第20話 英国策論

文字数 10,214文字



 年が明けて、慶応二年になった。
 前年から「さあやるぞ、さあ攻め込むぞ」と、かけ声だけは勇ましかった長州再征は、いまだに幕長間で交渉が続けられており、膠着(こうちゃく)状態のままだった。

 そんな中、一月二十一日に京都で薩長同盟が成立した。
 そして二日後、その立役者(たてやくしゃ)となった坂本龍馬が伏見の寺田屋で幕府の()(かた)によって襲撃された。
 龍馬はピストルをぶっ放して捕り方と(おお)()(まわ)りを演じた(すえ)に、深手(ふかで)は負ったものの、かろうじて薩摩藩邸へと逃げのびた。

 龍馬が伏見で死にかけているのと同じ頃、サトウは横浜の英字新聞『ジャパン・タイムズ』に載せるための記事を書いていた。
 のちに日本語に訳されて『英国(えいこく)策論(さくろん)』と呼ばれることになる記事である。

 幕末史に興味のある人であれば、この『英国策論』という単語を目にしたことがあるかも知れない。
「サトウって幕末で何をした人なの?」
 この問いに対する答えとして
「維新(倒幕)運動にいくらか影響を与えた『英国策論』を書いたイギリス人です」
 といった具体に「サトウの代名詞」として使いやすいので、サトウの名前と『英国策論』はセットで使われることがよくある。
 余談ながら、幕末の大河ドラマではしばしば脇役として登場することがあるサトウだが、そのサトウが大河ドラマの中で『英国策論』のことを語っている場面を、筆者は見かけたことがない。
 おそらくサトウ自身がメインキャラとして登場しない限り、今後も多分、目にすることはないだろうと思う。

 この『英国策論』の内容がどんなものであるのか?
 それはサトウ本人の記述を借りたほうが分かりやすいと思うので、引用して以下に紹介する。
「私の未熟(みじゅく)な原稿を新聞に載せることになった。最初は日本国内の旅行記であったが、間もなく政治を論じてみる気になった。無論こんなことをするのは実に不穏当(ふおんとう)で、まったく職務(しょくむ)規程(きてい)に反することだったが、私はそんなことにほとんど無頓着(むとんちゃく)だった。(中略)私の提案は、大君(タイクン)(幕府)を本来の地位である一諸侯(いちしょこう)に引き下げて、(ミカド)を頂点に(いただ)く諸侯連合が支配権力となって大君に取って代わるべきである、というものだった。さらに私は、現行の条約の改良点について様々な提言(ていげん)をおこなった。徳島藩の家臣、沼田(ぬまた)(とら)三郎(さぶろう)という多少英語のできる日本語教師の助けを借りてこれを日本語に訳し、パンフレットの形にして彼の藩主に見せたところ、その写本(しゃほん)方々(ほうぼう)に出まわった。翌年各地へ旅行に出てみると、諸大名の家臣たちは皆この本を(かい)して私のことを知っており、私に好意をよせてきた。しまいには、その翻訳はイギリス人サトウの英国政策論として『英国策論』の名で印刷され、大坂や京都のすべての本屋で売られるようになった。そして尊王、佐幕の両派から、イギリス公使館の意見を代表するものとみなされたのだが、そんなことは私の知ったことではなかった。私が知るかぎり、このことはパークス公使の耳には届かなかったようである」

 サトウが『ジャパン・タイムズ』に書いた論説(ろんせつ)は三回にわたって掲載(けいさい)された。
 一回目が1866年3月16日(慶応二年一月三十日)付の記事で、そのあと数ヶ月のうちに二回目と三回目が掲載された。サトウは「職務規程に無頓着だった」みたいなことを書いているが、もちろん匿名(とくめい)で書いたのである。といっても、日本語に訳された後はサトウの実名が出まわってしまった訳だが。

 ()しくもこの同じ1866年の3月にロンドンで(以前少し触れたように)薩摩の松木がイギリスのクラレンドン外相に面会して「幕府による貿易独占の廃止および朝廷を頂点とした諸侯連合政権の確立」という、サトウが論説で述べた内容とほとんど同じ主張を展開していた。
 それゆえ「サトウと松木はどこかで(しめ)(あわ)せて、同時に同じ主張を展開したのではないのか?」という憶測(おくそく)が、昔から歴史学者の中で語られてきた。ただし、この点の真相はよく分かっていない。

 すでに何度か書いてきたように、こういった主張は以前から俊輔も聞多も、そして西郷も大久保も述べていたことであって、『英国策論』の内容自体は別段目新しい話でもない(少なくとも薩長の尊王派の人たちからすれば)。

 論説の内容ではなくて、それを書いた人物が重要だったのである。
 日本人が「将軍を一諸侯にして、天皇を頂点とすべきだ」などと、もし心の中で思っていたとしても、幕府をはばかって公然と言えるはずがない。だからこそ「こうやって外国人が言ってるんだから一応は耳を(かたむ)けるしかないよね」という体裁(ていさい)をとっているのである。
 さらに言うと、「イギリス人が言っている」という点が重要なのである。
「これが超大国イギリスの見解(けんかい)ですよ」
 と言われれば、その理屈以上の説得力が上乗(うわの)せされることになる。
 実際のところ、幕府が朝廷にお願いして条約勅許を出してもらっている現状からしても、外国から見れば「条約を結ぶべき相手は幕府ではなくて朝廷ではないのか?」と思うのも当然である。

 とりあえず『英国策論』の文章内容をここで詳しく解説するつもりはない。
 ただ、一つだけ注目すべき点をあげておくと、この中でサトウが述べている「陛下(へいか)Majesty(マジェスティ))」と「殿下(でんか)Highness(ハイネス))」の称号(しょうごう)の基準が、以後、イギリス外務省が使用する基準となるのである。
 すなわち、現行の条約では将軍が最上位の称号「陛下(へいか)(Majesty)」を名乗るかたちになっているが、サトウはそれを改めて天皇に「陛下(へいか)(Majesty)」を(もち)いて、将軍にはそれに()ぐ称号である「殿下(でんか)(Highness)」を用いるようにしたのである。
 当然ながら後に幕府はイギリスに抗議することになる。しかし天皇が将軍より上位にあることは疑いようのない事実なので、結局はイギリスの方針を認めざるを得なかった。

 ところで、この『英国策論』には解明しておきたい疑問点が二つある。
 一つは「パークスはこのことを知っていたのか?」ということ。
 もう一つは「なぜサトウは、これを書いたのか?」ということである。

 サトウ本人は「私が知るかぎり、このことはパークス公使の耳には届かなかったようである」と書いているが、そんなことはまずあり得ないだろう。
 情報収集に敏感(びんかん)なイギリス公使が『ジャパン・タイムズ』の記事を読んでいなかったはずがない。いくらサトウが匿名(とくめい)で書いたとはいえ、内容を読めば「これはサトウが書いた記事であろう」ということは容易(ようい)に想像できたはずである。特に「陛下(へいか)(Majesty)」と「殿下(でんか)(Highness)」の部分を読めば、間違いなくサトウの記事であると確信したはずである。

 さらに言えば、サトウの名前が入った日本語版の『英国策論』が出まわった後に、幕府官僚のなかで誰か一人ぐらいはパークスに対して抗議した人間がいたはずだろう。いくらパークスが強面(こわもて)で恐ろしいといえども。
「おたくのサトウさんがこんなけしからん本を書いてますが、イギリス公使館の人間がこのようなことをしてもいいんですか?」
 といった具合に。

 ちなみにパークスの対日方針、特に「幕府と薩長のどちらを重視するのか?」という方針については「内政不干渉(ないせいふかんしょう)」が基本的なスタンスだった。

「幕末においては、イギリスが薩長を応援して、フランスが幕府を応援したのだろう?だから当然パークスは薩長を応援したのではないのか?」
 一般的には、このように考える人が多いかも知れない。
 しかしながら実際にはそれほど単純な図式ではない。確かに大ざっぱに言えば、そういった図式で見ても間違ってはいないのだけれども。
 なにしろイギリス外務省がパークスに対して
「幕府と薩長のどちらにも加担(かたん)してはならない=内政干渉してはならない」
 と明確に指示していたのである。
 それゆえパークスはこの先ずっと、基本的にはどちらにも加担しない、というスタンスを(つらぬ)くことになる。むしろどちらかと言えば、現実に政府として認められている幕府を重視していた、と言っても過言ではないぐらいである。

 そういった訳で、このサトウの『英国策論』は、本国やパークスの方針から明らかに逸脱(いつだつ)する代物(しろもの)だった。
 ある歴史家は
「パークスとサトウの関係が()ややかになったのは、サトウが勝手に『英国策論』を書いたからだろう」
 と述べている。これは以前紹介したサトウの記述「私は不幸にもパークスとは最初から最後まで()(した)しむ関係にはなれなかった」ということから連想したらしい。

 筆者の考えとしては
「パークスは、サトウが薩長に加担していることを知りつつも、それを黙認していた」
 ということだったのだろうと思う。
 要するに「サトウによる薩長の先物(さきもの)()い」を、パークスは認めていたということである。
 幕府がこのまま政権を維持した場合、あるいは薩長が新政権を樹立した場合、そのどちらの結果になっても大丈夫なようにリスクヘッジをしていた、ということであったに違いない。

 その一方で、フランスのロッシュは薩長に対する保険をまったくかけず、「幕府一辺倒(いっぺんとう)」というハイリスク・ハイリターンなやり方を(つらぬ)いた。
 ただしこのロッシュの場合も多少特殊な背景があり、フランス本国も一応幕府重視の姿勢ではあったものの、イギリスに対抗してまで幕府を支援するつもりはなく、日本でイギリスに対抗して「幕府一辺倒」にこだわっていたのは「ロッシュの個人営業」の色合(いろあ)いが強かったのである。
 なにしろこの頃のフランス政府は日本に深入りしている余裕(よゆう)などなかった。
 フランスのアジア利権の中心はベトナムであり、まずはベトナムの利権をかためることが最優先だった。
 そのくせ、ちょうどこの頃朝鮮半島にも手を出して失敗し、さらにメキシコ出兵の大失敗が追い打ちをかけ、その挙句(あげく)、明治維新の三年後には普仏(ふふつ)戦争で(やぶ)れてナポレオン三世の政権はあっけなく倒れるのである。


 さて、もう一つの疑問「なぜサトウは、これを書いたのか?」ということについて、である。
 そもそもサトウには長州に俊輔という文通相手がおり、この前は兵庫で胡蝶(こちょう)丸の薩摩藩士たちと交流を深めていたのだから、サトウが薩長の志士たちに好意的であったのはもっともな話といえよう。

 そしてやはり、サトウ自身も若かったが、薩長の志士たちも俊輔のような若者が多かった、ということも関係していたであろう。
 幕府体制の矛盾(むじゅん)に気がついていたサトウとしては、社会変革を求める彼ら若き志士たちに共鳴(きょうめい)したのであろうと思う。

 再びサトウ本人の記述を借りる。
「正確に日本語を話せる外国人として私は日本人の間に知られはじめ、知友(ちゆう)の範囲は急に広くなった。日本に対する外国の政策を知るため、あるいは単なる好奇心のため、人々がよく江戸から話をしにやって来た。私の名前が日本人のありふれた名字(みょうじ)(佐藤)と同じおかげで、他から他へと容易に伝わり、私に一面識もない人々の口にまでのぼった。武士階級の連中は葡萄(ぶどう)(しゅ)やリキュールや外国煙草(たばこ)を口にすればいつも大喜びで、しかも議論が好きだった。彼らは議論のテーマに興味をおぼえると何時間でも腰をすえた。政治問題が主要なテーマで、時には激論することもあった。私はいつも日本の現行制度の弊害(へいがい)を攻撃した。『私は諸君には大いに好感を持つが、専制(せんせい)政治は大嫌いだ』とよく言ったものだ。訪問者の多くは大名の家来だった。私は彼らと話すうちに、我々外国人は大君(タイクン)(幕府)を日本の元首(げんしゅ)と見るべきでなく、早いうちに(ミカド)と直接関係を結ばねばならない、と確信するようになった」

 無論、こういった理想論の話ばかりではなく、実利(じつり)的な面もあったと思われる。
 要するに「薩長の先物(さきもの)()い」をしておけば、もし将来、本当に薩長が政権を取った場合に「(個人的なことも含めて)リターンがあるだろう」と思っていたとしても、何ら不思議ではない。
 若者は誰だって野望を抱くものだ。
 この時二十二歳のサトウが、そのような野望を抱いたところで何の不思議があろうか。

 なにしろイギリスは、映画「007、ジェームズ・ボンド」のお国柄(くにがら)である。
 サトウと同時代のイギリス人では、清国の太平天国軍に参加したオーガスタス・リンドレーという人物がおり、またサトウより四十五歳年下になるが、第一次世界大戦時にオスマン帝国に対する戦略としてアラブ側に身を投じた、有名な「アラビアのロレンス」などもいる。
 イギリスというのは、こういった「既存政権に対する反乱を幇助(ほうじょ)する人物」がしょっちゅう歴史舞台に登場するお国柄である。

 1716年にフランス人カリエールが書いた『外交談判法』という本の中で、次のようなことが述べられている。
「大使は尊敬すべきスパイと呼ばれる。なぜならば、彼の主な仕事の一つは任地の宮廷の秘密を探り出すことであって、秘密を教えてくれそうな人間を買収するのに必要な出費をすることを心得ていなければ、自分の職を立派にやっているとはいえない」(『外交談判法』、岩波文庫、訳・坂野正高より)
 ちなみにサトウは晩年『外交実務案内』という本を出版することになるのだが、その本の中でカリエールの『外交談判法』に対して「政治的英知(えいち)の宝庫」と高い評価を与えている。

 清国でのリンドレーの場合は軍人として太平天国軍を全力で支援し、明らかに(おのれ)個人の理想と野望を達成しようとして戦っていたが(しかし実際には太平天国軍の惨敗(ざんぱい)に終わり、心身ともにズタボロになって帰国することになったのだが)、サトウの場合はそこまで利己(りこ)的でもなければ、深く首を突っ込んでいる訳でもない。
 やはり基本的には薩長の若き志士たち、特に文通相手の俊輔の理想に共鳴していた部分が大きかったのだろう、と思いたい。



 一方この頃、高杉と俊輔は一年前と同じように、再びイギリス行きを計画して長崎へ向かおうとしていた。
 言い出したのは高杉である。
「幕府はいつまで経っても攻めて来そうにない。この分では戦争は当分先のことだろう。今のうちに、今度こそイギリスへ行こうではないか、俊輔」
 一年前と同じく、この時も俊輔は二つ返事で賛成した。
 志半(こころざしなか)ばでロンドンから帰って来た俊輔としては、機会があればいつでももう一度ロンドンへ行きたいと思っている。

 そんな中、三月六日に長崎から横浜へ向かうイギリス船が下関に立ち寄った。
 俊輔がいつものように船へ乗り込んでみると船内でちょうどグラバーを見つけた。俊輔はさっそくグラバーにイギリス行きの相談をしてみたところ逆に意外な話を聞かされ、すぐに高杉を呼びに行った。
 グラバーは高杉と俊輔に重要な情報を伝えた。
「私は先日、薩摩藩から招待されて鹿児島へ行ってきました。その時、薩摩藩からパークス公使を鹿児島へ招待したいので、その仲介にあたって欲しいと頼まれました。私はそれを引き受けました。これから横浜へ行ってパークス公使に鹿児島行きを勧めるつもりです」
 薩摩にも長州にも武器や船を売っているグラバーとしては、すでに薩長が秘密(ひみつ)()提携(ていけい)済みであることなど百も承知していた。だからこそ高杉と俊輔に、薩摩とイギリスが接近していることを()えて伝えたのである。
 二人は、グラバーが長崎へ帰る時にはまた下関へ寄るように、そしてその時には自分たちも長崎まで乗せて行ってもらいたいと伝えて、船から去った。

 グラバーから話を聞いた俊輔は、高杉に一つの提案をした。
「もし薩英が同盟関係になるとすれば、それに我が長州も加えて長・薩・英の三国同盟とすべきなのではないでしょうか?」
 高杉は本質的に薩摩のことが好きではない。
 これまでずっとライバル関係にあった薩摩に対して「薩摩、何するものぞ」という意識が強すぎるのだ。
 けれども高杉は、この俊輔の提案にあっさりと乗った。
 なにしろ三国同盟の中にイギリスが入っている、というのが気に入った。
「あのイギリスと対等な同盟というのであれば、仲間に加わってやっても良い」
 こういった発想であった。
「それにイギリスと提携(ていけい)するのであれば、イギリス本国の様子を(じか)に見ておく必要がある、というイギリス行きの理由にも使えるからな。まず鹿児島へ行って三国同盟の必要性を()き、その後イギリスへ行く。是非(ぜひ)その線で藩政府に申し出てみよう」
 まったくもって気宇(きう)壮大(そうだい)と言うか、誇大妄想(こだいもうそう)と言うか、この高杉の荒唐無稽(こうとうむけい)な申し出を、なぜか藩は了承した。万一上手(うま)くいけば(もう)けもの、ぐらいに思ったのかも知れない。
 そして高杉と俊輔にイギリス留学費用として千五百両を下げ渡した。

 横浜へ行っていたグラバーが下関に戻ってきたのは三月二十一日だった。
 高杉と俊輔は再び船に乗り込んで、グラバーから横浜でのパークスとのやり取りを聞いた。
「パークス公使は鹿児島訪問を了承しました。ただし実際に訪問するのは二、三ヶ月先の予定になりそうです」
 グラバーから話を聞いた高杉は
「まあ一応パークス公使の鹿児島訪問が決まったのであれば問題はないだろう。予定通り長崎へ行き、それから鹿児島へ行って、しかるのちイギリスへ行くことにしよう」
 そう言って俊輔と一緒に船に乗り込み、長崎へと向かった。

 長崎に着いた高杉と俊輔は、例によって薩摩藩邸に潜伏(せんぷく)した。
 小松や西郷は不在だったが、留守番の要人に自分たちの鹿児島行きの話をしたところ、その要人から
「突然鹿児島へ出向かれても何か薩長間で誤解が生じるかも知れません。それにイギリス公使の訪問もまだ先の話ですから、ご用件があればこの長崎で(うけたまわ)ります」
 と(てい)よく二人の鹿児島訪問を断られてしまった。

 仕方がないので用意してきた親書(しんしょ)と贈り物をその場で渡し、鹿児島行きは中止にした。
 まあ元々二人の本命はイギリス行きだったので、鹿児島行きが中止になっても大して気落ちはしなかった。
 しかしグラバーの屋敷で、イギリスから届いたばかりの野村弥吉の手紙を見せられて、二人は衝撃を受けた。
 その手紙には、高杉の従弟(いとこ)である南貞助(ていすけ)を含む三人の追加留学生中、山崎小三郎が「寒貧(かんぴん)のため肺病になって病死した」と書いてあったのである。享年二十二であった。

 俊輔はイギリスへの長くつらい航海、そしてイギリスの厳しい冬の寒さを経験しているだけに、山崎の無念さが()(こと)のように感じられて、思わず落涙(らくるい)した。
「泣くな、俊輔。確かに山崎の死は我が長州にとって恥辱(ちじょく)である。薩摩と違って、我が藩は留学資金を出し()しんだからこんなことになったのだ。されど、山崎は西洋で初めて()(じに)した日本人として、長州の(ほま)れとも言えよう。後の者が山崎という忠臣(ちゅうしん)に続けば、長州の国運(こくうん)はきっと(さか)んになるに違いない」

 薩摩の留学生(いわゆる薩摩スチューデント)が長州の留学生と違ってしっかりと留学資金を用意していたことは以前少し触れたが、ちょうどこの頃、長崎から薩摩留学生の第二陣となる五名が、今度は(イギリス経由で)アメリカ留学に向かって出発していた。薩摩はまさしく長州と違って、計画的に留学生を送り出していたと言っていい。
 余談ながら、幕府はこの年の四月七日に日本人の海外渡航を解禁するので、これ以降の薩長の海外留学は「密航」ということではなくなるのである。

 俊輔は高杉に留学資金の件で進言した。
「とにかく、我々が持っていた千五百両はすでに長崎で(遊興(ゆうきょう)で)結構使ってしまいましたけど、残りはひとまずグラバーさんに頼んでイギリスへ為替(かわせ)で送ってもらいましょう。野村の手紙にも、金が用意できない限り新しい留学生を送ってくれるな、と書いてありますから私は一度長州へ戻って、藩政府に改めて留学資金を出してくれるよう頼んできます」
「よかろう。ただし藩政府が金を出し渋るようであれば、俺はすでに上海へ渡ってしまったから今さら留学計画は止められないのだ、と言え。それと()主君(しゅくん)(毛利敬親(たかちか))とパークス公使との面会についても建言(けんげん)しておけ。山崎はロンドンで士官の礼をもって埋葬(まいそう)されたそうだ。その返礼も兼ねて御主君は公使と面会されたほうが良い」

 そんな訳で俊輔はひとまず長州へ戻った。
 そして聞多に事情を話して一緒に金策することになった。なにしろ金策のことに関しては聞多の右に出る者はいない。
 聞多は俊輔から山崎の話を聞き、元ロンドン留学生として俊輔と同じように(くや)しがった。そして山口の藩政府に対して留学資金の追加出資を強く申し出た。

 けれども藩政府は金を出そうとしなかった。
 高杉と俊輔にはすでに千五百両を渡してあったのにもう一度千五百両を出し、さらにロンドンの留学生たちの分も金が必要とは何事だ、と反論されたのである。
 そこで聞多は藩政府に対して強談判(こわだんぱん)をした。
「確かに、高杉には一度金を渡してあるから二度目は出せぬ、という理屈も分かる。けれども高杉のこれまでの功績を考えれば、それぐらいは大目に見て、金をくれてやっても良いではないか」
 高杉のこれまでの功績、というのはもちろん四ヶ国艦隊との講和で300万両の賠償金を幕府へ押しつけたこと、更には功山寺決起で俗論党政権を倒したことである。
 強引と言えばこれほど強引な金の引き出し方もないであろうが、後年の「明治政府の井上馨」の金銭感覚を考えれば、これぐらいのことを言っても別に違和感はない。

 この聞多の説得に加えて、木戸(きど)(桂小五郎はこの頃木戸姓に改めていた)も後押ししたので高杉と俊輔の主張通り、追加で留学資金を出すことは了承された。
 また、藩主敬親がパークスと面会することも、一応タイミングを見計(みはか)らってという条件付きだが、決定した。
 これらのことが決定したのは四月下旬のことである。

 留学準備を(ととの)えた俊輔は下関から長崎へ向かおうとしていた。
 そこへ突然、高杉が小型蒸気船オテント号に乗って下関へ帰って来た。
 高杉は結局上海へは渡らず、長崎での潜伏を続けていたのだが潜伏中に「幕長間の談判が決裂して戦争になりそうだ」という話を聞きおよんで、急きょ独断でグラバーからオテント号を買い付けて帰って来たのである。
 金額は約四万両だった。もちろん高杉がそんな金を持ち合わせているはずもなく、藩に事後承諾を求めた。
 ちなみに高杉は四年前にも、上海から帰って来た時に独断で外国商人から船を買い付けたことがあったが、その時は藩によって却下(きゃっか)されていた。

 留学資金の拠出(きょしゅつ)問題に引き続いて、この高杉の蒸気船購入が再び問題となった。
「なぜ我々を無視して勝手にそんなことをやるのか?」
 と海軍局が高杉のやり方を批判したのである。
 しかも高杉が耳にした戦争開始の話も、実はまだそこまでは至っていなかった。
 そんな訳で四年前に引き続き、今回も藩は高杉の独断での蒸気船購入を却下することになった。なにしろ留学資金の話とは額が桁違(けたちが)いだったので、そう簡単に了承できるはずがなかった。

 ところがグラバーからオテント号の乗組員の送還(そうかん)および売買の履行(りこう)を要求され、しかもタイミングが良いのか悪いのか、今度こそ本当に幕長間の戦争が現実になりそうな情勢となったのである。
 時局は一変した。
 結局「この際、戦える船は一隻でも多いほうが良い」ということになり、藩は正式に船を買い取ることにした。
 そして船名は、長州藩のすべての船がそうであるように、この年の干支(えと)をとって「(へい)(いん)丸」と名付けることになったのだった。
 むろん、高杉と俊輔のイギリス行きは中止となった。

 広島で続けられていた幕長間の談判は、五月九日に長州の交渉使節が突然幕府側に(とら)えられた。さらに幕府は長州に対して最後通牒(つうちょう)を突きつけたが、長州はそれを無視したため談判が決裂した。
 幕府は長州への攻撃を決断し、六月上旬に周防(すおう)大島(おおしま)屋代(やしろ)(じま))へ攻め込むことになった。
 いよいよ「幕長(ばくちょう)戦争(せんそう)(第二次長州征伐)」の開始である。


 ところで、通常ほとんど指摘されることはないが、この幕長戦争が開始される頃には「パークスの鹿児島訪問」が同時に行なわれており、しかもフランスのロッシュも長崎や下関に出張してきているのである。

 ただし、このパークスの鹿児島訪問にサトウは同行しておらず、彼は横浜で留守番をしていた。
 この時の通訳はシーボルトがつとめることになり、またウィリスも随行チームの一員として鹿児島へ同行することになった。
 パークスたちが横浜を出発したのは五月二十一日のことで、キング提督が指揮するプリンセス・ロイヤル号など三隻の艦隊と長崎で合流する予定なのだが、その前にパークスは、まずは下関へ立ち寄って情報収集をすることになった。

 五月二十四日、パークスの乗った船が下関に到着すると、高杉と俊輔がパークスを表敬訪問した。
 高杉はパークスに対して次のように述べた。
貴殿(きでん)は鹿児島で薩摩藩主と面会されるそうだが、ぜひ我が主君にも会ってもらいたい。ただし見ての通り、我々は現在幕府との戦争準備で忙しい。鹿児島から帰る時にもう一度来てもらえれば、その時は面会できるよう手配しておく」
 パークスは高杉に下関への再来を約束して、長崎へ向かった。

 一方、幕府はロッシュに「パークスの後を追って監視してもらいたい」と依頼した。
 長州への攻撃を目前(もくぜん)にひかえて、パークスに長州や薩摩で暗躍(あんやく)されることを幕府は怖れたのだ。
 パークスに対して激しいライバル意識を抱いているロッシュは、もちろん二つ返事で引き受けて、下関へと向かった。
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