第23話 将軍慶喜、謁見

文字数 17,447文字

 西郷との面談を終えたサトウは一連の西国探索を終えて、十二月十日に横浜へ帰って来た。
 そしてその頃にはパークスのもとに慶喜の将軍就任のしらせが届き「大坂城で各国代表が新将軍慶喜と謁見(えっけん)する」という話がほぼ本決まりになりつつあった。
 そのためパークスはサトウとミットフォードを宿舎などの下見のため大坂へ派遣することにした。
 サトウは西国探索から帰って来てまだそれほど日も経っていなかったが、再び西国へ向かうことになったのである。

 そしてサトウが横浜を出発する数日前に、俊輔のいる下関にキング提督が乗ったプリンセス・ロイヤル号など四隻のイギリス艦隊が到着していた。
 キング提督が長州を訪れたのは藩主父子と面会するためだった。
 以前パークスが鹿児島と宇和島でそれぞれ藩主と面会し、その後下関で長州藩主と面会しようとしたことがあった。しかし当時は幕長戦争の真っ最中だったので長州藩主と面会するのは中止になった。
 今回キング提督が長州藩主と面会しに来たのは、その時の試みをあらためて実現するためであった。

 この時、本来であればイギリス人の応接に慣れた俊輔が通訳の役目を引き受けるところだったのだが、俊輔はこの頃ずっと病気で寝込んでいた。
 そこで代わりに聞多と遠藤謹介(きんすけ)が通訳を引き受けることになった。
 遠藤はこの頃、山尾、野村よりも一足早くロンドンから帰国しており、主に外国人の応接役などを引き受けていた。

 ただし面会場所は下関から三田尻へ変更となり、藩主敬親(たかちか)および世子広封(ひろあつ)(以前の定広、後の元徳(もとのり))は山口から三田尻へ出向くことになった。
 場所が変更になった理由は定かではないが、おそらくいまだ藩内にくすぶっている攘夷感情を考慮して、人目が多い下関を避けて三田尻へ変更したものと思われる。

 長州側から連絡を受けてイギリス艦隊も下関から三田尻へ移動した。
 そしてキング提督たちは上陸して有力な豪農の家で藩主父子と面会し、長州藩から会食の饗応(きょうおう)をうけた。
 翌日、返礼として藩主父子がプリンセス・ロイヤル号に招かれ、様々な歓迎イベントがおこなわれた。
 最後に藩主父子、吉川(きっかわ)監物(けんもつ)(岩国藩主)、木戸たちはイギリス人に記念写真を撮ってもらった。ちなみにこれらの写真はサトウの著書『A Diplomat in Japan』に掲載されている。

 ところで、この時イギリス艦隊にはパークスやサトウは乗り込んでおらず、通訳はアストンという通訳官が担当していた。
 このアストンという人物はサトウにとってウィリスやミットフォードと並んで、生涯の友人となる重要な人物ではあるのだが、この物語ではあまり出番がないのでこれまで紹介する機会がなかった。

 アストンが来日したのは二年前のことで、サトウより二年遅れで来日した。
 それでもこの頃すでにかなりの日本語能力を身に付けていた。
 後にサトウと同じくらい日本語能力を身に付け、日本学者としてもサトウと並ぶほど活躍する人物なのだが、現在ほとんど世間に知られていないのは気の毒な感じがする(特にサトウとの知名度の差で)。
 パークスとしても、サトウがいない時はアストンを、アストンがいない時はサトウを、といったかたちで使い分けているので、どうしてもサトウと一緒に仕事をする機会が少なくなりがちで、アストンには申し訳ないのだがこの物語には登場させづらいのである。残念ながら。

 さて、以上のように、イギリス艦隊と長州藩との交流は一見、円満に終了したかのように見える。
 しかしキング提督やアストンがパークスへ提出した報告書によると、以前の鹿児島訪問や宇和島訪問、またこの直前には福岡藩へも訪問しているのだが、それら他藩の歓迎ぶりと比べて、長州は全体的に友好ムードが欠如(けつじょ)していたようである。

 それはまあ、さもありなん、といったところだろう。
 なにしろ、かつては藩をあげて「攘夷実行」をやっていた藩なのだから、他藩のように「藩をあげて外国人を歓迎する」という訳にはいかなかったのだろう。
 それは直前になって面会場所を下関から三田尻へ変更し、しかも城や藩邸ではなくて「豪農の家で饗応(きょうおう)した」ということからもその事情をうかがうことができる。長州藩に浸透(しんとう)していた攘夷熱はなかなか根深かったということである。
 とはいえ、これで一応表向きは(長州としてはあまり表向きにしたくはなかったのだが)長州とイギリスが親睦(しんぼく)を深めるかたちになった。

 このあとイギリス艦隊は兵庫へ向かった。当地で大坂の下見に来ているサトウたちと合流する予定を組んでいたのである。
 この時、聞多と遠藤はイギリスの軍艦に兵庫まで乗せて行ってくれるよう申し込み、それが許可された。
 聞多たちは藩から大坂の視察を命じられたのだが、長州は幕長戦争に勝利したとはいえ、建前(たてまえ)上はまだ「朝敵の罪」は許されておらず、長州藩士が大っぴらに他国へ、特に大坂などの幕府領へ出向いて行くことはできなかった。
 そのためこの時もイギリスの軍艦に乗り込んで兵庫まで行き、大坂では薩摩藩邸に潜伏(せんぷく)して活動する、という手法をとって幕府の目を(のが)れたのである。


 慶応三年一月三日(1867年2月7日)、サトウとミットフォードはアーガス号に乗って横浜を出発した。そして二日後に兵庫へ到着し、先に到着していたプリンセス・ロイヤル号などのイギリス艦隊と合流した。
 サトウとミットフォードはここで同僚のアストンたちと合流してお互いに情報を確認し合ったのだが、サトウは思いもかけない重大な情報に接することになった。

 それは「(ミカド)(孝明天皇)が数日前に崩御(ほうぎょ)した」という情報だった。
 孝明天皇はこの十日前、すなわち慶応二年十二月二十五日に崩御していた。死因は天然痘(てんねんとう)であった。

 この「孝明天皇の死」については、サトウの物語を書くにあたって避けては通れない逸話(いつわ)がある。
「噂によれば、天皇(ミカド)は天然痘にかかって死んだということだが、数年後に、その間の消息に通じている一日本人が私に確言したところによると、毒殺されたのだという。この天皇(ミカド)は、外国人に対していかなる譲歩をなすことにも、断固として反対してきた。そのために、きたるべき幕府の崩壊によって、否が応でも朝廷が西洋諸国との関係に当面しなければならなくなるのを予見した一部の人々に殺されたというのだ」
(『一外交官の見た明治維新』岩波書店、訳・坂田精一)

 歴史界ではこの「孝明天皇毒殺説」が一つのトピックとして時々取り上げられることがある。
 そしてその際には必ずと言っていい程、このサトウが書いた『一外交官の見た明治維新』の記述が引用される。

 しかしながら「孝明天皇毒殺説」を考える上で、このサトウが書いた記述にそれほど重要な価値があるとは思えない。

 この引用文の中でも「数年後に」と書いてあるように、この毒殺話を聞いたのは維新後のことであり、結局のところ「後付(あとづ)け論」的に持ち出された理屈と言っていい。
 要するに「後から考えてみれば、あのタイミングで孝明天皇が崩御したのはどう見ても倒幕派にとって都合が良すぎるだろう?」という理屈から生まれた(あと)知恵(ぢえ)、ということである。

 サトウの記述の続きを見ると、次のような記述もある。
「前将軍(家茂)の死去の場合も、一橋(慶喜)のために毒殺されたという説が流れた。しかし、当時は、天皇についてそんな噂のあることを何も聞かなかった」
 これを見ても分かるように、維新前には、サトウはそんな噂をまったく知らなかったのである。

 ちなみにパークスはこのタイミングで孝明天皇が崩御したことについて
「幼年の新天皇(後の明治天皇)の誕生は、新将軍(慶喜)にとって力をのばすチャンスである」
 と見ていたし、ロッシュとしても、この崩御によって薩長側が有利になったとはまったく考えていなかった。
 むしろこの当時は慶喜や幕府のほうこそが是が非でも兵庫開港を()(すす)めるつもりだったのだから、この崩御によって孝明天皇から反対されることは無くなった訳で、状況は好転したと言える。この時点で毒殺が疑われるとしたら、果たして薩長と幕府(慶喜)のどちらであったか?ということである。

 サトウがこの毒殺話を誰から聞いたのか、今となってはまったく分からない。
 しかし維新後であれば薩長藩閥(はんばつ)政府を悪く言う人はいくらでもいただろうし、またサトウがこの話の信憑性(しんぴょうせい)を確認できるはずもなかった。
 なぜなら計画者や実行犯の証拠でも出て来ない限り、毒殺の犯人など特定できるはずがないからである。

 要するにこの件については、外国人であるサトウの記述を重視するのは間違いで、少しでも真相に迫ろうとすれば当時の公家や女官(にょかん)たちの史料にあたるしかないのである。
 筆者の考えとしては、ここまで述べてきたように毒殺説を支持する立場にはない。
 実際、歴史界の通説としても、この毒殺説を支持する立場はごく少数派のようである。
 常識的に考えればそれが当然だと思う。
 ただ、明治維新を否定したい立場の人々はこの毒殺説を好む傾向にあるようで、おそらくこれから先も、この説はしぶとく生き残り続けるものと思われる。


 話を元に戻そう。
 サトウが兵庫に着くと、宇和島に()()りにしてきた野口と再会した。
 サトウは宇和島を去る時に野口を横浜へ送還(そうかん)してくれるよう宇和島藩に頼んでいた。そしてその送還の途中たまたま兵庫でイギリス艦隊と出会ったので、野口に付き添っていた宇和島藩士がサトウのところへ連れて来てくれたのである。
 野口はさかんに乗り遅れた言い訳をしたが、サトウは笑って許してやった。

 その後サトウたち一行は馬に乗って陸路大坂へ向かった。幕府が手配した大勢の護衛兵に守られながら進むのだが、サトウとしては初めて通るルートだったので何もかもが珍しく思えて、楽しい小旅行となった。
 途中西宮や尼崎を通過して、その日のうちに無事大坂に到着した。
 大坂到着後、サトウとミットフォードは将軍謁見時にイギリス使節一行が泊まる宿舎(しゅくしゃ)(寺)を見て回った。おそらく新将軍・慶喜からの指示があったのであろう、幕府役人の態度は以前とは打って変わって親切になっており、また宿舎の設備も念入りに(ととの)えられている様子だった。

 そしてこの間、サトウたちは初の大坂見物を決め込み、大坂城、二つの本願寺、天王寺、住吉大社、さらには堺の町などを見て回った。
 と言っても、見物する、というよりもむしろサトウとミットフォードが見物されていた、と言うべきだろう。
 サトウたちが行くところはどこも「珍しい外国人を見よう」という物見(ものみ)高い群衆(ぐんしゅう)で一杯だったのである。
 江戸と違って大坂ではまだ外国人が珍しかったので無理もあるまい。大坂の群衆は、声もでかくて騒がしくはあったが、一昔前、関東で攘夷熱がさかんだった頃に比べるとまったく(おだ)やかなものだった。
 そもそも江戸と違って大坂には二本差しの武士が少なく、町の雰囲気も全体的に穏やかだった。そのためサトウたちは安心して大坂の町を見て回ることができた。

 ところで、サトウたちは遊んでばかりいた訳ではない。この視察の最中、(ひそ)かに大坂の薩摩藩邸(蔵屋敷、土佐堀川に()かる越中(えっちゅう)橋の南側)を訪問して小松帯刀と吉井幸輔(こうすけ)(後の(とも)(ざね))と面会した。

 サトウが小松帯刀と正式に面談するのはこの時が初めてだった。
 サトウは後年、次のように手記で語っている。
「小松は私が知っている日本人の中で最も魅力のある人物で、家柄(いえがら)は家老だったがその階級の人らしくなく、政治的才能、立派な態度、(あたた)かい友情という点で抜群(ばつぐん)だった。顔も結構美形だったが、口の大きいのが玉にキズだった」

 小松はその大きな口を開いて、サトウとミットフォードに語りかけた。
「あなたがた外国人が新将軍と謁見しても、これまで同様、兵庫の開港については確約しないでしょう。我が薩摩は兵庫開港自体には反対していません。幕府が利益を独占するかたちでの兵庫開港に反対しているのです。そのためには朝廷が兵庫開港を主導しなければなりません。やはりイギリスは、幕府ではなくて朝廷と直接交渉したほうが良いのではありませんか?」

 この会談においては、イギリス側で交渉を担当するのはサトウの上司にあたるミットフォードである。
 ミットフォードはサトウより日本での経験が浅いとはいえ、上流階級出身のエリート外交官なのでパークスの代理的な立場であり、サトウは通訳に(てっ)しなければならないのである。
 小松の提言に対してミットフォードが答えた。
「我々は大君(タイクン)(ミカド)個人と条約を結んでいるのではなくて、日本全体と条約を結んでいるのです。日本側にどのような事情があろうと、兵庫開港は約束通り一年後、すなわち1868年1月1日(慶応三年十二月七日)には実行されなければなりません。どのように開港するかは日本人同士が話し合って決めるべきことで、我々イギリスが関与すべきことではありません」
 パークスの代理であるミットフォードとしては、当然のことながらパークスの立場、すなわち「内政不干渉」の立場を尊重(そんちょう)するかたちで小松に回答したのである。このセリフを通訳したサトウとしては、多少心苦(こころぐる)しい思いがした。

 小松はあらためてミットフォードに訴えた。
「我々は幕府を倒して革命を起こそうなどと考えている訳ではありません。またイギリスが一緒に戦ってくれることを望んでいる訳でもありません。ただ朝廷の地位を高め、日本の地位を高めることだけを考えているのです。イギリスが『幕府ではなくて朝廷と条約の交渉をしたい』と言ってくれさえすれば良いのです。我々が望むのはたったそれだけの助言です。あとは我々のほうで決着をつけます」

 この小松の訴えに対しても、やはりミットフォードはパークスの立場を尊重して内政不干渉の方針をとり続けたのだが、それでも少しずつ薩摩側の主張に引き寄せられていった。
 そこには当然、一緒に行動しているサトウの影響もあった。
 ただしこの時は秘密の面談だったのであまり時間もとれず、早めに面談を切り上げることにした。

 なんにせよ、ミットフォードはこの薩摩と幕府のかけひきに強く興味を抱くようになったのだった。
 この数ヶ月後、彼は本国外務省から日本以外への転勤を打診(だしん)されることになるのだが
「今、私が日本を去ると兵庫と大坂が開かれるという“歴史的な大事件”を見逃すことになります」
 と返答をして、その打診を断った。

 こういった返答をしたことについて、後年ミットフォードは自著で次のように述べている。
「なんと先見性のない予言をしたことか。結局私は引き続き日本に滞在したのだが、その後、兵庫や大坂の問題よりもっと重大な“歴史的な大事件”に遭遇したのである」

 この薩摩藩邸でサトウは珍しい、というか懐かしい二人の人物と出会った。
 一人は寺島陶蔵(とうぞう)(以前の名は松木弘安、後の寺島宗則(むねのり))である。
 薩英戦争の時に船上で会って以来ということになる。
 サトウは、寺島が以前幕府に仕えていた経験がある、ということを聞かされて「幕府に情報が()れるのでは?」と少し心配になったが、小松と吉井から「そんな心配は無用である」と説明されたので安心して話を続けた。

 それにしても寺島から聞かされた話は、サトウにとって衝撃的だった。
 薩英戦争の後、無事薩摩へ帰ることが出来たのも驚きだが、さらに彼はその後イギリスへ行き、しかもオリファントやクラレンドン外相と接触してきたというのである。
 にわかには信じがたい話であった。しかし詳しい具体的な話を聞かされたので信用せざるを得なかった。
 サトウは「一体何者だ、この男は?」と多少怪訝(けげん)な気持ちになった。
 寺島もそこまでは話さなかったが、実は寺島がイギリスで「サトウが『英国策論』で書いた内容」と同じ話を外務省でしてきた、とサトウが知ったら、さらに驚愕(きょうがく)したであろう。

 もう一人の懐かしい人物は井上聞多である。
 これも下関戦争の時に下関で会って以来ということになる。
 聞多がプリンセス・ロイヤル号に乗って兵庫へ来たことは先に述べた。
 そのあと聞多は大坂を視察するため薩摩藩邸に潜伏(せんぷく)し、ここで偶然サトウと出会ったのだった。
 本来であれば、長州人がこうやって薩摩藩邸に(かくま)われていることは秘密にすべきことなのだが、サトウが薩長の味方をしている事はここにいる全員が了解していたので、聞多も平然と会いに来たのである。

 サトウと再会した聞多は嬉しそうな表情で話しかけてきた。
「やあ、サトウさん、お久しぶり。時々俊輔からサトウさんの手紙を見せてもらってたよ」
 サトウは何よりもまず、聞多の顔の刀傷を見て驚いた。もちろん(そで)(とき)(ばし)で襲撃された時の傷である。
「伊藤さんからの手紙で話は聞いてましたが、大変な目に()ったようですね」
「ああ、大変だった。俺はあの時死ぬと思ったよ。その後、幕府との戦争でも死ぬと思ったが、結局死ななかった。人間なかなか死なないものだな」
「伊藤さんは元気にしてますか?」
「元気にしている、と言いたいところだが、実は最近ずっと病気で寝込んでいる。あいつもなかなかしぶとい男だから、まさかこんなことで死にはしないだろうがね。最近あいつの長女も生まれたことだし、簡単には死ねんだろうよ」
 このあと聞多はサトウに長州の近況について語った。
「長州は全藩あげて、将軍にもう一撃くらわせてやる、と盛り上がっているところだ」
 こういった話を聞多から聞かされたサトウは、長州の勢いを強く感じた。


 そしてこの大坂出張の最後に、サトウは会津藩士たちと初めて知り合うことになった。
 サトウの命をうけて京都へ情報探索に出ていた野口が、京都にいた会津藩士たちをサトウのところへ連れてきたのだ。

 野口は会津藩を脱藩した身分なので最初は会津藩邸の人々から
「脱藩者が何の用だ。気安く我々の前に顔を出すな」
 と怒られたのだが、野口が彼らに
「イギリス人のサトウに会ってみないか?」
 と勧めると、家老の梶原平馬(へいま)たち数人が野口といっしょに大坂へやって来た。

 会津藩士たちは贈り物として刀剣などを持参してきた。
 一方、サトウとミットフォードは彼らを洋酒や西洋料理でもてなした。
 なにしろとにかく、会津藩士たちは尊王攘夷の意識が強かった。
 この慶応三年の段階ではさすがにそこまで観念論に凝り固まった状態ではなくなっていたものの、人間、そう簡単に変われるものではない。酒を飲むにしても「西洋人に負けてたまるか」という気持ちで何杯も洋酒を飲み干した。
 特に梶原の飲みっぷりは群を抜いていた。サトウの記述では梶原について
「彼は色の白い美形の青年で、行儀作法も申し分なかった」
 と評している。
 そして領地が海に面していない彼らは「イギリスの軍艦を見たい」と頼み込んできたので、サトウは軍艦の艦長宛の紹介状を書いて渡した。

 そうこうしているうちに「攘夷」感情の強かった彼らもサトウたちと打ち解けるようになった。
 しまいには「男色」を英語で何というのか?イギリスにもそういった風習があるのか?と(わめ)き出したり、卑猥(ひわい)な春画を気前よくサトウたちに分け与えたりした。
 サトウは在日経験が長いので卑猥(ひわい)な春画などすでに()れっこになっていたが、女好きのミットフォードは、そのエグさにちょっと引きはしたものの、日本でしか見られないこの素晴らしい芸術に感動してありがたく(ふところ)に収めた。

 そして梶原は
「大坂一の芸者がいる店に案内するので、これから一緒に行こう!」
 とサトウたちを誘った。
 女には目がないサトウとミットフォードがこの誘いを断るわけがなかろう。二つ返事で誘いに乗った。
 ところが皆で出かけようとしたところ、幕府の役人たちがこれに反対した。
 彼ら役人たちからすると、面倒が起こると困るのだ。例え会津藩のような佐幕藩といえども勝手に外国人を宴会の場へ連れて行くのは認められない、として何とかサトウたちに思いとどまらせようとした。

 そこで梶原はサトウに
「野口と自分たちが先に店へ行って手配しておくので、準備ができたら野口をここへ寄こす」
 と言って野口を連れて出かけていった。

 その後ずいぶんと時間がたっても、野口は戻ってこなかった。
「やはり幕府の役人に妨害されて、失敗したんだろう」
 とサトウとミットフォードはあきらめて、宿舎で用意されていた夕食を食べようとした。

 すると野口が帰って来て「万事準備ができた」と二人に伝えた。
 その時たまたまサトウたちを警護して(というか見張って)いた幕府役人の警戒が薄かったので、サトウ、ミットフォード、野口の三人はこっそりと抜け出して、まるで子どもたちが冒険や探検に出かけるような感覚で、夜の大坂の町へと出かけて行った。
 この当時は、まだヨーロッパ人は誰も日本の夜の街路を自由に歩くことは出来なかったのだ。本来であれば。

 サトウたちはずいぶんと歩いてから、天神橋の近くの店に到着した。
 店の中に入ると梶原がいて、サトウとミットフォードを部屋に案内した。
「芸者たちはすぐにやって来るから座って待っててくれ」
 と梶原はサトウたちに言った。
 サトウとミットフォードは座敷に座って「大坂一の芸者」がやって来るのを楽しみに待った。

 しばらくすると、数人の(ばあ)さんたちがお茶を持って部屋に入って来た。
 若い芸者は一向に現れなかった。
 がっかりしたミットフォードはサトウにグチをこぼした。
「彼女たちが“大坂一の芸者”なのか?それともやはり幕府の役人に邪魔をされて、こうなってしまったのか?」
「うーん、会津の連中が我々を罠にかけたとも思えないけど……」
 二人がこうやってグチをこぼしていると、ようやく酒が運び込まれてきて、若い芸者たちが二階から降りてきた。そして梶原や野口、そして会津藩士たちもやって来た。
 彼らの話によると、彼女たちは準備のために二階で化粧をしていたということだった。

「それらの芸者の中には確かに美しい者もいたし、そうでない者もいた。いずれにせよ彼女たちの容貌(ようぼう)は、白く塗った顔と黒く染めた歯で台無しになっているように思われた」
 とサトウは感想を述べている。
 サトウとミットフォードは酒を飲みながら彼女たちの歌や踊りを鑑賞し、さらに彼女たちと会話をして楽しんだ。
 大坂の方言は通訳のサトウをもってしても難しい言葉だったが、何とも言えない魅力があるように感じられた。

 こうしてサトウたちが楽しんでいるところへ、性懲(しょうこ)りもなく、また幕府役人たちがやって来た。
 そしてサトウたちにどうしても宿舎に戻ってもらいたいと懇願(こんがん)するので、結局二人は十一時頃には店を辞去(じきょ)した。そして梶原たちには芸者に会わせてくれた礼を述べた。
 ともかくも、サトウにとっては初めて会津藩と関係を持つことが出来たので、それだけでも満足すべき一夜となった。

 サトウとミットフォードは大坂での視察を終えて、一月二十日に横浜へ帰ってきた。
 ただし各国代表が新将軍・慶喜に謁見する日程は、天皇崩御(ほうぎょ)()(ふく)するためしばらく()()べとなった。


 さて、この頃サトウとミットフォードは江戸の高輪で共同生活をしていた。
 二人はこの前の横浜大火で住居を失い、サトウなどはしばらく友人の家に居候(いそうろう)したりしていた。
 しかしちょうどこの頃、江戸の高輪にイギリス公使館が完成していた。それで多くの公使館員はこれを機に江戸へ移って、そこへ入居することになった。

 ただし厳密に言うと、この建物は公使館ではない。「高輪接遇所(せつぐうじょ)」という名称である。
 実は建物自体は前年に完成しており、パークスなど数名は早めにここへ移住していたため彼らは横浜大火の被害に()わなかった。
 一方サトウたちもパークスの後を追うかたちでここへ移住する予定だったのだが、その直前に横浜大火に遭遇(そうぐう)してしまったのだった。サトウはそのあと西国探索や大坂視察に出ずっぱりだったが、今回、ようやくここへ移ることになった訳である。

 高輪のイギリス公使館と言うと、以前御殿山に作られたことがあった。
 その御殿山のイギリス公使館を高杉、俊輔、聞多たちが焼き払ったことは、この物語の第二章で書いた。幕府としてはその二の舞を避けるために「公使館」ではなくて「接遇所(せつぐうじょ)」という名称にしたのである。
 場所は赤穂浪士(あこうろうし)たちの墓がある(せん)岳寺(がくじ)の目の前だった。
 この接遇所の門前の様子は「東京名勝図会・高輪英吉利館」の錦絵などにも描かれている。ただし建物自体は、以前御殿山に作ったような(ぜい)()らしたつくりではなく、黒塗(くろぬ)りの(へい)に囲まれた敷地内に平屋の建物が二棟(にとう)並んでいるだけで(二階建てだと目立つのでわざと平屋にした)サトウたち公使館員は一様に「牢獄(ろうごく)に似ている」と評していた。
 余談ではあるが、この建物の建設については当時の外国奉行・江連(えづれ)堯則(あきのり)が次のような話を残している。
「良い木材を使って建物を完成させたところ、イギリス側から建物全体をペンキで()らせてくれ、という注文がきた。日本では白木(しらき)(けず)りの良いところを見せるのが高尚(こうしょう)で美しいとされている。これを(みが)きこめば光沢(こうたく)が出るからむざむざペンキ塗りにするよりはこのままにしろ、と説明したがイギリスは聞き入れなかった。やむを得ずとうとう全てドス赤色のペンキで塗ってしまった」

 サトウとミットフォードはこの「牢獄」から抜け出して、通りを挟んだ向かい側にある「(もん)良院(りょういん)」という小さな寺院で共同生活をすることになった。
 この寺院には防御に()るような(さく)は存在せず、別手組(べつてぐみ)という幕府から派遣された護衛隊が数名、門の脇の小屋に()めているだけだった。
 四年前に御殿山の公使館が()()ちされたことを思えば、ここに二人が住むのはかなり危険な試みだったと言える。しかしそれでも二人は「牢獄」から解放されて、ここで公的にも私的にも自由に活動することを選んだ。
 ミットフォードは門良院に移ってからサトウにみっちりと日本語を習った。
 また二人の食事は近くの(まん)(せい)という料理屋から出前で運ばせた。この料理屋は、近くにある高輪の薩摩藩邸の人間がよく利用しており、薩摩藩士と接触するのにも便利だった。
 もちろん女好きのサトウとミットフォードは薩摩藩士たちと一緒に品川の遊郭へ遊びにいったりもした。ちなみに薩摩藩士たちは藩邸が品川の近くにあるため、品川遊郭の常連として有名だった。
 来日当初の頃、まだ二十歳(はたち)前だったサトウはウブ丸出しでまったく(きよ)らかなものだったが、この頃になるとかなり遊び慣れてしまっていた。
 それでもまあ、同じく品川で遊びまくっていた俊輔や聞多ほどではなかったであろうが。


 大坂城での将軍謁見の儀式はしばらく延期となっていたが、フランスのロッシュは他国の代表を出し抜くかたちで二月初旬に新将軍・慶喜と接触していた。
 「幕府の庇護者(ひごしゃ)」を自任(じにん)していたロッシュとしては、フランスが特別扱いされるのは当然だと思っていたし、他方幕府としても、フランスにすがる気持ちで一杯だったことは幕長戦争の場面で見た通りである。それゆえ、このロッシュと慶喜の面会はごく自然なかたちでとりおこなわれた。

 慶喜と面会したロッシュは、外交、軍事、財政など様々な政策について助言を与えた。
 その助言の中には次のような奇策もあった。
「江戸と大坂の開市をやめて下関と鹿児島の開港を進める、と宣言なされよ。そしてパークスを相手にせず、イギリス本国の政府と直接交渉なさったほうがよろしい」
 あまりにも突拍子(とっぴょうし)もない助言だったので慶喜も困惑し、その真意をロッシュに(たず)ねたところ、ロッシュは次のように答えた。
「とにかく相手の裏を突くことが出来れば何でも良いのです。相手が戸惑(とまど)うほど極端な方策を打ち出し、相手を棒立(ぼうだ)ちにさせることです。その(すき)を突いて、こちらが主導権を(にぎ)るのです」
 なるほど、積極的、あるいは攻撃的なタイプの人間であればこういった奇策を選択するのもアリだろうが、いかんせん、正攻法を好む保守的な日本人向きの策ではない。
 もちろん慶喜はこの奇策を選択しなかった。しかしこれはまあ極端な例と言っていい。
 とにかくロッシュはこれまで同様、フランスが全面的に幕府の後ろ盾になることを約束し、慶喜への協力を誓ったのである。

 このロッシュのぬけがけを聞いて、パークスが平気でいられる訳がなかった。
 パークスも江戸で幕閣と交渉を重ね、英仏蘭米の四ヶ国代表が大坂城で将軍謁見の儀式をおこなうことが正式に決まった。
 謁見の日程は三月下旬と決まり、三月の中旬には四ヶ国代表の使節が次々と大坂に上陸した。
 特にパークスはイギリスの威信にかけて大代表団を送り込んできた。
 無論サトウも通訳として参加した。他にミットフォード、ウィリス、アストンなどの公使館員も参加し、護衛兵も大勢引き連れて上陸した。さらに『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の記者兼イラストレーターであるワーグマンも式に参加することになった。パークスやサトウたち公使館員は、この前サトウとミットフォードが下見をした宿舎へと入った。

 これまでずっと懸案(けんあん)事項(じこう)となってきた兵庫開港問題は、この将軍謁見の段階においてもまだ決着しておらず、一番重要な外交課題として残されたままの状態になっていた。
 薩摩藩がこの問題を利用して幕府に様々な揺さぶりをかけてきたことは、これまで散々見てきた通りである。
 そういう意味では、この問題は単なる外交問題ではなく、重要な内政問題でもあった訳である。
 実際のところ、この年の暮れに「王政復古のクーデター」が挙行(きょこう)されるのは十二月九日のことで、それは十二月七日(1868年1月1日)に兵庫開港の式典がおこなわれる二日後のことであり、このことからも、この兵庫開港が内政問題と密接に関係していたことが見てとれる。

 パークスはこの将軍謁見に(のぞ)むにあたって「兵庫開港の確約」を、一応幕府から取りつけていた。
 なにしろ晴れがましい将軍謁見の席で、もし将軍の口から「兵庫開港の中止あるいは延期」が発せられた場合、イギリス公使としての面目(めんぼく)は丸つぶれになる。それゆえパークスは事前に「兵庫開港の確約」を幕府に要求して、了承を取りつけていたのである。
 さはさりながら幕府がこれを了承したといっても、これまで幕府がとってきた優柔不断な態度からして「いつまたこれが(くつがえ)るとも限らない」とパークスは思っていた。
 事実、幕府が朝廷に対して「兵庫開港の勅許」を申請したところ、やはり今回も朝廷に拒絶されたのである。
 各国の商人が兵庫開港に備えるためには最低半年の準備期間が必要なので、遅くとも六月までにはこの問題の決着をつけるようにパークスをはじめとした各国代表は幕府に要求していたのだが、先行きはまだまだ見通せない状況だった。

 さて、新将軍・慶喜がパークスたちイギリス代表を大坂城に(まね)く公式謁見は三月二十八日に()り行われると決まった。
 そしてその三日前に「内謁見(うちえっけん)」という非公式会見が行われることになった。
 この内謁見は、儀礼的な面を重視した公式謁見と違って、より打ち()けたかたちで両者が会談できるように用意されたものだった。

 この日、イギリス代表団は各自が馬に乗って大坂城へ向かった。
 公式謁見の時は多くのイギリス公使館員および軍の士官などが参列(さんれつ)することになっている。しかしこの日の内謁見ではごく少数の公使館員と護衛兵だけが大坂城へ向かった。
 公使館員のメンバーはパークス、ミットフォード、ロコック(書記官の一人)、そして通訳のサトウだった。
 一方ウィリスはこのメンバーに加わることができなかったので、家族への手紙に
「私はそこそこパークス公使から評価されていると思っていたのに()()()にされて、ちょっと傷つきました。人から報われることを期待した私が愚かだったのです」
 といった(うら)みがましい文句を書き連ね、完全にひがみモードでボヤきまくっていた。
 サトウたちの周囲には数人のイギリス人騎馬護衛兵が付き添い、さらにその周囲には幕府から派遣された護衛兵の別手組(べつてぐみ)が付き添って一同を大坂城まで護衛した。

 大坂城では白書院(しろしょいん)(謁見の間)で内謁見(うちえっけん)がおこなわれ、テーブルを挟んだ一方にはパークスたちが、もう一方には幕府の老中たちが座った。
 そしてテーブルの上座(かみざ)に慶喜が座り、慶喜とパークスとの間に通訳をつとめるサトウが座った。

 なにしろ初めて将軍と面会して、その将軍と向き合って通訳をするのである。
 通訳者としてはこれ以上ない最高の晴れ舞台と言えようが、この時サトウは二十三歳である。緊張するな、というほうが無理であろう。
 後にサトウはこの時のことを次のようにふり返っている。
「私は日本の礼式にふさわしい言葉を使いこなす自信がなかったので内心相当ビクビクしていた。ここ数年、イギリスと日本との間で様々な問題がありましたが、それらはすっかりと水に流しました、というパークス公使の言葉を伝える時におかしな言葉を使ってしまい、少しうろたえてしまったことを憶えている」

 まず最初にお互いのあいさつとして、慶喜はヴィクトリア女王の健康についてパークスに(たず)ね、パークスは(ミカド)(後の明治天皇)の健康ついて慶喜に尋ねた。
 この際、パークスは(ミカド)への称号(しょうごう)は「Majesty(マジェスティ)陛下(へいか))」と述べ、将軍慶喜への称号は「Highness(ハイネス)殿下(でんか))」と述べた。
 ただし通訳者のサトウはそのHighnessを殿下ではなくて「上様(うえさま)」と日本語訳して伝えた。

 これは以前サトウが書いた『英国策論』の場面で少しだけ解説したが、サトウが考案(こうあん)したイギリス独自の称号の使い方、すなわち
「イギリス女王と同列である最上級の称号“陛下(へいか)Majesty(マジェスティ))”を使えるのは(ミカド)だけで、大君(タイクン)(将軍)にはそれに()ぐ称号“殿下(でんか)Highness(ハイネス))”を使用する」
 という考え方であり、パークスも、この時はこの案を採用した訳である。
 ただしイギリスを除いた仏蘭米はこれまで通り将軍に対して「Majesty(マジェスティ)陛下(へいか))」を使い続けていた。
 のちに幕府はイギリス本国でこの「パークスによる勝手な称号変更」に対して抗議することになるのだが、この時はサトウがとっさに殿下ではなくて上様(うえさま)と訳したので特に問題は起きなかった。

 しかし、こういった称号問題でのいざこざとは裏腹(うらはら)に、パークスはこの新将軍・慶喜から深い感銘(かんめい)を受けた。
 対談をしていくうちにパークスは、慶喜の魅力に少しずつひかれていったのである。

 特に慶喜が対談の冒頭でパークスに対して
「兵庫開港、大坂開市は無論のこと、江戸と新潟も期日(きじつ)通り、必ず開くことをお約束する」
 とハッキリ確約したことが大きかった。
 そして何より慶喜の非凡(ひぼん)な人柄、さらに聡明(そうめい)さにパークスは心を打たれたのである。

 ひとしきり対談が終わった後、一同は「御次(おつぎ)の間」での会食の席へと移ることになった。
 そこで出された料理は完全な洋食で、フランス人シェフが作ったものだった。もちろんこれもロッシュの助言によるものだが、幕府がこのようなかたちで外国代表をもてなすのは初めてのことだった。
 食事の前に慶喜は立ち上がって
「イギリス女王の健康を(いの)って乾杯!」
 と唱えた。するとパークスもそれに応えて、今度は(ミカド)に対してではなくて
上様(うえさま)(将軍慶喜)の健康を祈って乾杯!」
 と返礼した。

 会食が終わると一同は「連歌(れんが)の間」へと移って、コーヒーを飲みながら贈り物を交換し合った。
 この連歌の間の壁面(へきめん)には「三十六歌仙の肖像画(しょうぞうが)」が(かざ)られていた。
 パークスやミットフォードはサトウに「これらは何の絵なのか?」と尋ねた。

 日本学者を目指しているサトウとしては三十六歌仙の存在自体は知っていたが、個別に詳しく解説できるほどの知識はなかった。そのため
「有名な歌人たちの絵です」
 といった程度の返事しかできなかった。
 とりあえず有名な柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の額がサトウの目に入ったので、それに書いてある和歌を()んでみた。

 ほのぼのと 明石の浦の 朝霧(あさぎり)に 島(かく)れ行く 舟をしぞ思ふ
 ここでサトウは、思い切って「上様」に質問してみた。
「これは歌聖(かせい)と呼ばれる柿本人麻呂ですね。この、ほのぼのと明石の浦の朝霧(あさぎり)に、の歌はどういった意味を表しているのでしょうか?」

 このサトウの質問を聞いて日本側は少々ザワついた。
「上様に対して何という不躾(ぶしつけ)な質問をするのだ、この外人は」
 と小声で言う者もあれば
「この外人は柿本人麻呂のことも知っているのか」
 と感心する声もあった。

 慶喜はサトウの質問に答えた。
「この歌の意味は多少複雑なので答えるのは難しいが、お望みならその額を差し上げよう」
 この慶喜の言葉を聞いてサトウは驚いた。
「もし一人が抜け落ちると、三十六人そろっているのが台無しになってしまうのではないですか?」
「いや。その抜け落ちた空間を見るたびに、()はその額がイギリス公使の手元にあることを思い起こすだろう。それは予にとって大変嬉しいことである」

 この慶喜の言葉をサトウから聞かされると、パークスは大変感激した。
 パークスは慶喜に礼を述べて、ありがたくその額を贈答品としていただくことにした。
 ただしこの時ミットフォードがサトウに一言(ひとこと)注文をつけた。
「せっかくもらうのなら女性の絵のほうが(はな)やかで良い」
 そんな訳で結局、柿本人麻呂ではなく、女性の伊勢(いせ)の額をもらうことになった。

 ついでながら述べておくと、慶喜はこの後に会った仏蘭米の公使にもまったく同じことを述べて、一枚ずつ絵を(おく)ったのだった。

 さらに余談だが、奇遇(きぐう)なことにこの前日(ぜんじつ)(三月二十四日、西暦では4月28日)パリでは慶喜の弟昭武(あきたけ)が、テュイルリー宮殿でナポレオン三世に謁見していた。昭武一行が万博に参加するためパリに来ていたことは、以前述べた通りである。


 そして大坂城では三月二十八日、イギリス代表団が新将軍・慶喜との公式謁見に(のぞ)んだ。
 今度はウィリスやワーグマンたちも全員参加しての大代表団である。

 この公式謁見は内謁見と違って儀礼的な側面が強く、将軍の前に全員が整列して、あらかじめ用意された答辞(とうじ)を読み上げる、といった儀式が本丸御殿(ごてん)大広間(おおひろま)でおこなわれた。
 その後、イギリス兵による閲兵式(えっぺいしき)などもおこなわれた。
 これらの様子は同行したワーグマンがイラストとして描いて『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に載せている。そしてこの公式謁見も、このあと仏蘭米がイギリス同様の儀式を()りおこない、公式日程はすべて終了となった。

 この将軍謁見の結果を一言(ひとこと)で言えば、慶喜の大勝利であった。

 サトウ、ミットフォード、パークスの三人は慶喜に対して次のような印象を抱いた。
<サトウ>
「新将軍は新しい方針を打ち出し、諸外国との関係を改善しようと努力した。そして大体において将軍が反対派(薩長)に対して勝利をおさめる形になった。彼は、私が出会ったことのある日本人の中では最も貴族的な容貌(ようぼう)の人物で、(ひたい)はきれいで鼻筋(はなすじ)もくっきりと格好が良く、まさに立派な紳士だった」

<ミットフォード>
「疑いもなく、将軍は傑出(けっしゅつ)した才能を備えた人物だった。顔立ちは端麗(たんれい)で、体つきもたくましい。いかにも活動的な性格で、乗馬を好む。彼は偉大(いだい)貴人(きじん)と呼ばれるのにふさわしい人物だった」

 そしてパークスは、この謁見の直後にロッシュと会って次のように語った。
「将軍は思っていた以上に素晴らしい人物だった。将軍の城も見事だが、将軍自身の資質(ししつ)にはかなわなかった」

 ロッシュとしては「してやったり!」といったところだった。
 薩長側に傾きかけていたパークスの気持ちを将軍側に引き戻すことに成功したのだから、ロッシュにとってこれ以上の喜びは無かった。

 パークスは本国への報告で、慶喜に対する印象を次のように書いた。
「将軍との会見は非常にうまくいった。彼が外国人に対して友好的であるのは間違いない。それでいて彼の態度には毅然(きぜん)さが備わっていて、物腰(ものごし)優雅(ゆうが)である。年齢は三十一歳と若く、容姿も端麗(たんれい)である。新将軍となった彼は、長く続いてきた混乱に終止符を打つことを期待されているが、それを()()げるだけの能力を備えているように思われる。私は可能なかぎり彼を支援するつもりである。実際、彼は私が知っている日本人の中で最も優秀な人物であり、おそらく、歴史にその名をとどめることになるだろう」


 将軍謁見の数日後、サトウは大坂の薩摩藩邸を訪問して西郷と小松に会った。
 そして将軍謁見のこと、また慶喜が兵庫開港を確約したことなどを話した。

 西郷と小松は、将軍謁見の様子や兵庫開港の確約のことなどは既に耳にしていたのでそれほど驚かなかったが
「パークスが慶喜への支持を表明した」
 という話を聞いて、失望の色は隠せなかった。
 これまで散々幕府からイギリスを離間(りかん)させようと活動してきた西郷たちからすれば、当然の反応と言えよう。

 小松はサトウに対して意見を述べた。
「まだ朝廷から勅許も出ていないのに独断で兵庫開港を決めるなど、将軍は朝廷や我が藩をないがしろにしているとしか思えない」
 サトウは初めて会った慶喜の印象について、二人に語った。
「それにしても新将軍があれほど有能な人物だとは知りませんでした。幕府の上層部には有能な人物など一人もいないと思ってましたから大変驚きました」
 このサトウの発言に対して西郷が答えた。
「確かに新将軍は有能である。私は十年ほど前、先君の(めい)によって彼を将軍に()けようと尽力(じんりょく)したことがあり、彼のことはよく知っている。なるほど確かに頭脳は優秀だが……」
 と西郷は途中まで言いかけて、そこで発言を止めた。
(確かに頭脳は優秀である。だが胆力(たんりょく)(まこと)の心が欠けている。とても将の(うつわ)ではない)
 そう言いかけたのだが、無駄(むだ)(ぐち)を叩いてもしょうがないと思って止めたのである。

 サトウとしても将軍謁見を(さかい)に思わぬ展開となって少し戸惑っていた。しかしここは、彼らに(かつ)を入れる必要があると感じた。
「とにかく、兵庫が開港されるまでまだ半年以上あります。それまでにあなた方は何か手を打つべきです。ひとたび兵庫が開港されてしまえば、幕府は盤石(ばんじゃく)となってしまうでしょう」
 そんなことはサトウに言われるまでもなく分かっている、と二人は心の中で思った。

 特に西郷は、あの新将軍・慶喜を倒すためには、おそらく兵を動かす以外に手はないだろう、と思い始めていた。

 そしてさらにこの数日後、今度は西郷と小松がイギリスの軍艦を訪問してパークスと面会した。
 もちろん通訳はサトウが担当した。ただしサトウは、パークスの前では自分の意見を一切言えないので、数日前に西郷と小松の前で述べたようなことは一切口にしなかった。

 この時の薩英会談では特に目新しい話は出なかった。
 「パークスが慶喜への支持を表明した」ということをそう簡単に(くつがえ)すことはできないだろう、と西郷と小松はあらかじめ承知していたので、それほど積極的に幕府を批判することはしなかった。
 しかしそれでも、自分たちは将軍の独裁的なふるまいを許す訳にはいかず、朝廷と有力諸侯の主張を将軍に訴えるつもりで、有力諸侯が近々京都で将軍と会議を開くことになっている、ということを一応パークスに伝えた。

 ところが、この薩英会談が後に思わぬ波紋(はもん)を呼び起こすことになるのである。
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