第1話 俊輔とサトウ

文字数 5,182文字



 (ぶん)(きゅう)二年八月二十一日(1862年9月14日)の事である。
 六日前に来日したばかりのイギリス人青年アーネスト・サトウは、横浜の街頭で異様な喧騒(けんそう)(そう)(ぐう)してぼうぜんと立ちつくしていた。
 ちなみにこのサトウという青年、年齢は十九歳、容姿は長身スマート、顔も美形という文句なしの美男子である。

 街頭で騒いでいる男たちの大半はサトウの同胞であるイギリス人だった。一攫(いっかく)千金(せんきん)を狙って横浜へやって来た冒険商人の(たぐ)いもいれば、軍人なども数多(かずおお)く見受けられる。いずれにしても一見して明らかに(あら)くれ(もの)とわかる連中ばかりである。
 彼らは興奮した様子で口々に
「リチャードソンたちがサツマのサムライに斬られたらしい!」
「場所はアヴェニュー(東海道)のナマムギだ。すぐに救出に向かうぞ!」
 と怒りに満ちた表情で(わめ)()らしている。彼らの中にはあまつさえ
「リチャードソンたちの救出を日本人が妨害したら蹴散(けち)らしてしまえ!」
「邪魔する日本人はみんな射殺しろ!」
 などとぶっそうなことを叫んでいる連中もいた。

 サトウはその群衆の中から一人の巨大漢(きょだいかん)をみつけた。サトウが来日してすぐに友人となった同僚(どうりょう)である。
「ウィリス!」
 サトウは一目散にウィリスのもとへかけよって、この騒動の原因をたずねた。
「ウィリス、何があったんだ?」
「おお、サトウか。どうやら日本人がまた刀をふりまわして我々西洋人に “攘夷(ジョーイ)”をしかけたらしい。斬られたのは全員イギリス人だ。我々はこれからすぐに彼らの救護に向かう」
 このウィリスという男の肩書は「イギリス公使(こうし)(かん)()医官(いかん)(けん)補助官(ほじょかん)」と言った。ちょっとややこしい名称だが、要するに通常はサトウとともに公使館の仕事に従事しているが、今回のように患者が発生した場合は医療活動に従事する、という職分(しょくぶん)である。
 この男は西洋人のなかでもひときわ目立つ巨大漢で、すこし頭がハゲあがっているが年齢はまだ二十五歳である。サトウと違ってむさくるしいヒゲ(づら)で、しかも太っている。ちょっと美男子とは言いがたい。

 そのウィリスの隣りでもう一人の医者が医療器具を馬に積んで出発の準備をしていた。ジェンキンズという中年の医者で、彼もまた「イギリス公使館付き医官兼補助官」である。ただしウィリスの先任者なので横浜の事情についてはこのジェンキンズのほうがはるかに詳しく、いわばベテランと言える存在である。
 ウィリスが横浜に来たのはたった半年前のことだった(それでも六日前に横浜に来たばかりのサトウからすれば、そのウィリスでさえもベテランと呼べるかもしれないが)。恐るべきことに、このたった半年間の在日経験しかないウィリスが攘夷(じょうい)殺傷事件の救急活動にあたるのは、これですでに二度目である。

 出発の準備がととのったジェンキンズは、サトウとのんびりしゃべっているウィリスをせきたてた。
「急げ、ウィリス!もたもたしてると助かるものも助からんぞ!」
「了解。それじゃあサトウ、留守番をよろしく頼む」
 そう言うやいなや、二人は護衛のイギリス陸軍騎兵数名とともに(なま)(むぎ)(むら)をめざして駆けていった。

 あとに残されたサトウは、ぼうぜんとその騎馬隊を見送った。
(やっぱり、ついこの前までいた上海と同じように、この横浜も戦場になってしまうのか?日本に到着してからボクはまだ何もしてないのに。あの美しい黒髪の日本女性と、まだ(だれ)一人(ひとり)として知り合いになっていないというのに!)

 世にいう「生麦事件」である。

 馬に乗った四名のイギリス人(女性一名含む)が東海道の生麦村で薩摩藩の行列と遭遇して、薩摩藩士たち数名から斬りつけられた事件である。
 斬りつけられたのは男性の三名で、女性は難をのがれた。彼女はすぐに横浜へ引き返して事件が起きたことを皆へ知らせた。先述のように横浜のイギリス人たちが沸騰(ふっとう)していたのは、そのためである。

 イギリス人を()()てた薩摩藩の行列をひきいているのは島津久光(ひさみつ)である。奇妙なことにこの男、薩摩藩の実質的な首領(しゅりょう)でありながら薩摩藩主ではない。ただの藩主の父親であり、藩内では「国父(こくふ)」と呼ばれている。
 それゆえ、この行列は「大名行列」ではない。いや、それどころか幕府から禁じられているのを無視して大砲で武装までしているという「前代(ぜんだい)未聞(みもん)の行列」なのである。
 久光の目的は、幕府に政治改革の要望(ようぼう)をのませることだった。そのため久光は朝廷(ちょうてい)から勅使(ちょくし)もひきつれてきた。朝廷の権威と薩摩の武力を背景にして、幕府を恫喝(どうかつ)したのである。
 その恫喝は成功した。
 一例をあげると、幕府は政事(せいじ)総裁(そうさい)職に松平春嶽(しゅんがく)を、将軍後見(しょうぐんこうけん)職に一橋(ひとつばし)慶喜(よしのぶ)(しゅう)(にん)させることを受け入れた。
 目的を達した久光は京都へ戻るために、この日江戸を出発した。そして東海道の生麦村にさしかかったところでイギリス人の一行(いっこう)と遭遇して「無礼(ぶれい)()ち」として斬り捨てたのである。



 横浜(関内(かんない))から横浜道を北上すると東海道に出るが、そこから東海道を左へ行けば保土ヶ谷(ほどがや)宿、右へ行けば神奈川宿がある。さらに神奈川宿を過ぎて先へ進むと次は川崎宿で、その途中にあるのが生麦村である。
 ウィリスやジェンキンズたちの騎馬隊一行は横浜道を北上して東海道へ合流しようとした時に、目の前の東海道を右から左へ進んでいく薩摩藩の行列を目撃した。
「あれを見ろ!」
「あれがリチャードソンたちを(おそ)ったサツマの連中か!」
 と護衛のイギリス陸軍騎兵たちは叫び声をあげ、拳銃(ピストル)を構えた。
 しかしジェンキンズが冷静に彼らをおしとどめた。
復讐(ふくしゅう)後回(あとまわ)しだ。今は黙って脇を通り過ぎるぞ!」
 イギリスの騎馬隊一行は東海道を右折して、薩摩藩の行列の脇を抜けるように神奈川宿方面へと向かった。

 薩摩藩士とイギリス人たちはお互い相手の挙動(きょどう)に対して気が気でなく、まさに一触即発(いっしょくそくはつ)の状態だった。
 そのうち一人の薩摩藩士が刀の(つか)に手をかけて攻撃の構えをみせたので、イギリス陸軍騎兵の一人がその男の頭へ拳銃を向けて威嚇(いかく)したところ、その男は刀を抜くのをあきらめた、といった一幕(ひとまく)もあった。

 (のち)にウィリスは故郷への手紙の中で、この時の状況を次のように説明している。
「もし我々が発砲していたら私達は一斉(いっせい)に攻撃を受け、おそらく皆殺(みなごろ)しにされていたでしょう。もっとも、私達も必ず何人かの武士を撃ち殺してはいたでしょうが」

 このあとウィリスたちは神奈川宿に到着して当地のアメリカ領事館に避難していたイギリス人男性二人を保護した。彼らは何ヵ所か刀傷(とうしょう)をうけてはいたものの(いち)(めい)はとりとめた。幸い神奈川宿にはアメリカ人のヘボン医師がいたので、彼らはヘボンから応急手当を受けていた。
 しかしながら、最後の一人として捜索(そうさく)されていたリチャードソンは、東海道の道端で、メッタ斬りにされた無残(むざん)な遺体となって発見された。

 横浜の外国人たちはたちまち激昂(げきこう)した



 生麦と横浜で騒動が起きている頃、江戸桜田(さくらだ)の長州藩邸(現在の日比谷公園のあたり)では志道(しじ)(ぶん)()(後の井上(かおる))が伊藤俊輔(しゅんすけ)(後の伊藤博文(ひろぶみ))に遊女(ゆうじょ)屋行きの相談をもちかけていた。
「俊輔、お前今夜、品川へ遊びに行くそうだな」
「品川へ行くと申しても、いつも遊女目当てという訳ではないぞ、聞多よ。(かつら)さんが品川で客を接待(せったい)するというから、その席に同伴(どうはん)するだけだ。だから今日はお(ぬし)と一緒には行けんぞ」
「なんじゃ公務(こうむ)か、つまらん。とはいえ、それが終わればやはり遊女たちと遊ぶのだろう?」
「当たり前ではないか」
 伊藤俊輔はこの時「(かぞ)え」で二十二歳、サトウと比較するために満年齢で言うとちょうど二十歳(はたち)で、サトウとそれほど歳は変わらない。志道聞多は俊輔より六歳年上である。二人とも美男子とはとても言いがたい顔面(がんめん)の持ち主で、よほどの物好(ものず)きな女性でもない限り外見にほれるということは、まずあるまい。

「品川で公務というと、やはり相手は薩摩か」
「うむ。昨日の(わか)殿(との)のご訪問に尽力してくれたお人だ」
「なんという男だ?」
五代(ごだい)(さい)(すけ)という男だ。桂さんと江戸へ向かっている時に金谷(かなや)で出会ったのだが、なかなか(さと)い男で、今回の若殿の件でいろいろと助力してもらったのだ」
 若殿とは毛利定広(さだひろ)元徳(もとのり))のことで、藩主毛利慶親(よしちか)(たか)(ちか))の世子(せいし)後継(あとつ)ぎ)である。その定広が昨日高輪(たかなわ)の薩摩藩邸を訪問して島津久光と面会した。
 久光の江戸出発の前日という、このギリギリの日程でなんとか両者の面会を成功させるために、俊輔の上司である桂小五郎(後の木戸孝允(たかよし))は京都と江戸で奔走(ほんそう)していた。桂と俊輔が江戸に入ったのは数日前のことで、途中東海道の金谷で偶然薩摩の五代才助(後の五代友厚(ともあつ))と出会い、その際に「薩長面会」の件で五代に協力してもらったのである。

 俊輔は話を続けた。
「しかも驚くなかれ、その五代という男、上海(しゃんはい)から帰ってきたばかりだというのだ」
「上海だと?異国ではないか!幕府の人間でもない薩摩人が、どうすれば異国へ行けるというのだ。密航(みっこう)でもしたのか?」
「バレたら死罪となる密航を我々他藩の人間にうちあける訳がないではないか。上海行きと言えば、ほら、我が藩でも一人思い当たる人間がいるだろう?」
「あっ!高杉が乗って行った、あの千歳(せんざい)丸か!」
「そうだ。幕府が派遣したあの千歳丸で、五代は上海へ行ったのだ。さらに驚くことに、五代は上海で高杉さんと一緒に行動していたらしい。なんとまあ、世の中は(せま)いものだと実感したよ」
 この数ヶ月前、幕府は上海の状況を視察するために千歳丸を長崎から上海へ派遣した。その船に高杉晋作(しんさく)や五代才助など諸藩(しょはん)の人間も数人乗り込んでいた。その上海でイギリスの勢力を目の当たりにした高杉が衝撃をうけた、といった話は有名だろう。その頃の上海の様子についてはサトウも来日前、かなりの期間上海に滞在していたので、おそらく後で触れることになるはずである。
 余談ながらこの六年後、神戸と堺で今回同様の攘夷(じょうい)殺傷事件が発生するのだが、俊輔はこの五代才助と協力して事件解決のために奔走(ほんそう)することになる。とはいえ、神ならぬ()では、そんな将来のことまで知る(よし)もない。

 俊輔は桂とともに桜田の藩邸を出て高輪へ向かった。まず薩摩藩邸で前日の薩長面会について返礼をして、その後品川で五代を酒宴(しゅえん)に招く予定であった。
 ところが薩摩藩邸に入ってすぐに「取り込み中」ということで、桂は面会を(ことわ)られた。
 確かに藩邸内の雰囲気はどこか異様だった。
 あわただしく走り回っている藩士を見かけることもあれば時々「チェストー!」と大きな叫び声が聞こえてきたりもする。どことなく藩邸内が殺気立っているように桂と俊輔には感じられた。
 桂は念のため五代と連絡をとろうとしたところ、これもすぐに「取り込み中」ということで面会を断られ、さらに「今夜の酒席についても辞退する」との返事をよこしてきた。
 桂は通りかかった何人かの薩摩藩士に事情を聞こうとしたが、(みな)恐ろしい形相(ぎょうそう)を見せるばかりで事情を説明する者は一人もいなかった。
「これはどうも、ただならぬ事態が発生したらしい。俊輔、すぐに桜田に戻って事情を調べるぞ」
 と桂は俊輔に()げた。俊輔は当惑(とうわく)した。
(なんということだ!これで今夜、品川で遊女と遊ぶ予定が台無しになってしまったではないか!)

 もちろん、薩摩藩邸が殺気立っていたのは生麦での事変の報告が次々と伝わっていたからである。俊輔はこの日の夜、品川で遊女と遊ぼうなどとノンキな気持ちで一杯だったが、薩摩藩側はこの日の夜「イギリスと一戦(まじ)えるかもしれない」と、その覚悟をかためていたのである。

 桜田の長州藩邸に戻った桂と俊輔はすぐに生麦での事変のことを知った。
 この薩摩の「異人(いじん)斬り」を聞いて、多くの長州藩士たちが(なげ)いた。無論、その嘆きは人命が失われたことに対しての嘆きではない。
「残念だ!薩摩に先を越されてしまった!」
「これで薩摩は攘夷の急先鋒(きゅうせんぽう)としておおいに名声を得るだろう。我々長州は薩摩においていかれるばかりだ!」
 俊輔とて、その気持ちにかわりはなかった。吉田松陰(しょういん)の門下生だったのだから尊王攘夷の気持ちは人一倍強く、今はまだ足軽の身分とはいえ「尊王攘夷の道に(はげ)んで、いつかは正式な武士の身分になりたい」と強く願っていた。
(それにしても薩摩はなんと血の気の多いことよ。京都を出発する時に寺田屋で自藩の人間の血を流し、今また江戸を出発する時にイギリス人の血を流すとは)
 俊輔が(ぞく)している長州は、この頃はまだそれほど過激な政治行動をとっていなかった。それゆえ、今はこれら薩摩の流血事件を他人事のようにとらえているが、この後長州は、薩摩がおよびもつかない程の大流血をやらかしていくことになる。

 しかしながらそれは後々の話であり、今はとにかく生麦のこと、特にサトウがいる横浜で外国人たちが激怒して、すぐ近くの保土ヶ谷(ほどがや)に宿泊している薩摩勢と一触即発の状態になっていることを書かねばならない。
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