて二度目の海外渡航だった。

 横浜のイギリス公使館の前は道路を挟んで目の前に海が広がっている。
 サトウはエコー号の様子を見るために海岸沿いの道を歩いて行った。船のほうへ行ってみるとちょうどフランス公使のベルクールが出迎えの挨拶(あいさつ)のためカッター(はしけ船)に乗ってエコー号へ向かっているところだった。エコー号は少し離れた沖に停泊しており、サトウは海岸から船上にいる日本人たちの様子を眺めた。
 サトウはおもわず故郷のことを思い出した。
(ロンドンへ行っていた日本の使節団が帰ってきたのか。ロンドンの父さんや母さん、家族の皆はどうしているだろう……)

 この使節団は各国代表に挨拶をするため横浜へ立ち寄ったのだが実際に上陸するのは品川であり、それはこの翌日のことである。

 この使節一行は一年前、イギリス船オーディン号で品川を出航してヨーロッパへ向かった。彼らの一番重要な使命は「開市(かいし)開港(かいこう)の延期」を西欧諸国に認めさせることであった。
 1858年(安政(あんせい)五年)に締結された「安政(あんせい)五カ国条約」の取り決めでは、翌1859年(安政六年)に横浜・長崎を開港、続いて江戸は1862年((ぶん)(きゅう)二年)、大坂・兵庫は1863年(文久三年)に開かれる予定となっていた。ちなみに箱館(はこだて)(函館)はその前の和親条約ですでに開港済みで、新潟は港の機能が不十分だったので代替(だいたい)港を選定中だった。
 しかし1859年の開港以来、日本国内は物価高騰(こうとう)などで「人心(じんしん)不折合(ふおりあい)」の状態となり、外国人襲撃事件が相次いだことは以前述べた通りである。
 幕府は当初のスケジュールでの「開市(かいし)開港(かいこう)」は困難と判断し、さらにイギリス公使オールコックも自身が東禅寺で襲撃を受けた経験から日本の政情不安を痛感し、幕府使節のヨーロッパ派遣に協力した。

 途中フランスでの滞在も(はさ)んだので使節団がロンドンに到着したのは出発から四ヶ月後のことだった。ちょうどその頃ロンドンでは万国博覧会が開催されており、彼らもそれを見学した。
 その後しばらくするとオールコックもロンドンに到着した。彼は使節派遣にあわせる形で賜暇(しか)を取って帰国したのだった。ちなみにこの賜暇(しか)というのは外交官の有給休暇のことで、当時のイギリス外務省では五年勤務ごとに一年の有給休暇が与えられていた。

 そのオールコックが日英交渉を主導した結果、1862年6月6日(文久二年五月九日)「ロンドン覚書(おぼえがき)」を調印することになった。
 日本側の署名者は竹内下野守、松平石見守(いわみのかみ)京極(きょうごく)能登守(のとのかみ)の三名で、イギリス側の署名者はイギリス外相のジョン・ラッセルである。
 この「ロンドン覚書(おぼえがき)」によって江戸・大坂・兵庫・新潟の開市開港は1868年1月1日まで延期されることが認められた。
 ただしその条件として日本側も様々な要求(主に貿易面での規制撤廃(てっぱい)など)を受け入れ、さらに「日本が約束不履行(ふりこう)の場合は即座に開市開港を要求できる」と規定された。

 この「ロンドン覚書」が基本となってそのあと他の西欧諸国とも同様の取り決めを締結した。
 厳しい条件は付けられたものの、なんとか使節団は当初の使命を達成したのである。

 ところがイギリスを離れてロシアへ行った時に第二次東禅寺(とうぜんじ)事件の情報を知らされ、さらに帰路セイロン島でイギリスの海軍士官から生麦事件の新聞記事を見せられた。
 西欧社会を体験してきた彼らにとって、外国との関係を()とうとする攘夷派の動きはバカげた行為としか思えなかったであろう。

 そう思っていた筆頭人物が福沢諭吉である。
 横浜のエコー号の船上では、福沢と薩摩藩士の松木(まつき)弘安(こうあん)(後の寺島(てらしま)宗則(むねのり))が帰国を喜んでいた。そして福沢が松木に今回の欧州行きの感想を述べた。
「今回は運が良かったよ。もし生麦や東禅寺の殺傷事件がもっと早く発生して覚書(おぼえがき)の調印前にイギリスへ伝わっていたら、開市開港の延期交渉は失敗してただろう」
 松木がこれに答えた。
「そうだな。仮に延期に成功しても、もっと厳しい条件を飲まされたことだろう。なにしろ大英帝国(グレートブリテン)だからな」
 松木は薩摩藩士ではあるが幕府の西洋学問所に出仕(しゅっし)する身分である。ちなみに福沢も中津(なかつ)藩士として幕府の翻訳方(ほんやくかた)に出仕する身分なので境遇は似ている。
 福沢は話を続けた。
「それにしても、やはり幕府だけで政治をおこなうのは難しいだろう。ドイツ連邦のように日本も諸大名を集めて連邦制にしたらどうだ?」
「まあ、その(あた)りが妥当(だとう)なところだろう」
「もし(かな)うなら将軍様の教授になって思うように開国の説を吹き込み、大改革をさせてみたいものだ」
「そりゃいい」
 松木はそう答えながらも、内心では福沢の発言を否定していた。
(幕府にそんなことが出来るわけないだろ。()(なり)(あきら)様でも出来なかったのに……)
 この松木弘安は薩摩の先代藩主・島津斉彬(なりあきら)の開化政策を支えた蘭学者の一人で、翻訳係(ほんやくがかり)兼医師としてこの幕府使節に参加していた。
 松木はこの時代随一(ずいいつ)の開明家と言われた島津斉彬を敬愛していた。
 蘭学者である松木は今回の欧州歴訪(れきほう)でオランダの国力が思いの(ほか)低いことが分かりショックを受けた。その一方でイギリスの発展ぶりには驚嘆(きょうたん)した。ただしロンドンにいる貧民や物乞(ものご)いの多さから、その格差社会の深刻さも十分に認識した。

 松木は福沢に蘭学をやめると言った。
「日本の土を踏んだら蘭学はもう誰にも勧めるつもりはない。これからは英学一本槍だよ」
 福沢は笑いながら答えた。
「そんなことは横浜で働いていた貴公(きこう)ならとっくに承知していたはずだろう?全くとんだのんき者だな」

 この松木弘安はいずれ戦場でサトウと(あい)まみえることになるのだが、それはこれよりもう少し経ってからのことである。
 余談ながら、サトウはこの使節団の市川(わたる)清流(せいりゅう))が書いた旅行記『尾蠅(びよう)欧行(おうこう)漫録(まんろく)』をこの一年後に英訳することになる



 同じ頃、品川の土蔵相模では高杉たちが集まって新しい襲撃計画の準備をしていた。集まったメンバーは前回同様十数人だが、今回はそこに新しく俊輔が加わっている。
 高杉は皆を前にして計画の全貌(ぜんぼう)を明かした。
「幕府は攘夷の勅命(ちょくめい)(ほう)じておきながら御殿山(ごてんやま)に外国公使館の建設を続けている。二枚舌(にまいじた)(はなは)だしい。よって、あの外国公使館を()()ちする。我々が幕府の尻に火をつけてやるんだ!」
 話を聞いた一同は多少ザワついたものの特に反対の声は上がらなかった。高杉は話を続けた。
「焼き討ちは明後日の夜に決行する。この前の決起は失敗したが今度こそ絶対にやり()げてみせる。これが我ら御楯(みたて)(ぐみ)による攘夷決行の第一歩だ。ただし、我々長州の名前は出さないことにする」

 今回は外国人を直接狙った攘夷ではなく、あくまで幕府の権威失墜(しっつい)を狙った破壊行為である以上、確かに長州の名前を出す必要はないであろう。いやむしろ、その後の幕府からの追及(ついきゅう)をかわすためには当然、長州の名前は出せないに決まっている。そのことはここに集まっている各人にもすぐに理解ができた。
 一同は高杉の計画を聞いて「それは面白い!」「是非(ぜひ)やろうではないか!」と賛成した。
 あとは焼き討ち用の焼玉が到着するのを待つばかりで、皆はそのままいつものようにこの土蔵相模での「居続(いつづ)け」を決め込んだ。

 しかしこの時、俊輔と山尾に対しては、久坂から別の案件も伝えられた。
 それは人を斬る仕事の話であった。


 この翌日、福沢たち使節団一行は品川に上陸した。
 彼らは一人も欠けることなく一年ぶりに故郷の土を踏んだ(ちなみにアメリカ行きおよび上海行きの使節では、それぞれ数名の病死者が出ていた)。

 高杉たちが集まっている土蔵相模は品川の海に面している。
 俊輔と山尾はその近くの海岸から、この使節団が上陸する様子をながめていた。
「知ってるか?俊輔、あの一行の中には我が藩の杉さん((すぎ)(とく)(すけ))も()ざっていることを」
「無論、知っている。まったく(うらや)ましいことだ」
「おい俊輔、まさかお前も洋行(ようこう)がしたいと考えていたのか?」
「当たり前ではないか。松陰先生、桂さん、高杉さん、それに宮田(みやた)と長崎の海岸でワシを(きた)えてくれた来原さんも含めて、ワシの師は全員洋行(ようこう)希望者だ」
「そうか。松門(松下村塾)の連中は(みな)久坂さんのように外国嫌いな連中ばかりかと思ってたよ」
「まあ確かに塾では珍しいほうだろうな。もっともワシの身分では洋行など夢のまた夢だ」
「……それでな俊輔。久坂さんから言われた国学者(はなわ)次郎の暗殺の件、お前はどう思う?」
「ワシ一人で殺せるような腕がワシにあると思うか?剣術のできるお(ぬし)が参加せぬのならワシも当然あきらめる」
「……まるで俺にやるかやらぬか決めろと言ってるような口ぶりだな」
「事実を言ってるだけだ。こんなときに空念仏(からねんぶつ)を唱えてもどうなるものでもあるまい」
「俊輔、お前はこんな仕事がやりたいのか?」
「剣術使いでもないワシが暗殺の仕事などやりたい訳がないだろう?だけどお主は剣術ができるし、この前の金沢襲撃の時は喜んで参加したのだろう?」
「あれは暗殺ではなくて皆でやろうとした外国人相手の()ち入りではないか。あれなら名誉にもなる。だが今回は年寄り相手の暗殺だからな……。その塙次郎とかいう男はそれほど悪い奴なのか?」
「そうらしい。あの安藤閣老から命じられて(みかど)(孝明天皇)を(はい)(たてまつ)るために過去の(はい)(てい)の記録を調べていた男だ。ワシはあの大橋順蔵(じゅんぞう)(とつ)(あん))殿の向島(むこうじま)の塾に少し出入りしたことがあるので、その話を聞いたことがある」

 この大橋順蔵は、ちょうどこの年投獄されて既に死亡しているのだが、この人物については少し解説が必要だろう。
 彼はこの年一月に起きた「坂下(さかした)門外(もんがい)の変」(老中安藤信正(のぶまさ)を襲撃した事件)の首謀者の一人で、この事件に桂と俊輔が関わって幕府から嫌疑をうけたことは以前少しだけ触れた。
 この大橋という男はかなり観念論に()(かた)まった尊王攘夷主義者で、当時何度か人々を扇動(せんどう)する活動をおこなっている。この坂下門外の変以外に、彼は一橋慶喜を擁立(ようりつ)して日光山(にっこうさん)で挙兵する計画を立てたりした。他に有名な話としては横浜の岩亀楼(がんきろう)の遊女喜遊(きゆう)がアメリカ人の相手を(こば)んで
(つゆ)をだに いとふ(やまと)女郎花(おみなえし) ふるあめりかに袖はぬらさじ」
 と辞世(じせい)()を残して自殺した話なども、この大橋が捏造(ねつぞう)した話だと言われている(この話は有吉(ありよし)佐和子(さわこ)が小説化して(のち)戯曲化(ぎきょくか)されている)。余談だが喜遊(きゆう)の墓は神奈川の本覚寺(ほんかくじ)にあり岩亀楼の過去帳に「俗名(ぞくみょう)喜遊、文久二年八月」とあるので彼女は実在した人物のようである。

 そして塙次郎が廃帝の先例を調べて孝明天皇を廃位(はいい)させようとしているという噂も、大橋が捏造(ねつぞう)したデマであった。
 塙次郎は有名な盲目(もうもく)の学者(はなわ)保己一(ほきいち)の四男で、この時五十六歳。彼は幕府が過去に外国人をどのように応接していたかを調べていただけで、廃帝に関することなどは調べていなかった。完全な()(ぎぬ)である。
 しかし、この当時の俊輔にとっては、付き合いのあった大橋の尊王攘夷思想を尊敬してもいただろうし、これが濡れ衣であったなどと知り()るはずもない。
 さらに一番重要なのは、俊輔の師松陰が尊王攘夷を唱えたことで幕府に処刑され、その松陰の無残な遺骸(いがい)に俊輔は触っており、(みずか)埋葬(まいそう)もしているということである。
 それゆえ尊王攘夷の敵である(と勘違いされている)幕府の塙次郎を殺すことに、俊輔が異議(いぎ)を差し挟むはずがなかった。

 山尾は話を続けた。
「……そうか、そういう男か。まあ、どのみち我らのような身分の人間が断れる話でもないしな……」
「仮にワシらがこの話を断ったとしても、どうせ他の誰かが塙次郎を殺すのだ。だったらワシらの手柄としたほうが、お互い士分(しぶん)を得るための近道だとは思わんか?」
「地獄行きの道かも知れんぞ?(つか)まれば死罪は(まぬが)れん」
「地獄へ行く覚悟がなければ、極楽へだって行けまいよ」

 こうして二人は暗殺の仕事を引き受ける決心をした。
 ついでに俊輔は土蔵相模へ戻る前に近くの店で()(しゅ)払ってノコギリを買い、それを土蔵相模の前にあった天水(てんすい)(おけ)(かげ)に隠しておいた。


 俊輔が土蔵相模の仲間のところへ戻ってみると放火用の焼玉が届いていた。
 しかし部屋の(すみ)では福原乙之進(おとのしん)が黒いゲロを吐きながら倒れていた。

 福原たちは先日来、桜田藩邸の有備館(ゆうびかん)で焼玉を作りつづけてようやく完成させた。そしてこの日、数人が別々のルートで焼玉をこの土蔵相模に運んできたのだが、福原だけは途中の(つじ)番所(ばんしょ)で立ち小便をした際に番人に(とが)められ、とっさに証拠(しょうこ)隠滅(いんめつ)のため焼玉を食べてしまったのだ。一応、他の連中が運んできた焼玉は無事届いたので焼き討ち作戦はそのまま続行されることになった。
 俊輔と聞多は焼玉を一つずつ手に取った。
 焼き討ちの際、この二人は火付けの実行部隊である。
「だけど聞多よ。これを明日の夜まで持っているというのも心配だな。どこかに隠しておくか」
「よし。それならお(さと)の部屋の(がく)の裏に隠しておこう」
 そんな訳で俊輔と聞多の焼玉は、聞多の馴染みであるお里の部屋に隠しておいた。

 そして翌日の十二月十二日になった。
 西暦で言えば1月31日であり、寒さの一番(きび)しい時期である。
 この日の夜九つ半(午前一時)高杉たち一同は土蔵相模を出て、すぐ近くにそそり立っている御殿山へ向かった。夜分とはいえ遊郭から出て来る男たちなのだから別に誰もこれをあやしまなかった。
 俊輔は意気揚々(ようよう)と歩いている聞多に念のため焼玉のことを聞いてみた。
「聞多、抜かりはなかろうな?」
「俺に手落ちがあるものか」
 御殿山には警固(けいご)用として周囲に(から)()りが掘られ、山上には木製の柵が張り(めぐ)らしてあった。一同は空堀りを渡って御殿山の上によじ登った。
 ところが彼らは山上にある柵のことまで頭が回っていなかった。この柵をよじ登って中へ入るのは相当難儀(なんぎ)に思えた。

 久坂が(なげ)いた。
「誰もこの柵のことに気づかなかったとは無念だ」
 そこですかさず俊輔が
「こんなこともあろうかと、ワシがのこぎりを用意しておいた」
 と土蔵相模の天水桶のところに隠しておいたノコギリを取り出してギコギコと柵を切断し始めた。
 これだけの頭数(あたまかず)がいながらノコギリが必要であることに俊輔以外誰も気がつかないというのもノー天気な話だが、たった一本のノコギリでギコギコと出入り口を作っているこの連中に気がつかない幕府警備陣も、よほど間抜けだったと言えよう。

 一同はノコギリで開けたところを通って中へ入った。
 が、敷地内でとうとう番人に見つかった。
「何者だ!そこで何をしている!」
「我々は天下の志士だ!この山の上に(ただよ)っている妖気(ようき)を払うために来たのだ!」
 高杉がそう叫んで、番人がぶら下げていた(あおい)紋章(もんしょう)が入った提灯(ちょうちん)をブチ斬ったところ、その番人は一目散(いちもくさん)に逃げていった。
 すかさず俊輔や聞多たち火付けの実行部隊がイギリス公使館の中へ入っていった。

「よし、聞多、焼玉を出せ!」
「しまった!お里の部屋に置き忘れてきた!」
肝心(かんじん)な時に役に立たんな、聞多よ!」

 とにかく別のもう一人が持っていた焼玉を使い、その周りに燃えやすいものを集めて火を付けたところ、なんとか炎を作り出せた。けれどもそれだけでは心もとないので炎の中に燃えそうなものを何でもかんでも投げ入れた。するとたちまち部屋中に火が燃え広がり、俊輔たちは建物から急いで逃げ出した。
 この時俊輔はあわてて逃げたため土蔵相模の馴染(なじ)みの(おんな)からもらった(ふみ)を犯行現場に落っことしてしまった。それに気がついたのは御殿山から逃走した後のことだった。

 一方聞多は聞多で、ノコギリで作った出入り口の場所がわからず、仕方がないので柵をよじ登って外に降りた。ところが目測を誤ってそのまま空堀りまで(ころ)げ落ちてしまった。
 山頂から空堀りまで落ちたのだから数十メートルは落下したであろう。
 死ぬか骨折してもおかしくはなかったのだが、この殺しても死にそうにない頑丈(がんじょう)な体の持ち主は泥だらけにはなったものの、そのままむくりと立ち上がって空堀りをよじ登りはじめた。
 その後あちこちと道に迷ったあげく、どうにかこうにか高輪の近くまで来て武蔵屋(むさしや)という顔なじみの引手(ひきて)茶屋(ちゃや)(客を遊郭(ゆうかく)へ案内する茶屋)に入った。
 茶屋の女将(おかみ)は全身泥だらけの聞多を見てビックリした。
「これはまあ、一体どうしたことでございますか」
「いや、たった今御殿山で火事があって火消しが大勢走ってきたもんだから、それを避けようとしたら道端のドブに落っこちたのだ。えらい災難だった。それにしてもあんな所で火事が起こるなんて物騒な世の中じゃ」
 そう平然と答えた聞多は、風呂で泥を洗い落として服を着替えた。そして駕籠(かご)で土蔵相模へ送ってもらった。

 他の連中も皆上手(うま)く逃げおおせた。
 高杉と久坂は芝浦(しばうら)海月楼(かいげつろう)まで逃げ、ここの二階から御殿山の火事をながめつつ酒を痛飲した。
 そしてその周囲の部屋でも一般客たちが火事をながめて騒いでいた。
「御殿山の異人館(いじんかん)が景気よく燃えてやがらあ!」
「ざまあみろ!俺たちから御殿山を取り上げた罰だ!」
 町人らしい真っ正直さ、かつ無責任さで彼らはこの焼き討ちを歓迎しているようであった。
 そしてそのころ俊輔は、近くの農家の肥溜(こえだ)め小屋で(わら)の中に隠れて夜が明けるのを待っていた。

 駕籠で土蔵相模へ戻った聞多は、すぐにお里の部屋へ向かった。
 いや。いくら聞多とはいえ、このボロ雑巾のようにくたびれ果てた状態でそれほどの精力はない。
 例の置き忘れてきた焼玉が心配だったのだ。
 誤って土蔵相模で爆発させたらお里の部屋はおろか、建物中が火の海になる。それに万一あれが幕府役人に見つかったら放火の犯人が聞多であるとバレてしまう。バレれば死罪は間違いない。
「お里、実はちょっといたずらをして額の裏に炭団(たどん)を隠しておいたのだが……」
「あなたは本当に乱暴ないたずらをなさいます。今、取り出して炭箱(すみばこ)の中に入れたところです。お体も冷えてらっしゃるでしょうから、すぐに火鉢(ひばち)へ入れましょう」
 お里はそう言うや、炭団(たどん)を火にくべようとした。

 (あせ)った聞多はすかさずお里を止めようとした。焼玉を火にくべたら爆発してしまう。
「バカっ、やめろ!」
「まあ、ひどい()(ぐさ)。炭団を火鉢へ入れるのにバカとは何です」
 聞多は有無を言わさずお里から炭団を取り上げた。しかしお里は笑いながら言った。
「本当にそれはただの炭団です。ちょっと驚かせてみただけですわ。あなたが隠しておいた焼玉は私がさっき海に捨てました」
 聞多はギョッとした。そして怖い目でお里をにらんで言った。
「焼玉だと?お前、なぜそれを知っている?」
「あのようにいつも大声でしゃべっていれば、あなたがたの計画は部屋の外まで筒抜(つつぬ)けです。あの火事はあなたがたの仕業(しわざ)でしょう?まったく見損(みそこ)なわれたものですわ。どうして私があなたのためにならぬことを致しましょう」
 お里は涙を流しながら、そう聞多に言った。
 聞多は「すまん、お里すまん」と深くお里に謝って、そのまま土蔵相模で泥のように眠った。


 翌朝、火災現場を調べたところ遺留品(いりゅうひん)は「ヤーゲル銃一丁、ノコギリ一丁、下駄(げた)片足、遊女(ゆうじょ)艶書(ふみ)が一通」だった。もちろん「遊女の艶書(ふみ)」は俊輔が落としたものである。手紙の差し出し人のところに「お花」と書いてあるだけで相模屋の名も俊輔の名も入ってなかったので俊輔が犯人とはバレなかった。「お花」という名の遊女は品川に()いて()てるほどおり、幕府の役人も犯人を調べようがなかった。
 ただし実際のところを言えば、幕府は「犯人は長州藩の連中である」と目星(めぼし)をつけていたらしい。
 けれどもこの当時勢いのあった長州藩に遠慮したことと、さらにこの御殿山に公使館を建てることには朝廷(天皇)からの反対も強く、しかも江戸の民衆からの反対も強かったので、いっそこのままウヤムヤにしてしまったほうが好都合である、と幕府は考えたようである。

 とにかくこれで、サトウが(いだ)いていた江戸居住の夢は水泡(すいほう)()したのであった。
 ところで後年、サトウは次のように手記で語っている。
「その後、幾年(いくねん)か経って、確かな筋から放火犯人は大部分が攘夷党の長州藩士であった事を聞いた。少なくともその中の三人は後に政府の高官に出世している。それは総理大臣伊藤伯爵(はくしゃく)と井上馨伯爵とで、もう一人は誰であったか思い出せない」
 この「もう一人」は後の工部卿(こうぶきょう)(明治初年の一時期、殖産(しょくさん)興業(こうぎょう)政策を担当した工部省の長官)山尾庸三子爵(ししゃく)のことで間違いなかろう。ちなみにこれは明治十九年(1886年)段階の爵位(しゃくい)なので実際「俊輔」こと伊藤博文の最終爵位は最上位の公爵(こうしゃく)で、「聞多」こと井上馨はそれに次ぐ侯爵(こうしゃく)である。



 それから八日後の十二月二十一日の夜。場所は(ばん)(ちょう)
 この頃の江戸切絵図(きりえず)で番町の地図を見ると御厩谷坂(おんまやだにざか)をのぼった辺りに(はなわ)次郎の屋敷が見える。
 (おもて)六番丁(ろくばんちょう)通りに面していて、対角の向かい側には下野(しもつけ)佐野(さの)藩の堀田(ほった)摂津守(せっつのかみ)の藩邸がある。現在の住所で言えば千代田区(ちよだく)三番(さんばん)(ちょう)で、靖国(やすくに)神社の南側の辺りである。
 大妻(おおつま)女子大学の北隣りの辺りが塙次郎の屋敷があった場所に該当すると思われる。現在靖国神社の中に「練兵館(れんぺいかん)(あと)」の史跡が残っているように、そこには当時、桂や山尾が通った斎藤弥九郎(やくろう)の剣術道場、練兵館があった。この場所は塙次郎の屋敷から100メートルぐらいしか離れていない。
 余談ではあるが、塙次郎の屋敷の少し東のほうには村田蔵六が開塾した鳩居堂(きゅうきょどう)があった(現在の千鳥ケ淵(ちどりがふち)戦没者(せんぼつしゃ)墓苑(ぼえん)の辺り)。そして塙次郎の屋敷から少し南のほうには、後にサトウがその地に桜を()えることになる現・駐日イギリス大使館がある。

 練兵館に通っていた山尾はこの辺りの地理に詳しかった。
 数日前、山尾は俊輔を連れて塙の屋敷を訪れ、二人で弟子入りを申し込んだ。
 なぜそんなことをしたのか?というと、あらかじめ塙の顔を確認しておきたかったからである。

 俊輔や山尾が塙を狙う理由はすでに書いた通りだが、このころ世間の攘夷熱が最高潮に達していたことも俊輔と山尾の心理状態に多少の影響を与えていたであろう。
 おそらくこの前後の頃と思われるが、桜田藩邸の有備館で幕府のスパイと見られていた宇野(うの)八郎が高杉晋作によって斬り殺された(この事件には俊輔も関与した)。そしてこの塙次郎を狙った日の四日前には横井(よこい)小楠(しょうなん)が攘夷派に襲撃されている(小楠は助かったがこの事件が原因で失脚した)。
 このころ京都で“天誅(てんちゅう)”と称する暗殺事件が頻発(ひんぱつ)していたことは俊輔が京都にいた頃の場面ですでに解説済みである。そしてこの八日前には俊輔と山尾も参加して御殿山を焼き討ちした。
 こういった当時の攘夷熱が、俊輔と山尾の暗殺に対する拒否反応をやわらげてしまったことは、おそらく事実であったろう。


 この日、塙次郎は駿河(するが)(だい)中坊(なかぼう)某の歌会に出席していた。
 俊輔と山尾はその帰りを狙って九段(くだん)坂上(さかうえ)で待ち伏せることにした。昼のうちに九段坂上の練兵館に入って(練兵館は長州系志士の巣窟(そうくつ)のような場所である)そこで夜を待った。そして頃合(ころあ)いになったので二人は外へ出て、建物の陰から塙がやって来るのを見張った。
「寒いのう、俊輔」
「寒いと言うて寒さがおさまるものか。とにかく打ち合わせ通り、(とも)の者はお主に任せる。ワシは塙を狙う」
「まあ仕方あるまい。剣の腕から考えれば俺が(きび)しいほうにあたるしかなかろうしな。だけど俊輔、お前は本当に(ひと)()りが初めてなのか?どうしてそんなに落ちついていられるんだ?」
「バカを言え。落ちついてなどいるものか。ただ、今さらジタバタしても始まらんからな。俺はやれる。きっと上手く行く。そう開き直っているだけのことだ」
「そのクソ度胸を見習いたいものだ」
「何を言うか。お主のほうがワシより強いのだぞ。ワシがお主を見習いたいぐらいだ。大丈夫、お主ならきっと上手くやれ……。おい、どうやら塙が来たようだぞ」
 そう言って俊輔は自分の顔を隠すために頭巾(ずきん)をかぶった。すかさず山尾も頭巾をかぶった。

 遠くから塙家の家紋(かもん)が入った提灯が近づいてくるのが見える。人数はどうやら三人らしい。先頭に提灯を持っている若党がいて、その(うし)ろに()(びと)らしい若い男と、塙がいる。

 俊輔と山尾は息を()らして三人が近づいてくるのを待った。が、二人にはお互いの「ハア、ハア」という緊張した息づかいがハッキリと聞こえてきた。 

 三人はひたひたと歩いてくる。そしてついに三人は俊輔たちの目の前まで来た。
 提灯を持った若党はやり過ごした。
 次に続く付き人らしい若い男が近づいた時、俊輔と山尾は物陰(ものかげ)から飛び出した。
 山尾が付き人の若い男に無言で斬りつけた。
 手ごたえがあった。かなりの深手(ふかで)を与えたことは間違いなさそうだった。

 俊輔は「国賊(こくぞく)!」と(さけ)んで塙へ向かって突き進んだ。そして塙に斬りつけたが、かすっただけだった。
 山尾は若い男に斬りつけた後、すかさず振り向いて提灯を持った若党に向かって斬りつけに行った。しかしその男は叫び声をあげ、提灯を捨てて逃げて行った。

 塙は老齢(ろうれい)()でありながら刀を抜いて俊輔と対峙(たいじ)した。
「闇討ちとは卑怯(ひきょう)なり!名を名乗れ!」
 俊輔は名乗らなかった。そしてもう一度塙に斬りつけたが、塙はそれを刀で受け流した。
貴様(きさま)、こんな卑怯なマネをして。親が知ったら泣くぞ!」
 親思(おやおも)いの俊輔にとって親のことを言われるのはつらい。俊輔は一瞬ひるんだ。
「ほう、貴様存外(ぞんがい)正直ものだな」
 そう言って今度は塙が俊輔に斬りつけてきたところ、俊輔はとっさに横っ飛びをして、かろうじて塙の刀を避けた。そしてすかさず体ごと塙に飛び込んで、腰にくらいついて押し倒した。

 (ころ)びながら塙は、しがみついている俊輔に対して叫んだ。
「暗殺者はいずれ必ず暗殺者に殺されるぞ!」
 俊輔は構わず塙に馬乗りになって胸のあたりを何度も突き刺した。
 ()き出した血が俊輔の顔と胸のあたりを真っ赤に染めた。

 少し離れた所では山尾が付き人の若い男にとどめを刺していた。
 そしてこの路上での騒ぎを、おそるおそる遠くからうかがっている人影がチラホラと目につくようになった。
 山尾が俊輔に呼びかけた。
「やったか?」
 俊輔は無我(むが)夢中(むちゅう)で塙を刺していた。
「ハアハア……。ああ、やった。すぐに逃げよう」
 二人は足早(あしばや)にその場から逃げ去った。

 後年、伊藤はこの時のことを次のように回顧している。
「あの時は実に(あや)うかった。というのは吾輩(わがはい)の衣類に血がついていた。その血のついたままで幕吏(ばくり)の前を通り抜けた。もしあの時捕縛(ほばく)されていればその血が証拠となって、ついに罪を(まぬが)れることは出来なかっただろう。しかし幸いにして無事に通り抜けた」

 俊輔たちは後日、この犯行現場の近くに()(ふだ)を立てた。
「この者()、昨年安藤対馬守(つしまのかみ)と同腹致し、かねて御国体をわきまえながら前田健助と共に恐れ多くもいわれなき(いにしえ)の記録を取調べ(そうろう)(だん)大逆(だいぎゃく)の至りなり。これによって三番町において天誅(てんちゅう)を加えるものなり」


 さて、最後に一つだけ後年のエピソードを述べておきたい。
 明治時代になってから山尾庸三は(もう)学校、(ろう)学校の建設を積極的に主張し、障害者教育に熱心に取り組んだ。久田信行氏の調べによると、山尾が設立に尽力(じんりょく)した東京盲唖(もうあ)学校の設立記念日は、皇室から三千円の下賜(かし)金が寄付された明治九年12月22日の日付となっているそうである。
 俊輔と山尾が塙次郎を襲ったのは十二月二十一日だが、実際に塙次郎が亡くなったのはその翌日の十二月二十二日である。
 旧暦と西暦の違いがあるとはいえ、この「十二月二十二日」が偶然の一致とは思えない。
 塙次郎の父は「盲目(もうもく)の学者」として有名だった(はなわ)保己一(ほきいち)である。
 山尾がこの時の暗殺を懺悔(ざんげ)して、これらの福祉活動に尽力したことは間違いなさそうである(※以上の事は久田信行氏の「盲唖学校の設立と山尾庸三 (補遺)」を参照にした)。


 年が明けて一月五日、高杉晋作は小塚原(こづかっぱら)埋葬(まいそう)されていた松陰の遺骨(いこつ)若林(わかばやし)大夫山(たいぶやま)(現在世田谷(せたがや)にある松陰神社の地)へ改葬(かいそう)した。俊輔と山尾も遺骨を運ぶ改葬の列に参加した。

 その途中、馬に乗った高杉が上野(うえの)山下の三枚(さんまい)(ばし)を渡る際に、将軍しか通ることの出来ない真ん中の橋を押し渡ったというのは有名なエピソードであろう。
 (はし)(もり)をしていた番人が高杉を止めようとしたところ、たちまち高杉が刀を引き抜いて
「朝廷からの勅旨(ちょくし)によって勤王(きんのう)志士(しし)の遺骨を(ほうむ)るのだ。将軍の通る道もクソもあるか。貴様、邪魔すると(たた)()るぞ!」
 と叫んだ。
 番人は驚倒(きょうとう)してあたふたと逃げて行った。

 こうして物語は(ぶん)(きゅう)三年へと突入することになる。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み