第27話 龍馬とサトウと俊輔と

文字数 15,566文字



 八月十五日、サトウと龍馬を乗せた夕顔は長崎に到着した。
 この日の夜、さっそく俊輔と木戸がサトウに会うためイギリス領事館へやって来た。

 俊輔とサトウは手紙のやり取りは続けていたものの直接会うのは三年前の下関戦争以来だった。
 ちなみにサトウが木戸に会うのは(この前鹿児島では会いそびれたので)これが初めてである。
「サトウさん、元気そうで何より!ようやく再会できてワシは本当に嬉しい!イギリス公使館の皆さんもお達者ですか?」
「おかげさまで。伊藤さんも病気が治ったようで何よりです。そういえば宍戸(ししど)(高杉)さんはお亡くなりになったそうですね。まことに残念です」
「ワシも無念の(きわ)みです。あのユーリアラス号で高杉……、いや宍戸さんがサトウさんとやり合ったのも、ついこのあいだのように憶えてます……。あっ、そうそう、申し遅れました。こちらが私のボス、木戸さんです」
 そう言って俊輔はサトウに木戸を紹介した。

 三人は夕食を食べながら日本の政治状況について話し合った。
 木戸はサトウに長州の状況について説明した。
「我が主君(しゅくん)(毛利敬親(たかちか))は実に温和(おんわ)な人柄なのに世間からは野心的な人物として(ひど)く誤解されている。我が藩は幕府を倒そうなどといささかも考えておりません。長州の発展だけを考えてます。だからイギリスに留学生も送ったのです」

 この木戸の話はサトウにとって意外だった。サトウは木戸に問い返した。
「ですが新将軍(慶喜)はフランスの協力のもと軍隊を強化して幕府の体制も一新しようとしています。放っておけば、いずれまた長州へ攻め込んでくるのではないですか?」
「いや。以前とはまったく状況が違います。(みかど)も将軍も、前の戦いの時とは()わって新しくなっています。新将軍が長州を攻める理由などどこにも無いのです」
「そうですか……。西洋では、理屈(りくつ)だけを(とな)えていつまで()っても行動に移さないのは“老婆(ろうば)の理屈”と言い、男子の()じる行為です。宍戸さんがいなくなったせいか、どうも長州は変わってしまったようですね」
 しかしこのサトウの発言に対しても、木戸と俊輔は特に反論しなかった。
 その理由は言うまでもなく、下関における井上聞多の時と同じである。


 一方、龍馬は海援隊の本部でイカルス号事件の取り調べについて詳しく話を聞いた。
 これまで土佐藩を代表してパークスや幕府の長崎奉行所と交渉してきたのは、土佐商会の岩崎弥太郎だった。

 岩崎弥太郎については、数年前に大河ドラマでも出ていたので詳しく解説する必要もなかろう。後の三菱財閥の創業者である。
 長崎奉行所から取り調べを受けていた海援隊の横笛(よこぶえ)丸が、岩崎の命令を無視して勝手に鹿児島へ行ってしまったということで隊士たちと岩崎がケンカをしていたのは龍馬にとって困りものだったが、とにかくパークスが海援隊にかけた嫌疑(けんぎ)は「()(ぎぬ)である」という確信を得られたので龍馬はホッとした。

 そこで龍馬は一案を(こう)じた。
「犯人を見つけ出した者には千両を与える、と市中に()()きを出そう」
 この龍馬の発案に岩崎が反対した。
「千両の金など土佐商会は出せんぞ」
「バカだな、弥太郎。誰も見てない夜中の犯行だ。どうやったって犯人など見つかるものか。だったら金額は大きいほうが良い。我らが犯人(さが)しに積極的であることを広く知らせればそれでいいんだ」
「だが、もし本当に犯人が出てきたらどうする?」
「それこそ望むところではないか!日本が大変革をなそうとしている時に千両ごときでごちゃごちゃ言うな!俺は一刻も早くこの事件にケリをつけて京都へ戻りたいのだ!」

 八月十九日、運上所(うんじょうしょ)(現在の市民病院の辺りにあった税関施設)で裁判がおこなわれ、イギリス側はサトウと長崎領事のフラワーズが、土佐側は龍馬、佐々木、海援隊士たちが、幕府側は長崎奉行所の役人たちが裁判に出廷(しゅってい)した。

 この日の裁判では、海援隊の無実がそれなりに証明される形になった。

 当初広がった噂では
「犯行直後の早朝、横笛(よこぶえ)丸が出港し、続いて数時間後に南海丸が出港した。横笛丸は昼に戻ってきたが南海丸はそのまま長崎から去った。犯人は横笛丸で長崎を脱出して、沖で南海丸に乗り移って逃げ去ったのではないか?」
 と言われていたが、南海丸が出港したのは夜の十時だったことが分かり、横笛丸が昼に戻ってきた時にはまだ長崎港にいた、ということが証明されたのである。
 これで「沖で乗り移った」という想定が崩れ去った。

 裁判に出席していた龍馬はホッとする思いだった。
(これでイギリスの連中も我らへの嫌疑を解くだろう。やれやれ、やっと京都へ帰れるぞ……)

 ところがサトウは嫌疑を解かなかったのである。
 そして次のように意見を述べた。
「過去の供述(きょうじゅつ)調書(ちょうしょ)を見ると容疑者(ようぎしゃ)の発言に食い違いがある。本日欠席している容疑者を呼び出して、後日あらためて裁判を再開すべきである」

 容疑者として調べられていたのは、事件当日、犯行現場の近くで酒を飲んでいた菅野(すがの)覚兵衛(かくべえ)と佐々木(さかえ)という二人の海援隊士だった。
 この日、菅野は裁判に出廷していたが、佐々木栄は横笛丸で鹿児島へ行っていたので欠席していた。
 サトウはこの佐々木栄を呼び戻して、後日裁判を再開すべきだと主張したのである。

「本日の裁判で菅野は『佐々木と二人で飲んでいた』と供述(きょうじゅつ)したが、過去の取り調べで佐々木は『同行者がもう一人いた』と供述している。この食い違いは看過(かんか)できない。佐々木を呼び戻して調べ直すべきである」
 結局このサトウの主張が通り、佐々木栄を呼び戻して後日裁判が再開されることになった。

 もしこの日サトウが異議(いぎ)申し立てをしなければ、裁判はこのまま終了して海援隊は無罪放免(ほうめん)、龍馬も京都へ戻ることが出来ていただろう。
 ところがサトウのせいで龍馬は更に一ヶ月近く長崎での滞在を()いられることになったのである。

 龍馬は、裁判に同席していたサトウを恐ろしい形相(ぎょうそう)でにらみつけ、ぷるぷると(ふる)えていた。

 するとサトウも、その龍馬の表情に気がついた。
(あれが海援隊の隊長か。確か(さい)(だに)梅太郎とか言ったな。よくあんなクレイジーな表情ができるものだ。まてよ、あいつは確か船の中でも私のことをにらんでいたぞ。我々イギリス人を殺した張本人のくせに、なんという恥知らずな奴だ。あんなクレイジーな奴が隊長だから平気で人殺しもするのだ)

 パークスほど強い思い込みではなかったものの、サトウとしても「犯人はどうせ海援隊の人間だろう」と思っていた。他に犯人らしき容疑者がいなかったのだから、そう思い込んだのも無理はなかっただろう。


 しかし先回りして結果を言うと、犯人は海援隊の人間ではなかった。
 犯人は金子才吉という筑前(ちくぜん)(福岡)藩士だった。
 それが判明するのはおよそ一年後のことである。無論その頃には幕府も倒れ、明治新政府になっている。

 事件当日の深夜、金子を含む十数人の筑前藩士が丸山を通りかかると、二人の外国人が酔いつぶれて寝ていた。
 そこで突然、金子が刀を抜いて飛びかかり、その二人を闇雲(やみくも)に斬りまくった。
 仲間たちが止める間もなく、金子は二人を殺してしまった。

 あわてた筑前藩士たちは金子を連れて現場から逃亡し、とにかく藩邸へと帰った。
 そして上司に事件を報告したのだが、あろうことかその上司は事件を秘匿(ひとく)するよう命じ、藩内に箝口令(かんこうれい)()いたのである。

 翌日、金子は切腹した。
 外国人を斬る直前から切腹するまでの金子には挙動不審(きょどうふしん)な点が多かったようである。
 おそらく外国人を斬ったのも錯乱(さくらん)しての行動だったのだろう。殺人の動機はまったく不明である。

 確実に言えることは「筑前藩が正直に申し出ていれば、ここまで事は大きくならなかった」ということだ。
 犯人発覚(はっかく)後、明治政府は福岡藩知事に賠償金の支払いと蟄居(ちっきょ)を命じた。そして同行していた藩士たちも禁固刑(きんこけい)に処した。
 余談ながら罰をうけた藩士の中に、後に外交官となり日露戦争の時に駐露公使をつとめる栗野(くりの)慎一郎もいた。


 裁判の翌日、俊輔と木戸は、龍馬と佐々木三四郎を玉川(てい)によんで酒宴(しゅえん)を張った。
 この玉川亭は亀山から中島川に()りた川のほとりにあった。
 実は俊輔と木戸は三日前にもここへ来て、その時はサトウと会って酒を飲んでいた。

 久しぶりに龍馬と会った俊輔は、再会を(しゅく)して龍馬に酒をついだ。
乙丑(いっちゅう)丸の時はお世話になりました。相変わらずご苦労をされているようですな、坂本さん」
(この男は以前、長州と薩摩の間を周旋(しゅうせん)したが、今回は土佐と薩摩の間を周旋したと聞く。なんという政治感覚の(するど)さよ。ワシもいつかはこの男のような仕事をしたいものだ……)

 龍馬は酒を一気にあおってから俊輔に答えた。
「まったく神様は俺を見放したようだ。乙丑丸に乗れんようになった後、ワイルウェフ号やいろは丸を入手したが両方とも沈んでしまった。そして今度の事件だ。神様に誓ってもいい。海援隊は何もやっておらん」

 すると木戸が龍馬にサトウのことを語り出した。
「君はえらく彼のことを憎んどるようだが先日サトウがこの店で申しておった。日本人が刀を捨てないかぎり日本在住の外国人に平和はない。少なくとも我々の時代には平和はあるまい、と。なるほど確かに一理ある。とにかく今この時期にイギリスを敵に回したくはない。君の気持も分かるが、彼を(にく)むのもほどほどにせよ」
「いやっ、あいつだけは絶対に許せん!あいつがあそこで横槍を入れてこなければ裁判は無事に終わっておったのだ!俺も別にイギリスを敵視してはおらんが、あのサトウという男だけは斬り殺してやりたい!」
 龍馬の隣りでこの発言を聞いていた佐々木も深くうなずいたが、サトウと深い友情でつながっている俊輔は龍馬のセリフにドキリとした。

 そして木戸が再び口を開いた。
「今は私情(しじょう)(つつし)め、坂本君。そういえばサトウはこうも申しておった。口ばかりで行動しないことを西洋では“老婆(ろうば)の仕事”と言って男らしくない態度だ、と。無論、彼らに手の内を見せないため聞き流しておいたが内心では実にいまいましく思ったものだ。坂本君、佐々木殿。土佐藩は口だけで済ますつもりか?それとも行動を起こすつもりか?一体どちらであるのか?」

 木戸の言う「口だけ」とは武力を(もち)いない策、すなわち大政奉還路線のことを指し、「行動」とは武力倒幕路線のことを指している。
 木戸と俊輔は二人とも、サトウには秘密にしているが、後者を想定している。
 長州はすでに幕府への反旗(はんき)をひるがえしているのだから武力倒幕を選ぶことに(まよ)いは無い。その点、薩摩や土佐はまだまだ藩内に慎重派が大勢いた。特に土佐はその傾向が強かった。

 木戸の問いに龍馬が答えた。
「そうか。あいつがそんな事をぬかしおったか。俺の腹は決まっている。日本のために幕府は倒さねばならん。今、我々は幕府に大政奉還を(せま)っているが、幕府は大政奉還をするぐらいなら薩長に(いくさ)仕掛(しか)けてくるだろう。またあるいは、大政奉還の拒絶(きょぜつ)を理由にして西郷さんが兵を()げるだろう。(いくさ)になれば我々は絶対に勝たねばならん。だが、できれば大戦(おおいくさ)になる前に、両者が手打ちをするよう時局(じきょく)を収めるべきだ。もし大戦(おおいくさ)になったら、それこそサトウたちイギリス人の思惑(おもわく)通り、国内が真っ二つになってしまう。それだけは絶対に避けねばならん。一番大切なことは幕府を倒した後にどうするのか?ということではないか」

「つまり土佐藩は幕府と戦争になった時に“行動”を起こす覚悟がある、ということで理解してもよろしいか?」
「そのために(いぬい)退助も動いている。必要とあらばこの長崎で施条銃(しじょうじゅう)(ライフル銃)を調達していくつもりだ」
「ボクが思うに、後藤殿の進めている大政奉還策では不十分のように思う。もし万一、幕府が中途半端な大政奉還でお茶を(にご)そうとしたらどうする?結局のところ、最後は薩摩の西郷と尊藩(そんぱん)の乾殿が大立(おおた)(まわ)りを演じなければ決着はつくまい。大戦(おおいくさ)は避けたいなどと甘いことを言っている場合ではないぞ、坂本君。そんな簡単に幕府が倒れるものか」
「それじゃいっそのこと、最近浦上(うらかみ)で騒ぎになってるヤソ教の連中をたきつけて、どさくさ(まぎ)れに長崎奉行所を乗っ取るという作戦はどうだろう?」

 さすがに龍馬のこの提案には木戸も俊輔もギョッとした。とはいえ、隣りに座っていた佐々木が一番強くこれを拒絶した。
「おいおい坂本。いくら何でもそれだけは絶対にやっちゃいかんぞ」
 この「浦上(うらかみ)での騒ぎ」とはイカルス号事件が騒がしいちょうどこの頃、長崎北部の浦上で多数の隠れキリシタンが見つかった「いわゆる浦上四番(くず)れ」と呼ばれるもので、イカルス号事件と並行(へいこう)して外国から追及(ついきゅう)されていた問題だった。

 元来(がんらい)、尊王攘夷の思想にも反キリスト教の思想が色濃(いろこ)く含まれているが、そもそも江戸幕府が鎖国(さこく)体制を()くようになったのも、この肥前(ひぜん)の地で「島原の乱」というキリスト教徒の大反乱があったからである。それゆえ、この時代ほとんどの日本人にとってキリスト教は「邪宗門(じゃしゅうもん)」であり、尊王攘夷派であろうとなかろうと長年の習慣によって(生理的に、と言ってもいいが)受け入れられない存在だった。

 いくぶん開明的な考えを持つ俊輔や木戸はそれほどでもないが、国学や神道(しんとう)傾倒(けいとう)していた佐々木としては絶対に受け入れられず、強い拒否反応を示したのだ。
 英仏をはじめとした欧米諸国はこういった幕府の反キリスト教政策を批判し、浦上の隠れキリシタンたちに対して寛大(かんだい)な処置をとるように要求していた。
 余談として付け加えると、この浦上キリシタン問題は維新後に持ち越されることになり、この翌年、外国事務局の役人として井上聞多が長崎へ来てこの問題を担当するようになるのだが、ここにいる木戸と佐々木もこの問題の処理に関与することになる。そして佐々木は、やはりその時も隠れキリシタンには厳しい処置をとるように求めるのである。

 結局この日の会合(かいごう)では龍馬がキリシタン扇動(せんどう)の「奇策」を提案したことによって、木戸や俊輔の毒気(どくけ)が抜かれるかたちとなった。
 となれば、あとは酒と女を楽しむばかりである。なにしろ彼らは無類(むるい)の女好きだった。以後、彼らはこの長崎で何度も酒宴を張ることになる(龍馬が佐々木に「女軍を相手に(いくさ)をしに行こう」と酒宴に(さそ)っている手紙が現在いくつも残っている)。


 一方、サトウは長崎の薩摩藩邸を訪問して家老の新納(にいろ)刑部(ぎょうぶ)と面談した。
 新納とはサトウが前年十一月に鹿児島を訪問した際にも面談していたが、その時にも紹介したように、新納は五代と一緒にイギリスへ行った経験がある人物である。

 サトウは新納とイカルス号事件のことや長崎の治安問題について話し合った。
 さらにサトウは、最近耳にした「薩摩とフランスの関係」について新納に詰問(きつもん)した。
「薩摩は最近フランスからモンブラン伯爵、さらに軍事教官や技師たちを雇い入れたと聞きました。我々イギリスはそれに反対することはできませんが、イギリスとフランスは対日政策が(こと)なります。薩摩は外交方針を変更して、イギリスよりもフランスを重視するようになったのでしょうか?」

 新納はあわててサトウの言う「薩摩とフランスの関係」を否定した。
「いや、そんなことはありません。私はそれらの経緯をまったく知らなかったのです。フランスにいる同僚からその話を知らされた時、すぐに契約を破棄(はき)するよう指示しましたが手遅れでした。彼らが日本に到着したらすぐに帰国させるつもりです」

 この年の春にパリ万博で薩摩がモンブランと一緒に宣伝戦をおこなって幕府を攻撃した、という話は第22話で紹介した。そしてモンブランは、五代と新納がヨーロッパへ行った時に知り合ったベルギー系フランス人で「幕末の山師(やまし)的外国人」と言われている人物である、ということも以前紹介したことがある。
 西郷は幕府からイギリスを引き離し、さらにフランスも引き離すことを目論(もくろ)んではいたが、フランスに手を出して薩摩側に引き入れる、という事までは考えていなかったし、実際そのように動いてもいなかった。さらに言えば、パリ万博へ行っていた薩摩藩士たちもモンブランに来日の要請(ようせい)などしていなかった。

 モンブランは(みずか)ら売り込む形で(パリ万博で薩摩藩に協力した、というのを恩に着せて)むりやり薩摩藩に契約をさせて日本へと向かったのである。
 モンブランにどのような野心があったのか?は謎である。金に不自由していた訳ではない(と少なくとも本人は言っている)。
 ちなみにヨーロッパに留学中の薩摩スチューデントたちは連名で
「決してモンブランを信用してはいけない」
 と薩摩へ手紙を送ってきており、彼ら留学生を送り出すのに尽力(じんりょく)したグラバーも
「彼は嫌な奴だった。私は散々彼の邪魔をしてやった」
 と後年、モンブランについて語っている。
 ともかくも、モンブランたちはこの時日本に向かって航行中で、長崎に到着するのは翌月下旬のことである。

 次にサトウは薩摩藩の京都出兵計画について新納に質問した。
「最近薩摩が二隻の蒸気船で京都へ兵士を送り込む準備をしている、という噂を聞いたのですが本当ですか?」
 これも新納はハッキリと否定した。
「それは何かの聞き間違いでしょう。そんな計画はまったく聞いてません。京都に集まっていた四人の諸侯も(みな)自国へ帰ることが決まりましたから、これからしばらく京都は静かになるでしょう」
 この「四人の諸侯」とは、この前まで京都で開かれていた「四侯会議」に出ていた久光、春嶽、容堂、宗城のことで、その四侯会議が慶喜の勝利に終わったことは以前書いた通りである。敗れた四侯の側は慶喜から譲歩(じょうほ)を引き出すことをあきらめ、順次自国へ帰ることになった。

 新納はサトウから質問された薩摩藩の京都出兵計画を否定したが、実はこの時サトウがにらんでいた通り、薩摩は着々と出兵計画を進めていたのである。
 木戸との面談に引き続き、サトウはここで新納からも「薩長には戦意が無い」という情報をつかまされた訳である。
 そしてサトウは、木戸や新納の情報をそのまま真実として受けとめてしまった。

 サトウはこの新納と面談した日の日記に
「こうしてみると、あきらかにかれらは屈服(くっぷく)する意志を固めたらしい」
 と書いている(『遠い崖』5巻(萩原(はぎわら)延壽(のぶとし)、朝日新聞社)よりそのまま引用)。

 しかしサトウが後年、日記を元にして書いた著書『A Diplomat in Japan』(邦訳『一外交官の見た明治維新』)を出版する際には、この部分を削ってしまっている。
 その理由は、この後の歴史が語っているように「かれらは屈服などしていなかった」からである。


 九月三日、二週間前に開かれた裁判の再審が今回も運上所で開かれることになった。
 そして今回も、サトウや龍馬はもちろんのこと、前回同様イギリス、土佐、幕府の代表者たちがそろって出席した。

 予想されていた通り、新しい証拠は何も出て来なかった。
 今回は、前回サトウが出廷を要請した海援隊士の佐々木(さかえ)も裁判に出廷した。
 容疑者である菅野(すがの)と佐々木の供述に(こま)かな食い違いがあったから、ということでサトウは出廷を要請したのだが、長崎奉行は
「だからと言って二人が犯人とはいえない」
 として結局、海援隊士への容疑を解くことになったのである。

 そこで裁判に出席していた龍馬は笑いながらサトウに嫌味を言った。
「菅野と佐々木の言い分がちょっと違うからといって犯人にされたのではたまらんのお。あんたの国ではそんな簡単に人が処罰されるんかい?おそろしい国じゃ(笑)」

 これを聞いたサトウはすかさず立ち上がり、龍馬を指差(ゆびさ)して叫んだ。
「だまれ、無礼者!我がイギリスを侮辱(ぶじょく)すると許さないぞ!お前のような奴がいるから土佐人は皆、野蛮人だと思われるんだ!」
 サトウから罵倒(ばとう)された龍馬は、今回もまた恐ろしい形相(ぎょうそう)でサトウをにらみつけた。

 サトウの日記では、この日のやりとりについて次のように書かれている。
「さらに才谷(さいだに)()(坂本龍馬)も(しか)りつけてやった。かれらはあきらかにわれわれの言い分を馬鹿にして、われわれの出す質問に声をたてて笑ったからである。しかし、わたしに叱りつけられてから、かれは悪魔のようなおそろしい顔つきをして、黙りこんでしまった」(『遠い崖』5巻(萩原延壽、朝日新聞社)よりそのまま引用)

 以上、このようにしてイカルス号事件の裁判は終わったのである。

 数日後、長崎奉行所から正式に無罪放免を認められた龍馬は、佐々木三四郎への手紙で
(ただ)戦争(せんそう)(裁判のこと)(あい)すみ(そうろう)
 と書いて裁判の終了を報告した。
 この冤罪(えんざい)騒動のせいで龍馬は、慶応三年の後半という大事な時期におよそ二ヶ月も空費(くうひ)してしまった訳だが、これでようやく中央政局(京都)へ戻れることになった。


 サトウが龍馬を(しか)りつけた日の夜、俊輔が別れの挨拶(あいさつ)()ねてサトウを遊郭へ誘った。
 俊輔はサトウに酒をつぎながら語った。
「ワシはこれから京都へ行かねばなりません。サトウさんも土佐藩との談判が終わったから、もう江戸へ帰るんでしょう?」
「ええ……、まあ、そうです……」

 サトウは長崎へ来てから、どうも()かない日が続いている。
 土佐藩との談判は不満足な結果に終わり、しかも木戸や新納から聞かされる話はどうも釈然(しゃくぜん)としない内容で、なんとなく日本の政局から疎外(そがい)されているような感じがしていたのである。

「どうしたんですか?浮かない顔をして。そんな時は酒と女に限る!今夜はきれいどころをたくさん用意したんでパァーとやりましょう、パァーと!」
 俊輔が手を叩いて芸者を呼ぶと美しい女性たちが部屋に入って来て、たちまち宴会が始まった。

 確かに芸者たちの中にはサトウ好みの美しい女性が何人かいた。
 特にセキという芸者が抜群に美しく、すぐにサトウのお気に入りとなった。そしてサトウはいつもの明るい表情に戻った。
 そこで俊輔はサトウに一つ頼み事をした。
「サトウさんが江戸へ戻る時、我が藩の使いの者を一人、サトウさんの弟子という名目で連れて行ってもらいたい。その男は山本甚助(じんすけ)というのですが、後日サトウさんのところへ行かせます。今後は彼を通してお互いに情報交換をしましょう」
 長州の人間が江戸へ行くというのはかなり危険な行為で、幕府にバレると大変だが、サトウは(こころよ)く俊輔の依頼を引き受けた。
 この山本甚助(じんすけ)という男は、実は「長州ファイブ」の一人、遠藤謹助(きんすけ)である。あのイングランド銀行で紙幣(しへい)の美しさに感動していた、五人の中で一番地味(じみ)だった男である。

 俊輔とサトウは美妓(びぎ)たちに(かこ)まれ楽しく酒を飲み、大いに酔っ払った。
 そして俊輔は、木戸から(いまし)められていた禁をあやうく(やぶ)りそうになってしまった。
「俊輔。お前はサトウと親しいから忠告(ちゅうこく)しておくが、間違っても彼に我々の真意を語ってはならんぞ」
 と俊輔は事前に木戸から訓戒(くんかい)されていたのである。

 ところが俊輔は(ひど)く酔っ払って、サトウにポロッと大事なことをしゃべってしまった。
「サトウさんも知っているあの(さい)(だに)梅太郎という男は、まことに凄い周旋(しゅうせん)()です。ワシはあの男を目標としています。あの男は、実は長州と薩摩を結びつけた張本人で、しかも土佐と薩摩も結びつけて、さらに今、京都で幕府に大政奉還を(せま)っている張本人だと言ったら、サトウさんは信じますか?」

 もしサトウが()の状態でこの話を聞いていたら興味津々(しんしん)となって根掘(ねほ)葉掘(はほ)り俊輔に質問していたであろうが、なにしろサトウも酷く酔っていた。
 しかも昼間に激しく龍馬とケンカした後だったので、この話を一笑(いっしょう)()した。
「ハハハ、冗談を言っちゃいけませんよ、伊藤さん。あんなバーバリアン(野蛮人)にそんな大それた事ができる訳ないでしょ。悪い冗談です、ハハハ」

 俊輔は酔っ払いつつも
(いかん。今、ワシはまずい事を言った)
 と、すぐに気がついた。
「……そうそう、冗談です、冗談!忘れてください、こんな悪い冗談は、ハハハ!」
 やがて宴会は終わり、このあとサトウは芸者セキの肉体に(おぼ)れ、俊輔が語った「冗談」についてはきれいさっぱり忘れてしまった。


 九月九日、サトウは友人たちと一緒に諏訪(すわ)神社へ行き、有名な「くんち」の祭礼(さいれい)を見物した。
 この日は西暦で言うと10月6日にあたり、実際現在の「長崎くんち」も9月ではなくて10月の開催で、10月7日から9日までの三日間に行われている。
 そもそもこの「くんち」というのは旧暦の九月九日(重陽(ちょうよう)節句(せっく))の九日=「くにち」から「くんち」と呼ばれるようになった、というのが有力な説であるらしい。

 サトウが見物したこの年の「くんち」も九日から十一日の三日間祭礼が行なわれ、サトウは三日とも友人たちと一緒に見物した。
 そして三日目の九月十一日、「くんち」で(にぎ)わっている雑踏(ざっとう)の脇で「再び」外国人が土佐人に斬られたのである。
 実際イカルス号事件は土佐藩士が犯人ではなかったと翌年には判明するので「再び」ではないが、この事件当時の感覚では「再び」と言って()(つか)えない。

 今回は正真(しょうしん)正銘(しょうめい)、土佐藩士が犯人だった。
 斬られたのはイギリス人とアメリカ人の計二名で、斬ったのは土佐商会の島村雄二郎という男だった。ただし傷はそれほど重傷ではなかった。

 イカルス号事件が決着したばかりだった海援隊には再び激震(げきしん)が走った。
 事件をしらされた龍馬は「また、やったか!」と叫んだ。

 土佐商会の責任者だった岩崎弥太郎は
「せっかく土佐藩の嫌疑が晴れたばかりなのに今再び土佐人の仕業(しわざ)と知れたら、前の事件を()し返されるおそれがある。島村を土佐へ逃がして証拠を消してしまうべきだ」
 と龍馬に言った。
 一方、海援隊士たちは次のように主張した。
「刀を抜いた以上は相手にとどめを刺さねば土佐人の名折(なお)れである。今から行って相手にとどめを刺し、その後に腹を切れと島村に命じるべきだ」

 龍馬はこの両方の意見を却下(きゃっか)した。
「島村の話では、酔っ払った外人にからまれていた女子(おなご)を助けるために、ちょっと連中を痛めつけただけのようではないか。ここは正直に奉行所へ申し出て、(さば)きを受けたほうが良いだろう」

 この龍馬の判断が(こう)(そう)し、この事件はそれほど大きな問題に発展することもなく、すぐに鎮静化(ちんせいか)して(おさ)まった。
 サトウも長崎領事のフラワーズも、この問題を(こと)(さら)大きく取り上げることはしなかった。むしろフラワーズは
「外国人を斬った場合、日本人はいつも証拠を隠そうとするのに、こうやって自首してきたことは実に喜ばしい」
 と述べて、土佐藩の対応を()めたぐらいだった。

 なんとかイカルス号事件の二の舞を避けることができた龍馬は、京都へ戻る準備をはじめた。
 その準備とはライフル銃(ミニエー銃)千三百(ちょう)の調達である。

 この内千挺は土佐藩へ届け、残りは上方(かみがた)の土佐藩士たち(例えば中岡の陸援隊(りくえんたい)など)へ届ける。言うまでもなく、これらの銃は武力倒幕に土佐藩を参加させるための道具である。

 龍馬の読みでは「戦争をやれば薩長が幕府に勝つだろう」と見ている。
 土佐がこの流れに乗り遅れる訳にはいかない。
 ところがいかんせん「老公(容堂)がいる限り土佐藩が幕府に対して兵をあげることは、まずあり得ない」とも見ている。後藤がいくら説得しても無理だろう、と。

 だったら既成(きせい)事実(じじつ)を作ってしまうしかあるまい。
 容堂の命令を無視してでも倒幕戦争に参加する土佐人が何人かはいるだろう。彼らに武器を渡して薩長の倒幕戦争に土佐藩も参加させるのだ。
 どういう形になるにせよ、土佐藩は戦争に参加しなければならない。そして薩長に対して、またあるいは幕府に対しても、影響力を行使できる立場にならなければいけない。
 特に戦争に勝つ見込みの高い薩摩との関係を土佐が切ってはならない。薩摩の実力は自分が一番よく知っているのだ。

 土佐藩が先頭に立つことは、残念ながらできない。
 だが、薩長や幕府に対して影響力を行使する立場になることはできる。そのためには最低限の実力(武力)が要る。口先だけで何かを唱えたところで無力なのだ。

 龍馬の読みは、こういったものだった。
 だからこそ龍馬は土佐藩のために銃を用意したのである。

 龍馬がそこまでして土佐藩にこだわる理由はただ一つ。
 龍馬が土佐人だからである。それ以外に理由はない。


 同じ頃、俊輔は中央政局のド真ん中、京都にいた。
 例によって品川弥二郎と一緒に薩摩藩邸に潜伏(せんぷく)していた。

 京都では薩摩藩の西郷、小松、大久保が土佐藩の後藤と話し合いをくり返し、結局龍馬の不安は的中し、薩摩は薩土盟約を解消することになった。
 薩摩がこのような判断をしたのは後藤が西郷たちとの約束を守らず、土佐から手勢を連れてこなかったからである。第4話で触れたように土佐山内家は徳川家から格別の恩恵(おんけい)を受けている。土佐藩士が武力倒幕に参加することを容堂が許すはずがなかった。

 ただしこれで薩摩と土佐の関係が不和になったという訳ではない。
 薩摩は武力倒幕を目指し、土佐は大政奉還を目指す。そういった役割分担を両者がハッキリと認識し、お互いに邪魔をせず活動する、ということを了承し合っただけのことである。
 西郷としても、幕府が大政奉還を(こば)めば、その時こそ武力倒幕の大義(たいぎ)名分(めいぶん)が立つと見ていた。もし万一幕府が大政を奉還したとしても、その時はまた別の大義名分を探して挙兵(きょへい)すれば良いのである。薩摩にとっては何も損はない。

 そしてこの時、薩長の同盟に芸州(げいしゅう)(広島)藩が加わった。
 芸州は長州の隣りにあり、広島は幕長戦争の際、幕府軍の本営(ほんえい)(総督府)が置かれたところである。
 ただし芸州藩は広島を本営として使わせたものの長州への出兵は拒否した。
 長州の隣りにあるだけあって彼らは長州のことをよく知っていた。芸州口の戦いにおける長州軍の強さ、さらに幕府上層部の無能さを()の当たりにした芸州藩は、長州藩の当たるべからざる勢いに敵対することをやめ、幕府を見限ったのである。

 九月十一日、島津備後(びんご)(藩主茂久(もちひさ)の弟)が手勢千人を(ひき)いて入京した。九月十五日、それと入れ替わるようにして久光は鹿児島へ帰っていった。
 同じ日、大久保一蔵は豊端丸で長州へ向かって出発した。長州で倒幕戦争の打ち合わせをするためである。

 この時、俊輔と品川も大久保に同行して長州へ向かった。
「大久保さん。今、長崎で蒸気船が二隻売りに出ています。幕府との(いくさ)(そな)えて尊藩(そんぱん)(薩摩)でこれを購入されてはいかがでしょうか?」
「ほう。どんな船だね?伊藤くん」
「一隻はイギリス製の高速船で約二十万両、もう一隻は中古のアメリカ製で約八万両です」
「二十万両はさすがに高いな。だが中古の八万両の船なら買えるかも知れん。今度の出兵に使えるのであれば安いものだ。さっそく国元に相談してみよう」
「私もこのあと再び長崎へ行くよう命じられておりますので、その時にもう一度話を確認してみます」
「ところで伊藤くん。君はロンドンへ行ってきたと聞いたがどんな感じだったかね?向こうは」
 俊輔は大久保にざっとロンドンの様子やイギリスの進んだ文明について説明した。

「……ですが、大久保さんは攘夷ではないのですか?西郷さんはイギリスの様子などにはまったく関心がないようでしたが……」
「吉之助サァ(西郷)も別に攘夷ではない。イギリスの武器や船の優秀さは認めている。ただ、物質は(すぐ)れていても精神が優れているとは限らない。あの人の物の見方はそういうものだ」
「では、大久保さんは?」
「薩摩や日本が強くなるために必要な物であれば、イギリスの物だろうとどこの国の物だろうと受け入れれば良い。もちろん、いつかは我々自身の手でそれを作れるようにならねばならんが」
 俊輔が大久保とじっくり話をしたのはこの時が初めてだった。大久保の合理的な考え方に俊輔は共感を(おぼ)えた。
 一方、京都で見た西郷は、俊輔には得体(えたい)の知れない存在に思えた。
 けれども西郷は薩摩人たちから絶大な人気があったのである。
 なぜ西郷にそれほどの人気があるのか?俊輔には理解できなかった。おそらく薩摩人でなければ西郷の魅力はなかなか理解できないであろう。長州人である俊輔は生涯、西郷の人間性を理解することができなかった。


 俊輔と大久保が乗った豊端丸が瀬戸内海を西進している時、サトウが乗ったコケット号は瀬戸内海を東進していた。
 サトウが長崎を出発したのは、俊輔が大坂を出発したのと同じ九月十五日である。翌日か翌々日には両者の船が瀬戸内海ですれ違ったのだが、もちろん二人はそのことを知る(よし)もない。

 そのサトウが乗ったコケット号には遠藤謹助(きんすけ)(山本甚助(じんすけ))が乗っていた。
 長崎で俊輔がサトウに語っていた通り、遠藤は後日サトウのところへやって来て、江戸へ連れていってくれるようサトウに依頼した。

 ところが長州人をイギリス船に乗せて長崎から連れ出す、というのは思ったよりも難事(なんじ)だった。
 遠藤は最初、長崎奉行所から通行手形を発行してもらおうと思っていた。けれども申請書類に不備があったのであろう(もちろん長州人として申請できるはずもなく、おそらく薩摩人として申請したはずだが)奉行所はこのあやしい男に通行手形を出し(しぶ)った。

 それで結局サトウは通行手形なしで連れて行くことに決めた。
 サトウは奉行所に対して遠藤のことを
「私の従者でポルトガル人である」
 と説明して船に連れ込んだのである。
 ロンドンから帰って来た俊輔と聞多を(かくま)った時も、サトウは二人に「ポルトガル人に()けるように」と命じていたが
「あやしい人間を(かくま)う場合はポルトガル人に化けさせるに限る」
 とでもサトウは思っていたのであろうか。

 ただし同じサトウの従者である野口は、遠藤が長州人であることを見抜いていた。というか、最初遠藤がサトウのところへやって来た時に、遠藤は、サトウに対してではなく、野口に対して名刺を差し出してしまったのだから野口が遠藤の正体を知っていたのは当然のことだった。
 サトウとしては、この件は俊輔からの個人的な依頼だったので直接自分に名刺を持って来てもらいたいと思っていた。
(この山本甚助という男は本当に大丈夫か?通行手形で失敗して、しかも名刺もちゃんと提出できないとは)
 とサトウは(あき)れたが、とにかく遠藤を長崎から連れ出すことに成功した。
 これでサトウは手元に会津人の野口と、長州人の遠藤という「両極端な立場の人間」を従者として(かか)えるようになった訳である。


 豊端丸が三田尻に着くと大久保は山口へ向かい、俊輔は長崎へ行く前に一旦(いったん)下関へ入った。
 大久保は山口で藩主父子や木戸と面会して倒幕戦争の打ち合わせをした。
 この時、毛利敬親(たかちか)が大久保に対して
「幕府と戦争になったら何が何でも(ぎょく)(天皇)を敵に奪われないようにせよ」
 と述べたというエピソードは有名である。
 これに対して大久保は
「かしこまりました。拙者の命にかけて、その(むね)貫徹(かんてつ)致します」
 と答えた。

 長崎で千二百挺のミニエー銃を積み込んだ龍馬の船が下関に立ち寄ったのは九月二十日のことで、大久保が長州から京都へ戻っていった直後のことだった。

 長崎へ行く準備をするために下関の港に来ていた俊輔は、龍馬とバッタリ出会って驚いた。
「おや?坂本さんじゃないですか。そう言えば、あなたの悪い予感は的中しましたよ。京都では薩摩が土佐を見限り、()わりに芸州が我々の味方になりました」
「やはり後藤はダメだったか!畜生(ちくしょう)!イギリスの言いがかりさえなければ俺が京都で動いて、薩摩との縁を切らせなかったものを!」
 俊輔は龍馬に京都のこと、さらに大久保の山口訪問のことを説明した。

「なるほど。伊藤くんのおかげで京都の様子はよく分かった。やはり最早(もはや)土佐もグズグズしておれん。すまんが伊藤くん、俺はこれから木戸さん宛の書状を書くから後で木戸さんに届けてくれ」
「おやすい御用(ごよう)です。しかし坂本さん、土佐藩は本当にミニエー銃千挺を受け取るのですか?私は正直心配です。もし土佐藩が受け取りを拒否したら我が長州で買い取りますから、安心して持って帰ってきてください」
「言ってくれるなあ、伊藤くんよ。だが心配には及ばん。俺は後藤を下げて、主戦派の乾を引っ張り出そうと思っている。我々土佐人もそれほど因循(いんじゅん)な人間ばかりではない。立つべき時は必ず、薩長と一緒に立つ」
「坂本さんのお手並(てな)拝見(はいけん)とまいりましょう。ところで、お龍さんを土佐へお連れしないんですか?」
「武器を持って行く船に嫁を乗せて行くバカはあるまい。第一、俺自身がまだ大っぴらに高知の実家へ戻ることもできんのだ。もうしばらくは九三(きゅうぞう)さん(伊藤助太夫(すけだゆう)。下関での龍馬とお龍の保護者)のところでお世話になるしかあるまい。なに、幕府が倒れれば世の中も大きく変わるだろう。多分来年にはお龍を連れて高知へ行けるはずさ。俺が幕府との海戦で死なない限りはな」
「坂本さんは、また(みずか)ら幕府海軍と戦うつもりですか?」
「薩長と土佐を海から応援するために作ったのが海援隊だぞ。俺がやらないでどうする。確かに幕府の陸軍は弱い。だが海軍は強い。次の(いくさ)では最新鋭の開陽(かいよう)丸が参戦してくるはずだ。さらに軍艦奉行の勝先生が作戦全体の指揮(しき)()るかも知れない。そうなれば薩長と土佐のすべての船をかき集めても防戦で手一杯だろう。陸軍が早めに決着をつけてくれるよう(いの)るしかない」
「先日大久保さんに長崎で売りに出ている船の調達を勧めましたが、やはり安い中古船を買うより、無理をしてでもイギリスの高速船を買ったほうが良さそうですな」
「ああ、長崎に停泊(ていはく)していたイギリス製のキャンスー号か。あれは確かに上等な船だ。あれが入手できれば大いに我らの戦力になるだろう。それはそうと、イギリスと言えば伊藤くんはイギリスまで航海した経験があるんだったな」
「ハハハ、あまり思い出したくない経験ですけど。一応、水夫のまねごとをしてイギリスまで行きました」
「俺もいつかはイギリスへ行ってみたいものだ。今度時間ができたら、二人で世界の話でもしようじゃないか」

 このあと龍馬は下関で数日お龍と共に過ごし、それから土佐へ向けて出発していった。
 俊輔とお龍が龍馬を見たのは、これが最後となった。

 九月二十四日、龍馬は高知に着くとすぐに土佐藩と交渉を開始した。
 俊輔の心配は杞憂(きゆう)に終わり、銃はすべて土佐藩が引き取ってくれることになった。
 その後、龍馬はひそかに(イカルス号事件で土佐へ来た時には戻れなかった)実家へ五年半ぶりに帰宅した。

 そして龍馬は高知を後にして京都へ向かった。
 「大政奉還」が成るか成らぬか、更にそれをきっかけとして幕府との戦争が起こるのかどうか、その渦中(かちゅう)に飛び込むためである。
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