第27話 龍馬とサトウと俊輔と
文字数 15,566文字
八月十五日、サトウと龍馬を乗せた夕顔は長崎に到着した。
この日の夜、さっそく俊輔と木戸がサトウに会うためイギリス領事館へやって来た。
俊輔とサトウは手紙のやり取りは続けていたものの直接会うのは三年前の下関戦争以来だった。
ちなみにサトウが木戸に会うのは(この前鹿児島では会いそびれたので)これが初めてである。
「サトウさん、元気そうで何より!ようやく再会できてワシは本当に嬉しい!イギリス公使館の皆さんもお達者ですか?」
「おかげさまで。伊藤さんも病気が治ったようで何よりです。そういえば
「ワシも無念の
そう言って俊輔はサトウに木戸を紹介した。
三人は夕食を食べながら日本の政治状況について話し合った。
木戸はサトウに長州の状況について説明した。
「我が
この木戸の話はサトウにとって意外だった。サトウは木戸に問い返した。
「ですが新将軍(慶喜)はフランスの協力のもと軍隊を強化して幕府の体制も一新しようとしています。放っておけば、いずれまた長州へ攻め込んでくるのではないですか?」
「いや。以前とはまったく状況が違います。
「そうですか……。西洋では、
しかしこのサトウの発言に対しても、木戸と俊輔は特に反論しなかった。
その理由は言うまでもなく、下関における井上聞多の時と同じである。
一方、龍馬は海援隊の本部でイカルス号事件の取り調べについて詳しく話を聞いた。
これまで土佐藩を代表してパークスや幕府の長崎奉行所と交渉してきたのは、土佐商会の岩崎弥太郎だった。
岩崎弥太郎については、数年前に大河ドラマでも出ていたので詳しく解説する必要もなかろう。後の三菱財閥の創業者である。
長崎奉行所から取り調べを受けていた海援隊の
そこで龍馬は一案を
「犯人を見つけ出した者には千両を与える、と市中に
この龍馬の発案に岩崎が反対した。
「千両の金など土佐商会は出せんぞ」
「バカだな、弥太郎。誰も見てない夜中の犯行だ。どうやったって犯人など見つかるものか。だったら金額は大きいほうが良い。我らが犯人
「だが、もし本当に犯人が出てきたらどうする?」
「それこそ望むところではないか!日本が大変革をなそうとしている時に千両ごときでごちゃごちゃ言うな!俺は一刻も早くこの事件にケリをつけて京都へ戻りたいのだ!」
八月十九日、
この日の裁判では、海援隊の無実がそれなりに証明される形になった。
当初広がった噂では
「犯行直後の早朝、
と言われていたが、南海丸が出港したのは夜の十時だったことが分かり、横笛丸が昼に戻ってきた時にはまだ長崎港にいた、ということが証明されたのである。
これで「沖で乗り移った」という想定が崩れ去った。
裁判に出席していた龍馬はホッとする思いだった。
(これでイギリスの連中も我らへの嫌疑を解くだろう。やれやれ、やっと京都へ帰れるぞ……)
ところがサトウは嫌疑を解かなかったのである。
そして次のように意見を述べた。
「過去の
容疑者として調べられていたのは、事件当日、犯行現場の近くで酒を飲んでいた
この日、菅野は裁判に出廷していたが、佐々木栄は横笛丸で鹿児島へ行っていたので欠席していた。
サトウはこの佐々木栄を呼び戻して、後日裁判を再開すべきだと主張したのである。
「本日の裁判で菅野は『佐々木と二人で飲んでいた』と
結局このサトウの主張が通り、佐々木栄を呼び戻して後日裁判が再開されることになった。
もしこの日サトウが
ところがサトウのせいで龍馬は更に一ヶ月近く長崎での滞在を
龍馬は、裁判に同席していたサトウを恐ろしい
するとサトウも、その龍馬の表情に気がついた。
(あれが海援隊の隊長か。確か
パークスほど強い思い込みではなかったものの、サトウとしても「犯人はどうせ海援隊の人間だろう」と思っていた。他に犯人らしき容疑者がいなかったのだから、そう思い込んだのも無理はなかっただろう。
しかし先回りして結果を言うと、犯人は海援隊の人間ではなかった。
犯人は金子才吉という
それが判明するのはおよそ一年後のことである。無論その頃には幕府も倒れ、明治新政府になっている。
事件当日の深夜、金子を含む十数人の筑前藩士が丸山を通りかかると、二人の外国人が酔いつぶれて寝ていた。
そこで突然、金子が刀を抜いて飛びかかり、その二人を
仲間たちが止める間もなく、金子は二人を殺してしまった。
あわてた筑前藩士たちは金子を連れて現場から逃亡し、とにかく藩邸へと帰った。
そして上司に事件を報告したのだが、あろうことかその上司は事件を
翌日、金子は切腹した。
外国人を斬る直前から切腹するまでの金子には
おそらく外国人を斬ったのも
確実に言えることは「筑前藩が正直に申し出ていれば、ここまで事は大きくならなかった」ということだ。
犯人
余談ながら罰をうけた藩士の中に、後に外交官となり日露戦争の時に駐露公使をつとめる
裁判の翌日、俊輔と木戸は、龍馬と佐々木三四郎を玉川
この玉川亭は亀山から中島川に
実は俊輔と木戸は三日前にもここへ来て、その時はサトウと会って酒を飲んでいた。
久しぶりに龍馬と会った俊輔は、再会を
「
(この男は以前、長州と薩摩の間を
龍馬は酒を一気にあおってから俊輔に答えた。
「まったく神様は俺を見放したようだ。乙丑丸に乗れんようになった後、ワイルウェフ号やいろは丸を入手したが両方とも沈んでしまった。そして今度の事件だ。神様に誓ってもいい。海援隊は何もやっておらん」
すると木戸が龍馬にサトウのことを語り出した。
「君はえらく彼のことを憎んどるようだが先日サトウがこの店で申しておった。日本人が刀を捨てないかぎり日本在住の外国人に平和はない。少なくとも我々の時代には平和はあるまい、と。なるほど確かに一理ある。とにかく今この時期にイギリスを敵に回したくはない。君の気持も分かるが、彼を
「いやっ、あいつだけは絶対に許せん!あいつがあそこで横槍を入れてこなければ裁判は無事に終わっておったのだ!俺も別にイギリスを敵視してはおらんが、あのサトウという男だけは斬り殺してやりたい!」
龍馬の隣りでこの発言を聞いていた佐々木も深くうなずいたが、サトウと深い友情でつながっている俊輔は龍馬のセリフにドキリとした。
そして木戸が再び口を開いた。
「今は
木戸の言う「口だけ」とは武力を
木戸と俊輔は二人とも、サトウには秘密にしているが、後者を想定している。
長州はすでに幕府への
木戸の問いに龍馬が答えた。
「そうか。あいつがそんな事をぬかしおったか。俺の腹は決まっている。日本のために幕府は倒さねばならん。今、我々は幕府に大政奉還を
「つまり土佐藩は幕府と戦争になった時に“行動”を起こす覚悟がある、ということで理解してもよろしいか?」
「そのために
「ボクが思うに、後藤殿の進めている大政奉還策では不十分のように思う。もし万一、幕府が中途半端な大政奉還でお茶を
「それじゃいっそのこと、最近
さすがに龍馬のこの提案には木戸も俊輔もギョッとした。とはいえ、隣りに座っていた佐々木が一番強くこれを拒絶した。
「おいおい坂本。いくら何でもそれだけは絶対にやっちゃいかんぞ」
この「
いくぶん開明的な考えを持つ俊輔や木戸はそれほどでもないが、国学や
英仏をはじめとした欧米諸国はこういった幕府の反キリスト教政策を批判し、浦上の隠れキリシタンたちに対して
余談として付け加えると、この浦上キリシタン問題は維新後に持ち越されることになり、この翌年、外国事務局の役人として井上聞多が長崎へ来てこの問題を担当するようになるのだが、ここにいる木戸と佐々木もこの問題の処理に関与することになる。そして佐々木は、やはりその時も隠れキリシタンには厳しい処置をとるように求めるのである。
結局この日の
となれば、あとは酒と女を楽しむばかりである。なにしろ彼らは
一方、サトウは長崎の薩摩藩邸を訪問して家老の
新納とはサトウが前年十一月に鹿児島を訪問した際にも面談していたが、その時にも紹介したように、新納は五代と一緒にイギリスへ行った経験がある人物である。
サトウは新納とイカルス号事件のことや長崎の治安問題について話し合った。
さらにサトウは、最近耳にした「薩摩とフランスの関係」について新納に
「薩摩は最近フランスからモンブラン伯爵、さらに軍事教官や技師たちを雇い入れたと聞きました。我々イギリスはそれに反対することはできませんが、イギリスとフランスは対日政策が
新納はあわててサトウの言う「薩摩とフランスの関係」を否定した。
「いや、そんなことはありません。私はそれらの経緯をまったく知らなかったのです。フランスにいる同僚からその話を知らされた時、すぐに契約を
この年の春にパリ万博で薩摩がモンブランと一緒に宣伝戦をおこなって幕府を攻撃した、という話は第22話で紹介した。そしてモンブランは、五代と新納がヨーロッパへ行った時に知り合ったベルギー系フランス人で「幕末の
西郷は幕府からイギリスを引き離し、さらにフランスも引き離すことを
モンブランは
モンブランにどのような野心があったのか?は謎である。金に不自由していた訳ではない(と少なくとも本人は言っている)。
ちなみにヨーロッパに留学中の薩摩スチューデントたちは連名で
「決してモンブランを信用してはいけない」
と薩摩へ手紙を送ってきており、彼ら留学生を送り出すのに
「彼は嫌な奴だった。私は散々彼の邪魔をしてやった」
と後年、モンブランについて語っている。
ともかくも、モンブランたちはこの時日本に向かって航行中で、長崎に到着するのは翌月下旬のことである。
次にサトウは薩摩藩の京都出兵計画について新納に質問した。
「最近薩摩が二隻の蒸気船で京都へ兵士を送り込む準備をしている、という噂を聞いたのですが本当ですか?」
これも新納はハッキリと否定した。
「それは何かの聞き間違いでしょう。そんな計画はまったく聞いてません。京都に集まっていた四人の諸侯も
この「四人の諸侯」とは、この前まで京都で開かれていた「四侯会議」に出ていた久光、春嶽、容堂、宗城のことで、その四侯会議が慶喜の勝利に終わったことは以前書いた通りである。敗れた四侯の側は慶喜から
新納はサトウから質問された薩摩藩の京都出兵計画を否定したが、実はこの時サトウがにらんでいた通り、薩摩は着々と出兵計画を進めていたのである。
木戸との面談に引き続き、サトウはここで新納からも「薩長には戦意が無い」という情報をつかまされた訳である。
そしてサトウは、木戸や新納の情報をそのまま真実として受けとめてしまった。
サトウはこの新納と面談した日の日記に
「こうしてみると、あきらかにかれらは
と書いている(『遠い崖』5巻(
しかしサトウが後年、日記を元にして書いた著書『A Diplomat in Japan』(邦訳『一外交官の見た明治維新』)を出版する際には、この部分を削ってしまっている。
その理由は、この後の歴史が語っているように「かれらは屈服などしていなかった」からである。
九月三日、二週間前に開かれた裁判の再審が今回も運上所で開かれることになった。
そして今回も、サトウや龍馬はもちろんのこと、前回同様イギリス、土佐、幕府の代表者たちがそろって出席した。
予想されていた通り、新しい証拠は何も出て来なかった。
今回は、前回サトウが出廷を要請した海援隊士の佐々木
容疑者である
「だからと言って二人が犯人とはいえない」
として結局、海援隊士への容疑を解くことになったのである。
そこで裁判に出席していた龍馬は笑いながらサトウに嫌味を言った。
「菅野と佐々木の言い分がちょっと違うからといって犯人にされたのではたまらんのお。あんたの国ではそんな簡単に人が処罰されるんかい?おそろしい国じゃ(笑)」
これを聞いたサトウはすかさず立ち上がり、龍馬を
「だまれ、無礼者!我がイギリスを
サトウから
サトウの日記では、この日のやりとりについて次のように書かれている。
「さらに
以上、このようにしてイカルス号事件の裁判は終わったのである。
数日後、長崎奉行所から正式に無罪放免を認められた龍馬は、佐々木三四郎への手紙で
「
と書いて裁判の終了を報告した。
この
サトウが龍馬を
俊輔はサトウに酒をつぎながら語った。
「ワシはこれから京都へ行かねばなりません。サトウさんも土佐藩との談判が終わったから、もう江戸へ帰るんでしょう?」
「ええ……、まあ、そうです……」
サトウは長崎へ来てから、どうも
土佐藩との談判は不満足な結果に終わり、しかも木戸や新納から聞かされる話はどうも
「どうしたんですか?浮かない顔をして。そんな時は酒と女に限る!今夜はきれいどころをたくさん用意したんでパァーとやりましょう、パァーと!」
俊輔が手を叩いて芸者を呼ぶと美しい女性たちが部屋に入って来て、たちまち宴会が始まった。
確かに芸者たちの中にはサトウ好みの美しい女性が何人かいた。
特にセキという芸者が抜群に美しく、すぐにサトウのお気に入りとなった。そしてサトウはいつもの明るい表情に戻った。
そこで俊輔はサトウに一つ頼み事をした。
「サトウさんが江戸へ戻る時、我が藩の使いの者を一人、サトウさんの弟子という名目で連れて行ってもらいたい。その男は山本
長州の人間が江戸へ行くというのはかなり危険な行為で、幕府にバレると大変だが、サトウは
この山本
俊輔とサトウは
そして俊輔は、木戸から
「俊輔。お前はサトウと親しいから
と俊輔は事前に木戸から
ところが俊輔は
「サトウさんも知っているあの
もしサトウが
しかも昼間に激しく龍馬とケンカした後だったので、この話を
「ハハハ、冗談を言っちゃいけませんよ、伊藤さん。あんなバーバリアン(野蛮人)にそんな大それた事ができる訳ないでしょ。悪い冗談です、ハハハ」
俊輔は酔っ払いつつも
(いかん。今、ワシはまずい事を言った)
と、すぐに気がついた。
「……そうそう、冗談です、冗談!忘れてください、こんな悪い冗談は、ハハハ!」
やがて宴会は終わり、このあとサトウは芸者セキの肉体に
九月九日、サトウは友人たちと一緒に
この日は西暦で言うと10月6日にあたり、実際現在の「長崎くんち」も9月ではなくて10月の開催で、10月7日から9日までの三日間に行われている。
そもそもこの「くんち」というのは旧暦の九月九日(
サトウが見物したこの年の「くんち」も九日から十一日の三日間祭礼が行なわれ、サトウは三日とも友人たちと一緒に見物した。
そして三日目の九月十一日、「くんち」で
実際イカルス号事件は土佐藩士が犯人ではなかったと翌年には判明するので「再び」ではないが、この事件当時の感覚では「再び」と言って
今回は
斬られたのはイギリス人とアメリカ人の計二名で、斬ったのは土佐商会の島村雄二郎という男だった。ただし傷はそれほど重傷ではなかった。
イカルス号事件が決着したばかりだった海援隊には再び
事件をしらされた龍馬は「また、やったか!」と叫んだ。
土佐商会の責任者だった岩崎弥太郎は
「せっかく土佐藩の嫌疑が晴れたばかりなのに今再び土佐人の
と龍馬に言った。
一方、海援隊士たちは次のように主張した。
「刀を抜いた以上は相手にとどめを刺さねば土佐人の
龍馬はこの両方の意見を
「島村の話では、酔っ払った外人にからまれていた
この龍馬の判断が
サトウも長崎領事のフラワーズも、この問題を
「外国人を斬った場合、日本人はいつも証拠を隠そうとするのに、こうやって自首してきたことは実に喜ばしい」
と述べて、土佐藩の対応を
なんとかイカルス号事件の二の舞を避けることができた龍馬は、京都へ戻る準備をはじめた。
その準備とはライフル銃(ミニエー銃)千三百
この内千挺は土佐藩へ届け、残りは
龍馬の読みでは「戦争をやれば薩長が幕府に勝つだろう」と見ている。
土佐がこの流れに乗り遅れる訳にはいかない。
ところがいかんせん「老公(容堂)がいる限り土佐藩が幕府に対して兵をあげることは、まずあり得ない」とも見ている。後藤がいくら説得しても無理だろう、と。
だったら
容堂の命令を無視してでも倒幕戦争に参加する土佐人が何人かはいるだろう。彼らに武器を渡して薩長の倒幕戦争に土佐藩も参加させるのだ。
どういう形になるにせよ、土佐藩は戦争に参加しなければならない。そして薩長に対して、またあるいは幕府に対しても、影響力を行使できる立場にならなければいけない。
特に戦争に勝つ見込みの高い薩摩との関係を土佐が切ってはならない。薩摩の実力は自分が一番よく知っているのだ。
土佐藩が先頭に立つことは、残念ながらできない。
だが、薩長や幕府に対して影響力を行使する立場になることはできる。そのためには最低限の実力(武力)が要る。口先だけで何かを唱えたところで無力なのだ。
龍馬の読みは、こういったものだった。
だからこそ龍馬は土佐藩のために銃を用意したのである。
龍馬がそこまでして土佐藩にこだわる理由はただ一つ。
龍馬が土佐人だからである。それ以外に理由はない。
同じ頃、俊輔は中央政局のド真ん中、京都にいた。
例によって品川弥二郎と一緒に薩摩藩邸に
京都では薩摩藩の西郷、小松、大久保が土佐藩の後藤と話し合いをくり返し、結局龍馬の不安は的中し、薩摩は薩土盟約を解消することになった。
薩摩がこのような判断をしたのは後藤が西郷たちとの約束を守らず、土佐から手勢を連れてこなかったからである。第4話で触れたように土佐山内家は徳川家から格別の
ただしこれで薩摩と土佐の関係が不和になったという訳ではない。
薩摩は武力倒幕を目指し、土佐は大政奉還を目指す。そういった役割分担を両者がハッキリと認識し、お互いに邪魔をせず活動する、ということを了承し合っただけのことである。
西郷としても、幕府が大政奉還を
そしてこの時、薩長の同盟に
芸州は長州の隣りにあり、広島は幕長戦争の際、幕府軍の
ただし芸州藩は広島を本営として使わせたものの長州への出兵は拒否した。
長州の隣りにあるだけあって彼らは長州のことをよく知っていた。芸州口の戦いにおける長州軍の強さ、さらに幕府上層部の無能さを
九月十一日、島津
同じ日、大久保一蔵は豊端丸で長州へ向かって出発した。長州で倒幕戦争の打ち合わせをするためである。
この時、俊輔と品川も大久保に同行して長州へ向かった。
「大久保さん。今、長崎で蒸気船が二隻売りに出ています。幕府との
「ほう。どんな船だね?伊藤くん」
「一隻はイギリス製の高速船で約二十万両、もう一隻は中古のアメリカ製で約八万両です」
「二十万両はさすがに高いな。だが中古の八万両の船なら買えるかも知れん。今度の出兵に使えるのであれば安いものだ。さっそく国元に相談してみよう」
「私もこのあと再び長崎へ行くよう命じられておりますので、その時にもう一度話を確認してみます」
「ところで伊藤くん。君はロンドンへ行ってきたと聞いたがどんな感じだったかね?向こうは」
俊輔は大久保にざっとロンドンの様子やイギリスの進んだ文明について説明した。
「……ですが、大久保さんは攘夷ではないのですか?西郷さんはイギリスの様子などにはまったく関心がないようでしたが……」
「吉之助サァ(西郷)も別に攘夷ではない。イギリスの武器や船の優秀さは認めている。ただ、物質は
「では、大久保さんは?」
「薩摩や日本が強くなるために必要な物であれば、イギリスの物だろうとどこの国の物だろうと受け入れれば良い。もちろん、いつかは我々自身の手でそれを作れるようにならねばならんが」
俊輔が大久保とじっくり話をしたのはこの時が初めてだった。大久保の合理的な考え方に俊輔は共感を
一方、京都で見た西郷は、俊輔には
けれども西郷は薩摩人たちから絶大な人気があったのである。
なぜ西郷にそれほどの人気があるのか?俊輔には理解できなかった。おそらく薩摩人でなければ西郷の魅力はなかなか理解できないであろう。長州人である俊輔は生涯、西郷の人間性を理解することができなかった。
俊輔と大久保が乗った豊端丸が瀬戸内海を西進している時、サトウが乗ったコケット号は瀬戸内海を東進していた。
サトウが長崎を出発したのは、俊輔が大坂を出発したのと同じ九月十五日である。翌日か翌々日には両者の船が瀬戸内海ですれ違ったのだが、もちろん二人はそのことを知る
そのサトウが乗ったコケット号には遠藤
長崎で俊輔がサトウに語っていた通り、遠藤は後日サトウのところへやって来て、江戸へ連れていってくれるようサトウに依頼した。
ところが長州人をイギリス船に乗せて長崎から連れ出す、というのは思ったよりも
遠藤は最初、長崎奉行所から通行手形を発行してもらおうと思っていた。けれども申請書類に不備があったのであろう(もちろん長州人として申請できるはずもなく、おそらく薩摩人として申請したはずだが)奉行所はこのあやしい男に通行手形を出し
それで結局サトウは通行手形なしで連れて行くことに決めた。
サトウは奉行所に対して遠藤のことを
「私の従者でポルトガル人である」
と説明して船に連れ込んだのである。
ロンドンから帰って来た俊輔と聞多を
「あやしい人間を
とでもサトウは思っていたのであろうか。
ただし同じサトウの従者である野口は、遠藤が長州人であることを見抜いていた。というか、最初遠藤がサトウのところへやって来た時に、遠藤は、サトウに対してではなく、野口に対して名刺を差し出してしまったのだから野口が遠藤の正体を知っていたのは当然のことだった。
サトウとしては、この件は俊輔からの個人的な依頼だったので直接自分に名刺を持って来てもらいたいと思っていた。
(この山本甚助という男は本当に大丈夫か?通行手形で失敗して、しかも名刺もちゃんと提出できないとは)
とサトウは
これでサトウは手元に会津人の野口と、長州人の遠藤という「両極端な立場の人間」を従者として
豊端丸が三田尻に着くと大久保は山口へ向かい、俊輔は長崎へ行く前に
大久保は山口で藩主父子や木戸と面会して倒幕戦争の打ち合わせをした。
この時、毛利
「幕府と戦争になったら何が何でも
と述べたというエピソードは有名である。
これに対して大久保は
「かしこまりました。拙者の命にかけて、その
と答えた。
長崎で千二百挺のミニエー銃を積み込んだ龍馬の船が下関に立ち寄ったのは九月二十日のことで、大久保が長州から京都へ戻っていった直後のことだった。
長崎へ行く準備をするために下関の港に来ていた俊輔は、龍馬とバッタリ出会って驚いた。
「おや?坂本さんじゃないですか。そう言えば、あなたの悪い予感は的中しましたよ。京都では薩摩が土佐を見限り、
「やはり後藤はダメだったか!
俊輔は龍馬に京都のこと、さらに大久保の山口訪問のことを説明した。
「なるほど。伊藤くんのおかげで京都の様子はよく分かった。やはり
「おやすい
「言ってくれるなあ、伊藤くんよ。だが心配には及ばん。俺は後藤を下げて、主戦派の乾を引っ張り出そうと思っている。我々土佐人もそれほど
「坂本さんのお
「武器を持って行く船に嫁を乗せて行くバカはあるまい。第一、俺自身がまだ大っぴらに高知の実家へ戻ることもできんのだ。もうしばらくは
「坂本さんは、また
「薩長と土佐を海から応援するために作ったのが海援隊だぞ。俺がやらないでどうする。確かに幕府の陸軍は弱い。だが海軍は強い。次の
「先日大久保さんに長崎で売りに出ている船の調達を勧めましたが、やはり安い中古船を買うより、無理をしてでもイギリスの高速船を買ったほうが良さそうですな」
「ああ、長崎に
「ハハハ、あまり思い出したくない経験ですけど。一応、水夫のまねごとをしてイギリスまで行きました」
「俺もいつかはイギリスへ行ってみたいものだ。今度時間ができたら、二人で世界の話でもしようじゃないか」
このあと龍馬は下関で数日お龍と共に過ごし、それから土佐へ向けて出発していった。
俊輔とお龍が龍馬を見たのは、これが最後となった。
九月二十四日、龍馬は高知に着くとすぐに土佐藩と交渉を開始した。
俊輔の心配は
その後、龍馬はひそかに(イカルス号事件で土佐へ来た時には戻れなかった)実家へ五年半ぶりに帰宅した。
そして龍馬は高知を後にして京都へ向かった。
「大政奉還」が成るか成らぬか、更にそれをきっかけとして幕府との戦争が起こるのかどうか、その