第3話 慈愛神と鍛冶神
文字数 6,038文字
噂を聞いた名も無き英雄たちは、仲間の心中を察し、自然と足を動かし始める。
――が、中には憤慨するだけの者もいた。
慈愛神の成聖者であったテスティアである。
彼女は唯一、正義神の成聖者の最期を看取った存在でもあった。
帝国領土の西に広がる砂漠地帯を抜けた先。帝国の脅威も届かない静かな国で、テスティアはひっそりと生活していた。
ここは彼女の産まれ育った街ではなく、正義神の成聖者――ジェイルと出会った場所である。
まさしく、その現場。小さな宿屋兼酒場で、彼女は住み込みで働いていた。店のマスターは彼女が英雄だと知っているも、黙っていてくれた。
もとより、今のテスティアは慈愛心の
彼女が噂を耳にしたのは、夜も更けた時分。
昔の仲間たちが見たら爆笑しそうなエプロンドレスに身を包んで、せっせと給仕の仕事に励んでいる時に、
「テスティアちゃん、知ってるかい?」
行商人から聞かされた。
瞬く間に、テスティアは沸点に達した。いつもは愛らしく揺らしている結んだ髪を怒りに震わせ、顔からは愛想笑いの欠片も消え失せた。
「そう、なんですか……」
音を立て、拳が握り締められる。本人は冷静のつもりでいるものの、話しを振った行商人は完全に萎縮していた。
普段は隠れている、服の裾から覗かれた白い腕には手錠を思わせる暗い輝き――腕輪が鈍く光り、目にした者に言いようのない恐怖を与えている。
「テスティアちゃーん」
他の客に呼ばれ、テスティアはスカートを翻す。
行商人はほっと胸をなで下ろすも、彼女は気づかないままだった。
いつもは母性溢れる胸だのとちょっかいをかけてくる常連さえ、身を縮こませるほどの威圧感を放っていながらも――
相手をする客が皆、店員よりも丁寧な言葉遣いで接してきているにもかかわらず――
彼女は口元だけを笑わせて、いつもどおりの働き振りを見せていた。怒りを放出させながら、てきぱきと。
マスターでさえ、謝りたくなるような瞳を携えて店内を動き回る。
不意に、澄んだ音色が鳴り響いた。
扉に付けられた鈴。
一向に足音が聞こえてこないことから、初めての客だろうとテスティアは迎えに赴き、
「いらっしゃ……」
決まり文句を言い切る前に、彼女は言葉を止め、
「くっ……」
失礼な笑い声が挟まれた。
「くくっ……。あ、すまな……ぶっ……くく……」
「いっそうもう笑え!」
客に向かって容赦なく、テスティアは拳を振るった。パンっと乾いた音が店内に響き、客たちの注目を集める。
この辺りでは見かけない、鉄色の髪と瞳。髪は長いものの、背も身体も屈強な男のモノ――新たにやって来た客は、テスティアの鉄拳を受け止めていた。
「おぉぉぉっ!」
見事な手際に、店の常連たちとマスターが歓声をあげる。
彼等は知っていた。今のが必殺の一撃――彼女の胸に手を伸ばした、勇者たちの記憶と顔面を幾度となく沈めてきた拳だと。
「可愛らしい格好をしているのに、手の早さは相変わらずだな」
かけられた台詞に、テスティアは口元を釣り上げた。
「レイド。まさか、あんたの口から可愛いなんて言葉が出てくるなんてねぇ。でも、そういう台詞は私じゃなくてロネに言ってあげたらどう?」
返され、レイドと呼ばれた男性は痛そうに顔をしかめた。
大きなリュックに戦士風の服装からして、旅人であろう。武器は一切見当たらないのに、ジャラジャラと鉄の装飾品をぶら下げているのが特徴的であった。
「王女の格好をしたロネは本当に綺麗だったわよ?」
他の仲間たちと違って、レイドだけはクローネスの戴冠式で姿を見かけなかった。
「英雄であり、王女のあいつに……オレが近づいたら、迷惑だろう」
「そう? あんたも立派な英雄の一人じゃない」
「……オレが、英雄を名乗るわけにはいかないだろ?」
レイドは悪い意味で有名だった。
――死神の使い。
終わった戦場に現れ、生き残った者たちの命を奪っていく。女も子供も関係ない。
帝国領土のあらゆる場所に姿を見せ、多くの貴族や騎士たちも殺してきた。
「それこそ、真実を明らかにすれば問題ないじゃない」
レイドが殺してきたのは、弱者を貪るハイエナである。
勝敗のついた戦いで、残された非戦闘員――女、子供をいたぶる輩ばかりを選んでいた。
そうして、助けた者たちに選ばせていた。
――苦しんで生きるか、楽に死ぬかを。
帝国の領内で、身寄りのない女子供が生きていくのは簡単ではなかった。少なくとも、襲われる行為を許容――体を売る覚悟はしなければならない。
そういった覚悟がある者は生かし助け、ない者は殺し尊厳を守っていた。
「帝国が許すわけないだろ? それにそんな事態になれば、クローネスだけでなくリルトリアにも迷惑をかけてしまう」
「相変わらず、難儀な性格してるわねぇ」
レイドのほうが八才も年上にもかかわらず、テスティアは豪快に肩を叩いた。
「まぁ、お座り。今日はなんかお客さんも大人しいから、一緒に飲もう」
「……おまえ、まだ十八じゃなかったか?」
「あぁ、そっちじゃ二十歳からだっけ? この国は、十六から飲めるのよ」
ひらひらと手を振って、テスティアは席へと案内する。
「ちょい待ってて、適当に見繕ってくるから」
テスティアが店の奥へと消え、レイドは一斉に射抜かれた。何人かは、目が合うと怯えたように店を出ていく。
残ったのは酔客と好奇心に負けた者と、嫉妬の炎を背負った幅広い年代の男たち。
どうやら、テスティアは看板娘のようだ。
長い髪で顔を隠しながら、レイドは眩しそうに目を細める。
英雄として生きる二人はもちろんのこと、普通に生きているテスティアも、彼の目には眩しく見えた。
仕事中でありながらも、テスティアは豪快にグラスを呷っていた。
今日は本当に暇だなぁ、と自分に非があることにまったく気づいていない様子で口を動かし続ける。
「でさぁ――」
相槌しか許されない怒涛の波を、レイドは頷きだけでやり過ごしていた。
テスティアが一方的に喋っているだけで、とても会話とは呼べない光景。最初は羨ましそうに眺めていた酔客たちも、今では同情の目を向けている。
けど、レイドは苦と思っていなかった。
むしろ、楽しんでさえいた。誰かと、食事をするのさえ久しぶり。
――昔は、考えらなかった。
それがクローネスに命を救われて帰る場所ができ、ジェイルたちと出会って仲間がいる心地良さを知った。
あの旅の日々は、いつでも思い出せる。
「なぁ、テスティア――」
だからこそ、彼女が話しを逸らそうとしているのに気づけた。レイドはわかっていると言外にこめ、真っ直ぐに見据える。
「教えてくれないか? どうして、ジェイルは命を落としたんだ?」
ご機嫌だった彼女の表情が曇る。哀しそうに目尻が下がり、嘲るように口元が歪んでいく。
「あんたも……わからないんだ」
責めるように、テスティアは吐き出した。
その意味も彼女の気持ちも、レイドは汲み取ってやれなかった。
最後までジェイルの傍にいたのはテスティアだけ。
だから、彼女以外にはわかるはずがないと思っていたから――
「ロネやリルトだけじゃなくて、あんたも……ジェイルの気持ちがわからないんだ」
「……他の奴等は?」
「さぁ? ペルイさんとエディンさんは、察してるっぽかったけど……」
レイドは歯がゆく思う。わかっているのは年長組。だとすれば、自分も気づかなければならないはずだと。
「ごめんね、レイド。わざわざ来てくれたのに。でも、これだけは自分で気づいて欲しいんだ」
――ジェイルの為にも。
言外の台詞はレイドには届いていた。
だから頷きで答え、小さく詫びた。
そのあとは、互いに他愛のない話を花咲かせる。
「ほんと、ロネが羨ましいなぁ……」
酔いが回っているのか食べ過ぎたのか、テスティアは腹部をさすり始める。
「ジェイルは、私に何も残してくれなかった……」
そのまま、項垂れるように突っ伏した。重たいのか、胸までテーブルの上に預けている。
「……オレだって、同じさ」
レイドに何かを残した自覚はない。
あるとすれば、それは足枷の類だ。
いっそう、何も知らないままでいられたら良かった。
彼女が、ただのクローネスなら。森で暮らしている無垢な少女であったのならば、望みも叶えてやれた。
――嘘だ。
レイドは最初から気づいていた。
自分を助けてくれた少女が、やんごとなき存在だと。
森の中で生活していながら、丁寧な所作に言葉遣い。それでいて、誰が相手であろうとも敬称を付けずに呼ぶ振る舞い――五歳の少女が、だ。
知っていた。自分なんかが、近づいていい人間ではないと。何度も会うべきではないと、会っては駄目なんだと理解していた。
――彼女は王女だ。
それも多くの人々や、動物たちにも慕われている。
命を賭して、彼女を守った従者たち。自らの地位も投げ捨てて、森まで追いかけてきた学者たち。
そして、帰ってきた彼女を温かく迎えてくれたクロノスの民の気持ちを考えると、レイドには無理だった。
連れ去るなんて! 自分だけのモノにするなんて……できやしなかった。
――王女として頑張ったら……いつか迎えに来てくれる?
別れの日、子供のようにクローネスは服を掴んできた。幼さしか感じられない響きで、目尻に涙を浮かべて。
その手すら、レイドは振り払った。
何も言わないで。約束することも、反故することもしないで逃げ出してしまった。
「そんなことないよ」
レイドの心中を察してか、テスティアが否定の言葉を吐く。
「あんたはきちんと、あのコに残している。これから先、一人で生きていけるほどのものをね」
胸の奥をくすぐられる錯覚を覚えるほど、テスティアの声は母性に溢れていた。
「もしそれに気づいていないというなら、最低だけど」
反転したかのように声音を落とすも――
彼女はすぐに悪戯っぽく笑って、
「それでもあんたは、行くんでしょ?」
テーブルに突っ伏したまま、確信した眼差しで射抜かれた。
たとえ最低でも、何もわかっていなくても関係ない。レイドは絶対にクローネスを見捨てないと。
にやにやと、テスティアの視線は大きなリュックに注がれている。今から砂漠超えをしますと、宣言しているような大荷物。
言い逃れは逆効果だと、レイドは首を縦に振るしかなかった。
「私は行かないから、みんなによろしく言っといて」
みんなと言われ、レイドは思い浮かべる。クローネスとリルトリアに加え、四人の顔ぶれを。
「ふっ」
全員が来るとは限らないだろうが、つと穏やかな光景が過った。
「会えれば、な」
けど、気は進まなかった。
レイドは適当な言葉で誤魔化そうとするも、
「――会いなさい」
看破されていた。
「会おうと思えば、会えるでしょ?」
年下の少女に見透かされ、レイドは恥ずかしそうに顔を背ける。
それが、幸運を呼んだ。
別に、何かを感じ取った訳ではない。たまたま、目を逸らした先が店の入口だっただけのこと。
柄の悪い男たちと目があった。鈴が鳴らないように、押さえつけながら扉を開けている不審な男たち。
レイドは黙って立ち上がった。
「あんたも大変ね」
迷惑料のつもりなのか、テーブルに置かれた硬貨は明らかに多かった。
レイドは身に付けている装飾品を一つもぎ取り、
「――
小さな鉄切れが、瞬く間に剣を象る。
一つの奇蹟に店内がにわかに騒めくも、
「珍しいなぁ。鍛冶神の聖別か」
行商人が多いだけあって、知っている者もいたようだ。
レイドは目線だけで外へと促し、男たちは従った。
闇へと消えていくレイドの背中を見送りながら、テスティアは男たちの不幸を憐れむ。
普通に考えれば、男たちの判断は正解だ。
敵が身構えた以上、この場で襲いかかる利点はない。数にものをいわせたいのなら、広い場所のほうがいいに決まっている。
これで明るい時分、人目が多ければ完璧だった。
英雄だと知られたくないレイドは、人前で
「すべての国々が正義と平和の道を見出し
それを守ることができるために
神の導きと知恵とを求めていのる
われらの祈りを聞きたまえ」
懐かしい響きを聞き、ついテスティアも慈愛神の讃歌を口ずさむも、
「抑圧され、暴力におびやかされている人々の上に
解放のみ力が与えられることを求めていのる
われらの祈りを聞きたまえ
――
聖奠は発動しなかった。
「――
聖別も同じく、沈黙。
レイドの接近に一切気づかなかったことを省みると、
テスティアは先の戦いでジェイルを助けられなかったことから、慈愛神を恨んでいた。
聖寵とは、神からの
されど、それは一方的に与えられる。
個人の信仰ではなく、その土地に生きる――生まれ落ちた、全ての生命の信頼に対する報酬として預けられる。
成聖者もしかり。
神は、個人の意思など尊重しない。本人の信仰など関係なしに、多くの人々の期待をたった一人に押し付ける。
現に、望んで成聖者になった者はジェイルとリルトリアくらいであろう。
嫌だからといって、人には神からのギフトを突っぱねる権利はないのだ。
多くの人間を殺していながらも、レイドは神に祝福されている。
人々を救う医者を目指していながらも、エディンの弟は死神の成聖者に選ばれた。
だとすれば、テスティアは慈愛神に感謝すべきなのかもしれないと、口元が自嘲の笑みを象った。