第12話 長州ファイブ

文字数 18,010文字

 サトウとウィリスが鹿児島湾の洋上にいる頃、俊輔(しゅんすけ)聞多(ぶんた)はインド洋の洋上にいた。

 サトウとウィリスは鹿児島への旅行に行ったつもりが、あにはからんや嵐の中で砲撃戦を経験するハメになってしまった訳だが、俊輔と聞多はロンドンへの船旅(ふなたび)に出たつもりだったのが、思いもかけず水夫(すいふ)としてコキ使われるハメになっていた。

 甲板(かんぱん)をブラシで掃除(そうじ)しながら俊輔は叫ぶように言った。
「聞多!お主が間違えてナビゲーション(航海術)なんて言ったからこうなったんじゃ!」
「うるさい!今さらゴチャゴチャ言うな!それはもう何度も聞いた!」
 俊輔の顔面はゲッソリと()せ細って、しかもむさくるしい(ひげ)が伸び放題の状態だった。
 苦労して五千両を調達(ちょうたつ)して(横領(おうりょう)したとも言えるが)一人千両の船賃を支払ったにもかかわらず、水夫としてコキ使われるとは俊輔も聞多も思っていなかった。
 食事は粗末(そまつ)なビスケットと塩漬(しおづ)けの牛肉ばかりで俊輔は腹を壊してしまった。
 紅茶を飲む時の砂糖も粗末な赤砂糖しか使えない。というかそれ以前に飲料水を満足に使うこともできない。なにしろ上海からロンドンまでどこにも寄港(きこう)しないのだから水は雨水しか使えない。どこにも寄港しない理由は早くロンドンへ着きたいから、ということもあるが、一番の理由は入港(にゅうこう)(ぜい)の支払いがもったいないからである。

 まったく恐るべき船旅である。
 船酔(ふなよ)いしやすい筆者から見ると地獄のような船旅だったろうと想像できる。
 いや、そもそもこれは船旅とは言えない。この五人が乗った船は旅客(りょかく)船ではなくて商船だったであろう。とにかく早く安くロンドンへ商品(中国茶など)を運ぶ商船だったと思われる。
 そして船のルートは()(ぼう)(ほう)回りだった。
 アフリカの南端を回ってヨーロッパへ向かうのである。
 この頃には紅海(こうかい)のスエズと地中海のアレキサンドリアを結ぶ鉄道が開通しており(スエズ運河が完成するのはこの六年後)通常の旅客ルートはここを通る。
 前述した福沢や松木がヨーロッパへ行った竹内使節団の時はこのルートだった。しかも途中香港、シンガポール、ガル(セイロン島)、アデン(イエメン。以上全てイギリスの植民地)を経由してヨーロッパへ向かったので寄港地も多かった。そもそも竹内使節団は乗った船自体が蒸気船で船足も早く、品川から地中海のマルセイユまで約二ヶ月半で到着している。ところが長州の五人は()(ぼう)(ほう)回りだったので上海からロンドンまで約四ヶ月もかかるのである。
 幕末にヨーロッパへ渡った日本人は何人かいるが、幕府の使節や留学生および薩摩藩の留学生などは基本的にスエズ経由で渡欧している。確かに幕府オランダ留学生等、喜望峰回りのルートをとったケースもあるにはあるが(ちなみに幕府オランダ留学生は途中で船が座礁(ざしょう)沈没して船を乗り換えたりしているが)この長州の五人、特に俊輔や聞多のように水夫としてコキ使われた例は皆無(かいむ)であろう。

 ちゃんと金を支払ったのに水夫としてコキ使われるのが我慢(がまん)ならず、俊輔たちは船長に抗議したが、それを上手(うま)く英語で伝えられなかった。それでも二人が何か不平を訴えていることは通じたらしく、船長は二人に対して(あき)れた表情で答えた。
「これぐらいの仕事で()をあげるようでは一人前の船乗りになれんぞ」
 よく聞き取れなかったが何となくそんなことを言ってるらしいのは分かった。
(くそぉー、ワシらは水夫になるためにロンドンへ行く訳じゃないぞ)
 二人は連日、甲板の掃除をしたり、帆の上げ下げをする帆綱(ほづな)を引っ張ったり、排水(はいすい)用のポンプを()いだりと、最下等(さいかとう)の水夫の仕事をやらされた。
 しかも同僚の水夫たちは二人のことを
「おい、ジャニー」
 と呼んだ。
 “ジャニー”とは要するに“ジャップ”と似たようなもので“ジャパニーズ(日本人)”の蔑称(べっしょう)である。
 俊輔は時々「くそぉー、刀があれば斬り殺してやるのに」と(くや)しく感じたものだが、あいにくこのロンドン行きには刀を持ってきてない。俊輔は「尊王攘夷の志士がこんなところで最下等の西洋人にコキ使われるとは」と憤懣(ふんまん)やるかたない気持ちで一杯だった。
 さすがにこの状況の中では楽天的な性質のある俊輔と聞多も絶望的な気持ちになった。
 俊輔は聞多のミスのせいでこうなったと思っていたから時々聞多に文句を言った。聞多は聞多で、今さら(なげ)いたところでどうなるものでなし、何かに怒りをぶつける気にもならない、といった心持ちだった。

 マダガスカル島付近から喜望峰へ向かう頃には波も激しくなり、大波が起こると高い山に登らされるように船が持ち上げられ、それを下る時には一気に急降下するという有り様だった。そして甲板にはしばしば波が叩きつけてきた。二人はまったく生きた心地(ここち)がしなかった。
 しかも俊輔はこの時ちょうど、また腹を壊していた。
 この船には水夫用のトイレはなく、水夫たちが脱糞(だっぷん)する時は甲板から海上にせり出ている板に乗って海に脱糞するのである。それゆえ、波風が激しいとそのまま海に転落する恐れが十分あり、その場合、体を命綱(いのちづな)にしばって用を()す必要があった。腹を壊しがちだった俊輔は、これまで何度かその命綱をかける作業を聞多に手伝ってもらっていた。

 船室で苦しそうな顔をして横になっていた俊輔が聞多に話しかけた。
「聞多……、すまんがまたお願いがあるんだが……」
「なんだ、また(くそ)か、俊輔」
「そうなのだ……、度々ですまんが……」
 俊輔は(きび)しい船での生活が長く、しかも腹も壊し、もう生きる気力も()()えな状態だった。ここで聞多に断られるか怒られたら、もう死んでもいいかもしれん、とすら思った。外の天候は相変わらず荒れている。今、表で命綱をかける作業をすると聞多にも危険がふりかかるおそれが十分ある。
 しかし聞多はサラッと答えた。
「しかたあるまい。どのみちこの船の上では四六時中(しろくじちゅう)命懸(いのちが)けなのだ。お主の脱糞に命を張るのもまた一興(いっきょう)だ」
「うう……、すまん、聞多……」
 俊輔は泣きながら聞多に感謝した。
 そして聞多は甲板に出て俊輔の体にロープをしばり、そのロープを船の柱に結びつけて俊輔が用を足している間は聞多がそれを見守った。
 俊輔は荒れた海に尻をさらして脱糞しながら
(こいつにはデカい借りができた。こいつだけは生涯、裏切ったり見捨てたりはすまい)
 と心に誓ったのだった。

 船が喜望峰を過ぎて大西洋に出ると波もおさまり天気も回復した。そして船は順調に北上していった。
 その頃には二人も航海に慣れ、俊輔の体調もほとんど回復した。時間のある時には俊輔が持ってきた英和辞書((ほり)達之助(たつのすけ)が作った辞書で、俊輔が言うには間違いだらけだったらしい)を使って船員を相手に会話して英語の勉強もした。


 そして文久三年九月二十三日(1863年11月4日)、俊輔と聞多の乗ったペガサス号はテムズ川をさかのぼってロンドンのロンドン・ドックに到着した。
 ちなみに山尾、野村、遠藤が乗ったホワイト・アッダー号はすでにその数日前に到着していた。
 俊輔はようやくロンドンに到着したことを喜ぶと同時に、自分の想像をはるかに超えたイギリスの文明に圧倒された。
 まだ港の中なので町の様子などを詳しく見ることは出来ないが、川をさかのぼって来る途中に目に(うつ)った光景では巨大な建造物や機械がそこらじゅうにあり、蒸気機関の石炭の煙がそこかしこにあがっていた。上海では聞多と違って攘夷の心を(たも)ち続けた俊輔も、さすがにこのロンドンでは気持ちが揺らぎ始めていた。

 船が岸に到着するとイギリス人船員たちは全員上陸し、船長は二人に
「ジャーディン・マセソン商会の迎えが来るから、しばらくここで待つように」
 と言ってどこかへ行ってしまった。
 しかし朝から待ち続けて正午になっても誰も迎えに来なかった。
 二人はこの日、朝から何も食べていなかった。しかも周囲を見渡しても赤レンガの倉庫ばかりで、(めし)が食えそうなところはどこにも見当たらなかった。
 二人一緒にこの場を離れるとマセソン商会の迎えが来た時に困るので、どちらかが食い物を探しに行くことになり「お前行け」「いやお前が行け」と言い合っているうちに船の士官が忘れ物を取りに戻ってきた。そこでその士官に事情を説明して食い物を売っている店へ連れて行ってもらうことになった。俊輔は長旅の疲れと空腹で動けなかったので聞多が行くことになった。

 聞多は帰り道がわからなくなると困ると思って手帳に地図を書きながら歩いた。それゆえ、地図に気を取られて通行人に何度もぶつかり、その(たび)に怒られた。それでもなんとかその士官のおかげで食い物にありつくことが出来た。聞多は士官に礼を言って俊輔の分も買って帰ることにした。
 帰り道は手帳を(さか)さまにしてたどっていけば大丈夫、と思って歩いていたら(あん)(じょう)、道に迷ってしまった。
 そのうち税関(ぜいかん)の建物に着いてしまい、そこで道を聞こうと思って中に入ってみたら職員に(しか)られてしまった。おそらく聞多の身なりからして野卑(やひ)な港湾労働者か、この近辺にあるイーストエンドのスラムの住民とでも勘違いされてしまったのだろう。しかし聞多が事情を説明したらかえって同情されて、人を付けてペガサス号の俊輔のところまで送り届けてくれた。

 異境(いきょう)の地で(ひと)(さび)しく待っていた俊輔は、帰って来た聞多を見かけるとすかさず走り寄って行った。
「聞多!ワシの飯はどうなった?!」
「おお、ここに買って来たぞ」
 パサパサに(かわ)いたパンにハムと半熟卵ぐらいの粗末な食事だったが、俊輔は今までこれほど(うま)(めし)を食ったことは無かった。

 午後二時頃、ようやくマセソン商会の迎えが来たので二人はその人物と一緒に汽車に乗ってアメリカ・スクエア(ロンドン塔の少し北のあたり)へ向かった。
 俊輔は汽車を見るのも初めてなら乗るのももちろん初めてである。
 想像も出来ない速さで走る乗り物に、ただただ(きも)をつぶした。この世の物とは思えなかった。聞けばイギリスでは30年前からすでに汽車が走っているという。
 そして駅を出て街の様子を見ると、道には大勢の馬車が行きかっている。馬車自体は横浜にも上海にもあるが、これほど多くの馬車は見たことがない。街には見上げるような高層建築物が林立(りんりつ)しており、その景色は上海の比ではない。

 さすが世界帝国イギリスの大都である、と感じざるを得ない。
(これがイギリスという国の力か……。これ程までとは思わなかった)
 この時、俊輔の心の中から“攘夷”という気持ちは完全に消え去った。
(これを日本に取り入れない限り、勝てる訳がない!)

 百聞は一見に()かず、とでも言うべきか。
 俊輔がこれ以降“攘夷”に逆戻りすることは一度もなかった。俊輔は激しい攘夷主義者であったからこそ、一旦開国に転じると激しい開国主義者となった。その点は上海で開国に転じた聞多と似てないこともない。
「聞多よ……。ワシの負けだ。攘夷は無理だな。日本は開国せねばならんようだ」
「うん?ああ、そうか。お主もとうとう攘夷をあきらめたか。それはそうだろう。この国の姿を見ればな」
 聞多の場合は元々それほど深く考えた上での攘夷でもなければ開国でもなかった。この男の場合はすべて直感で決めているのだ。だからこそ、それほど肩の力が入ったものではなかったので、どちらにしてもあまりコダワリはなかった。良く言えば柔軟性があり、悪く言えば無節操とも言えるだろう。

 俊輔と聞多はアメリカ・スクエアのホテルに着いて山尾、野村、遠藤とおよそ四ヶ月ぶりの再会を果たした。
 俊輔と聞多は、さすがに長州にいたらそんな事はやらないであろうが、山尾たちとお互いの無事を(しゅく)して抱擁(ほうよう)しあった。



 俊輔たち五人がロンドンへ渡っている最中に、日本では大きな政変が起こっていた。
 いわゆる「八月十八日の政変」である。
 ものすごく簡単に言ってしまえば
「京都で日の出の勢いだった長州藩が、中川宮(なかがわのみや)朝彦(あさひこ)親王(しんのう))の支持と孝明天皇の承認を得た会津・薩摩両藩によって京都から追放されたクーデター事件」
 ということである。
 この政変には俊輔もサトウもまったく関係していないので、実際のところこれだけの説明で終わらせてしまっても構わないのだが、それだとあまりにも味気ないので多少解説を入れておきたいと思う。

 この政変が起こる直前に京都の尊王攘夷派は「大和(やまと)行幸(ぎょうこう)」を計画していた。
 この物語では以前、この数ヶ月前にあった「賀茂(かも)(しゃ)行幸」と「石清水(いわしみず)八幡(はちまん)行幸」のことは書いた。今回の「大和行幸」もその延長線上にあるとは言えるが、今回の行幸はその目的がまったく違う。
 以前の二つは天皇による「攘夷祈願(きがん)」が目的だった。しかし今回の行幸は天皇による「攘夷親征(しんせい)」が目的だったのである。天皇の軍として攘夷戦争をやる、ということである。しかもこの計画には「錦旗(きんき)」を押し立てて幕府を()つ、という噂もあった。
 孝明天皇は攘夷を望んではいるものの、討幕(とうばく)の意志などまったくない。
 何よりも天皇の妹である和宮(かずのみや)が将軍家茂(いえもち)(とつ)いでいる。その幕府を天皇が討とうなどと考えるはずがない。
 そこで薩摩藩と会津藩が手を結び、中川宮経由(けいゆ)で孝明天皇の承認を得て、長州藩を御所(ごしょ)から()め出すクーデターを起こした。
 ただしあくまでクーデターの主兵力は会津藩である。この頃薩摩は薩英戦争との兼ね合いもあり京都にあまり兵を置いていなかった。まあ意地の悪い言い方をすると「薩摩藩が会津藩を上手くそそのかした」とも言えるだろう。とにかくこれで、長州藩の憎しみは会津藩へ向かうことになった(もちろん薩摩藩も憎しみの対象ではあるのだが)。

 長州藩と真木(まき)和泉(いずみ)を筆頭にした尊王攘夷派は、すんなりと引き下がった訳ではない。このとき両者の兵力にそれほど差はなかった。桂小五郎や久坂玄瑞などは主戦論を唱えた。
「我々の独断で戦ったことにすれば良い。国元(くにもと)君公(くんこう)(藩主慶親(よしちか))に迷惑が及ばないのであれば、仮に負けても害は少ないではないか」
 しかしこの主戦論を長州藩の支藩(しはん)岩国(いわくに)藩の藩主・吉川(きっかわ)監物(けんもつ)が止めた。
「一時の激情で藩を(ちょう)(てき)にしてはならん!」
 この岩国の吉川家のルーツをたどると、関ヶ原の戦いの際に家康本陣背後の南宮山(なんぐうさん)でお昼ご飯を食べてて戦いに参加しなかった吉川広家(ひろいえ)に繋がる家系だが、そんな余談はここでは割愛するとして、とにかくこの吉川監物の判断によって長州勢は国元に引き()げることになった。
 いわゆる「雨の中の七卿(しちきょう)落ち」で有名な都落ちの場面が、まさしくそれである。

 このことによって、「大和行幸」をくわだてた一派は吉野(よしの)の山中で壊滅(かいめつ)した(天誅組(てんちゅうぐみ)の変)。さらにその二ヶ月後には但馬(たじま)生野(いくの)(兵庫県朝来市(あさごし)生野町(いくのちょう))でも討幕挙兵の事件が起きたが、それもむなしく鎮圧(ちんあつ)されている(生野の変)。
 ともかくも、こうして京都では長州の力が後退し、結果的に幕府が力を取り戻すことになった。


 九月二十八日(11月9日)、横浜のイギリス公使館で薩英戦争の戦後交渉が開始された。
 薩摩藩からは数人の使者がやって来たが主に談判役を担当したのは重野(しげの)厚之丞(あつのじょう)(後の安繹(やすつぐ))である。
 イギリス側の代表はもちろんニール代理公使である。通訳は誰がやったのか不明だがおそらくサトウではなくてシーボルトが担当しただろう。ニールが代理公使在任中は主にシーボルトを通訳として重用していたようなので、まだ経験の浅いサトウはサブの扱いだっただろう。サトウが表舞台に出て来るのは、もうすぐ日本に戻ってくるオールコック公使が日本に到着してからのことになる。ちなみに、この交渉の席には幕府の役人も立ち会っていた。
 この日の第一回会談と五日後の第二回会談は双方が主張を譲らず、お互い相手を批判するばかりで議論には何の進展もなかった。
 ニールが重野に対して事の発端となった生麦事件の非を責めれば、重野は「日本では大名行列を(さまた)げることは外国人といえども許されない」と答え、重野がニールに対して開戦の原因となった蒸気船三隻の拿捕(だほ)(とが)めれば、ニールは「元々開戦の意志などなく、ヨーロッパでは船を差し押さえて談判を求めることはよくある」と答えた。談判は終始そんな状態だった。

 談判はもはや決裂寸前だった。
 とはいえイギリス側には「再度、艦隊で鹿児島湾へ行くぞ」という(おど)しのカードがある。本音ではニールも再び戦争することは避けたいのだが、少なくとも脅しのカードにはなる。そのカードを使ってなんとか重野から妥協(だきょう)を引き出して、賠償金2万5千ポンド(10万ドル)を獲得しようとした。

 十月五日(11月15日)の第三回会談で重野が意外な提案をした。
 重野はニールに対して
「賠償金を支払う代わりに、イギリスに軍艦の購入を依頼したい」
 と述べた。
 最初ニールはこの提案の真意をはかりかねて「双方の関係が今のように険悪(けんあく)な状態では軍艦など売れない」と一旦は断ったが、その後「関係が良好な状態へ向かえば考える余地はある」と多少態度を軟化させた。
 そこで重野は続けて
「軍艦の購入を依頼すること自体が関係改善を求めている(あかし)である」
 と述べ、さらに航海訓練用のイギリス人教師の雇用およびイギリスへの留学生の派遣なども依頼した。
 よくこんな話を幕府役人が立ち会っている目の前でやったものだと、その大胆さに驚かざるを得ない。とにかくこれ以降ニールと重野の交渉は順調に進みはじめ、とうとう妥結(だけつ)することになった。

 ところが薩摩は「財政が苦しくイギリスに賠償金を支払えないので金を貸してもらいたい」と幕府に願い出た。
 大久保一蔵が老中の板倉(いたくら)勝静(かつきよ)のところへ重野たちを派遣して七万両(ほぼ賠償金の10万ドル分)を借りようとした。大久保は前年、勅使の大原重徳(しげとみ)が江戸へ来た時も板倉に対して「脅し」を使って薩摩の要求を飲ませているが、どうやらこの時も切腹するだのイギリス人を斬るだのと「脅し」を使って板倉から七万両を引き出したらしい。

 そして十一月一日(12月11日)、薩摩は幕府から借りた金でイギリスに10万ドルを支払った。
 ただし支払い名義は薩摩本藩ではなくて同じ島津氏支族(しぞく)佐土原(さどわら)藩の名義で支払った。薩摩藩内は無論のこと、藩外でもイギリスに対して賠償金を支払うことには反感を持つ者が多く、これだけイギリスとの交渉に尽力した重野でさえ攘夷派から命を狙われるという有り様だった。
 ちなみにもう一つのイギリス側の要求だった生麦事件の犯人の処刑については「犯人捜査中(そうさちゅう)」ということでウヤムヤのまま消滅した。
 後年サトウは次のように手記で語っている。
「薩摩はイギリスに賠償金を支払った。ただし薩摩が大君(タイクン)(幕府)の国庫からこの金を借用したことは言っておくべきだろう。しかも私はその後、その借金が返されたという話を聞いたことがない」


 そのサトウ自身はこの頃「日本に残るべきか、日本を去るべきか」悩んでいた。
 この時サトウは二十歳(はたち)である。
 日本に来てから一年ちょっとが過ぎた頃である。

 まず悩みの第一は仕事についてであった。
 サトウは自分の日本語能力にかなり自信をつけてきていた。しかし相変わらず身分は通訳生のままだった。彼は思い切ってニール代理公使に昇進願いを提出した。この願いは本国外務省にも連絡が行き、今は返事待ちの状態である。
 もしこれで昇進できなかった場合、日本を去るべきかどうか。彼はこのことをロンドンの父に手紙で相談した。10月15日(九月三日)のことである。

 やがて12月10日(十月三十日)付けで父から返事が届いた(おそらく受け取ったのはこの日付の二ヶ月後ぐらいのことと思われる)。
「もしお前がイギリスに帰り法律を勉強するというのなら年額百ポンドを支援する」
 父からの手紙には、そう書いてあった。
 この時「日本語通訳生」としてのサトウの給料は年額二百ポンドだった。
 この父からの申し出はサトウにとってかなり恵まれた話だったと言える。
 思いもよらない恵まれた話を父からもらって、逆にサトウは困惑してしまった。

 そしてサトウの第二の悩みは遠い将来についてであった。
 もしイギリスへ帰れば、確約されたものではないにしろ、落ち着いて安定した生活を送ることができて、普通に結婚もしてきちんとした人生を送ることができるだろう。それにヨーロッパの文化、特に自分の大好きなヨーロッパの音楽を享受(きょうじゅ)することもできる。
 日本での乱れた生活、不安定な身分、さらに戦争やテロに囲まれた危険な環境と比べれば、イギリスへ帰ったほうがどれだけ良いか分からない。
 そんな訳でしばらくサトウは「日本に残るべきか、日本を去るべきか」悩んでいた。
 そしてどちらかというと「日本を去る」という方向に傾きはじめ、イギリスの友人たちへもそういった手紙を書いたりした。


 少し先の話になってしまうけれども、それでも結局サトウは日本に残ることを決めたのである。

 もうしばらくするとオールコック公使が日本に戻ってくるのだが、そのオールコックがサトウの昇進を後押しすると確約したのだ。
 ただしサトウは、それが自分の日本残留の決め手だったかどうか、自分でもよくわからないと日記に記している。

 以下、本作品の主要参考文献である萩原(はぎわら)延壽(のぶとし)先生の『遠い崖』2巻 (朝日新聞社)よりそのまま引用する。

「昇進の望みがひらけたことが、その理由のすべてであったかどうか、自分にもよくわからない。というのは、昇進は、けっきょく、小さな慰めでしかないのだから」
「おそらく、いっそう大きな理由は、日本を去り、あの退屈な故国イギリスにかえることは、わたしの人生の真の幸福を破壊し、過去二年半の間に、わたしがつちかってきたすべての絆を断ち切ることになる、と自分で感じたためである」
「友情の絆ばかりではなく、日本という国、日本語、そして日本人にたいする愛着を断ち切ることになるからである」
「いまや、歩むべき道をきめたのだから、あくまでもそれをつらぬき、すぐれた日本学者の地位を得るようつとめなければならない。というのは、日本語を十分に知ることが、わたしの目的であり、わたしの努力のすべては、その目標にむけられているのだから」
「もはや、ヨーロッパの本を、わたしがひもとくことは、めったにない。そして、しだいに、わたしが身につけているヨーロッパの古典についての知識は、色あせたものになってゆく。それだけに、報われるものが大きいことを、わたしはねがっている」(以上、引用終了)

 こうして、サトウは日本に残留することを決めたのである。


 さて、この頃日本国内の政局では「横浜鎖港(さこう)」問題が大きく取り上げられるようになっていた。「鎖港(さこう)」とは横浜の港を閉じるということをさす。
 言ってしまえばこれも“攘夷”の一種ではあるのだが、この頃になると全面的な“攘夷”を(かか)げるというよりも、この横浜鎖港の話が“攘夷”の主要課題になってしまっていたのである。

 以前に書いた清河八郎の横浜襲撃計画も、さらにちょうどこのころ武州榛沢(はんざわ)血洗島村(ちあらいじまむら)(現、埼玉県深谷市)の渋沢栄一が、その一族とくわだてた横浜襲撃計画も、まさにその一環であった。要するに「横浜から異人(いじん)を追い出す」というのがその目的だった訳である。
 余談ながら、渋沢栄一が横浜襲撃計画を進めていたこの頃、その(りん)(ぐん)、武州幡羅(はたら)郡の(しも)奈良村(ならむら)(現、埼玉県熊谷市)には後に「東の渋沢・西の五代」と並び称される五代才助(さいすけ)(友厚)が清水卯三郎(うさぶろう)手引(てび)きによって潜伏(せんぷく)していた。ただし結局渋沢たちによる横浜襲撃計画は実行されずに消滅し、渋沢はとりあえず京都へ(のが)れることになる。そして江戸で知遇(ちぐう)を得ていた一橋家の家臣、平岡円四郎(えんしろう)からの(すす)めで一橋家に仕官することになるのであるが、これは本作品とは関係の無い話である。

 とにかく、幕府としては長崎、箱館(函館)はそのままにして手を付けず、とりあえず横浜鎖港さえ唱えていれば「攘夷をやっているフリができる」という腹積(はらづ)もりであった。
 しかしながら横浜は当時日本最大の貿易港だった。
 輸出の八割以上、輸入の六割を横浜が占めていたのである。その輸出の大半は生糸(きいと)だった。幕府は生糸貿易の統制(とうせい)を強めて(詳細は割愛するがこの数年前に発令した「五品江戸(ごひんえど)廻送令(かいそうれい)」などを強化して)横浜の貿易に圧力をかけはじめていた。もちろんイギリスはこの圧力に激しく反発した。なにしろイギリスは横浜の貿易総額の八割を占めていたのだから当然の反応と言えよう。

 それにしても不思議なのは、本来幕府の政策は開国であり、以前書いたように慶喜も開国派だった。
 「八月十八日の政変」によって幕府が力を取り戻しつつあるこのタイミングであれば、これまで長州が唱えていた攘夷を完全に放棄して、幕府が開国路線を明確に打ち出しても良さそうなものである。
 けれども幕府中枢(ちゅうすう)も慶喜も、そうはしなかった。
 慶喜の伝記などを見ると
「自分はこの際だから開国の路線に切り替えれば良いではないか?と幕府中枢に進言したところ、以前は長州の攘夷に振り回され、今度は薩摩の開国に振り回されるということになれば幕府の立場がない。薩摩が開国を唱える以上は幕府は攘夷をとるべきだ、と幕府中枢から言われ、将軍(家茂)もそれに同意した。だから自分も攘夷(横浜鎖港)に同意したのだ」
 ということらしい。
 だからこそ、慶喜は中川宮邸で島津久光ら参与(さんよ)三人を相手にわざと酔っ払って
「この三人は天下の大愚物(だいぐぶつ)、天下の大奸物(だいかんぶつ)でござる!」
 とクダをまいて参与会議をぶち壊した、ということらしい。
 ただしこの見方には異論もある。岡山藩主の(いけ)()茂政(もちまさ)、鳥取藩主の池田(いけだ)慶徳(よしのり)などは徳川(とくがわ)(なり)(あき)の息子で尊王攘夷の色が強く、しかもこの二人は慶喜の兄弟でもあった。慶喜は藩主ではなく、ただの一橋家の当主なので藩兵による力の後ろ盾がない。だから慶喜は彼ら兄弟の後ろ盾を得るために攘夷へと走った、という異論である。
 ただ、いずれにせよ将軍家茂が孝明天皇との関係 (家茂の御台所(みだいどころ)である和宮(かずのみや)のことも含めて)を配慮して攘夷を重視したのだろうから、どのみち幕府は急な開国路線への変更は出来なかったということだろう。

 幕府はこの横浜鎖港をイギリス、フランスなどの本国政府と談判するため再び(けん)(おう)使節を送ることにした。
 いわゆる「池田使節団」である。
 スフィンクスの前で(さむらい)たちが写っている有名な写真があるが、あれがこの使節団の時に撮った写真である。
 使節の代表は外国奉行の池田(いけだ)長発(ながおき)筑後(ちくご)(のかみ))で、この使節には福地源一郎の兄貴分である田辺太一(たいち)も参加している。

 ところで、「横浜を閉ざす」などという話が外国に通用するはずがない、ということは当然幕府も分かっている。
 先ほど慶喜が酔っ払って久光に暴言を吐いたやり取りのことを書いたが、それとちょうど同じ頃のエピソードとして次のようなやり取りもあった。
 久光は、幕府は横浜鎖港政策を止めるべきだ、と慶喜に意見した。
「横浜鎖港の談判使節を欧州に派遣するのは止めるべきだと私は思います」
 これに慶喜が答えた。
「あなたの話はもっともですが、横浜だけでも閉ざさなければ人心がおさまりません」
「横浜を閉ざす費用はどれぐらいかかりますか?」
「多分、数百万両はかかるでしょう」
「そのような大金を横浜鎖港に使うぐらいなら軍備増強に使ったほうが良いではないですか」
「もう出発してしまったのですから今さら呼び戻せません」
「急いで連絡すれば遅すぎるということはないでしょう。今すぐでも呼び戻すべきです」
「談判の成否(せいひ)など問題ではありません。欧州は遠いのです。使節が帰ってくるのは三、四年先のことです。その頃になれば人心も落ち着いているでしょう」
「それは実に姑息(こそく)な手段と言わざるを得ません」

 要するに、前述したように幕府としては「攘夷をやっているフリ」ができれば、それで良いのである。
 幕府は攘夷が不可能なことは分かっている。ただ、「欧州まで行って鎖港談判をやってこい。ただし本当に談判を成功させる必要はない」と命令された池田使節一行の心境は複雑だったであろう。
 ちなみにこの使節の役目の中には、九月二日に横浜近郊の井土ヶ谷(いどがや)村で起きたフランス人士官殺害事件の謝罪および賠償交渉の任務も含まれていた。

 十二月二十九日、彼ら35名の使節団はフランス軍艦ル・モンジュ号に乗って横浜を出発した。
 使節団は一月上旬に上海に到着し、そこで日本に帰任する途中だったイギリスのオールコック公使と出会った。
 オールコックは使節団から欧州行きの目的を聞き、厳しく反論した。
「もしイギリス政府に対してそのような談判をおこなったらイギリスはそれを挑戦と(とら)えるだろう。これは両国間の親交を保持するものではなく、かえって戦争の機会を促進(そくしん)するものである。私が再び日本へ(おもむ)くのは、横浜の鎖港なんぞは論外で、かつてロンドンで調印した開市(かいし)開港(かいこう)延期の取り決めを廃止して、すぐにでも開市開港を要求するためである」
 この中の「ロンドンで調印した開市開港延期の取り決め」というのは以前触れた「ロンドン覚書(おぼえがき)」のことで、竹内使節がロンドンで江戸・大坂・兵庫・新潟の開市開港を1868年1月1日まで延期するよう約束した取り決めのことである。
 この取り決めの中には
「日本が約束不履行(ふりこう)の場合は即座(そくざ)に開市開港を要求できる」
 との規定があったことも、その時に指摘しておいた。
 だからこそ、オールコックは約束を破った日本に対して
「横浜を閉じるどころか、逆に江戸・大坂・兵庫・新潟を即座に開け!」
 と要求している訳である。
 池田や田辺たちの使節は出発していきなり、オールコックからきついお(きゅう)をすえられる形となった。

 そのオールコックは翌文久四年一月二十四日(3月2日)、二年間の賜暇(しか)を終えて日本に帰任した。
 そして彼の留守中に代理公使を務めていたニールは入れ替わるようにイギリスへ帰っていった。
 サトウは後に語っている。
「公使館員はニールのために送別会を開いた。彼はその席上で部下として働いた人々に対して彼らの将来を予想した。私については『きっとイギリスの大学で日本語教師になっているだろう』と予想したが、これは今までのところ、まだ実現していない」
 二年ぶりに帰って来たオールコックは日本の現状を詳しく調べ直し、攘夷の風潮がますます厳しくなっていることを痛感した。

 そして彼は英仏蘭米の四ヶ国連合艦隊を下関へ派遣する意志を固めたのであった。
 
 ちなみに文久四年二月二十日、甲子(かっし)改元(かいげん)慣例(かんれい)に従って元号が元治(げんじ)に改元された。



 さて、それではそろそろロンドンの俊輔たちの様子に目を移してみよう。

 俊輔と聞多は、何はともあれアメリカ・スクエアのホテルで風呂に入った。
 なにしろ四ヶ月以上、風呂はもちろんシャワーも浴びていないのだ。
 四ヶ月ぶりの風呂は生き返る心地がした。そして用意してあったちょっと大きめのシャツとズボンに着替えた。船で着ていたボロボロの服はホテルのメイドが汚物でも触るように指でつまんで回収していった。
 山尾たち三人はすでに背広を着ている状態だった。俊輔と聞多も用意してあったちょっと大きめの背広を着た。
 そしてマセソン商会の男の案内で床屋へ行って散髪した。
 俊輔は、自分たち五人の様子を見て笑いながら言った。
「ワシら五人も、これでジェントルマンの仲間入りだな」
 散髪が済んだ後、五人はマセソン商会の支配人ヒュー・マセソンのところへ案内された。
 五人は船の上で多少英語を学んだものの、やはりまだ英語がほとんど使えなかった。ここでも野村の英語が少し通じるぐらいだった。その野村の通訳によるとウィリアムソン教授という人が五人の世話をしてくれるということらしい。

 さっそく五人はホテルからウィリアムソン教授の家へ移ることになった。教授の家はロンドン北部のハムステッドというところにありリージェンツ・パークの北側に位置するあたりにある。ヒュー・マセソンの家も教授の家の近くにある。このあたりは緑が多くロンドン市民の(いこ)いの場となっている地域なので環境は良いと言える。五人とヒュー・マセソンは馬車に乗って教授の家へ向かった。

 ウィリアムソン教授の家に着くと博士の妻であるエマ夫人が出迎えてくれた。
 五人の姿を見たエマ夫人がつぶやいた。
「全員二十代と聞いていたけど、まだ子供みたいね」
 どうも我々日本人は西洋人から見ると子供のように見えるらしい。俊輔はこの時「(かぞ)え」で23歳、聞多は29歳である。
 五人は学問を学ぶ前に英語を覚える必要があったのでエマ夫人が家で英語の基礎を教えた。エマ夫人は子どもたちにマザー・グースの一節を使って英語を教えるように優しく五人を教育した。
 しばらくすると五人はウィリアムソン教授が教鞭(きょうべん)をとっているロンドン大学(ユニヴァーシティ・カレッジ)に通学し始めて、そこで教授の専門科目である分析化学(ぶんせきかがく)(analytical chemistry)を学び、家に帰るとまた英語や数学を勉強する、という生活を送るようになった。

 このロンドン大学は第一章で紹介したように、サトウが来日前に通っていた大学である。これで五人はサトウの後輩になったという訳だ。
 教授の家はそれほど広い家ではなかったので五人が住むには手狭だった。そこで聞多と山尾はロンドン大学のすぐ近くにあるクーパーという人物の邸宅に移ることにした。そこはガワー街103番という住所にあり、後に多くの日本人留学生が利用することになる建物で、現在も当時のまま残っているようである。
 俊輔たちは大学の勉強ばかりではなくて、時間をみつけては社会見学に出かけた。博物館、天文台、大砲製造所、軍艦製造所などを五人で見て回った。

 ある日、俊輔と野村は教授宅のすぐ近くにあるリージェンツ・パーク内のロンドン動物園へ足を運んでみた。
「こんな見世物(みせもの)小屋のような代物(しろもの)は、我が国が真似をしても仕方がないな、弥吉(やきち)よ」
「そうだな。俺もこんなものには興味がない。うん?向こうに人だかりがあるぞ。行ってみるか、俊輔」
「うーむ、なになに……、どうやらライオンという生き物らしい。恐ろしい顔をしとるのぉ~」
「それより俺は先日すごいものを見てきた。トレイン(鉄道)が地下を走っているのだ」
「トレインが地下を走るだと?どういう意味だ?トレインがモグラのように地下へもぐって行くとでも言うのか?」
「いや、そうではない。地下にすでに道があるのだ。そこをトレインが走るのだ」
「地下に道がある?坑道(こうどう)のようなものか?」
「そんなチャチな代物じゃない!トレインが通るのだぞ!どうやら英語では“トンネル”と言うらしい。俺はあれこそ、いずれ必ず日本で実現してみたい」
 俊輔たち五人がロンドンに来た1863年(文久三年)の1月に世界初となる地下鉄がパディントン駅とファリンドン駅の間に開通した。ロンドン北部を東西に走っている地下鉄で、当時俊輔たちが通っていたロンドン大学の近くにもガワー・ストリート駅(現ユーストン・スクエア駅)という地下鉄の駅があった。

 野村弥吉は後に「日本の鉄道の父」として広く知られている井上(まさる)という名に改めるのだが、帰国後、鉄道事業の発展に尽力することになる。
 中でも明治十三年(1880年)六月に開通させた逢坂山(おうさかやま)トンネルの工事では、自身も工事現場で陣頭(じんとう)指揮(しき)をとり、初めて日本人技術者のみでトンネル工事を成功させることになる。

 またある日、五人はイングランド銀行を見学した。
 場所は「落ちる歌で有名なロンドン橋」の少し北のほうにあり、銀行の目の前には王立(おうりつ)取引所(とりひきじょ)とワーテルローの戦いで有名なウェリントン公爵(こうしゃく)の騎馬像がある。
 五人はこの銀行で、一度に何千枚もの紙幣を()りあげる印刷機械の能力と、その紙幣が非常に精密(せいみつ)出来(でき)であることに驚嘆(きょうたん)した。日本の木版(もくはん)印刷では到底及びもつかない。
(こんな素晴らしい紙幣が日本でも作れたら良いな……)
 一人の男がブリタニア(イギリスを擬人化(ぎじんか)した女神)の姿が印刷されたイングランド銀行券を見つめながら感慨(かんがい)にふけっていた。
 この男は、これまでこの五人の中では全く紹介する機会がなかった遠藤(えんどう)謹助(きんすけ)である。
 遠藤は後に近代的な造幣(ぞうへい)事業の立ち上げに尽力して、造幣(ぞうへい)局長となる。
 また大阪造幣局の「桜の通り抜け」を発案する人物でもある。

 このイングランド銀行を見学した際に五人は見学者名簿の欄に自分たちの名前を記入した。
 この名簿を二年後、幕府外国奉行の柴田剛中(たけなか)(そのとき部下として福地源一郎も同行)が見つけることになる。ちょうどその頃には薩摩藩の密航留学生たちも同じように見学者名簿に名前を残していたので、それも柴田に見つかることになる。
 しかし柴田は薩長留学生たちの密航を(とが)めることはしなかった。というよりもむしろ同行した福地たちに「関わるな。無視しろ」と指示をした。柴田や福地が日本へ帰国した後、元外国奉行の重鎮(じゅうちん)、水野忠徳(ただのり)(「小笠原の率兵(そっぺい)上京」の際に少しだけ触れた)にその話をすると
「なぜ、その場で密航の罪を問わなかったのか!」
 と怒られた、という話を福地が残している。

 つづいて山尾庸三(ようぞう)の留学状況にも触れておこう。
 山尾はこのあとグラスゴー(イギリス北部にあるスコットランドの都市)で造船(ぞうせん)技術を学ぶために単身で(おもむ)くことになる。山尾はその頃、薩摩藩の留学生たちと仲良くなり、彼らから資金を借りてグラスゴーへ向かうのである。
 そして帰国後、造船をはじめとした工業技術の発展に寄与(きよ)し、工部卿(こうぶきょう)(明治初年の一時期、殖産(しょくさん)興業(こうぎょう)政策を担当した工部省の長官)に就任することになる。
 ちなみに山尾はグラスゴーの造船所で聾啞者(ろうあしゃ)(耳が聞こえなかったり話すことができない人)が普通に働いている姿を見て、それをきっかけとして後年、盲聾(もうろう)教育に力を(そそ)ぐようになったと言われている。ただしこの事については、山尾が俊輔と一緒に(はなわ)次郎を暗殺した場面で、それとは若干意見を(こと)にする指摘があることも書いておいた。山尾としては、造船所での事がきっかけだったと言わざるを得なかっただろうし、またそれも事実であったろう。おそらく両方の理由があったということなのではないだろうか。

 俊輔と聞多はイギリスの様子をあちこちと見て回り、ますます日本が立ち遅れていることを痛感した。
「攘夷など不可能であり、西洋の技術を導入する以外に道はない」
 そう言っていた佐久間象山の言う通りだったと、今さらながら思い知らされた。
 とはいえ、ロンドンも素晴らしい面ばかりではない。
 松木弘安がロンドンの格差社会の深刻さを指摘していたように、少し路地裏へ入ればスラムがあり、そこでは酔っ払いや娼婦がはびこっていた。そういったスラムの様子は当時ギュスターヴ・ドレが書いたロンドンの風俗描写を見ればよくわかる。一説によるとこの頃のロンドンには娼婦が八万人いたという(ただし警察発表では8,600人となっている)。品川で遊郭に行きまくっていた俊輔と聞多がロンドンで大人しくしていたとは思い(がた)いが、実際二人にそんな時間があったかどうか。


 五人は段々英語も習得して、辞書を頼りにすれば新聞も読めるようになった。
 というか、そもそも日本には新聞などという有用(ゆうよう)代物(しろもの)はないのだから、この点をとってみてもイギリス社会は大したものだと俊輔たちは感心していた。
 五人がロンドンに来てからまだ数ヶ月しか経っていないある日、五人はタイムズ紙で日本に関する記事を見つけた。
 その記事には次のように書いてあった。
「長州が下関で外国船を砲撃したので、幕府が長州を罰することが出来ないのであれば、各国が連合して長州を()つしかない」

 この記事を読んで五人は戦慄(せんりつ)した。
 そもそも彼らは前年の五月十二日に横浜を出て以来、それ以降に日本で起きていた出来事をまったく知らなかった。
 彼らは大学の図書館で日本に関する過去の新聞記事も調べてみた。
 すると、これまでこの物語で書いてきたように、長州が下関で外国船を砲撃したこと、またそのことで米仏の軍艦に報復(ほうふく)されたこと、さらには薩摩がイギリスと戦争したことなどが分かった。

「これはまずい事になった……」
「国(長州)の連中はイギリスの国力を知らないから攘夷だなんだと言っているが、戦えば負けるに決まっている」
「負ければ巨額の賠償金を取られるか、広大な土地を取り上げられるか、悪くすると長州が(ほろ)びる」
「どうすれば良いんだ……」
 そこで俊輔が叫んだ。
「ワシは長州へ帰る!帰って攘夷をやめさせて、開国するよう説得する!」
 しかし野村は反対した。
「だが、もう間に合わんかも知れん。それに、帰っても(いくさ)を止められるとは思えん。下手したら、いや、下手をしなくても攘夷を叫ぶ奴らに殺されるに決まっている」

 俊輔は、ついこの前まで自分がそうだったから、彼ら攘夷派の過激さを一番よく知っている。けれども、それでも自分は帰らねばならないと思った。
「国が滅んでしまえば、ここで学業したところで何の意味があるか。ワシは一人でも帰る」
 そこで山尾が意見を差し挟んだ。
「俺も気持ちとしては帰りたい。だが我々は“生きた器械”となるように言われてロンドンまで来た。こんな中途半端な形で帰っても良いのか?」

 そしてこの五人の中では統率者の立場にある聞多が、決断を下した。
「わかった。俺と俊輔の二人で長州へ帰る。あとの三人は残って学業を(まっと)うしろ。あるいは、俺たちが死んでしまったら後を引き継いで藩の連中を説得するよう努めろ。これしか他に手はなかろう」
 この決断に皆が賛成した。
 実際、本人たちの資質(ししつ)から考えても、これ以外に方法はないであろう。

 俊輔と聞多は帰国する理由を説明するためウィリアムソン教授に会いに行った。
 しかし教授は二人の帰国に反対した。教授は次のように言った。
「お前たちの言うことはもっともらしく聞こえるけれど、お前たち若者が帰ったところで国の政治を変えられるものではない。つまるところ、お前たちは学問するのが(いや)になったのではないか?」
 確かに二人の資質からすると技術的な学問には向いてなかっただろうから、教授はそれを見抜いていたのかも知れない。またあるいは、この二人の英語力が足りなかったために教授へ真意が伝わらなかったのかも知れない。しかしとにかく二人がくり返し説明したところ、ようやく教授も納得してくれた。
 そしてマセソン商会のヒュー・マセソンも二人の帰国には反対した。理由はほとんど教授と同じであった。ただしこちらも二人がなんとか説得した。すると今度は、逆にヒュー・マセソンが二人の帰国を支援してくれるようになり、横浜のオールコック公使と会えるように紹介状まで書いてくれた。
 俊輔は教授とヒュー・マセソンの二人に
「短い間でしたが大変お世話になりました。命があればまたイギリスへ帰ってきます」
 と礼を述べた。

 さて、二人が日本へ帰る船便を調べてみると、ちょうどまた喜望峰回りで日本へ向かう(ふう)帆船(はんせん)の便があった。蒸気船を使ってスエズ経由で帰ったほうが早いのだが、山尾たちへの留学資金を残すために安い喜望峰回りの便で帰ることにした。ただし今回は前回と違って、ちゃんと客として扱われることは間違いない。

 そして俊輔と聞多がロンドンを出発する前に、五人で写真店へ行って記念写真を撮った。
 写真を撮る時に皆ちょっと気取ったポーズをとってみた。
 聞多は椅子の背もたれを前にして座り、俊輔はやや背中を見せながら振り向き加減にポーズをとる、といった具合である。
 そう、この写真こそが「長州ファイブ」の写真として有名な、あの写真である。
 もしこの異境(いきょう)の地イギリスで死ぬとしても、あるいは祖国日本で殺されるとしても、我々五人が命がけでロンドンまでやってきた(あかし)が後世まで伝わるように、精一杯見栄(みえ)()って撮った写真なのである。

 俊輔と聞多は三月頃、ロンドンを出発した。
 往路(おうろ)の時と同じように喜望峰のあたりで嵐に見舞(みま)われあわや難破(なんぱ)しそうになったが、五月下旬にはなんとか上海に到着した。
 しかし上海に到着すると、すでに横浜では英仏蘭米の四ヶ国艦隊が下関へ向けて出陣準備を整えつつあるという情報に接した。
 二人は急いで蒸気船に飛び乗って横浜へ向かった。

 六月十日、二人はおよそ一年ぶりに横浜の地に降り立った。
 しかしこの五日前には、京都の池田屋で長州などの尊攘(そんじょう)派志士が新選組によって急襲され多数が死傷。俊輔の幼なじみだった松下村塾の同志、吉田稔麿(としまろ)も死亡していた。
 それ以前から長州では京都への出兵がほぼ確定的となっていたが、この池田屋事件がダメ押しとなった。
 ただし、俊輔と聞多は、日本国内でそんなことが起きているとは知る(よし)もなかった。
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