第4話 サトウ日本語を学ぶ

文字数 10,315文字



 生麦事件による日英関係悪化をよそに、サトウは日本語の勉強のために週二回、横浜から神奈川宿に(かよ)っていた。神奈川宿にはヘボンと一緒に日本語を研究しているアメリカ人宣教師(せんきょうし)ブラウンが住んでおり、サトウはそこで日本語の初歩を学んでいた。
 ヘボンという人物については生麦事件の場面で少しだけ触れた。
 現在「ヘボン式ローマ字のヘボン」として有名な彼は、日本語研究家であり、さらに本職は医師(宣教医師)であった。日本語研究ではサトウの大先輩にあたり、日本初の本格的な和英(わえい)辞典(じてん)を出版するのはこの五年後のことである。

 サトウは日本に来て、すぐに馬を買った。そしてその馬に乗ってしょっちゅう横浜周辺を散策(さんさく)していた。
「横浜の山手(やまて)の丘から神奈川の町を見下(みお)ろす風景は、まさにイギリスそのものだ」
 サトウはこのように日記に書いている。
 多くのイギリス人がそうであるように、サトウもまた木々の緑や自然の風景を好んでいた。それゆえ彼は日本の自然に魅了(みりょう)され、後年、日本各地の山々を歩き回ることになるのである。

 ある日、サトウは馬で神奈川宿へ向かっている時に街道で一人の(さむらい)と遭遇した。
 その侍はサトウの近くまで来た時に、不意にその(あゆ)みを止めた。そしてサトウの方向に向き直って身構えるそぶりを見せ、一歩、踏み出してきた。
 サトウはおもわずギョッとした。
 そしてすかさず(ふところ)の中に手を入れて拳銃(ピストル)を取り出そうとした。
(しまった!拳銃を忘れてきた!)
 やむをえずサトウは、こわばった表情で手を懐に入れたまま
(ボクは拳銃を持っているぞ!刀で斬りつけてきたら、お前を撃ってやるぞ!)
 と精一杯強がった表情をして侍をにらみ続けていた。
 するとその侍は口元に「ニヤッ」と笑みを浮かべただけで元の歩みに戻り、そのまますれ違っていった。
 サトウは馬を走らせてすぐにその場から離れた。そして安全なところまで来てから、生麦の二の舞にならずに済んだことを神に感謝した。
 後年サトウは次のように手記で語っている。
「その侍はおそらく外国人を(おど)かしたことに満足したとみえて、そのまま通り過ぎていった。私の記憶では街道で行き会った侍が私に危害(きがい)を加えようとしたのは、この時だけだった」

 この後サトウは神奈川宿の成仏寺(じょうぶつじ)に着いた。
 当時この寺の庫裏(くり)(僧侶たちの居住区)にはサトウの先生であるブラウンが住み、本堂にはヘボンが住んでいた。
 ブラウンは、この日本語の勉強に熱心な生徒に新しいテキストを用意して待っていた。
「やあ、サトウ君。また『会話体日本語』の新しいテキストが出来上がったよ」
 ブラウンはヘボンの長年の友人でヘボンと同様、アメリカから来た宣教師である。彼はこの成仏寺でヘボンとともに日本語の研究をしながら時々サトウたちに日本語の基礎を教えていた。そして本堂のほうではヘボンが日本人に英語を教えていた。

 サトウがこの日の授業を終えて建物の外へ出た時、彼は異様に頭の大きな侍を見かけた。
 サトウはその男の珍妙(ちんみょう)な頭をまじまじと見つめた。
(我々からすれば元々日本人のチョンマゲ頭は異様なんだが、この男はとりわけ……)
 頭の大きな侍のほうもサトウに気がついて振り向いた。しかしこの男は何もしゃべらない。
 ()がもたなかったのでサトウのほうから英語で
「英語の勉強をしにきたのですか?」
 と、たずねてみた。すると、この男は日本語で
「そうです」
 と答えた。しかし、それ以上何もこたえなかったのでサトウはとっさに少し間の抜けた質問を英語で投げかけてしまった。
「今日はいい天気ですね」
 すると、やはりこの男は日本語で
「日本ではこれが当たり前です」
 と答えて、そのまま歩いて行ってしまった。
 サトウはその頭の大きな男の後ろ姿をぼうぜんと見送った。
(まったく変な生物に出会ってしまったような気分だぜ……)

 この頭の大きな変人は、数年後幕長(ばくちょう)戦争(第二次長州征伐(せいばつ))で長州軍の指揮をとって幕府軍を撃破し、上野(うえの)戦争で新政府軍の指揮をとって(しょう)義隊(ぎたい)粉砕(ふんさい)する長州藩士・村田(むらた)蔵六(ぞうろく)(のち)大村(おおむら)(ます)次郎(じろう)である。彼はヘボンに英語を習うためにこの寺へ(かよ)っているのであった。

 ブラウンから日本語の初歩を習ったサトウは、横浜で日本人の日本語教師も雇った。紀州(和歌山)藩の医師で高岡(たかおか)(かなめ)という男である。
 サトウは外国人にとって特に難題である日本語の読解(どっかい)を高岡から習った。サトウは清国(中国)で多少漢字の勉強をしていたので、それが少しは役に立ったようだ。
 またサトウは高岡から日本の事情もいろいろと教えてもらった。特に政治動向の話はサトウの貴重な情報源となった。
「それで高岡さん、幕府は薩摩を罰することができるのですか?」
「それは無理です。多分、犯人を引き出させることすら難しいでしょう」
「なぜですか?幕府の力はそんなに弱いのですか?」
「はい。それが分かっているから薩摩は幕府の命令を無視して勝手に保土ヶ谷(ほどがや)から出発していったのです。幕府には、幕府を苦しめるために薩摩はわざと事件を起こしたのだ、と怒っている者もいます」

 実際、薩摩は幕府をナメていた。
 イギリス人を斬ったのは「足軽(あしがる)岡野(おかの)新助(しんすけ)」であると架空の人物をでっち上げて、しかも「逃亡中」として幕府に報告していた。その上「大名行列に無礼をはたらいた者を斬り捨てるのは古来よりの風習である」と言って一歩も(ゆず)らない。
 それに対して幕府が
「イギリスが犯人および責任者の処罰を強く求めている。イギリス艦隊が鹿児島へ向かうことになっても良いのか?」
 と強く迫ると、薩摩側は
()いて人を差し出せというのなら薩摩藩士全員を差し出しましょう。艦隊が鹿児島へ来るのなら、せいぜい皇国(こうこく)威光(いこう)(けが)さぬよう穏やかに応接(おうせつ)(いた)しましょう」
 といった具合で、幕府からの命令をまったく意に(かい)さない様子だった。
 
 一方イギリスのニール代理公使も幕府の対応にあきれていた。
 ニールが幕閣(ばっかく)(幕府の閣僚(かくりょう))に対して
「幕府は薩摩に犯人の引き渡しを強制する権限を持ってないのか?薩摩が犯人を引き渡さなかった場合、幕府はどうするのか?」
 と回答を求めても幕閣はのらりくらりとした返事をよこすばかりで、この事件をまともに対処する意志がニールには見えてこない。しかも三ヶ月前の第二次東禅寺(とうぜんじ)事件の賠償問題すらまだ解決していないのである。
「なぜ幕府は“外国人排除(はいじょ)攘夷(じょうい))”を禁ずる布告(ふこく)を出さないのか?」
 とニールは聞いてみた。すると幕閣は
「残念ながらそのような布告を出せば、彼ら(攘夷派)は一層それと反対のことをやるに違いないのだ」
 と抗弁した。

 まったくニールにとっては幕府の真意がどこにあるのかさっぱりわからない。これで一国のまともな政府(ガバメント)と言えるのか?
 とにかくニールは生麦事件の対処については本国政府の回答待ちなので(当時は日本とヨーロッパとの往復には四ヶ月近くかかった)それが届き次第あらためて交渉する、として一旦(いったん)交渉を打ち切った。
 生麦事件の幕府とイギリスの交渉は概ねこういった経緯をたどって、現在は保留中の状態である。

 サトウは高岡にイギリス政府の回答時期を説明した。
「おそらく本国の指令がここに届くのは来年の2月、日本の(こよみ)だと一月頃でしょう」
 日本人がイギリス人を斬り殺してしまったことを申し訳なく思っている高岡は、すまなそうな表情でサトウに答えた。
「まったく貴国(きこく)には迷惑をかけてばかりで……。我が日本は“島国”なので外国との交渉(こうしょう)(ごと)には不慣(ふな)れなのです」
 それを聞いたサトウはニヤリと微笑(ほほえ)みながら
「高岡さん、我々イギリスも“島国”ですよ」
 と言った。
 高岡は、苦笑(にがわら)いせざるを得ない。
(島国は島国でも、世界中に植民地を持っている島国だけどね。イギリスの場合は……)



 文久(ぶんきゅう)二年十月十一日、サトウは初めて江戸を訪れることになった。
 江戸で幕府と交渉するニールの随行(ずいこう)員として加えられたのである。当然ながら、この時はまだ生麦事件についての本国政府からの指令は届いておらず、これは第二次東禅寺(とうぜんじ)事件の賠償交渉である。
 もちろんサトウは喜び勇んで江戸へ向かった。
 サトウがイギリスから夢見ていた日本の風景は横浜ではなくて江戸なのである。横浜は(なか)ば西洋化されており日本の風景とは言い(がた)い。やはり日本に来たからには首都の江戸へ行きたいと思うのが人情であろう。ただしこの当時江戸はまだ一般の外国人には開放されておらず、江戸へ入れるのは諸外国の外交代表および許可証を持っている者だけだった。サトウは外交代表(外交官)の一人ではあったが、これまで仕事で江戸へ行く機会がなかったのだ。

 もともと江戸にもイギリスの公使館はあった。
 まさに東禅寺(とうぜんじ)がそうだった。しかしここは二度の襲撃事件をうけて一旦閉鎖中で、現在は横浜に公使館を移している状態である。
 イギリス公使館員の一行は江戸へ向かう途中、東海道の“(うめ)屋敷(やしき)”で休憩をとった。現在の地名で言えば東京の蒲田(かまた)のあたりで、現在もその近くに(けい)(きゅう)電鉄の梅屋敷駅がある。
 サトウの後年の記述を借りると、当時の梅屋敷を訪れたサトウの感想は次の通りである。
「梅屋敷という有名な遊園地に着き、美しい乙女たちの給仕(きゅうじ)をうけた。この黒い柵をめぐらした構内に入るのがどれほど嬉しく、驚異的な喜びを感じるか、実際に()た人でなければ理解できないだろう」
 現在この梅屋敷はその名残(なご)りをほとんどとどめていない。その当時の様子は歌川(うたがわ)広重(ひろしげ)錦絵(にしきえ)蒲田(かまた)梅園(ばいえん)」などで現在、多少うかがい知ることはできる。
 一行はこの日、高輪(たかなわ)の東禅寺に入った。ただしイギリスはこの東禅寺を再び公使館として再開するつもりはなく、今回は応急措置(そち)として使用するだけで、数日間の出張が終わり次第また横浜へ戻ることになる。実は今回の江戸訪問の仕事には「新しい公使館の視察」という目的も含まれていた。

 翌日、サトウたちは御殿山(ごてんやま)に建設中の新しい公使館の見学に訪れた。
 御殿山は現在の京急電鉄・北品川(きたしながわ)駅の西側近辺にある高台のことで(ちなみに東側近辺には遊郭(ゆうかく)として有名な相模屋(さがみや)土蔵(どぞう)相模(さがみ)があった)当時の江戸の庶民たちにとっては桜の名所として有名な行楽地(こうらくち)だった。
 参考までにこのあたりの地理を少し解説すると、東禅寺のすぐ近くに高輪の薩摩藩邸があり、東禅寺のやや北のほうに赤穂浪士(あこうろうし)で有名な(せん)岳寺(がくじ)があり、東禅寺のやや南のほうにこの御殿山があって、更にそこからすぐ近くの品川は土蔵(どぞう)相模(さがみ)などの遊郭もある宿場町だった。
 この御殿山には四ヶ国(英仏蘭米)の公使館がそれぞれ建設されていた。これまで各地に分散していた各国公使館を一か所にまとめて警備しやすくしようとしたのだ。
 ただしこの御殿山は東海道と江戸湾の要衝(ようしょう)をおさえる、軍事的にも重要な場所であった。しかも御殿山を外国人に使わせることには朝廷(天皇)も反対しており、さらに桜の名所である御殿山を取り上げられる形となった民衆からの反感も強かった。
 この時イギリスの公使館はほとんど完成しつつあった。
 二階建ての建物が二(とう)あり、それが一階部分でつながって、品川の海からは宮殿が二つ建っているように見えるほど(こう)(だい)な公使館で、しかも全体が西洋風に美しく装飾されていた。もちろん公使館員や護衛隊員が住む居住スペースもある。サトウたちはこの日の見学でその出来栄(できば)えに十分満足した。

 ちなみにサトウたちがこの御殿山を見学したのと同じ日に、京都では勅使(ちょくし)が江戸へ向けて出発していた。正使三条(さんじょう)実美(さねとみ)と副使姉小路(あねがこうじ)公知(きんとも)の二名である。
 およそ半年前には薩摩の久光が勅使の大原(おおはら)重徳(しげとみ)と江戸へ下向(げこう)したが、今回は長州と土佐が画策(かくさく)した勅使下向である。この勅使の江戸到着は半月後のことになる。
 この日の翌日、サトウは日英交渉の席に初めて列席(れっせき)した。ただし彼はまだ正式な通訳官ではないので、末席から会議の様子をながめていただけである。

 むしろ彼にとって今回の江戸初訪問で一番重要だったのは、これ以降の日程のほうだったであろう。
 サトウは仲間たちとともに連日、江戸の各地の名所を馬で回って観光を楽しんだ。例をあげると王子(おうじ)の茶屋、(つの)(はず)十二社(じゅうにそう)の池、洗足(せんぞく)(いけ)、目黒不動、浅草、神田(かんだ)明神(みょうじん)などである。
 サトウが観光して回った感想は
「こうした観光地では茶屋の美しい(ムスメ)たちがその魅力のほとんどを占めていた」
 ということのようで、さらに江戸を一望(いちぼう)できる愛宕(あたご)山にのぼった際にも、美しい乙女たちから(さくら)()を給仕してもらって喜んでいた。
 ともかくも、サトウはロンドンで夢見ていた「美しい黒髪の日本女性たちに会ってみたい!」という願望を今回の江戸初訪問でそれなりに達成し、満足した気分で再び横浜へ帰っていった。



 サトウが江戸を初訪問していた頃、伊藤俊輔(しゅんすけ)は京都にいた。
 俊輔の恩師であった(くる)(はら)良蔵(りょうぞう)の遺書と遺髪を(はぎ)の遺族へ届けて、そのあと久しぶりに実家の両親のところへ帰った。そしてしばらく地元に滞在してから京都へ入って、ここで藩の仕事をしていたのだった。

 その頃ちょうど俊輔の上司である桂小五郎が江戸から京都へやって来た。
「萩の来原家のことは手紙で読んだ。いろいろと苦労をかけたな、俊輔。いや本当にすまなかった。ところで最近の京の様子はどうだ?」
相変(あいか)わらず“天誅(てんちゅう)”と称する暗殺事件が頻発(ひんぱつ)しています。ただ、そのおかげで我が長州の勢いは日に日に増大しております」

 実際この頃までに島田左近(さこん)、本間精一郎(せいいちろう)宇郷(うごう)玄蕃(げんば)など佐幕(さばく)派と(もく)されていた人物が何人も暗殺され、江州(ごうしゅう)石部(いしべ)の宿では幕府の与力(よりき)四人が襲撃されて殺されている。そしてこれ以降も多田(ただ)帯刀(たてわき)池内(いけうち)大学(だいがく)賀川(かがわ)(はじめ)などが次々と暗殺されていくことになる。

「京へやって来る途中、東海道で三条、姉小路(あねがこうじ)お二人の勅使にお目にかかったが、どうやら将軍上洛の件は上手(うま)くいきそうだ。あとは(みかど)の前で将軍に攘夷を誓わせれば我々の目的は達成されたも同然だ」
「今回の桂さんの上洛(じょうらく)目的は対馬(つしま)藩の内紛を仲裁するためと(うかが)いましたが……」
「うむ、まあそうだ……。それはそうと俊輔、三本木(さんぼんぎ)の件はどうなった?」
「三本木の件?」
「ほら、(よし)田屋(だや)のことだよ、吉田屋の……」
(ああ、(いく)(まつ)さんのことか)「まだ交渉中です」
「そうか、まだ交渉中か……」
 桂の表情は急に(くも)りかげんになった。
 それを見て取った俊輔は内心「ヤレヤレ」といった心持ちになった。
(まったく、この人の女好きには困ったものだ)
 桂は以前から三本木にある吉田屋の芸者・(いく)(まつ)に熱を入れており、自分が京都をあけている間に落籍(らくせき)しておいてくれるよう俊輔に頼んでいたのである。
(まあ、女好きという点ではワシも他人(ひと)の事は言えんが……)
 俊輔は江戸の品川で友人の志道(しじ)(ぶん)()(後の井上(かおる))と遊郭で遊び回っていたが、この京都の祇園(ぎおん)でも俊輔と聞多は芸者たちとよく遊んでいた。
 すでに俊輔には(まさ)千代(ちよ)という馴染(なじ)みの芸者がおり、聞多には(きみ)()という馴染みがいた。また久坂には島原にお(たつ)という愛人がおり、長州の男たちは京都の三本木、祇園、島原で金を湯水(ゆみず)のように使っていた。

「いや、私は自分自身の不平不満を言うわけではない。女のことなど後回しにするのが当然だ。しかし俊輔、最近お前は天誅騒ぎの暗殺仕事に興味を持っていると聞いたぞ。私はお前に暗殺の仕事などさせたくないのだ。お前にはそんな仕事は似合わない。お前は夜の席で女たちとバカ話でもしてだな……」
「わかりました、わかりました、桂さん。近いうちに幾松さんのことは私がケリをつけますから」
 これ以上、桂の説教を聞きたくなかった俊輔は、(みずか)らお願いするように幾松の身請(みう)け仕事を引き受けた。

 あくる日、俊輔は三本木の吉田屋へ行った。
 三本木は現在の京阪(けいはん)電鉄・神宮(じんぐう)丸太(まるた)(まち)駅の近くにあった花街(はなまち)で、ちょうど鴨川(かもがわ)(はさ)んだ反対側のあたりにあったが現在はその名残(なご)りをほとんどとどめていない。そこにはかつて(幕末の政治運動史には欠かせない)(らい)山陽(さんよう)も住んでおり「山紫水明処(さんしすいめいしょ)」という史跡(しせき)が現在も残っている。吉田屋はそのやや北側にあったが現在「吉田屋(あと)」という史跡案内の立て札がそこには立っている。
 俊輔は以前もこの吉田屋に来て、ここの女将(おかみ)に幾松の身請(みう)け話を申し出ていた。しかし桂が()れたこの幾松は評判の美人で(おど)りの名手(めいしゅ)でもあり、桂の他にも山科(やましな)の豪商が彼女の身請けを申し出ていた。要するに落札(らくさつ)の競合者がいたわけである。
「金はいくらでも出す。なんとか我が(あるじ)のもとへ彼女を寄こしてはくれぬか?」
「へえ。せやけど、あちらさんも金はいくらでも出すと言うてはりますわ」
 女将はそう言って俊輔に耳打ちし、豪商が提示してきた金額を伝えた。
(いくら藩からの機密費(きみつひ)を使えるといっても、さすがにそれだけの額は出せん……)
「我が長州に恩を売っておく良い機会ではないか。我が藩がこの三本木でどれだけの金を使っているかお主が知らぬわけはなかろう?もうちょっと金額を()り合ってはくれまいか?」
 そう言って俊輔は何度も女将に頭を下げて懇願(こんがん)したが、それでも彼女は「あちらの豪商も大切なお得意様ですから……」などと言って首を(たて)に振ろうとはしなかった。

 俊輔はとうとう開き直った。
「そうか、わかった。お主がそこまで(かたく)なに我が主の申し出を断るというなら、ワシにも考えがある」
 俊輔は刀の(つか)に手をかけて、恐ろしい目で彼女をにらんで言い放った。
「ワシには今、天誅で世間を騒がせている志士の知り合いがいる。お主、今後夜道(よみち)は歩かぬことだな」

 なにしろ「あの長州藩」の一員である俊輔の口から“天誅”の言葉を聞かされたのだから、女将としてはたまったものではない。この一言(ひとこと)で完全に(ふる)えあがってしまって、すべて俊輔の言う通りに従わざるを得なくなった。
(やれやれ。女一人を相手にワシはこんなところで何をやっているのだ……。とにかくこれで桂さんの仕事は片づいた。あとは江戸で皆の仕事を手伝って、士分(しぶん)に昇格するための手柄(てがら)を立てねばならぬ……。桂さんはワシに人殺しは似合わぬと言うが、好き嫌いを言える身分ではない。また、そういう時代でもないのだ)

 その後しばらくして桂と俊輔は京都から江戸へ向かった。
 三条、姉小路の勅使(ちょくし)下向(げこう)を画策した長州と土佐が江戸で仲間割れをして、勅使もまだ将軍家茂(いえもち)に面会できないでいる、という理由で二人は江戸へ呼ばれたのだ。二人が江戸に到着するのはしばらく先のことで、十一月二十三日のことになる。


 三条、姉小路(あねがこうじ)の両勅使は十月二十八日、江戸城の近くにある(たつ)(くち)伝奏(てんそう)屋敷(朝廷からの使者が宿泊する屋敷)へ入った。ところがその頃将軍家茂は麻疹(はしか)にかかっていたため、勅使と将軍との対面はしばらく()()べとなった。
 およそ半年前の大原勅使の下向を薩摩の久光が護衛したように、今回、勅使下向の護衛役は土佐藩主・山内豊範(とよのり)がつとめた。この山内豊範は一ヶ月後、長州藩主・毛利慶親(よしちか)の娘(養女(ようじょ)喜久(きく)姫)と結婚することになっており、今回勅使下向で協力した長州・土佐の両藩はさらに関係を深めていくはずだった。

 勅使の江戸到着からしばらく経った十一月五日、この二つの藩をめぐって一つの事件が発生した。
 この日、長州藩の世子(せいし)毛利定広(さだひろ)懇親(こんしん)のために豊範の養父(ようふ)容堂(ようどう)桜田(さくらだ)の藩邸に招いた。

 ただし長州藩士の多くは容堂に強い疑念を(いだ)いており、酒席に招いたこの客に対して面白くない気持ちでいっぱいだった。
「将軍は麻疹(はしか)などといっているが仮病(けびょう)を使って勅使から逃げているのではないか?そのうえ容堂公も、その将軍をかばっているのではないか?」
 なにしろ長州藩と土佐藩とでは、その成り立ち自体が大きく違っているのだから、長州藩士たちがこういった疑念を容堂に対して抱いたとしても、(ゆえ)()しとしない。
 土佐の山内家は関ヶ原の功績(こうせき)により家康から格別の恩恵(おんけい)を受けた藩である。それゆえ幕府への忠誠心は強い。
 かたや毛利家はそれとは真逆(まぎゃく)で、関ヶ原で敗戦した西軍に(くみ)した結果大幅に領地を削減(さくげん)され、この時に至っている
 実際この時、幕府内は混乱の(きわ)みにあり、容堂はしょっちゅう江戸城の一橋(ひとつばし)慶喜(よしのぶ)松平(まつだいら)(しゅん)(がく)に会って助言を与えており、長州藩士たちが疑っていた通り、容堂が幕政を助けていたのは事実である。

 幕政が混乱していた理由は、まさにこの「勅使に対してどのような回答をするか?」というところにあった。
 勅使の目的は「将軍に奉勅攘夷(ほうちょくじょうい)を誓わせて、破約攘夷(はやくじょうい)を実行させる」ということであった。奉勅攘夷とは「(みかど)(孝明天皇)からの勅命(ちょくめい)の通り、攘夷を()し進める」ということで、破約攘夷とは「諸外国と結んだ通商条約を一旦破棄(はき)して締結(ていけつ)交渉をやり直す」ということである。しかし諸外国と結んだ通商条約を日本側から一方的に破棄した場合、おそらく諸外国と戦争になる可能性が高いであろう。
 この「勅使に対してどのような回答をするか?」について、江戸城内で飛び()っていた意見はおおむね次の通りである。

 まず、開明派と見られていた政事(せいじ)総裁(そうさい)職の松平春嶽が
井伊(いい)大老(たいろう)が結んだ条約は内容に不備があり、しかも無勅許(むちょっきょ)だったのだから一旦破棄して、再度各国と交渉をやり直すべきである」
 と勅使の命令に従うよう勧告(かんこく)した。
 これに対し幕府開明派の筆頭として名高い小栗忠順(ただまさ)上野介(こうずけのすけ))は次のように反論した。
「外交は幕府の専権(せんけん)事項(じこう)なのだから朝廷や諸大名の干渉を恐れず、堂々と幕府の開国政策を遂行(すいこう)すべきである」
 しかしながら尊王(そんのう)(こころざし)が強い、まだ京都に赴任(ふにん)する前だった京都守護職の会津藩主・松平容保(かたもり)がこれに反論した。
「奉勅攘夷を(こば)めば尊王の大義が失われ、攘夷を実行せねば幕府の権威は失墜(しっつい)するでしょう」
 こうして江戸城では「開国か、攘夷か」の議論が続けられたものの、大勢は奉勅攘夷を甘受(かんじゅ)する方向に傾きつつあった。

 ところがここで将軍後見職の一橋慶喜が公明正大に「攘夷の不可」を()いた。
「我が国のみが鎖国を続けるのは不可能である。井伊大老が結んだ条約は不正と言えば不正だが、外国人から見れば政府と政府が結んだ正式な条約である。もし我が方の一方的な条約破棄を理由に諸外国と戦争をして、仮に勝っても名誉にはならない。もし負ければ最悪の事態となる。私がこのように考えるのは幕府のためではない。日本全体のためである」
 この慶喜の発言で開明派の意見が盛り返したかに見えたが、結局こういった正論は「世間に公表する事すらはばかられる」というご時世(じせい)だった。

 そして事を穏便(おんびん)に収めるために容堂が慶喜を説得した。
「今は表向(おもてむ)き奉勅攘夷を受けいれて、無謀(むぼう)な攘夷だけは避ければよろしい」
 さらにこのあと「和宮(かずのみや)(孝明天皇の妹)様を将軍正室(せいしつ)として迎えた時に十年以内の攘夷実行を朝廷と約束済みです」といった幕府内の機密事項も知らされ、慶喜も渋々(しぶしぶ)奉勅攘夷を了承した。以後、慶喜は何度も辞職を申し出たが、それも結局容堂がなだめて決着させたのだった。


 話を桜田藩邸での酒席の場面に戻す。
 以上のような経緯の中身を長州藩士たちが(くわ)しく知るはずもなかったが、とにかく彼らは幕府を助けているであろう容堂の姿勢が気に食わなかった。
 そしてこの日、酒の勢いもあって思わず長州藩士たちの本音(ほんね)()れてしまった。
 長州側の席の一部から容堂に対して
()えば勤皇(きんのう)()めれば佐幕(さばく)、一体本心はどちらでありますか!?」
 と叫び声があがったのである。
 すかさず土佐側の席から「今、何と申した!?」と家臣たちがいきりだって長州側につめよろうとしたところ、容堂が「待てっ」と声をかけて家臣たちを止めた。
 容堂は家臣に紙と筆を持って来させて
「今、良い物を書いてやる」
 と嬉しそうな表情(かお)をしつつ一枚の絵を書いて長州藩士たちに見せた。
「これはお主たちのことよ」
 それは瓢箪(ひょうたん)の上下のふくらみが(さか)さまになっている絵であった。
 下級武士たちが藩の上層部を動かしている長州を皮肉(ひにく)ったのだ。
 容堂が大酒飲みであることは、自分のことを「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」と称していたことも含めて歴史上、有名な話であろう。この程度のことで酒席を壊すほど無粋(ぶすい)ではない。

 だがしかし、長州藩にも一人、酒飲みで有名な重役がいた。
 この男は酔っ払って相手にからむことで有名な男だった。
 周布(すふ)政之助(まさのすけ)である。
 この男は数ヶ月前、薩摩藩との酒席の場で薩摩藩士から暴言(ぼうげん)をうけた際に、いきなり剣舞(けんぶ)をやり始めて酔っ払ったフリをしてその薩摩藩士を斬ろうとした男なのだ。
 酒席は一時(いちじ)騒然となったがその場にいた薩摩の大久保一蔵(いちぞう)(後の利通)がとっさに畳回(たたみまわ)しの芸をやったおかげで一同はあっけに取られ、ようやくその場をとりおさめることができたのだった。

 そしてその周布(すふ)は、このとき容堂の前でも酔っ払って(こと)を起こしたのである。
 周布は近くにいた久坂玄瑞に耳打ちした。すると久坂がすっくと立ち上がり容堂に向かって言った。
(そつ)()ながら酒と詩をこよなく愛される鯨海酔侯に、座興(ざきょう)として拙者(せっしゃ)が詩を一編(いっぺん)(ぎん)(たてまつ)らん」
 久坂は手に持っていた扇子(せんす)を開いて、得意の美声で詩を吟じはじめた。
「われ方外(ほうがい)()て、なお切歯(せっし)す、廟堂(びょうどう)(しょ)(ろう)、何ぞ遅疑(ちぎ)するや」
 これは吉田松陰にも大きな影響を与えた僧月性(げっしょう)の詩で、幕府の弱腰(よわごし)外交を(なげ)いている詩である。
 そこですかさず周布も立ち上がり容堂を指差(ゆびさ)して叫んだ。
「鯨海酔侯もまた廟堂の(いち)老公(ろうこう)!」

 これにはさすがに容堂も顔色を変えて不快な色をあらわにした。
 もちろん土佐藩士たちは全員立ち上がり「無礼者!」と叫んで長州側につめよろうとした。が、容堂と定広が同席している手前、また豊範と喜久姫の結婚が間近に迫っていること、さらには勅使下向での協力関係もあるため、この日は一応両者このまま引き下がって事なきを得たのであった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み