第18話 薩長同盟とパークス来日

文字数 15,130文字

 四月七日、元号が元治(げんじ)から慶応に改元(かいげん)された。
 これで元治の元号は一年限りということになった訳だが(この四年前にも(まん)(えん)という一年限りの元号があったが)こうまでして改元を強行したのは、元治元年が「甲子(かっし)革令(かくめい)」の年というだけあって、禁門の変、京都の大火、長州征伐、天狗党の乱と、社会不安を巻き起こす事件が相次(あいつ)いだので、()えて改元に踏み切ったのである。

 ちなみに天狗党の乱は、この年の初めに北陸で諸藩軍に降伏し、終結した。
 幕府の天狗党一味(いちみ)への処置は過酷を極めた。
 その指揮を()ったのは田沼意尊(おきたか)(有名な田沼意次(おきつぐ)のひ孫)であった。
 北陸の諸藩軍から天狗党一味を引き取った田沼は、天狗党一味約八百人を(にしん)(ぐら)へ押し込んで虐待(ぎゃくたい)した。彼らと同じ水戸出身で、天狗党とは縁の浅からぬ慶喜について書いた『徳川慶喜公伝』はハッキリと「意尊の虐待」と書いている。田沼は関東で天狗党の鎮圧にてこずらされた(ゆえ)にこういった処置に出たのであろう。
 二月四日から敦賀で処刑がはじまり、350余名が処刑された。
 この幕府の処置を聞いた薩摩の大久保一蔵は当時、次のように書いている。
「このように多数の志士を処刑して、あまつさえ動物を扱うかのように虐待したのはまったく田沼の責任である。いよいよ幕府滅亡の(きざ)しが見えてきた」

 そして幕府は長州に対しても決着をつけるべく決心した。
 今度こそ長州の息の根を止めるために「将軍進発」を決定したである。
 いわゆる「第二次長州征伐」はこの時点から始まっており、初動は意外にも早かった。ただし、実際に長州へ攻め込むのは一年以上先のことであり、それまで幕府はもたもたと無駄に時を過ごすことになる訳だが。
 四月十八日、幕府は「毛利父子に容易(ようい)ならざる(くわだ)て」があることが判明したという理由で「五月十六日に将軍が進発する」と発表した。
 しかしながらこれは将軍進発というよりも、まだ「将軍上洛」というぐらいの段階で、とりあえず将軍家茂があらためて京都へ入るのが決まった、といった程度の話である。

 将軍上洛はこれが三度目となる。
 一度目は二年前の、あの「五月十日の攘夷期日」を決めた時である。
 そして二度目は、この物語では割愛したが一年前に船に乗って上洛していた。この時は数ヶ月間の滞京で、その後また同じように船で江戸へ帰った。
 今回は、幕府軍の威光を示すためにも、一回目と同様に陸路で上洛することになった。

 ところで「毛利父子に容易(ようい)ならざる(くわだ)て」とは何のことであろうか?
 このあと将軍が上洛した際、幕府は朝廷に対して将軍進発の理由を次のように説明した。
「長州藩主は昨年謝罪したが、その後再び過激派が政権を握った。しかも(ひそ)かに家臣を外国へ(つか)わせ、大砲・鉄砲などの兵器を多数購入し、そのうえ密貿易もやっている。その証拠をつかんだので将軍が進発したのである」
 これは長州の村田蔵六が上海で船を売却して武器を購入した、いわゆる「フィーパン号(モニター号)事件」のことを指している。

 この年の二月、まだ正義派政権が誕生して間もない頃のことだが、村田は「壬戌丸(じんじゅつまる)」に乗って上海へ行った。この時、アメリカの投機的商人ドレークという男がこの密貿易の手引きをした。フィーパン号(モニター号)とはドレークが乗っていた船の名前で、この船が壬戌丸を引っ張って上海へ行ったのである。
 ちなみにこの壬戌丸は、この物語では何度も登場したように、サトウが来日する時に乗ってきたランスフィールド号のことで、その後長州が買い取って横浜で練習船として使い、下関の砲撃戦でアメリカのワイオミング号によって撃沈された、という船である。
 ところがこの船の数奇な運命はこれだけで終わらず、長州は撃沈された後に海底から引きあげて修復し、この船を上海で売却して代わりに武器を買おうとしたのだった。

 この船は上海で3万5千ドルの値段で売れたので(1万5千ドルという説もある。ちなみに長州が購入した時の金額は11万5千ドル)その代金でゲベール銃を買って帰ったという。
 しかしこの事件は史料が少なくハッキリとしたことは今もよく分かっていない。
 ミニエー銃(施条(しじょう)銃=ライフル銃)にこだわっていた村田が旧式のゲベール銃(ライフリングがない滑空(かっくう)銃)を買ってくるというのも面妖(めんよう)な話で
「村田蔵六は上海へ行ってないんじゃないのか?」
 という声もある。
 余談として述べると、例えば『()めた炎』(中央公論社)の著者、村松(たけし)氏は
「二月九日に壬戌丸が出帆したとすれば、翌日下関で対馬行きの便船の調達をしたり、小五郎の呼び戻しの相談に加わったりしていた蔵六が、この船に乗っていたはずがない」
 と書いている。
 かたや司馬遼太郎大先生は『花神』のなかで
「妙なことに蔵六は維新後も『私は、外国へは行ったことがありません』と、いっている。この長州藩の国家秘密を維新後までまもっているというのは、ちょっと滑稽であるが、蔵六はそういう男であった」
 と書いている。真相は不明である。

 ともかくも、長州が密かにおこなった上海での武器購入は、たちまち幕府にバレた。オランダ総領事ポルスブルックがこの長州の武器密輸を探知して、幕府に報告したからである。
 オランダは幕府と二百年以上の親交があり、しかもポルスブルックは二年前に下関海峡で長州から砲撃をくらって負傷までしているのだから、幕府のために長州の武器密輸をしらせたのは当然のことだった。
 ポルスブルックの報告を聞いた幕府はすぐに外国奉行の役人を上海へ派遣して、上海で長州の武器密輸の証拠をつかんだ。
 かくして「毛利父子に容易(ようい)ならざる(くわだ)て」があることをつかんだ幕府は、長州再征を決断した訳である。

 ちなみにこの「オランダが幕府へ密告(みっこく)して長州再征が決まった」という話は広く世間に知れ渡り、その後しばらくしてポルスブルックが船で下関へ立ち寄った際、桂と俊輔が船に乗り込んでポルスブルックに抗議した。
 とはいえ、武器の密輸自体は事実なのでそこには触れず
「なぜ幕府に密告して長州をイジメるのか?」
 という理屈で二人は抗議した。
 するとポルスブルックは、窮地(きゅうち)にあるはずの長州が案外威勢(いせい)の良いことに驚き、しかも長州から(うら)みを買うのもうまくないと考えて
「長州再征を幕府にそそのかしたのは小倉藩です」
 と、桂と俊輔に答え、小倉藩に責任転嫁した。対岸から下関を監視している小倉藩と長州藩が不仲であることは外国人にも有名だった。それゆえ、とっさに責任転嫁したのである。


 五月に入ると幕府軍は次々と上洛の()についた。
 五月五日に一番手が江戸を出発し、そのあと幕府軍は順次(じゅんじ)出陣していった。
 そして五月十六日、将軍家茂が江戸城から出陣した。
 将軍を(よう)した隊列は翌日、横浜からほど近い保土ヶ谷(ほどがや)を通過した。その際、横浜の外国人たちもこの隊列を見物することが許された。

 二年前の将軍上洛の際は、生麦事件からまだそれほど時間も経ってなかったので外国人が見学することなど不可能だったが、この頃になるとかなり規制もゆるやかになっていた。
 この時、外国人たちが将軍の軍勢を見物している様子は歌川芳幾(よしいく)(落合芳幾)の錦絵(にしきえ)『末広五十三次 程ヶ谷』にも描かれている。

 当時たまたま横浜にハインリッヒ・シュリーマンが来日しており、彼は『シュリーマン旅行記 清国・日本』(石井和子・訳、講談社学術文庫)で、この時の様子を描いている。
 言うまでもなくシュリーマンはトロイ遺跡を発見した、あの考古学者のシュリーマンである。
「いよいよ大君が現われた。他の馬と同様、蹄鉄なしで藁のサンダルを履かせた美しい栗毛の馬に乗っている。大君は二十歳くらいに見え、堂々とした美しい顔は少し浅黒い。金糸で刺繍した白地の衣装をまとい、金箔のほどこされた漆塗りの帽子を被っていた。二本の太刀を腰に差した白服の身分の高いものが約二十人、大君のお供をして、行列は終わった。翌朝、東海道を散歩した私は、われわれが行列を見たあたりの道の真ん中に三つの死体を見つけた。死体はひどく切り刻まれていて、着ている物を見ても、どの階級の人間かわからないほどだった。横浜で聞いたところによると、百姓が一人、おそらく大君のお通りを知らなかったらしく、行列の先頭のほんの数歩手前で道を横断しようとしたそうである。怒った下士官が、彼を斬り捨てるよう、部下の一人に命じた。ところが、部下は命令に従うのをためらい、激怒した下士官は部下の脳天を割り、次に百姓を殺した。まさにそのとき、さらに高位の上級士官が現われたが、彼は事の次第を確かめるや、先の下士官を気が狂っているときめつけ、銃剣で一突きするよう命じた。この命令はすぐさま実行に移された。三つの死体は街道に打ち捨てられ、千七百人ほどの行列は気にもとめず、その上を通過していったのである」


 この将軍の隊列を、横浜にいたサトウが見たかどうかは定かではない。
 しかし、サトウはこの将軍進発について俊輔と詳しく手紙でやり取りをした。
 まずこの数ヵ月前に、俊輔からサトウに手紙を送った。もちろん下関に立ち寄ったイギリス船に(たく)して横浜へ送ったのである。その内容を要約すると次の通りとなる。
「京都での戦い(禁門の変)以降、征長軍がやって来て長州の内部は激しく混乱していましたが、今では一つにまとまっています。また四ヶ国との戦争を経験して、外国の武器および艦船の優秀さに皆が気づきました。幕府が長州にどのような対応をするつもりなのか分かりませんが、戦争を回避できなければ我々は徹底的に戦うことになるでしょう。我々が以前外国船を砲撃したのは幕府の命令があったからです。その我々に対して幕府が戦争をしかけてくるのは筋違いです。ちなみに幕府が兵庫開港の努力をしている形跡はまったくありません」

 これに対する返事かどうかどうかは不明だが、サトウは将軍進発について「日本語で」俊輔に手紙を送った。
 日付は(うるう)五月四日で、この時サトウは「薩道(さとう)懇之助」と名乗っていた。この手紙も要約すると、次の通りである。
先月(せんげつ)(五月)十六日、将軍が江戸を進発しました。総人数は五万一千人に過ぎず、しかも砲兵隊は千人ほどで、野戦砲も小規模の物のみとのことです。また当分の間イギリスの軍艦が一、二隻、下関へ監視に向かいますが、幕府に加勢するためではなく、イギリス商船の武器の密売を監視するためです。ただし他国の商船によるものは当方の関知するところではありません。基本的にあなたがた(長州)を助けることはできませんが、幕府を助けるつもりもありません。(せん)だってご要望のあった英和辞書をお送りしますのでご笑納(しょうのう)ください。追伸。井上聞多様ならびに山尾庸三様にもよろしくお伝えください」

 この中でサトウが幕府軍の総人数を「五万一千人」と書いているのは、一般に幕府軍は五万人と言われていたのでその説のまま書いたのだろう。ただし実際の総数は「約二万一千人」だったらしい。とにかくサトウとしては基本的に「幕府軍はたいしたことはない」ということを言いたかったように見受けられる。

 特に重要なのは「他国の商船によるもの(武器の密売)は当方の関知するところではありません」という部分で、これはサトウが俊輔に対して
上手(うま)く監視の目をすり抜けて武器を入手せよ」
 と暗に言っているに等しい。オランダのポルスブルックが長州の武器密輸を幕府へ報告したように、このころ外国商人が長州へ武器を売ることは禁じられていた。
 しかし、そもそも一介(いっかい)の日本語通訳官であるサトウがイギリス公使館の政策決定にそれほど深く関与できるはずもなく(少なくともこの頃のサトウの力では)、サトウから俊輔への手紙は一般的な外国公使館のスタンスである「局外(きょくがい)中立」を述べているに過ぎない。
 イギリス公使館の政策方針を決めるのは、新しく日本公使として着任するパークスであり、彼は今まさに日本に到着しようとしているところだった。そして実際にパークスが横浜へ着任するのは、サトウがこの手紙を書いた十日ほど後のことである。

 ただし、フランスはロッシュ公使のもと、明らかに「局外中立」を無視して幕府へ急接近しようとしているところなので、イギリスがフランスに追随せず「局外中立」を守ってくれるだけでも、俊輔や長州にとって一つの安心材料とはなったであろう。
 少なくともイギリスは今のところ幕府を応援するつもりはないのだな、と。
 それにしてもサトウは俊輔にどんな英和辞書を送ったのだろう?
 この数ヶ月後にサトウが作り始める『英和口語辞典』の完成は十一年後のことである。
 ちなみに「和英」辞典であれば、この当時ヘボンが作っていた初の本格的和英辞典『和英語林(ごりん)集成(しゅうせい)』は、この二年後に完成する。なんにせよ、俊輔がこの頃英語の勉強に打ち込んでいたことだけは間違いない。


 この閏五月、俊輔のいた下関ではいわゆる「薩長同盟」への動きと、さらに「パークス来日」が同時に進行していた。

 「薩長同盟」というと世間一般ではすぐに坂本龍馬の名前が想起されるかも知れないが、真っ先に動き出していたのは同じ土佐人の中岡慎太郎であった。
 中岡は四月末には、出石から戻って来たばかりの桂と下関で会って、さらに俊輔とも会っていた。中岡の薩長同盟への動きは、すでにその頃から始まっていた。

 俊輔と中岡は初対面ではない。
 というか、中岡は禁門の変、下関戦争、長州内戦を通してずっと長州人と一緒に行動していたので、長州の志士たちは誰でも中岡のことは知っている。
 長州にいた五卿が西郷の周旋によって太宰府へ移されたことは以前少しだけ触れた。その際、中岡は五卿と共に太宰府へ同行しており、そこで西郷や薩摩藩士たちのことを知るようになったのである。

 かたや龍馬は神戸海軍操練所(そうれんじょ)が閉鎖になった後、薩摩藩の庇護(ひご)を受けていた。
 薩摩藩と深く関わることになった龍馬は、西郷や小松が幕府を見放しつつあることを知った。
 もちろん龍馬自身も、師の勝海舟が西郷に説いたように、今の幕府では日本が立ち行かないことを自覚しており、幕府に長州を(つぶ)させてはならないと思っていた。

 別に薩長同盟は龍馬が発明した訳ではない。
 発想自体は多くの人々が、特に多くの尊王派の人々が抱いていた発想、というか理想であった。
 ただし理想はあくまで理想で、実際に行動を起こして、それを具体化させるのは並大抵のことではなかった。
 なにより長州が薩摩をひどく憎んでいる。この当時長州人が薩摩と会津のことを「薩賊(さつぞく)会奸(かいかん)」と呼んでいたというエピソードは有名であろう。
 両者の同盟が尊王派の理想ではあっても、皆が実現不可能だろうとあきらめていた。
 だからこそ、実際に行動を起こした龍馬と中岡の勇気は(とうと)いと言える。

 幕府が長州再征を決定して長州が再び危機にさらされた時、薩摩側の事情をよく知る龍馬と、長州側の事情をよく知る中岡という二人の土佐人が、薩長の仲人(なこうど)役を買って出たのは二人の意欲が強かったというのもさることながら、二人を取り巻く「何か大きな力」がこの役目を決定づけたかのような感がある。
 その「何か大きな力」とは
「時代や人々が求めた時に、その求めた通りの人がそこにいた」
 という不思議な天の配剤(はいざい)のことである。
 天命、と言っていい。

 そして薩長を結びつける具体的な触媒(しょくばい)となったのは太宰府の五卿と、長崎のグラバーだった。

 鹿児島にいた龍馬はまず太宰府に入って五卿に面謁(めんえつ)した。
 そしてここでたまたま長州藩士の小田村(おだむら)伊之(いの)(すけ)(後の楫取(かとり)素彦(もとひこ))と会い、薩長連携の相談をした。小田村は龍馬の話をすぐに桂へ手紙でしらせた。
 龍馬は太宰府から下関に入ると、ここで同じ土佐藩の土方(ひじかた)(くす)()衛門(えもん)(後の久元(ひさもと))と出会った。土方は五卿に随従(ずいじゅう)してきた人物で、中岡と一緒に薩長連携に向けてすでに活動を始めていた。
 このとき龍馬は土方から
「中岡が西郷を下関へ連れて来て、桂に会わせる予定になっている」
 と聞いて喜んだ。
 閏五月五日、龍馬は桂に会って薩長連携を()いた。
 桂としては、すでに小田村から話を聞いていたので、頭から龍馬の話を否定することはなかった。
「我々長州から手を差し伸べる筋合(すじあい)はまったくない。だが、薩摩がそれほど望むなら話を聞かんでもない」
「それで結構。西郷さんは鹿児島から上京する際、この下関に立ち寄る予定になっている。あと十日ぐらいで到着するだろう」

 ところが五日後(閏五月十日)、西郷ではなく、まったく意外な人物が下関に立ち寄った。
 それは新任の日本公使、パークスだった。
 彼は日本へ着任するにあたって長崎、下関、大坂を経て横浜へ向かうことになっていた。この時わざわざ下関へ立ち寄ったのは前年の下関戦争で四ヶ国艦隊がなしとげた「下関の非武装化」を確認するためでもあった。
 桂、俊輔、聞多はパークスが乗って来たレパード号を訪問してパークスと面談した。
 初めてパークスを見た俊輔の印象は
(前任のオールコック翁と違って、ずいぶんと若い男だな)
 というものであった。
 前任のオールコックは五十六歳で、パークスは三十七歳だった。
 長州はキューパー提督との協約を守って、下関の海岸に新しく砲台を築くことはしなかった。そして桂はパークスに対して長州の実情を説明した。
「我々は必ずしも幕府と戦争になるとは考えていないが、もし幕府軍が攻めてきた場合、砲台がないので野砲を使って幕府艦隊を迎え撃つつもりである」
 パークスは長州の対応に満足した。そして下関を後にして、新しい着任地である横浜へ向かった。


 薩長同盟への動きが始まっている下関に「ちょうどイギリス公使のパークスがやって来た」というのは、後世から見れば何か意味ありげな場面として目に(うつ)るかもしれないが、無論、まったくの偶然である。

 そしてこの十一日後、中岡が下関にやって来た。
 が、西郷を連れてきてはいなかった。
 中岡は豊後(ぶんご)(大分県)佐賀関(さがのせき)までは船で西郷と同行していた。けれども西郷は急に予定を変更して下関へは寄らず、そのまま大阪へ直行してしまった。
 中岡は佐賀関で船を降りて、一人で下関へやって来たのだった。
 歴史上有名な「西郷のすっぽかし事件」である。
 龍馬と中岡の失望は大きかった。

 桂、俊輔、聞多は龍馬と中岡から「西郷は来なかった」と聞かされた。
 むろん、桂は激しく怒った。
「それ見たことか!また薩摩にだまされたではないか!だから西郷は信用できないのだ!」
 桂としては、こう言わざるを得ない。
 薩摩への憎しみが深い長州人たちの目もある。下手をすれば「うまうまと龍馬たちのヨタ話に乗ってしまった愚か者」として長州人から殺されるかも知れないのだ。
「長州の怒りはよく分かる。だが、この程度で薩摩を見切ってもらっては困る。いきなり両者の手を結ばせようとした今回の計画に無理があったのだ。まずお互いが歩み寄れるところから始めなけりゃいかん。長州が今どうしても欲しいのは武器と蒸気船だろう?」
 この龍馬の話を聞いて、桂、俊輔、聞多の目の色が変わった。
 確かに龍馬の言う通りなのである。
 今回西郷が下関訪問を取りやめたのも「お互い藩内の意見調整もできていないのに、そんな(あわ)てて会う必要もないだろう」と見たからである。さらに相手の本気度を確かめるためにも「ここは一つ、すっぽかすに限る」と判断して大坂へ直行したのであろう。
 龍馬は話を続けた。
「俺は今、長崎で亀山(かめやま)社中(しゃちゅう)というカンパニーを薩摩から任されている」
「カンパニー?」
 と桂が怪訝(けげん)そうに言うと、脇にいた俊輔が桂に告げた。
「イギリスの商人(あきんど)のことです。ただし向こうでは多くの人から元手(もとで)(つの)るので(あきな)いの量が桁違(けたちが)いです」
「おお、よくご存知で。桂さん、そちらの方は?」
「伊藤俊輔と申して、イギリスのことに詳しい男だ」
 さすがにイギリスへ密航した話を他所(よそ)の人間に言う訳にはいかず、桂はこんな言い方で俊輔を紹介した。
 俊輔と龍馬は目が合った。そしてお互い軽く会釈(えしゃく)をした。
 この時、俊輔は龍馬を見て直感的に感じた。
(この坂本龍馬という男は、どうもワシと似ている。というか同じ(にお)いを感じる)

 龍馬はさらに話を続けた。
「外国人は長州には武器を売れないが薩摩には売れる。俺の亀山社中が長崎の外国人から薩摩名義で武器と蒸気船を買って、それを長州へ回す」
 ここで再び俊輔が口を挟んだ。
「長崎の外国人から武器と蒸気船を買うと言うことは、相手はグラバーさんですか?」
「その通り。そうか、やはりグラバーは長州でも知られていたか。それなら話は早い」
 以前書いた通り、俊輔は三ヶ月前に高杉と長崎へ行き、グラバーにイギリス留学の相談をしていた。それゆえ長州の開国派にとってグラバーはすでに有名な存在であった。
 俊輔は龍馬に質問した。
「もし薩摩がこの話を承知すれば、確かにミニエー銃などの武器はうまく手に入るかも知れません。しかし蒸気船はどうするつもりですか?蒸気船は銃と違って人目につきます。外国から買えないはずの長州が新しい蒸気船をおおっぴらに乗り回したら、薩摩が横流ししたと幕府から疑われるんじゃないですか?」
 龍馬はニヤリと笑って俊輔に答えた。
「なあに、問題ない。長州がその船を必要とする時まで、我々亀山社中の人間が薩摩の旗印(はたじるし)(かか)げてその船を運用すれば誰にも分かるまい」
 なるほど確かに、それなら幕府の目をごまかせるだろう、と桂、俊輔、聞多の三人は思った。
 これで一応話はまとまり、龍馬と中岡がこの線で西郷を説得することになった。



 一方横浜では、この五日前にパークスが到着していた。
 サトウとウィリスは軍楽隊と一緒に新公使のパークスを出迎(でむか)えた。
 ただし天気はあいにく、ザアザアぶりの雨だった。

 さて、ここでパークスの人物像を少し解説しておきたい。
 司馬遼太郎大先生は『「明治」という国家』(日本放送出版協会)の中でパークスについて次のように述べている。
「パークスの時代にもし私がうまれ得たとしたら、お前さん、アジア人をバカにしすぎているんじゃないか、とひとことだけ言ってやりたい気持ちに、ついなってしまいます」
 果たして現代の日本で、パークスのことを知っている日本人が何人いるか?それは定かではないけれど、彼の名前を知っているごく少数の日本人からすれば、この司馬先生が述べている
「アジア人に対して尊大(そんだい)居丈高(いたけだか)なイギリス人、パークス」
 というのが大体共通しているイメージなのではなかろうか?と思う。

 確かにパークスにはそういった側面が強いことを筆者も否定はしない。
 またこの先、そういった側面を何度か目にすることにもなるだろう。
 彼に関する重要なエピソードを挙げておくとすれば、やはりアロー戦争の話ということになろう。
 1856年(安政三年)に勃発(ぼっぱつ)したアロー戦争は、またの名を第二次アヘン戦争といい、清国(中国)が英仏軍に完膚(かんぷ)なきまでに敗れ、インドのようにイギリスの植民地とされるところまではいかなかったものの、その少し手前ぐらいの状態、言うなれば「半植民地状態」になることを決定づけられた戦争だった。

 この戦争の口実(こうじつ)を作ったのが当時広東(かんとん)領事だったパークスである。
 その詳細をここで述べることは割愛するが、それは「ほとんど言いがかり」と言っていい口実だった。
 パークスはこのアロー戦争におけるイギリス側の重要人物であり続け、清国側はパークスの首に三十万ドルの賞金をかけたほどである。

 四年後(1860年)、南方戦線で勝利を収めた英仏軍がいよいよ首都北京に迫ろうとした際、その和議交渉の最中に英仏交渉団の約四十名が清国側に(とら)われて捕虜(ほりょ)となった。
 この時パークスも捕虜の一人として監禁された。
 清国側はこれらを人質にして英仏軍を退去させようとしたのだが、これがかえって英仏側の敵愾心(てきがいしん)に火をつける形となり、そのあと北京を占領され、皇帝の離宮である(えん)明園(めいえん)も完全に破壊された。
 パークスは三週間後に解放されたものの、約四十名の捕虜のうち半数以上が虐殺(ぎゃくさつ)されていた。
 その間パークスは拷問(ごうもん)を受け、英仏軍に対して進撃の中止を訴えるよう強要されたが、パークスは拒否し続けた。
 このため彼は帰国した時に「英雄」として(たた)えられヴィクトリア女王からサー(Sir)の称号(しょうごう)を与えられたのである。

 もう一つパークスの人物像を紹介する際に外せないのは「彼はインテリではない」ということである。
 早くに両親を亡くし、初等教育を済ませてすぐの十三歳の時に親戚のツテを頼って清国へやって来た。それ以降、中国語の通訳として領事館の仕事を勤めあげてきた「叩き上げ」の人物なのである。

 ちなみに前任の日本公使オールコックは清国で長い間パークスの上司として一緒に仕事をしており、ほとんど家族同然の間柄(あいだがら)だった。
 そのオールコックはこの時、清国公使に就任することになった。
 イギリス外務省内の序列で言えば清国公使は日本公使より上位なので、これは栄転(えいてん)にあたる。清国公使の年俸は六千ポンドで、日本公使の年俸は四千ポンドなのである。ただし、これは要するにイギリスの利権がどれほど関わっているかによって決まっているだけのことで、イギリスの植民地であるインドを支配したインド総督の年俸は二万五千ポンドである。

 新しく日本公使として赴任(ふにん)してきたパークスに対して、ウィリスは
「まったく落ち着きのない厄介(やっかい)な男で、自分自身も働き過ぎですが、部下を働かせるのも相当なものです」
 と故郷への手紙でボヤいている。
 そしてサトウは、この頃の日記は残ってないが、後に手記でパークスについて次のように書いている。
「彼は仕事にかけては厳格(げんかく)容赦(ようしゃ)がなかったが、私的な関係においては助力を()う人々に対していつも(なさ)(ぶか)く、彼の好意をつかみ取った人々に対してはいつも誠実な友人となった。ただし、私は不幸にもこうした人々とは違っていたので、彼とは最初から最後まで()(した)しむ関係にはなれなかった」
 ともかくこれ以降、サトウはパークスの部下として長く仕えることになるのである。



 七月中旬、俊輔と聞多は下関を出発して長崎へ向かった。
 龍馬の周旋によって薩摩藩名義で武器と蒸気船を買う、という案を長州藩が了承して二人を長崎へ派遣したのだった。
 俊輔と聞多は途中太宰府へ入って五卿に面謁(めんえつ)し、ここで薩摩藩士および土方(ひじかた)(くす)()衛門(えもん)と長崎行きの相談をした。
 その結果、二人は薩摩藩士になりすまして長崎へ行くことになった。
 俊輔は吉村荘蔵、聞多は山田新助と名乗ることにした。
 そして長崎にいる薩摩藩家老・小松帯刀(たてわき)宛の紹介状を書いてもらい、太宰府を出発した。
「俊輔、長崎の遊郭は安く遊べるそうだな。遊郭の手配は長崎に(くわ)しいお主に(まか)せる」
「聞多よ、その刀傷(かたなきず)のある顔で遊郭へ出歩くつもりか?すぐ奉行所に目をつけられるぞ」
「なあに、()み笠をかぶっていけば傷はかくせる」
「顔をかくして遊郭へ行ったら逆に目立つではないか。第一、我々は薩摩藩士なのだぞ。お主、薩摩弁をちゃんと話せるのか?」
「心配あるまい。横浜でポルトガル人に化けたのと比べれば、わけはない。言葉の最後に『ごわす』と付ければ良いのだろう?吾輩(わがはい)は山田新助でごわす。きれいな(おなご)がいっぱいごわす。まことに驚くごわす。こんなもんでどうだ?」
「……お主の英語以上に下手(へた)な薩摩弁だのう」

 七月二十一日、二人は長崎に着き、ひとまず亀山社中に入った。
 すでに亀山社中には龍馬からの指示が届いており、亀山社中の人間も二人に協力することになっていた。
 なかでも上杉宋次郎(そうじろう)(近藤長次郎(ちょうじろう))が、二人と一緒に武器と蒸気船の購入手配にあたることになった。
 上杉はさっそく二人を薩摩藩邸の小松帯刀のところへ案内した。

 実のところ二人は、小松がどのような反応に出るか不安だった。
 なにしろ小松は禁門の変で西郷と共に薩摩兵を指揮して長州兵を()ち、変の直後、まっさきに将軍進発を幕府に申し出て長州討滅(とうめつ)を唱えた人物である。
 二人は禁門の変に参加しておらず、そういった小松がとった行動のいきさつまでは知らなかったが、薩摩藩の家老が仇敵(きゅうてき)長州の人間を(こころよ)(むか)えるとは思えず、小松と会う直前まで心の中で身構えていた。

 ところが小松は二人を歓迎した。
「坂本さんから話は聞いてます。我が藩の方針はお二人と同じく“尊王開国”です。貴藩の利益となるのなら喜んでお手伝いしましょう」
 小松は長州が薩摩藩名義で武器と蒸気船を買うことを了承し、さらに二人が薩摩藩邸に滞在することも許可した。
 後はとんとん拍子に話が進んだ。
 武器と蒸気船の手配をするグラバーは、五代や薩摩スチューデントとの関係を見ても分かるように薩摩藩と密接な関係にあった。当然のことながら小松とグラバーの間には、これまでビジネスを積み重ねてきた信頼関係があった。
 小松の後ろ盾を得た俊輔と聞多からの注文であれば、グラバーが断るはずもなかった。
 グラバーは二人に対して言った。
「ご心配は無用です。百万ドルぐらいなら、いつでも長州にお貸ししましょう」

 二人はミニエー銃4,300(ちょう)、ゲベール銃3,000挺、さらに蒸気船ユニオン号をグラバーに注文した。
 この中でも特にミニエー銃4,300挺はどうしても長州が手に入れたがっていた武器で、これが後の「第二次長州征伐」の際に威力を発揮することになる。

 この買い付け手配の際、聞多は小松と一緒に薩摩へ行った。また上杉は薩長両藩の藩主(薩摩は国父(こくふ)久光)に(えっ)して両藩の関係を調整するため奔走(ほんそう)した。
 特にユニオン号の手配のために上杉は奔走したのだが、(のち)に両藩の間でユニオン号の帰属(きぞく)をめぐって問題が(しょう)じることになった。
 薩摩藩と上杉は桜島(さくらじま)丸と名付けて薩摩藩の所有にしようとし、長州藩は乙丑(いっちゅう)丸と名付けて自藩の所有にしようとして紛争(ふんそう)になったのである。
 結局龍馬が仲裁(ちゅうさい)して長州藩の所有船ということに決まるのだが、この問題とは別に、上杉が亀山社中に無断でイギリスへ密航しようとして(やはり密航の手配はグラバーで、資金は小松が出すことになっていた)その計画が社中の人間に露見(ろけん)したことによって、翌年の一月十四日、上杉は切腹してしまった。享年二十九。

 おそらく上杉は、一緒に行動していた俊輔や聞多からイギリス留学の話を聞いて触発された、ということもあったのであろう。
 のちに俊輔はこの時のことを次のように回想している。
「その前日までは吾輩たちと一緒に酒を飲んでおったが、翌日になって『昨晩腹を切らした』と言ってきたものだから実に驚いた。この男が一番役に立つ男であったが、誠に気の毒であった」
 俊輔はこの買い付け手配のために、翌年一月まで長崎と長州の間を行ったり来たりすることになった。


 さて、これまで大河ドラマなどで何度も見てきた龍馬・西郷・桂の「薩長同盟」の場面は、上杉が切腹した数日後、一月二十一日の京都での話であるが、この物語では特に大きく取り上げるつもりはない。

 実際のところ、この長崎での両藩の提携を見れば、事実上両藩の提携はこの段階でほとんど出来上がっていたとも言えよう。
 長崎のイギリス領事館にいたガウアー(エーベル・ガウアー)は俊輔たちが長崎へ到着した六日後(七月二十七日)には、横浜のパークス公使に対して次のように報告している。
「イギリスから帰国した二人の長州藩士が薩摩藩士と称して、私のよく知っている小松帯刀の庇護(ひご)を受けて薩摩藩邸に(かくま)われています。彼らが長崎に来た理由は定かではありませんが、これは人々が口にしている噂を裏付けているかも知れません。その噂とは、薩摩は表面上、長州再征では幕府に協力的ですが、実際は長州を全力で助けている、というものです」
 この情報元が「薩摩藩、俊輔たち、グラバー」のうち、いずれであったかは分からないが、イギリスは早くも薩長提携の動きを把握(はあく)しつつあった。


 同じ頃、ヨーロッパでも薩長の留学生たちが接近しつつあった。
 パークスが横浜へ着任する途中、閏五月十日に下関へ立ち寄って桂、俊輔、聞多の三人と面会していたが、実はこの同じ日に、ロンドンで「長州ファイブ」の三人、山尾、野村、遠藤が「薩摩スチューデント」と初めて面会したのである。

 三人のなかでも特に山尾が積極的に薩摩人たちとの交流を深めていった。
「同じ異郷(いきょう)の地にある日本人同士」
 ということで薩長間の軋轢(あつれき)を乗り越えられたということもあろうが、それとは別に、山尾には薩摩人たちに接近しなければならない理由があった。
 長州の三人は金が無かったのである。

 薩摩スチューデントたちはしっかりと留学資金を準備してロンドンへやって来ていた。
 一方、この物語の「長州ファイブ」の章で彼らがロンドンへやって来る顛末(てんまつ)を以前書いたが、長州のイギリス留学計画はずさん(きわ)まるやり方だった。
 ロンドンに残った山尾、野村、遠藤の三人はたちまち資金に(きゅう)することになり、高杉と俊輔の代わりに追加留学生となった南、山崎、竹田の三人もたちまち同様の境遇(きょうぐう)(おちい)ることになった。
 山尾、野村、遠藤のうち、遠藤は肺を悪くしたこともあって翌年早々に帰国する。一方、野村はロンドンに残って五年間勉強を続けることになる。
 そして山尾は翌年、薩摩人から一人一ポンドずつ、合計十六ポンドの義援金を出してもらってグラスゴーへ行き、そこで働きながら造船技術を学ぶのである。
 山尾はグラスゴーへ行ってからも薩摩人たちと手紙で連絡を取り続け、これは長州藩の方針というよりもまったく個人的な人間関係と言うべきであろうが、イギリスで薩長連携を押し進めることになる。


 ちなみに薩摩スチューデント十九人のうち五代、松木など幹部数人は留学のためにヨーロッパへやって来た訳ではない。
 五代は武器や産業用機械の工場視察、さらにそれらを日本へ買って帰るために、そして松木は、イギリス外務省と外交交渉をするためにヨーロッパへやって来たのである。

 五代は新式の鉄砲・大砲、さらに紡績(ぼうせき)機械の購入契約を済ませたあと、ベルギー系フランス人のモンブラン伯爵(はくしゃく)と面会した。
 このモンブランは「幕末の山師(やまし)的外国人」と言われている人物で、物語作品などで見かけることはめったにないが、筆者が知る限り四十年前の大河ドラマ『獅子の時代』に登場していたぐらいだと思う(筆者はその当時見た訳ではないが)。
 その大河ドラマの中でも、この二年後に開催される「パリ万博」で薩摩藩の味方をして、プロパガンダによって幕府を攻撃していたが、それは実際の史実を(もと)にした話である。そしてその薩摩藩との関係はこの五代との面会によって生まれたものだった。

 さらに余談として付け加えると、ちょうどこの頃、幕府遣欧(けんおう)使節の柴田剛中(たけなか)一行(この一行には福地源一郎も含まれている)がフランスへやって来ていた。
 幕府がフランスの協力で建設計画を進めていた横須賀製鉄所の技師(ぎし)機材(きざい)を手配するためにやって来たのである。
 この横須賀製鉄所は幕府の開明派官僚、小栗忠順(ただまさ)上野介(こうずけのすけ))が尽力したことで有名だが(現在横須賀のヴェルニー公園に小栗の銅像があるが)幕府とフランスの提携を象徴する施設でもあった。
 モンブランはこの時、幕府側の柴田剛中にも接近して知遇(ちぐう)を得ようとしたところ、柴田はこの山師的な外国人を(あや)しんで相手にしようとしなかった。
 実はモンブランは前年、鎖港談判のためにフランスへ来た幕府の池田使節とも接触しており、その時には
「幕府はフランスの力を借りて長州などの反対勢力を討ち、中央集権の国家体制を作るべきだ」
 と助言していたぐらいで、元から反幕府的だった訳ではない。
 ところがこの時、柴田から冷たくあしらわれたことによって幕府を見限り、薩摩の五代へと走ったのである。
 確かにこの山師的な男を味方につけても幕府にはあまりメリットがあるとは思えない。
 しかし「味方にすると頼りないが、敵に回すと恐ろしい」という厄介(やっかい)な男が時々いるもので、このあとモンブランはことごとく薩摩の味方をして、幕府の邪魔をして回るようになるのである。

 そして松木はグラバーからの紹介でオリファントと面会し、さらにオリファントからイギリス外務省の要人を紹介してもらって外交活動を展開していた。
 このオリファントとは、第一章で登場した「サトウを日本へと導く本を書いて、サトウが来日する前に東禅寺で攘夷派浪士に殺されかけて帰国した」あのオリファントである。
 日本で攘夷派浪士に殺されかけたにもかかわらず、オリファントの親日姿勢は変わっていなかった。
 このとき国会議員になっていたオリファントは、松木に紹介状を書いて渡すだけでなく、自由貿易主義の本質、さらにヨーロッパ外交の駆け引きについて様々な助言を与えた。
 そしてこの後、第一章でも触れたように、薩摩スチューデントたちの何人かをあやしい新興宗教にひきこんでアメリカへ連れて行き、ひんしゅくを買って絶縁されるのである(ただし長沢(かなえ)だけは最後まで残って、実際彼はアメリカに骨を埋めることになったが)。
 しかしそれはともかくとして、松木はこのあとイギリスのクラレンドン外相にさえ面会できるようになり、外相に対して
「幕府による貿易独占の廃止および朝廷を頂点とした諸侯連合政権の確立」
 を訴えて、それなりの賛同を得ることに成功するのである。

 こういったヨーロッパでの一連の政治活動を終えたあと、五代と松木は留学生たちを残して一足先に日本へ帰国することになった。
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