第3話 俊輔と来原

文字数 12,951文字

 生麦事件から四日後(八月二十五日)、横浜と東海道をむすぶ横浜道の中間にある「野毛(のげ)切通(きりどお)し」から、一人の武士が恐ろしい表情をして横浜の町を(なが)めていた。ここは高台にあるため横浜の町の様子がよく見えるのだ。

 男の名は来原(くるはら)良蔵(りょうぞう)といい、長州藩士であった。

 この来原は伊藤俊輔の恩師的な存在であり、桂小五郎より年上でありながら義理の弟(来原の妻が桂の妹)であり、()き吉田松陰の無二の親友だった男である。
 長州藩の中では洋学(つう)として名が通っていた彼は、サトウたち西洋人の町であるこの横浜を焼き払って攘夷(じょうい)のさきがけになる決心をかためていた。
 なにしろこのこと自体、唐突(とうとつ)な話に聞こえるだろうが、さらに唐突な話をすると彼は二ケ月ほど前、京都にいた時に藩内の意見対立を見かねて切腹する覚悟をかためていた。しかし藩の上層部から(さと)され、半月ほど前に江戸の有備館(ゆうびかん)(藩の学校)御用(ごよう)(かかり)を命じられ、すぐに京都を出発して江戸へ向かった。
 東海道を下る途中、彼は薩摩藩一行とすれ違った。もちろん生麦事件の(ほう)にも接した。
 他の長州藩士たちが「薩摩に先を越されてしまった!」と(なげ)いたのと同じように、彼も嘆いた。元々は洋学びいきであるのだから本心から「その行為」が正しいと思っている訳ではないが、負けん気は人一倍強い。「武士たるものは他人に(おく)れをとることは決して許されない」、それを信条とする男である。
 そしてなんといっても、そもそも二ケ月前にすでに命を捨てる決心をしている男なのだ。
 彼は江戸へは行かず、このまま横浜の関内(かんない)潜入(せんにゅう)して、西洋人を何人か殺して攘夷のさきがけをつとめ、自分も死のうと思った。
 しかし同行者の佐世(させ)八十郎(やそろう)(後の前原(まえばら)一誠(いっせい))に止められ、後日再起(さいき)するため野毛(のげ)切通(きりどお)しから「敵地視察」をするだけにとどめて、ひとまず江戸へ向かうことにした。

 以下、しばらくはこの物語のもう一人の主人公である伊藤俊輔(しゅんすけ)(後の伊藤博文(ひろぶみ))の生い立ちを述べる。
 それを述べることによって「なぜ来原は死のうとしているのか?」ということも追々(おいおい)わかってくるだろう。


 俊輔は天保(てんぽう)十二年(1841年)九月二日、周防(すおう)熊毛(くまげ)束荷(つかり)村で生まれた。現在の山口県(ひかり)市に属する地域である。ただし九歳の時に一家で(はぎ)へ移ったので、のちの俊輔の出世につながる人脈(じんみゃく)や教育はほとんど萩で(さず)かっていると言っていい。
 幼名は林利助(りすけ)といった(ちなみにこれ以降、俊輔は何度か名前を変えることになるが、(わずら)わしいのでこの物語では博文(ひろぶみ)に変わるまでずっと「(しゅん)(すけ)」で通すことにする)。父は林十蔵(じゅうぞう)といい、母は(こと)という。兄弟はおらず一人っ子だった(ちなみにサトウは六男五女の三男である)。

 俊輔の一家は百姓の血筋(ちすじ)だった。
 幕末には渋沢(しぶさわ)栄一(えいいち)(こん)(どう)(いさみ)土方(ひじかた)歳三(としぞう)のように百姓から武士に成り上がった人間は何人かいるが、それでも彼らの場合はある程度の財力(ざいりょく)(ゆう)していたり、武芸に(はげ)む余裕があった。
 しかしながら俊輔の場合はそういったレベルの百姓ではない。
 まさに貧農(ひんのう)である。もちろん武芸に励んだこともない。なにより俊輔が束荷(つかり)村を出ることになったのも、父の十蔵が破産して村にいられなくなったからだった。

 ところが人の運命などわからないもので、十蔵は萩に出て足軽(あしがる)の伊藤家に(つか)えて、その信用を得ることに成功した。そして伊藤家には跡継(あとつ)ぎがいなかったために十蔵が養子に入り、この「足軽の伊藤家」を相続することになった。これにより農民の子の林利助(りすけ)が、足軽の子の伊藤「俊輔」となったのである。

 安政三年(1856年)、十六歳の俊輔は海岸警備の仕事につくため相模(さがみ)宮田(みやた)へ出張した。現在の地名でいえば京急(けいきゅう)久里(くり)(はま)線の三浦海岸駅のすぐそばのあたりに宮田の海防(かいぼう)陣屋(じんや)が置かれていて、足軽の俊輔も長州藩の手勢(てぜい)の一人として一年程ここに駐屯(ちゅうとん)することになった。
 浦賀(うらが)はここから少し離れたところにある。そこにペリーの黒船が来航したのは三年前のことで、幕府がこの辺りの海防を重視して長州藩に海岸警備を命じたのだ。

 この宮田で俊輔は、上司の来原良蔵と出会った。
 来原は、のちに俊輔を指導する立場となる吉田松陰や桂小五郎と昵懇(じっこん)の仲で、松陰より一歳、桂より四歳年上(としうえ)である。俊輔はこの三人から強い影響をうけて成長していくことになる。
 ちなみにあと一人、俊輔の上司となって強い影響をあたえる男としては高杉晋作もいるが、これは「指導」と言えるかどうかちょっと微妙である。この場合は、俊輔も加わった(あば)れん(ぼう)グループにおける「親分と子分」と言うべき関係であろう。
 司馬遼太郎大先生はその作品の中で俊輔のことを「俊輔自身があこがれを(いだ)いていた豊臣秀吉と同様に、主筋(しゅすじ)が良い」と述べているが(秀吉と信長の関係のことであろう)確かに来原、松陰、桂、高杉に(つか)えた俊輔は「主筋が良い」と言うべきだろう。

 俊輔はこの宮田で来原から文武両面においておおいにしごかれた。
 朝は日が(のぼ)る前から叩き起こされ、ローソクの火をあかりにして本の読み方を教え込まれた。そのあと海岸へ出て軍事教練(きょうれん)をうけて、武士の精神を徹底的に叩き込まれた。
 軍事教練の前に俊輔が草履(ぞうり)をはこうとすると
「草履をはくな!戦場において草履が無い時はどうする!とっさの時にそなえて(つね)日頃(ひごろ)から裸足(はだし)で行け!」
 と怒鳴(どな)られ、寒中(かんちゅう)稽古(けいこ)の際に俊輔が
「今日はまた格別(かくべつ)寒いなあ」
 と口にすれば
「寒いと口にして天気が変わるものか!だったら最初から寒いなどと口にするな!」
 と怒鳴られるといった始末(しまつ)である。

 ただし来原は精神論ばかりを振り回すただの単細胞ではない。
 物質面においては西洋の学問がすぐれていることを認める柔軟な思考も備えていた。その点、彼の親友である松陰と同じである。ちなみに松陰との関係で言えば、松陰が脱藩(だっぱん)して東北周遊(しゅうゆう)の旅へ出ようとした際に、彼は親友の松陰をかばって藩から罰をうけたこともある。
 松陰は藩から何度か(とが)めをうけた人間であるが、その点では来原も似たり寄ったりである。以後、彼も何度か藩から(とが)めをうけることになる。この二人は「物事(ものごと)をゆるがせに出来ない」という頑固(がんこ)な共通性を(ゆう)する友人同士であった。実際その特性のためにこの二人は命を(ちぢ)めたとも言えるのだが、桂のみが、それとは正反対の特性を有していたので命を(たも)つことになった。

 来原はこの相模警備の際に洋式の軍事教練を(こころ)みた。
 そしてこのことが藩から(とが)められて、(かい)(にん)された。
 解任の理由は「敵である西洋の軍事教練をまねるとはケシカラン」といったところだった。このあと横浜が開港されて攘夷熱が盛んになる、それよりかなり前の時期にあたるこの時でも、一般的な対外感情は似たようなものであった。
 来原自身としては
「西洋のすぐれている点は率直(そっちょく)にすぐれていると認めて、その本質を真正面から突きつめることが重要であって、それのどこに()じる理由があるか」
 といった思考のもとで洋式の軍事教練を試みたのだが、藩の上層部にはそういった柔軟な発想を受けいれる度量(どりょう)はなかった。官僚組織というのは今も昔も本質的にそのようなものであろう。

 俊輔はこの時来原から
「萩へ帰ったら松陰の松下(しょうか)村塾(そんじゅく)でさらに勉学をしろ」
 とすすめられて紹介状を書いてもらった。もともと俊輔は松陰の家の近所に住んでおり、松陰が主催(しゅさい)する前の松下村塾で学問を学んでいたこともあって、この近所では有名な(札付(ふだつ)きと言うべきかも知れないが)松陰の存在は知っていた。ただし正式に松陰に入門するのは来原に紹介してもらってからのことである。

 吉田松陰については、近年大河ドラマで取りあげられたこともあるので、ここではあまり深く(しる)す必要はなかろうと思う。
 先ほど松陰の「脱藩、東北周遊」の話に少し触れたが、その後の「下田(しもだ)(とう)(かい)(下田でペリーの黒船に乗り込もうとして罰せられた事件)」の話などは特に有名であろう。俊輔が入塾した頃(安政四年の秋頃)はまさに松陰の松下村塾に多くの青年たちが(つど)いつつある頃だった。
 その昔、徳富(とくとみ)蘇峰(そほう)が書いた著書『吉田松陰』のなかで
「松下村塾は、徳川政府顚覆(てんぷく)(転覆)の(たまご)孵化(ふか)したる保育場の(ひとつ)なり」
 と有名なセリフを残したように、この塾には高杉晋作、久坂玄瑞(げんずい)といった後年(こうねん)日本中を揺るがすことになる怪物の卵たちが通っていた。もちろん俊輔も、スケールは別として、その卵の一つであったと言えよう。

 松陰の思想や人間性を解説するなどという途方(とほう)もない作業を筆者はするつもりがないので(それでもおそらく西郷隆盛(たかもり)とくらべれば、そこまで複雑でもないように思うが)彼がこの頃考えていたことをごく簡単にまとめると
「日本を外国に(おか)されない強い国にしなければならない。そのために自分が出来ることは何でもする」
 彼はこの事だけを考えて松下村塾で、あるいは野山獄(のやまごく)で、さらには伝馬(てんま)(ちょう)(ごく)煩悶(はんもん)し続けていたように思われる。
 俊輔は松陰から塾で教えをうけるだけでなく、時には松陰の手足となり、時には松陰の耳目(じもく)となって各地へ飛んだ。最初に向かったのは京都で、次は長崎だった。そういった活動を続けていた俊輔の特性を松陰が
「なかなかの周旋(しゅうせん)()(交渉人あるいは仲裁(ちゅうさい)人)になりそうな」
 と評したことがあるが、これは将来俊輔が大政治家(初代総理大臣)になることを松陰が見越していた、というエピソードとして有名である。

 実は俊輔が長崎へ行ったのは、再び来原の下に付いて洋式軍学を学ぶためだった。安政五年(1858年)十月のことである。
 それ以前から長崎には幕府の長崎海軍伝習(でんしゅう)所が置かれていて、オランダ人から教育をうけていた。今回、長州藩の上層部はそこで自藩の者に洋式軍学を学ばせるために来原を派遣したのだが、俊輔はその手下として来原に同行したのだった。

 一年ちょっと前に「勝手に洋式の軍事教練を試みた」として職を()かれた来原は、この時どう感じたであろうか?
 「何を今さら」と感じたであろうか?それとも「とにかく藩の上層部が西洋のすぐれた知識に目を向けるようになったのは前進だから()しとしよう」と感じたであろうか?
 おそらくその両方であったろう。
 ともかくも、来原と俊輔は長崎で半年ほど洋式軍学を学ぶことになった。
 余談ながら(のち)に下関へイギリスをはじめとする連合艦隊をさしむけることになるイギリス公使のオールコックが長崎に初来日したのは、この俊輔の長崎滞在中のことで(安政六年五月四日)、俊輔がそれを止めようとして横浜で彼と会うのは、この五年後のことである。

 こういった長崎での話はさておき、当時の江戸と京都に目を転じてみると、この頃まさに「安政の大獄(たいごく)」の嵐が()()れていた。
 この「安政の大獄」には、サトウの生い立ちの項で書いた日米修好通商条約の調印(ちょういん)問題(しかも朝廷の許可(きょか)無しの調印)、さらには将軍継嗣(けいし)問題(将軍家定(いえさだ)跡継(あとつ)ぎ問題)も関係しているが、ここではそういった細かな解説は割愛する。
 とにかく一言(ひとこと)でいえば「井伊直弼(なおすけ)強権(きょうけん)発動(はつどう)して尊王攘夷派を弾圧(だんあつ)した」ということである。そしてこのことによって松陰も幕府の命令で江戸へ送られてしまった、ということが俊輔にとっては一番ショックであった。
 松陰が萩を()って江戸へ向かったのは安政六年(1859年)五月二十五日である。
 俊輔が長崎での修行を終えて萩へ帰ってきたのは六月十七日のことで、すでに松陰は江戸へ送られたあとだった。俊輔としては無念であったに違いない。

 萩に戻った俊輔は来原から義兄の桂小五郎を紹介され、これ以降、俊輔は桂の手下(てした)として藩の仕事に従事(じゅうじ)することになる。前述したように、来原の妻は桂の妹でお(はる)といい、この時すでに長男の彦太郎(ひこたろう)が誕生しており、彼は維新後(先に木戸家を()いだ次男、正二郎(しょうじろう)の死後)木戸家を継いで木戸孝正(たかまさ)と名乗るようになる。そして彼の長男が先の大戦の時に内大臣(ないだいじん)をつとめた侯爵(こうしゃく)木戸幸一(こういち)である。

 九月十五日、桂と俊輔は松陰のあとを追うように萩を出発して江戸へ向かった。江戸へ着いたのは十月十一日である。
 そしてその十六日後の十月二十七日、松陰は伝馬町の獄で処刑された。
 
 ()はたとひ武蔵(むさし)野辺(のべ)(くち)ぬとも (とどめ)(おか)まし大和魂(やまとだましい)

 有名な彼の辞世(じせい)の句で、伝馬町の獄で最期(さいご)に書き残した『(りゅう)魂録(こんろく)』の冒頭に書かれている。
 松陰の死についても、その解説にあまりスペースを()くことはできないが、筆者が思うに、松陰が高杉へ送った有名な手紙のセリフ
「死して不朽(ふきゅう)見込(みこ)みあらばいつでも死ぬべし。(いき)大業(たいぎょう)の見込みあらばいつでも()くべし。僕が所見(しょけん)にては生死は度外(どがい)(おい)て、(ただ)(いう)べきを(いう)のみ」
 おそらくこの通りであったろう。
 みずから死を望むわけではないが、死ぬべき時が来たら見事に死んでみせる、と。
 (くつ)(げん)(中国の戦国時代の人で身投(みな)げして諌死(かんし)したことで有名)を尊敬していた松陰としては、自分が死んでみせることによって長州の人々、ひいては日本全国の人々を覚醒(かくせい)させることを切望(せつぼう)した、やはり諌死であったろうと思う。

 処刑の二日後、桂や俊輔たち四人の長州人は小塚原(こづかっぱら)回向院(えこういん)で松陰の遺骸(いがい)を引き渡された。一同は泣きながら血で染まった首と胴を水で洗いきよめ、裸だった遺骸に自分たちが着ていた服を着せた。
 俊輔は自分の(おび)()いて師の体にむすびつけた。そして持参した大甕(おおがめ)におさめて、松陰より少し前に処刑されていた橋本左内(さない)の墓の隣りに埋葬(まいそう)した。
 この時まだ俊輔は十九歳(満年齢では十八歳)である。
 この小塚原で(じか)に松陰の無残(むざん)な遺骸に(さわ)った俊輔の(いか)りは如何(いか)ばかりであっただろうか。

 ただしこの怒りは俊輔だけが抱いていたわけではない。
 この約四ヶ月後、「安政の大獄」で大弾圧をうけた志士(しし)たちの怒りが爆発し、桜田門外で井伊直弼(なおすけ)の首がとんだ。
 そしてこの「桜田門外の変」によって幕府の威信(いしん)は一気に崩れ去り、時代の流れは大きく揺り戻されるのである。

 ただし、その揺り戻しが来る前に、長州では一人の男が注目すべき政治活動を開始した。
 藩の重職(じゅうしょく)にある長井(ながい)雅楽(うた)が「航海(こうかい)遠略(えんりゃく)策」を唱えて公武(こうぶ)合体(がったい)(朝廷と幕府の関係を取り結ぶ)に乗り出したのである。
 この航海遠略策の内容を大ざっぱに言ってしまえば
「朝廷と幕府の関係を良くして国論の一致をはかり、その上で堂々と開国して貿易によって国を()まし、富国(ふこく)強兵(きょうへい)をすすめて外国に(あなど)られない国をめざす」
 といったような提言(ていげん)である。
 まことに常識的な政策提言で、当時の心ある人々は皆このように考えており、実際維新後の明治政府もこの形で(この中から幕府だけを(はず)した形で)国家運営をすすめていくことになる。
 長州は藩主慶親(よしちか)の「そうせい」という了承のもと、この長井の航海遠略策を藩論として()し進めることに決定した。そして長井は朝廷と幕府に入説(にゅうぜい)して、その両者から好感をもって受けいれられた。
 長井の活躍によって長州の名声は大きくあがったのだ。
 そして来原良蔵も、この長井の策に賛同した。
 「来原が長井の親戚であったこと」も理由としてはあるかもしれないが、実際のところは「その考えが来原と同じだったから」というのが一番の理由であっただろう。もともと「外国の物でも良い物は取り入れろ」という開国論が来原の考えであったし、長井の策に反対する理由が来原にあるはずはなかった。

 ところが、この長井の策に松陰の弟子たちが猛然(もうぜん)と反対した。
 特に久坂や高杉が強硬に反対して「長井を斬る」とまで言い出した。そして俊輔も、このグループに入っていたのである。
 松陰の考えていた政策は長井の政策とそれほど違いがあった訳ではない。
 松陰も基本的には開国策に賛成している(というかむしろ積極的な海外進出を主張している)。ただし松陰の場合は、その頃はまだ井伊直弼が生きて「大獄」の指揮をとっていたので幕府そのものが信用できず、それゆえ幕府がすすめる開国策も受けいれられなかった。

 少し余談を述べると、これは筆者が以前から気になっているのだが、長井に対しての人物評価には不思議な共通点がある。長井は吉田松陰から奸物(かんぶつ)腹黒(はらぐろ)い悪人)と見られていた。そして西郷吉之助(きちのすけ)(隆盛)からも「奸物(かんぶつ)長井を斬るべし」と言われていた。
 不思議な共通点である。
 現代の目線から見ても長井はごく当たり前の政策を提言した常識的な人間に見えるし、この薩長の両巨頭(りょうきょとう)である松陰と西郷から「奸物(かんぶつ)()」されるような人間には見えない。
 考えられるケースとしては、松陰の場合は「大獄」の渦中(かちゅう)にあったという危機的な意識から出たもの、ということ。そして西郷の場合は、この「奸物長井を斬るべし」と訴えていたのは奄美(あまみ)大島から戻って来て(生麦事件の場面でも少し触れたが)久光の命令を無視して上京した時のことで、政治的ブランクがあったせいかこの頃の西郷はやや暴走しがちであったから、これもその暴走の一つだったのだろうということ。しかしながら実際の真相(しんそう)は謎である。

 とにかく長井の策は「幕府にとって好都合で、幕府を助ける策である」という点が問題視され、策の具体的な中身(なかみ)はさておき、各方面から糾弾(きゅうだん)されることになった。
 西郷は結局また島送りになったので長井に害を加えることはなくなったが、松陰門下の久坂たちは虎視(こし)眈々(たんたん)と長井排除の機会をねらっていた。

 さはさりながら、結局のところ長井の航海遠略策を(ほうむ)り去ることになったのは、やはり薩摩であった。
 「久光上洛(じょうらく)」が長井の策を吹き飛ばしてしまったのだ。
 久光自身は「過激な攘夷は不可」として、消極的ながらも開国に賛成する立場であり、公武合体にも賛成しているので基本的には長井の考え方と大して違いはない。ただ、それを主導する原動力を「長州から薩摩に変える」という違いしかない。そして何より久光のほうがより説得力を(ゆう)していたのは、長井は口舌(こうぜつ)をもってそれを()いただけだったのに対し、久光のほうは手勢(てぜい)と大砲を引きつれて来ていたからだった。
 かてて加えて「久光上洛」によって攘夷派がかえって勢いづいてしまった。
 久光が手勢を引きつれて来たのは「久光は攘夷を実行するつもりだ」と攘夷派が信じ込んでしまったのである。
 過激な攘夷は不可、としている久光がそんなことをするはずがない。いや、確かに久光は生麦で「それ」をやってしまったので、そのせいで人々はますます「久光は攘夷の王者だ」と勘違いしてしまうのだが、それはひとまず脇へおく。
 とにかくこの「久光上洛」によって、長州では久坂たち攘夷派の勢力が大きな力を得ることになった。そして長井は失脚(しっきゃく)することになったのである。


 ここから時代の流れの大きな揺り戻しが本格化する。
 そしてそれを主導することになるのは長州なのである。
 その手始めに、久坂たち六人は長井を斬り殺そうとして伏見へやって来た。この暗殺団一行(いっこう)には俊輔も加わっていた。
 文久二年(1862年)七月一日のことで、生麦事件の二ヶ月ほど前のことである。長井はすでに藩から帰国謹慎(きんしん)(めい)をうけて江戸から萩へ向かっていた。そしてその途中、この伏見に立ち寄るはずだった。

 俊輔には武道の心得(こころえ)はまったくない。まさか自分が人を斬り殺すことになろうとはこの直前まで考えもしなかっただろう。
 しかし来原から武士のなんたるかを叩き込まれて、自分もその武士になることを切望している俊輔としては「いざとなれば人を殺すし、いざとなれば切腹しなければならない」という自覚はあった。
 なにより足軽である俊輔が正式な武士となるためには、とにかく手柄(てがら)が必要なのである。そして長井は師・松陰が(かん)(ぶつ)()していた相手であり、久坂などの仲間たちも「奸物長井を斬るべし」と言っているのだから反対する理由はまったくない。六人がかりであれば反撃されても自分が斬り死にすることはないだろう。俊輔はそう考えた。

 この長井雅楽(うた)暗殺計画を主導したのは久坂玄瑞(げんずい)である。以後、久坂は尊王攘夷の名のもとに数々の暗殺に手を染めていくことになるのだが、実は俊輔もその頃には「実行犯」の一人として活動することになる。今回の長井暗殺はその第一歩である。ただしこの時の俊輔は、将来自分が(じか)に人を暗殺することになるとは、まだ思っていなかった。

 なにより、この松陰門下生たちは「尊王攘夷が正義である」ということをかけらも疑っていない。
 松陰の教えがそこまで過激なものであったかどうかはともかくとして「安政の大獄」による大弾圧の反動も加わって(そこには「松陰の(かたき)」という感情も加わっているのだが)その過激さはどんどんエスカレートしていくのである。
 俊輔たちは長井の通り道と(もく)されていた守山(もりやま)草津(くさつ)では、長井をとらえられなかった。けれども伏見まで追いかけてきて、ようやく長州藩の本陣(ほんじん)銭屋(ぜにや)で長井が乗ってきた駕籠(かご)をみつけた。
「よし、とうとう長井をみつけたぞ。皆ぬかるなよ」
 一同に声をかけて久坂は刀を抜いた。一同は「おう」とこたえて刀を抜いた。俊輔も意を(けっ)して刀を抜いた。
 ところが、その駕籠の中に長井は乗っていなかった。駕籠はおとりだったのだ。
 長井襲撃の噂はすでに長井自身の耳に届いていた。
 彼は駕籠をおとりにしてそのまま進ませ、自分は南の奈良へ迂回(うかい)して大坂に出て、それから萩へ向かったのである。

 藩は久坂たちの行為を(とが)めなかった。
 この五日後、京都河原町(かわらまち)の長州藩邸(現在のホテルオークラのあたり)で藩主慶親(よしちか)および藩の重役が列席する「御前(ごぜん)会議」が開かれた。
 ここで一転して、以前の決定が(くつがえ)された。
 今度は慶親の「そうせい」という了承のもとに長井雅楽(うた)航海(こうかい)遠略(えんりゃく)策を破棄(はき)し、「(ほう)(ちょく)攘夷(じょうい)」に藩論を転換することが決定したのだ。
 その新しい藩論となる攘夷のために長井を斬ろうとした久坂たちの行為が(とが)められるはずもなかった。ちなみに奉勅攘夷とは「(みかど)(孝明天皇)からの勅命(ちょくめい)の通り、攘夷を()し進める」という意味である。

 この同じ頃、薩摩の久光は江戸で幕府に政治改革を強要していた。久光が京都を留守にしているあいだに長州が京都の朝廷をおさえるかたちになった訳である。
 一方、久光は京都へ戻る途中で生麦事件を引き起こし、イギリス艦隊からの報復攻撃にそなえるため鹿児島へ帰国せざるを得なくなり、京都で政治活動をしている余裕(よゆう)はなくなった。そのためこれ以降、しばらく長州の独走が続くことになる。
 そして長井雅楽(うた)はこの約半年後、長州で切腹させられることになるのである。


 これでようやく冒頭の話に戻ることができる。
 この俊輔の生い立ちを見てきたことによって、生麦事件の四日後に来原が横浜を焼き払って攘夷のさきがけをやろうとしていた謎、すなわち「なぜ来原は死のうとしているのか?」の理由がわずかながらも見えてきたのではなかろうか?

 来原は横浜を視察したこの日、江戸桜田の長州藩邸に入った。
 来原に同行してきた佐世(させ)は俊輔と同じ松下村塾生である。桜田藩邸で俊輔は佐世から「来原の様子がおかしい」という話を聞いた。
 俊輔はここ三年程ずっと桂の下で働いている。来原とは最近あまり会ってない。
「桂さん。佐世さんから来原さんの様子がちょっと変だと聞いたのですけど……」
 と俊輔は桂に話しかけた。しかし桂は「そうか」と言うだけでそれ以上、この話に触れようとしない。

 桂は来原の義兄である。俊輔に言われなくてもここ数ヶ月、来原の様子がおかしいことなどすでに承知している。そしてその理由も桂にはわかっている。
 長州が長井の開国策を捨てて攘夷に方針転換した以上、その長井の開国策に賛同していた来原が苦悩するのはやむを得ない。
 しかし桂も苦悩していたのである。なぜならその長井の開国策を排撃(はいげき)して、藩論を攘夷に方針転換させるように一番尽力(じんりょく)していたのが桂自身であったからだ。
 彼はそれが正しい政策であると信じてやってきたのである。
 長井に対する(うら)みを晴らすなどという私怨(しえん)でやってきたのではない。

 というか、むしろ実を言えば桂は、また俊輔もそうなのだが、半年ほど前に長井から窮地(きゅうち)を救われたことがあった。
 詳しい経緯は割愛するがこの年の一月十五日に起きた「坂下(さかした)門外(もんがい)の変」(老中(ろうじゅう)安藤信正(のぶまさ)が浪士たちに襲われた事件)に桂と俊輔が連座していたと幕府から疑われた際に、当時航海(こうかい)遠略(えんりゃく)策で幕府から重用(ちょうよう)されていた長井が桂と俊輔に対する嫌疑を晴らすのに一役(ひとやく)買ったのだった。それを思えば、桂が開国策を排撃して藩論を攘夷に方針転換させたのは(更に言えば伏見で俊輔が長井を斬ろうとしたのも)恩を(あだ)で返す行為であったと言えるかもしれない。

 けれども、くり返しになるが桂は「奉勅攘夷」、すなわち「将軍家茂(いえもち)を京都へよんで天皇の前で攘夷を誓わせる」という政策が正しいと信じてやっているのである。
 私情(しじょう)においては来原や長井が気の毒であることを禁じ得ないが、藩の重役で責任ある立場の桂としては彼らに手を差しのべることはできない。
(まったく、なぜ京都の重役連中は来原を江戸へなど寄こしたのか。萩へ帰せば良かったのだ。子どもの顔でも見れば少しは落ち着くだろうし、過激な考えも抑えるだろうに……)
 もともと(うつ)になりやすい性格の桂は、来原たちの窮状(きゅうじょう)に心を痛めてますます憂鬱(ゆううつ)になっていた。しかし桂がそんな心の痛みを俊輔に対して明かすわけもなく、元来(がんらい)陽性の気質で、しかも多少図太(ずぶと)いところがある俊輔としては、桂の苦しい胸のうちなど察せるわけがなかった。

 二日後、来原は佐世のところへ来て、決然として言った。
「俺は脱藩する。そして横浜へ攻め入って討ち死にするつもりだ」
 佐世は再び来原を止めようとした。けれども来原はそれを聞き入れず麻布(あざぶ)の藩邸(現在の六本木ミッドタウンがある辺り)へ向かった。横浜へ攻め入る同志を(つの)るために。

 佐世は急いでこのことを桂にしらせた。そして桂と連れ立って麻布の藩邸へ行き、来原に思いとどまるよう説得した。が、来原は聞き入れず、桂に言い返した。
「藩論が攘夷に決まったのだから、その方針に従って横浜で攘夷を実行するのだ!一体それのどこが悪いと言うのだ!」
 桂は反論した。
「我々がやろうとしている攘夷は異人を何人か斬る、といった無計画な攘夷ではない。やるのであればもっと本格的な形でやらねばならぬ」
 しかし来原は納得しない。
「それでは幕府が言っているのと同じではないか。いつかはやる。だが今ではない、と。誰かが最初に口火を切らねば、どうせいつまで経ってもやらないに決まっている!」
 結局この日の説得は失敗に終わり、桂たちは一旦(いったん)桜田の藩邸に戻った。桂はいよいよ世子(せいし)(こう)(毛利定広(さだひろ))に申し上げて上意(じょうい)によって止めてもらうしかない、と覚悟した。

 翌日、桂と佐世が麻布の藩邸へ行ってみると、すでに来原は横浜へむかって出発していた。今夜は品川に泊まると言い残して出て行ったということだった。
 桂たちは桜田へ戻って世子(せいし)定広にこのことを言上(ごんじょう)した。定広は品川へ人をやって何とか連れ戻すように命じた。
「もし手向(てむ)かうようなら、薩摩の寺田屋のように討ち取ることもやむを得ないが、極力説得して穏便(おんびん)に連れ戻すように」
 と指示し、定広の小姓(こしょう)役である志道(しじ)(ぶん)()も品川へ(つか)わせた。ちなみに「薩摩の寺田屋」というのはこの四ヶ月前、久光が伏見の寺田屋で尊王攘夷派の部下たちを粛清(しゅくせい)した事件のことである。
 聞多たち数人の長州藩士は品川の宿や店をしらみつぶしに訪問して来原を探した。遊郭の名所である品川の町に詳しい聞多の知識が役に立ったせいか、この日の夜、聞多たちは一人で酒を飲んでいた来原をついに発見した。
 寺田屋のように「上意()ち」になることも覚悟していた聞多たちは、緊張しながら来原に話しかけた。
「来原さん、(わか)殿(との)のご命令じゃ。ぜひ我々と一緒に藩邸へ戻ってくださらんか」
 ところが意外にも、来原はあっさりと説得に従った。

 来原が桜田の藩邸に戻ってくると定広の部屋に()し出された。
 定広は穏やかな口調で来原を訓戒(くんかい)した。
「今回のそなたの行動が忠義心から出たことはわかっているが、今は朝廷と幕府の関係が難しい状況にあるので軽挙(けいきょ)は慎むように。そしてこれからも父上や私のことを助けてもらいたい」
 来原は涙を流しながら
(つつし)んで(おお)せに従います」
 とだけ述べて、それ以上は何も言わなかった。それに対して定広は
「何か意見があれば遠慮なく申してみよ」
 と来原の存念(ぞんねん)を述べさせようとしたが、来原は
「申し上げることは何等(なんら)ございません」
 と返答してそのまま退出した。そして来原は自分の部屋へ戻った。
 佐世や何人かの人々が心配して来原の部屋へ様子をうかがいに来た。しかし来原の様子はいつもと変わりなく、特に心配もなさそうだったので全員部屋へ戻って寝ることにした。

 翌朝、来原は自室で切腹した遺体となって発見された。

 腹を切ったあと自分で首に短刀を突き刺し、さらにその短刀を背後の(たたみ)に突き立てた。体が後ろに倒れないよう短刀を支えとするために突き立てたのだが、その短刀は弓なり曲がっていた。そして両目を見開いたまま座って死んでいた。凄まじい死に(ざま)だった。

 家族への遺書はすでに二ヶ月前に書かれており、来原は長井失脚後、かなり早い段階から死を覚悟していた。辞世(じせい)の句は次の通りである。

 雲霧をはらえる空にすむ月を よみちにはやく見まほしきかな

 この日の朝、俊輔と桂はすぐに駆けつけて来て、来原の遺体を見て絶句した。
 そして俊輔は号泣(ごうきゅう)した。
(なぜじゃ?なぜこんな立派な人がこれほど凄惨(せいさん)最期(さいご)()げねばならなかったのだ?)
 この時の俊輔が、来原の切腹の真意をどこまでくみ取れたかは分からない。

 一般的に言って、多くの人々は来原の切腹の理由を「長井に同意したことを()いて、それで生きるのが(いや)になって切腹したのだろう」と思うかもしれない。
 しかしながら俊輔は後年、次のように語っている。
「来原良蔵については吾輩(わがはい)が一番よく知っている。吾輩は決して来原が長井の論に同意したのを()いて、厭世(えんせい)的に事を起こしたとは信じない。それは(はなは)だ浅はかな見方(みかた)であり、何より藩論が一変した事に憤慨(ふんがい)したのである。彼は決して他人に遅れをとらないという意地の強い人間であり、物事を()やむような人間ではない」
 筆者が思うに、やはりこれも彼の親友だった松陰と同じように諌死(かんし)だったのではなかろうか?と思う。
 何よりも来原は度重(たびかさ)なる藩論の変化によって、その人生を狂わされた人である。
 最初に洋学の必要性を()いて罰せられ、しばらくすると今度は洋学を積極的に学ぶように命令され、そして最後には再び開国から攘夷へと藩論が変更された。
「こうコロコロと藩論を左右に変えていては、私のような犠牲者がこれからも続出しますぞ!」
 このような諫言(かんげん)を藩主父子に対して「言葉以上に強烈な方法」で訴えるための諌死だったと思われる。
 来原には気の毒と言うべきであろうが、この来原の懸念(けねん)は不幸にも的中することになる。ただしそれは(のち)の話である。

 翌日、来原の葬儀(そうぎ)(しば)愛宕(あたご)下の青松寺(せいしょうじ)()りおこなわれた。
 藩邸内では皆が来原の死を(いた)んだ。
 藩論の変更による犠牲者として気の毒ということもあるが、真っ先に横浜襲撃を唱えた忠義心、それがかなわぬとみれば即座に腹を切るという硬骨(こうこつ)の武士精神を見て、その死を()しんだのだ。
 世子定広もその死を痛く悲しみ、香華料(こうかりょう)として二十両を下賜(かし)して手厚く(とむら)わせた。また京都にいた藩主慶親も遺族に弔慰(ちょうい)(きん)を下賜した。このあたり、この藩主父子はその死の意味をある程度は理解していたのだろう。
 この葬儀には来原の義兄である桂は無論のこと、その部下である俊輔も深く関わった。
 そして俊輔は桂から、来原の遺書と遺髪(いはつ)を家族のもとへ送り届けてくれと頼まれた。
 俊輔はすぐさま江戸を()って萩へと向かった。

 道中、俊輔は歩きながら考えた。
(おそらくワシは一生かかっても来原さんや松陰先生のようにはなれんだろう。やはり武士として生まれた人間と、ワシのように百姓として生まれた人間とでは人種が違うのだろうか。だが、いつかきっと、ワシはワシのやり方で人々を正しい道へと導く人間になってみせるぞ)
 俊輔二十二歳の夏のことである。俊輔の先にはまだまだ長い道が続いている。
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