第13話 姫島行き

文字数 14,023文字



 この元治(げんじ)元年の夏というのは「世界的に人類が狂っていた季節だった」と言えよう。
 アメリカの南北戦争は相変わらず激戦が続いており、フランスのナポレオン三世はメキシコへ出兵し、ヨーロッパではプロイセンとオーストリアがデンマークへ攻め込み、清国(しんこく)(中国)では太平天国の天王(てんのう)洪秀全(こうしゅうぜん)が病死して首都の(てん)(けい)(南京)が陥落(かんらく)し、そこで大勢の人間が死んだ。

 このことは日本も例外ではなかった。
 京都では上京して来た長州軍が幕府・諸藩連合軍とにらみ合いを続け、北関東では水戸の天狗党が各地で戦いを繰り広げ、横浜では下関へ向かうための四ヶ国連合軍が続々と集結しつつあった。
 特に横浜に連合軍が集結するにあたっては、清国で太平天国の乱がほぼ収束したことが大きく影響している。これによって英仏(特にイギリス)はいよいよ清国から日本へ軍隊を回すことができるようになったのである。


 横浜のサトウは、以前はイギリス公使館の片隅(かたすみ)でウィリスと共同生活を送っていたが、この頃は公使館を出て日本家屋(かおく)に引っ越していた。そしてそこでもやはり、サトウはウィリスと一緒に住み続けていた。横浜(関内(かんない))は北西側が日本人街で南東側が外国人居留地(きょりゅうち)となっており、サトウたちはちょうどその中間に住んでいた。
 二人が以前の住まいでも料理人や召使(めしつか)いを雇っていたのと同様に、この日本家屋でも日本人の使用人を何人か雇っていた。その内の一人は「ちの」という家政婦(かせいふ)で、皆からは「おちのサン」と呼ばれていた。ものの本によると当時のイギリスでも「旦那(だんな)さまと召使い」の肉体関係は珍しくなかったようだが、この「おちのサン」はウィリスと愛人関係にあった。そしてこの後しばらくして、彼女はウィリスの子どもを()むことになる。

 この日の夜、サトウとウィリスは公使館から帰宅したあと、談笑しながら夕食を食べていた。
 ウィリスは彼の地元アイルランドのギネスビールを飲みながらサトウに話しかけた(ちなみにウィリスはアイルランド生まれと言っても「北アイルランド=現イギリス領」出身である)。
「そろそろビールのストックが少なくなってきたな。次に母国から荷物が届くのはいつだったっけ?」
「確か来週じゃなかった?」
「そうか。なにしろこの国は、夏以外は快適だが、夏は最悪だからな。ビールでも飲まなきゃやりきれん。どうせ余ったら売れば良いんだから、今後はもっと大量に送ってもらうようにしよう」
「そうだね。我々公使館員の“日用品”には関税もかからないからね」

 この頃横浜では物価の高騰が激しく、現地で生活用品を買うよりは運賃を支払ってでもイギリスから取り寄せるほうが安かったようである。それでサトウたちはイギリスの親類に頼んでビール、ワイン、バター、ベーコンなどを送ってもらっていた。

「それにしてもオールコック公使はようやく下関遠征を実行に移すようだな。決断力の無かったニール代理公使と違って、本当に大したものだ。あの攘夷の本拠地である長州は一回ガツンとやってやらないとダメなんだ。さすがに公使はそれをよく分かっている」
「公使はボクを事務の仕事から解放して、日本語の勉強に集中させてくれたから、ボクはものすごく公使に感謝しているよ」
「まったくうらやましい限りだ。いや『日本語の勉強をやる』ということに、じゃなくて。あの公使の悪筆(あくひつ)で書かれた冗漫(じょうまん)な文章を筆記しなくて良いというのが、本当にうらやましいよ。彼の筆跡を読むのはギリシャ語を読むようなものだ」
 オールコックは持病のせいで親指が不自由だったらしく、彼の筆跡はとても悪筆だったようである。
「ハハハ。本当だね。あの筆跡で『大君(たいくん)(みやこ)』を書いたんだろうか?出版社も大変だったろうね」
「公使館にも一冊置いてあるから少し読んでみたけど、活字になってるからまだマシとはいえダラダラと冗漫な文章は相変わらずで、とても全編読む気はしなかった。でも公使は『大君の都』の内容に自信を持っているようで『オリファントが書いた日本の姿は薄っぺらなもので、あんな本を読んで日本に来る奴がいたら、きっと日本で酷い目にあうだろう』と勝ち誇ったかのように言ってたよ」

 この物語の第一章でも触れたように、まさにサトウ自身がオリファントの本を読んだことをきっかけにして日本へ来ていただけに、このウィリスの言葉を聞いて一瞬(かた)まってしまった。
「うん?どうかしたのか、サトウ?」
「い、いや、何でもないよ……」
 ちなみに『大君の都』というのはオールコックが賜暇(しか)でイギリスにいる時に書いた本で、幕末の日本社会の様子を詳しく描いた大著である。この本のおかげで現代の我々も、当時の日本人の様子を知ることができる。

「それで、今度の下関遠征ではシーボルトじゃなくてサトウが旗艦付き通訳として選ばれるそうじゃないか。おめでとう。とうとう念願がかなったな」
「ありがとう。本当に公使には感謝しているよ。ボクの外務省への申請も受け付けてくれたし……」
「公使は清国での経験が長いからサトウの漢字能力を評価してるんだろう。どうもシーボルトは漢字が苦手らしい。まあ俺もあんな古代文明の象形(しょうけい)文字か呪文(じゅもん)のような文字は読む気がしないけどな。それこそギリシャ語でも読んでたほうがまだマシだ」
 サトウはウィリスと会話をしながら時々愛犬のスカイテリア「パンチ」に余り物の(えさ)をやっていた。
 この「パンチ」の名前が、サトウの友人ワーグマンが創刊した『ジャパン・パンチ』から取ったものかどうかは定かではないが、この頃そのワーグマンも横浜に(きょ)(かま)えて、小沢カネという日本人女性と結婚している。

 ワーグマンのことは以前少しだけ触れたことがあるが、ここで少しだけ解説しておきたい。
 現在、彼の名前はほとんど世に知られていないけれども、幕末に興味のある人であれば「彼の絵」はいろんなところで目にしているはずである。彼は薩英戦争の時にも『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の記者兼イラストレーターとして同行しており、薩英戦争の様子を描いた有名なイラストを残している。また生麦事件についても取材を(もと)絵画(かいが)化しており、さらに上記の『大君の都』のイラストもワーグマンが何枚か描いている。
 彼の仕事として一番有名なのはやはり風刺(ふうし)漫画(まんが)雑誌『ジャパン・パンチ』であろう。
 これは当時イギリスで流行(はや)っていた風刺漫画雑誌『パンチ』を真似(まね)たものだが、その後日本で使われるようになった「ポンチ絵」という言葉の由来(ゆらい)はこの『ジャパン・パンチ』から来ている。
 ワーグマンはサトウと一緒によく遊んでいた。サトウの日記にも、来日してすぐの頃にワーグマンとビリヤードやボーリングをして楽しんでいる様子が書かれている。ワーグマンはサトウと出会ったあと一旦イギリスへ帰国したが、薩英戦争の直前に日本へ戻って来た。その時一緒に来日したのが彼の友人で写真家のフェリックス・ベアトである。

 ベアトの名前も現在ほとんど知られていないけれども「彼の写真」は多くの人が目にしているはずである。彼は横浜でワーグマンと一緒に仕事をするために来日したのだが、この二人は今度の下関遠征に取材陣として加わることになる。ちなみにベアトの兄アントニオ・ベアトも写真家であり、()しくもこの数ヵ月前にエジプトでスフィンクスを背景にして「池田使節団」の写真を撮っていた。


 ウィリスはギネスビールを飲みながらサトウに言った。
「とにかく、俺は今回留守番することになりそうだから、いずれ今度、下関の土産話(みやげばなし)を聞かせてくれ」
 サトウはこの晩、なかなか寝つけなかった。
 初めて通訳として重要な仕事を任され気持ちが高揚(こうよう)していたせいもあるが、その一方で、前回鹿児島で実戦の現実を()の当たりにしただけに「今回下関ではどうなるんだろう?」という不安もあり、期待と不安が頭の中でごちゃ混ぜになって()(めぐ)り、なかなか眠れなかった。


 翌朝、サトウが眠い目をこすりながら公使館に出勤すると、すぐに同僚から
「オールコック公使が応接室でお呼びだぞ。下手くそな英語を話す日本人が二人来てるんだが、君に日本語を通訳させたほうがマシだって話だ」
 サトウが急いで応接室へ行ってみると、洋服を着た日本人二人がたどたどしい英語でオールコック公使に何か説明している最中だった。
「おお、来たかサトウ君。さっそくこの二人から話を聞いて私に説明してくれ。この二人の英語は何を言ってるのかよく分からん」
 この二人とは、もちろん伊藤俊輔(しゅんすけ)と井上聞多(ぶんた)である。

 これが俊輔とサトウの出会いであった。

 二人はサトウに英語で自分の名前を告げた。
 サトウは二人に日本語で自分の名前を告げた。
「私の名前はサトウです」
「サトウ?また日本人のような名前ですね」
「いつも日本人から言われます」
 二人はロンドンでヒュー・マセソンにオールコック宛の紹介状を書いてもらっていたので、大まかな説明は紹介状の文面でオールコックに伝わったが、詳細については直接本人が話して説明するしかなかった。しかし二人の英語力では言いたいことを上手く伝えられなかった。それで二人は詳しい事情を日本語でサトウに説明した。
「我々は長州人で、この前までロンドンへ留学していた。しかしロンドンで新聞を読み、長州が各国の船を砲撃したために各国から報復(ほうふく)攻撃を受けるかもしれない、と知って急いで帰国した。我々二人は君公(くんこう)(藩主)に攘夷をやめるよう説得するので、どうか下関への軍事行動は待ってほしい」
 サトウはこの話を英訳してオールコックへ伝えた。
 オールコックは二人に質問した。
「君たちは藩主と直接会える身分なのか?」
 聞多が答えた。
「私は以前藩主の小姓(こしょう)……、要するに藩主の秘書をしていた側近(そっきん)である。だから直接話をすることができる。とにかく、長州が外国船を砲撃したのは、何も物事(ものごと)を知らない子どもが大人にむかって石を投げたようなもので、大人であるあなたたちが寄ってたかって子どもを殴りつけるなど、とてもジェントルマンの態度とは言えないではないか。なんとか我々に君公を説得する機会を与えて欲しい」
 オールコックは二人に答えた。
「我々英仏蘭米の四ヶ国はすでに連合艦隊で下関を攻撃する協定を結んでいる。この協定はそう簡単に破棄できるものではない。君たちを長州へ送ることに仏蘭米の三ヶ国が了承するかどうか、こちらも協議するのでしばらく返事を待ってもらいたい」
「お願いついでに、もう一つお願いがある。我々二人は幕府の役人に見つかると(つか)まってしまうので、どこかで(かくま)ってもらえないだろうか?」
 ここでサトウが口を挟んだ。
「じゃあ外国人用のホテルに隠れていれば良いんじゃないですか?」
「しかし、我々二人はどこからどう見ても日本人にしか見えないと思うが……」
「うーん……、とりあえずお二人はポルトガル人ということにしておきましょう」
(ポルトガル人ってどんな人種なんだろう……)
 俊輔は疑問に思ったが、とにかく西洋人がそう言ってるんだから大丈夫なんだろう、と自分を納得させた。

 サトウは二人をホテルへ案内した。
 自分が来日直後の時に使っていたホテルである。そして俊輔のことは「デポナー」、聞多のことは「ホセ」と名付けてホテルの宿帳(やどちょう)にも記帳しておいた。
「公使から返事が来るまで、お二人はこのホテルで大人しく待っててください」
 二人にそう告げるとサトウは公使館へ戻っていった。
「ワシらはデポナーとホセか……。とにかく日本人とはバレないよう今後会話は全部英語だぞ」
「おい、ポルトガル人って英語を話すのか?俊……デポナー」
「アイドントノウだ」

 数日後、このホテルの日本人従業員が二人の部屋の前で噂話をしていた。
「今度のポルトガル人の客は日本人みたいな顔をしてるけどさ、チップも全然くれないひどいケチな奴らだぜ」
「初めて日本に来たから金の使い方をしらないんだろう。それにしてもポルトガル人の中でも最下等の貧乏野郎に違いなかろう」
「こんな奴らには蚊帳(かや)だって、この穴あきのやつで十分さ」

(ちくしょう……。ワシらが日本語をわからないと思って、好き勝手言ってやがる……)
 俊輔と聞多は部屋で悶々(もんもん)としてオールコックの返事を待っていた。
 その日の夜遅く、サトウが二人を呼びに来たので二人は公使館へ向かった。
 この時、俊輔には心なしかサトウが嬉しそうな表情をしてるように見受けられた。

 オールコックが二人に返事を告げた。
「四ヶ国で協議した結果、君たち二人を軍艦で長州へ派遣することに決定した。実際、我々四ヶ国も(この)んで戦争をする訳ではない。君たちの説得によって長州藩主が考えを改めるのであれば、それに越したことはない。通訳としてこのサトウ君も同行する。我々四ヶ国の要求はこの通告書に書いてあるので、君たちが協力して日本語に翻訳(ほんやく)したまえ」
 オールコックはそう二人に告げて、すぐに出発準備をするよう再び二人をホテルへ帰した。
 俊輔と聞多は欣喜雀躍(きんきじゃくやく)としてホテルへ向かった。
「良かったなあ、聞多!」
「おおよ!しかし本当に大変なのはこれからだぞ」

 部屋に残ったサトウはオールコックに質問した。
「公使は本当に戦争の回避を望んでいるのですか?」
 オールコックはサトウに本音を述べた。
「もし我々イギリスが戦争を望んだとしても我々は他の三ヶ国と違って長州から砲撃を受けていない。だからこそ、今回は四ヶ国連合の形をとったのだ。砲撃を受けた三ヶ国が戦争に賛成しなければイギリスは参戦できない。四ヶ国艦隊の大部分はイギリスが占めているから三ヶ国はイギリスに引きずられるのを怖れている。それで今回三ヶ国は慎重な姿勢をとり、我々イギリスもそれを尊重(そんちょう)せざるを得なかった」
 オールコックはさらに話を続けた。
「しかしもっと重要なのは、今回あの二人を派遣するのは最後(さいご)通牒(つうちょう)()わりであり、この通告書が長州に拒否されることによって我々は下関を正々堂々攻撃する名目が得られるということである。さらに今回の重要な任務は下関砲台の偵察(ていさつ)である」
(公使はやはり下関での戦争は不可避だと思っているのか……。しかし、とにかくボクにとっては最初の重要な仕事だ。それに船に乗って旅行へ行けるというのも楽しみだ。長州って一体どんなところなんだろう?)


 六月十八日、俊輔、聞多、サトウの三人はイギリスの軍艦バロッサ号に乗って横浜を出発した。
 さらにバロッサ号には砲艦コーモラント号も随伴(ずいはん)して、二隻の船団で長州へ向かうことになった。
 この時バロッサ号にはサトウの日本語教師の中沢見作(けんさく)も同乗しており、俊輔、聞多、サトウ、中沢の四人は協力して長州藩に提出する通告書を日本語に翻訳した。
 この通告書の内容は、要約すると
「長州藩の下関での暴挙は万国(ばんこく)公法(こうほう)に違反している。それゆえ四ヶ国は長州を討伐(とうばつ)する。四ヶ国の軍事力は長州をはるかに凌駕(りょうが)しており、長州の負けは確実である。英国留学をしていた二人を長州へ派遣するのは最後通牒である。長州は攘夷政策を捨てて開国政策へ転換せよ。さもないと討伐する」
 といったような内容であった。実際にはかなりの長文だったので翻訳はなかなか大変だった。

 翻訳作業が終わったあと俊輔はサトウに話しかけた。
「サトウさんは本当に日本語が達者(たっしゃ)ですな。恥ずかしながらワシの英語より断然(だんぜん)上手(うま)い」
 サトウは笑って答えた。
「ハハハ。おだてともっこにゃ乗りたくねえ」
 俊輔はあっけにとられてポカーンという表情になった。
(し、しまった!ウケない!)
 サトウはあせった。
「ま、まあ伊藤さんも英語でジョークの一つも言えるようになれば本物ですよ」

 どこから出て来た歴史ネタなのか筆者もよく知らないのだが、サトウはこの「おだてともっこにゃ乗りたくねえ」というタンカを外国人ながらも使った、という話を時々見かける。筆者が読んだなかで一番古そうな元ネタは平尾(ひらお)道雄(みちお)氏の「坂本龍馬・海援隊(かいえんたい)始末記(しまつき)」だと思う。ちなみに「もっこ」というのは網状(あみじょう)()んだ運搬(うんぱん)用具のことで、江戸時代には罪人を運ぶ際にも使ったらしい。

 このあと俊輔がロンドンで生活していた話をサトウにすると、やはり当然の結果として、二人が通っていたロンドン大学(ユニヴァーシティ・カレッジ)の話になった。
「そうか。サトウさんも同じ学校に通っていたのか。あの学校のウィリアムソン教授には大変世話になった」
「私も驚きました。日本人であの学校に入ったのは、間違いなくあなたたちが初めてでしょう」
「実はまだロンドンに残ってあの学校へ通っている長州人が三人いる。そうだ、この写真をサトウさんに差し上げよう。もしワシと井上が死んでしまったら、この三人にしらせてやって欲しい」
 俊輔は、五人がロンドンで撮った写真を(ふところ)から取り出してサトウに渡した。
「……わかりました。それで、彼らに何と伝えるのですか?自分たちの(あと)に続いて帰国せよ、ですか?」
「いや。そのままイギリスに残って勉強を続けろ、と伝えて欲しい。攘夷の犠牲になるのはワシと井上だけで十分だ。あの三人はきっと日本とイギリスの()け橋になってくれるだろう」
「そうですか。しかし死に急いではいけません。日本人はすぐに死のうとする。悪い(くせ)です。生きて自分で始末をつけるよう努力してください」
「ハハハ……。サトウさんは桂さんと同じことを言うなあ」
「桂サン?」
「桂さんはワシのボス(上司)で、兄のような人です」
「それにしても、なぜ長州の人たちはそんなに外国へ行きたがるのですか?長州は特別ですか?」
「ワシが思うに多分、長州には吉田松陰先生がいたからでしょう。松陰先生のこと、ご存知ですか?」
「いいえ。知りません」
「十年前、松陰先生がペリーのアメリカ船に乗って密航しようとしたのです。ワシらはそれに続いたのです」
「うーん、昔読んだフランシス・ホークの『ペリー日本遠征記』にそんな話があったような……。でも密航しようとした日本人はヨシダという名前ではなかったですね。イサギ・コーダとか、クワ何とかマンジという名前だったような……」
「ほう、アメリカの本に密航者の名前が書いてあるんですか。じゃあ松陰先生以外でも、ペリーの船に乗り込もうとした日本人がいたのかも知れんなあ……」

 吉田松陰はペリーの黒船に乗り込もうとした時、瓜中万二(かのうち まんじ)と偽名(ぎめい)を使い、お(とも)金子(かねこ)重之輔(しげのすけ)は市木公太(いちき こうた)と偽名を使った。フランシス・ホークが書いた『ペリー日本遠征記』には松陰たちの密航のことが書かれているが、二人の名前は「KWANSUCHI MANJI」と「ISAGI KOODA」と記載されている。
 俊輔は、松陰たちがそういった偽名を使ったことを知らなかったので、サトウが実はちゃんと松陰のことを話しているにもかかわらず話がかみ合わなかったのである。


 さて、俊輔やサトウたちが乗ったバロッサ号は四国の南方をまわって豊後(ぶんご)水道(すいどう)へ入り、国東(くにさき)半島の少し北方にある姫島(ひめしま)に到着した。横浜を出て六日後のことであった。
 この姫島から北へ数十キロ行くと長州の富海(とのみ)三田尻(みたじり)防府(ほうふ)東隣(ひがしとな)りにある港)がある。
 俊輔と聞多は姫島で小舟をやとって富海に上陸することにした。
 洋服を着たままでは当然(あや)しまれるので横浜で買った和服に着がえて姫島に上陸した。サトウたちイギリス側へ返事を持ってくるのは十一日後と約束して、二人は小舟に乗って富海へ向かった。

 その小舟が遠くへ去って行くのを、サトウと中沢はバロッサ号の船上で見送った。そして中沢はサトウに言った。
「おそらく長州藩はあの二人の首を斬ってしまうでしょう。私の見立(みた)てでは七割方、そうなると思います。残念ながら彼らと再会することはないでしょう」
 サトウは答えた。
「じゃあ私はあの二人が生きて帰ってくるほうに()けよう。あの二人はきっと生きのびるよ。今(ふところ)にある一分(いちぶ)(ぎん)、全部賭けてもいい」


 俊輔と聞多は富海に上陸して、それからすぐに三田尻の代官、()(かわ)平馬(へいま)を訪問した。
 二人の姿を見て湯川は驚いた。二人は町人の姿をして大小の刀も差していなかったからだ。
 聞多は湯川に事情を話した。
「実は我々二人は外国の船に乗って江戸からやって来た。船は今、姫島にいる。だが戦争をしに来ている訳ではないので、こちらから手を出してはならぬ。我々二人は外国との調停のために山口へ行きたい。どうか手配を頼む」
「事情は承知した。しかし今、長州は攘夷一色だから調停は難しいだろう。婦女子でさえも敵の襲来(しゅうらい)に備えて薙刀(なぎなた)の訓練に(はげ)んでいるぐらいだ。とにかく、二人が山口へ行けるよう通行手形を出す。それと、その風体(ふうてい)では怪し過ぎる。羽織(はおり)(はかま)と大小も貸そう」
 二人はすぐに着替えて、駕籠(かご)に乗って山口を目指した。前年下関で外国船を砲撃した場面で少し触れたが、この当時、藩主は萩の城から山口の政事堂(せいじどう)へ移っていた。

 長州はすでに京都へ向けて軍勢を出発させていた。
 俊輔と聞多が到着する十日ほど前に来島(きじま)又兵衛(またべえ)、福原越後(えちご)真木(まき)和泉(いずみ)、久坂玄瑞らの第一陣が出発した。その第一陣はちょうどこの頃、京都郊外に到着していた。さらに益田(ますだ)右衛門介(うえもんのすけ)国司(くにし)信濃(しなの)たちの第二陣が出発準備中で、その後、世子(せいし)定広(さだひろ)の本隊が出発する計画となっていた。
 長州からすれば京都の幕府、諸藩(しょはん)連合軍は前門の虎で、下関の四ヶ国連合艦隊は後門の狼という状況であり、長州はまさに「最悪の()正面(しょうめん)作戦」に突入しようとしていた。

 俊輔と聞多はこの日の夜遅く山口に入り、翌日から藩の上層部の説得を開始した。
 二人は上層部に外国、特にイギリスの事情を説明して「攘夷の不可」を()いた。世界地図を見せて海外の情勢を説明し、イギリスの海軍力も説明した。
 実は藩の上層部も外国艦隊の襲来を知らなかった訳ではない。
 すでに長崎から「四ヶ国艦隊が下関を攻めるかもしれない」という情報が入っていたのである。今回、俊輔と聞多が持ってきた情報によって、いよいよそれが事実であったと思い知らされる形となった。
 けれども、俊輔と聞多が覚悟していた通り、藩の上層部で二人に賛成する者は誰もいなかった。

 この頃の長州藩は骨の(ずい)まで「尊王攘夷」一色であった。
 そもそも藩内では「いわゆる正義派」と呼ばれる尊王攘夷色の強い急進派と、「いわゆる俗論派(ぞくろんは)」と呼ばれる穏健派(おんけんは)の対立があり、この頃は「いわゆる正義派」が藩の実権を握っていた。
 彼ら正義派からすれば尊王攘夷の方針を捨てるということは俗論派(ぞくろんは)の方針を認めることになる。今さらそんなことが彼らにできる訳がなかった。彼らの意見は「たとえ長州全土が焦土(しょうど)()しても攘夷をやるのだ」というものであった。
 それでも俊輔と聞多は説得をくり返し、聞多はその日のうちに藩主慶親(よしちか)御前(ごぜん)で意見を具申(ぐしん)することができた。そして翌日には俊輔も一緒に御前会議に出席した。

 結局のところ、俊輔と聞多は、サトウと一緒に翻訳した通告書を御前会議に提出しなかった。
 いや、提出できなかったと言うべきだろう。藩内の攘夷色があまりに強すぎて、四カ国側の強硬な意見を開陳(かいちん)することがはばかられたのだ。この強硬な通告書を見せればかえって藩内の人々は逆上(ぎゃくじょう)するであろうし、さらに言えば、二人がイギリスの手先(てさき)として見られる可能性もある。そう判断して、二人は提出しなかったのだ。
 しかしこの通告書を提出しなかったにもかかわらず、結局二人は藩内の攘夷派から「売国奴(ばいこくど)」と呼ばれ、命を狙われることになった。もし通告書を提出していたら二人はたちまち殺されていたであろう。


 同じ頃、サトウは姫島に上陸して島の様子を観察していた。
 当時姫島では製塩(せいえん)業が盛んだったようで、サトウの日記にはそのことが記されている。サトウが食料を調達するために住民と交渉してみたところ、魚はたくさん売ってくれたものの家畜(かちく)、特に牛の購入は強く拒絶された。当時の日本人の感覚では牛などの家畜は家族同然に扱っていたので、それもまあ当然の反応だろう。
 その後サトウが乗船していたバロッサ号と僚艦のコーモラント号は、この遠征の主目的である下関海峡の偵察に向かった。そして下関対岸の小倉藩領の田野(たの)(うら)から、長州が配備した砲台群を偵察した。
 このとき下関の砲台は、前年にフランス、オランダ、アメリカと戦った時よりも格段に増強されていた。
 特に主力の前田砲台が強化され、ここには20門の大砲を配備していた。長州藩が下関海峡全体に配備した大砲は120門にも及んでいた。
 バロッサ号とコーモラント号が下関海峡にあらわれると長州側は信号弾をあげて警戒態勢に入った。さらに砲台から二隻へ向けて砲弾も発射された。もっとも、二隻は長州砲台の射程圏外から偵察していたので、砲弾はかなり手前に着弾しただけだった。

 下関海峡の偵察から姫島に戻ったサトウは再び島内を散策した。そして神社の近くで四人の武士と出会った。
(この連中は間違いなく攘夷派だろう。見るからに憎たらしい表情でこちらをにらんでいる)
 サトウは武士たちの表情から一瞬でそのように感じ取ったが、一応丁寧に話しかけてみた。
「こんにちは。どちらから来られたのですか?」
「遠くからだ」
 彼らの内の一人が、そう()()てるように答えただけで、彼らはサトウが船に戻るまでずっとサトウのことをにらみ続けていた。彼らは豊後(ぶんご)から島へ渡って来た武士だったようで、イギリス人たちの様子を調べに来た攘夷派の武士だった。
 サトウは「見るのも(いや)なくらい悪党ヅラだった」と感想を書き残している。


 それから数日後の七月五日、俊輔と聞多は夜になってから人目を避けるように小舟に乗り、姫島のバロッサ号へ向かった。
 二人は沈痛(ちんつう)面持(おもも)ちで暗い夜の海を進んだ。

 無論、藩の回答は「通告を拒絶する」というものだった。
 それもただの拒絶ではなくて「三ヶ月延期して欲しい」というもので、しかも「三ヶ月延期できないのであれば仕方がない。一戦(いっせん)お相手する」という回答だった。
 聞多は藩の重役に激怒(げきど)した。なにしろ(のち)に「(かみなり)じじい」とあだ名される男である。
「戦争準備に三ヶ月かかるので待ってくださいなどと、こんな理不尽(りふじん)な回答をイギリスへ伝えられるものか! とても人の(かわ)をかぶって言える言葉ではない!」
 ただし一応この「三ヶ月延期して欲しい」というのにも理由はある。長州側の言い分としては
「長州が外国船を砲撃したのは朝廷と幕府から攘夷実行を命じられたからである。それで今回の通告についても朝廷と幕府に確認する必要があるので、三ヶ月延期して欲しい」
 というものであった。

 しかしそうは言っても、所詮イギリスからすれば日本の国内事情など意に(かい)するところではなく、結局は「長州が下関での外国船砲撃をやめるのか、やめないのか」関心があるのはそこだけなのである。このような長州側の理屈が通用するはずがなかった。
 俊輔は、聞多が藩の重役を散々にののしっているのを見て、聞多をなだめた。
「確かにお主の言う通りだが、我々は死を決してロンドンから戻ってきたのではないか。たとえどのような返事であっても、それをサトウさんに伝える義務がワシらにはあるだろう」
 俊輔からそう言われて聞多も渋々(しぶしぶ)バロッサ号へ向かうことに同意したのだった。

 船室にいたサトウは、俊輔と聞多が生きて帰って来たことを聞いて、急いで二人のもとへ駆けつけた。
「伊藤さん、井上さん、よく戻って来ました。我々はあなたたちが死んだと思って、明日横浜へ帰るつもりだったのですよ」
 俊輔は力なく微笑(ほほえ)んで答えた。
「生きて戻りはしたが、そちらが期待する回答とは程遠(ほどとお)いものだ……」
「とにかく、詳しい話は艦長室で聞きます」
 サトウは二人をダウエル艦長のところへ連れて行った。

 そして二人は艦長とサトウの前で長州藩の回答を述べた。ただし「三ヶ月延期できないのであれば仕方がない。一戦(いっせん)お相手する」という部分は言わなかった。
 回答を聞いた艦長は二人に()(ただ)した。
「その回答を文書で持ってきてないのか?それは日本の習慣なのか?」
 これに聞多が答えた。
「朝廷と幕府に確認して最終的な回答を渡すまでは、藩主は文書で回答するつもりはない、とのことである」
「四ヶ国はこのような回答に満足するはずがない。藩主へそのように伝えなさい」
「朝廷と将軍からの攘夷実行の命令書を横浜へ送っても良いか?」
「どうしようと藩主の自由である」
 会談は以上で終了した。

 この会談を通訳したサトウは、この日の議事録(ぎじろく)で次のように書いている。
「二人の答えを聞いていると、本来の藩主の答えはもっと強硬な内容だったのではないか?と私には思えてならない」
 どうやらサトウには長州の本音が見えていたようである。
 このあと二人が船を去る前に、サトウは二人と少しだけ話をした。
 俊輔はサトウに長州藩の事情を説明した。
「もともと藩主は外国人に好意をよせていたのだが、今では攘夷に深入りし過ぎて取り返しがつかなくなってしまったのだ。このままいけば、おそらく戦争は避けられないだろう」
 俊輔は続けて言った。
「イギリスや諸外国は将軍を見限って大坂湾へ行き、直接朝廷を相手にしたほうが良い。我々が幕府を批判するのは幕府が横浜や長崎といった貿易港を独占しているからだ。これは我々だけではなくて多くの日本人がそう思っているのだ」

 そして俊輔と聞多はバロッサ号から去って行った。
 サトウはバロッサ号の船上から二人を見送った。後年サトウは次のように手記で語っている。
「これは私が反大君(タイクン)(将軍)派の人々と腹蔵(ふくぞう)なく話し合った最初の機会であった。伊藤たちは夜のうちに再び去って行った。ヨーロッパからわざわざ帰って来て藩主を説得できなかった二人は大変気の毒だったが、どうしようもなかった」


 七月九日、横浜に戻って来たサトウはオールコックに交渉の経緯を報告した。
 報告を聞いたオールコックはさっそく四ヶ国艦隊を下関へ派遣する手続きに取りかかった。
 英仏蘭米の四ヶ国代表は協議して「下関の砲台を破壊して、下関海峡の通航を確保する」という覚書(おぼえがき)を作成した。
 この頃フランスの公使はベルクールからロッシュに変わっていた。
 ロッシュはこの年の三月、日本に着任した。以後、フランスは幕府寄りの姿勢を強めていくことになる。ちなみにオランダ代表は前年下関で砲撃をくらったポルスブルック総領事で、アメリカ代表はプリュイン公使である。もっともアメリカは南北戦争の都合もあって、商船一隻しか四ヶ国艦隊に参加させられなかった。

 七月十八日、四ヶ国代表は幕府高官に連合艦隊の出発を通告するため、横浜で会談をおこなった。
 実際のところ、四ヶ国代表、特にオールコックと幕府との間で下関遠征について話し合うのはこれが初めてではなく、ここ数ケ月、何度も話し合われてきた。そして幕府はその都度(つど)、次のように答えていた。
「四ヶ国が長州を征伐しようとする気持ちはわかるが、長州の処分は幕府がやるので外国が手を出すのは控えてもらいたい」
 「内政(ないせい)不干渉(ふかんしょう)」という一般的な通念から見ても、幕府の回答はもっともであるように見える。ただし、この幕府の回答が一筋(ひとすじ)(なわ)でいかないのは、幕府は「長州の処分は幕府がやる」と言いつつも実際幕府は実力をもって長州を処分するつもりはなく、とにかく「様子を見る」=「何もしない」というのが幕府の基本方針なのである(実際に長州に手を出して痛い目に()うのは、もっと先の話である)。
 確かに幕府が長州に実力行使をした場合、国内で内戦を引き起こす恐れもある。また「長州は幕府に()()わって外国船を砲撃している」という見方も日本人の間では強かったので、その長州を幕府が攻めるとなるとそういった人々からの批判を招く恐れもある。
 そして一番大きな理由は、幕府には長州を処分できるだけの軍事力が無かった、ということだった。
 それゆえ、幕府は「様子を見る」=「何もしない」という方針を堅持(けんじ)していた。四ヶ国艦隊の下関遠征についても反対意見は述べるものの、別にそれを実力で阻止するつもりもない。
 オールコックは「幕府は長州に対して何もする気がない」ということを見抜いていた。
 だからこそ自分たちの手で長州を征伐する気になったのである。


 ところが、この幕府との会談をおこなっている最中に思わぬ連絡が届いた。
 横浜鎖港談判のためにヨーロッパへ行っていた「池田使節」が、この時ちょうど横浜へ帰ってきたのである。

 慶喜が「池田使節が三、四年海外を回っている間に、人心も落ち着くだろう」と見込んで送り出したのに、あにはからんや彼らはたった半年で帰って来てしまったのだった。
 しかも彼らは横浜鎖港を英仏に要求するどころか、上海でオールコックに説教され、フランスではフランス政府に説教され、結局西洋人の「自由貿易主義」に感化されてしまい、フランス政府と貿易拡大を認めるような条約を結び、さらに「フランス艦隊の力を借りて下関を叩く」という条約も結んでしまった。
 この辺りの事情は使節に参加した田辺太一(たいち)の『幕末外交談』に詳しいが、田辺は当時をふり返って
「恥ずかしさも(きわ)まって、思わず背中一面に汗がにじみ、涙がとめどなく流れてくる」
 と述べている。フランス政府の口車(くちぐるま)に乗せられたことを()やんでの発言と思われる。そして彼らはイギリスへは行くことなく、そのまま日本へ帰って来たのであった。

 もしこのフランスとの条約を幕府が認めれば(批准(ひじゅん)すれば)フランスはオールコックが計画した四ヶ国連合艦隊から外れることになり、計画は白紙になってしまう。
 オールコックの下関遠征の計画は、俊輔と聞多の帰国によって一度延期され、今度は池田使節の帰国によって二度目の延期に直面したのである。

 しかしながら七月二十四日、幕府は池田使節が結んできたフランスとの条約を破棄すると四ヶ国に伝え、その数日後、下関へ向かう英仏蘭米の四ヶ国艦隊は横浜を出発することになったのである。
 ちなみにこの一ヵ月前にイギリスのラッセル外相はオールコックから下関遠征の計画を知らされ、オールコックに対して「下関遠征の中止」を命令していた。
 日英の全面戦争になる可能性が、ないとは言えなかったからである。
 しかしこの物語で何度か書いているように当時日本とヨーロッパの移動には約二ヶ月かかったので「下関遠征の中止」の命令はまだオールコックの手元に届いていなかった。それが届くのは一ヵ月後のことである。
 もし俊輔たちの帰国や池田使節の帰国のような延期案件がもっと重なっていれば、四ヶ国艦隊の出発前にラッセル外相からの「下関遠征の中止」命令が横浜に届き、下関遠征は中止になっていただろう。
 
 遠征が計画通り実行されたのは偶然(ぐうぜん)産物(さんぶつ)と言って良く、オールコックにとっては幸運であり、長州にとっては不運であったと言える。
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