第18話 王たる不幸
文字数 4,666文字
皇帝を追っていた間者との連絡が途絶えて、早一週間。その上、新たに出した斥候までが帰ってこない。
人だけでなく、鳥たちまでも――
おかげで、クロノスは皇帝の動きを見失ってしまった。
リルトリアたちも同じなのか、ここ最近は慌ただしい動きが目立つ。律儀に侵攻にやっては来るものの、陣容のほとんどは反対に向けられていた。
「……はぁ」
王女の問題は他にもあった。
このあとの予定を考えると、意図せず溜息が漏れてしまう。
かといって拒めるものでもなく、クローネスは城に戻ると、予定通り父の寝室へと足を運んだ。
近頃、体調が芳しくないとしつこく侍女から聞かされた以上、顔を見せないわけにはいかない。
厳重に警護された一室に踏み入れると、父だけでなく、大勢の使用人に歓迎されてしまい、クローネスは辟易してしまう。
親子水入らずと気を遣われても、血の繋がりだけで会話が弾む道理はない。彼女にとってはまだ、出会って間もない存在なのだ。
「おぉ……、来てくれたのか、クローディア」
その上、母と間違えられては堪らない。
「……クローネスです」
訂正すると、父は悲しげに目尻を下げた。
「それは、済まなかった……クローネス」
名前を呼ぶのにも、ぎこちなさが感じられる。無理に微笑む以外に、クローネスに浮かべられる表情はなかった。
病といっても、エディンが聖寵で聴いた限り、身体に異常はなかった。おそらく、心の問題だろうと。
聞き及んだ噂によれば、父は権力を盾に無理に結婚を迫ったらしい。
それなのに、手に入れた妻に先立たれ、忘れ形見のクローネスは命を狙われた末、行方知れずになった。
それでも、父は狂うことなく王としての責務を全うしていた。
それが今では、この有り様。
四十に見えないほど顔に皺が蔓延り、髪も薄くなっている。
――全ては、クローネスが原因だ。
生きた娘に自分の愛した妻の姿を重ねる度に、父は喪失感に襲われる。
先の戦いでも父は玉座を放り出し、兵を率いてクローネスを助けに動いた。
それは父親としては正しかったかもしれないが、王としては間違った行為であった。
王が一人の人間としての感情を優先してしまえば、他の者に示しがつかなくなる。
もし医者や兵が、自分はその前に一人の人間だと言い出したら、国としては堪ったものじゃない。
「……済まない、ネリオカネル」
急に、父がこの場にいない弟に謝りだした。
まただ、とクローネスは訝る。自分を母と間違えたあと、父は高い確率でネリオカネルに謝る。
「……ネリオカネルを呼びましょうか?」
訊いてみるも、父は首を振る。質問を重ねたところで、沈黙に逃げられる。
そして、お体に障ると耳ざとい使用人がクローネスに退出を願う。
「はぁ……」
溜息一つ、諦めの合図。父のことはもう、どうしようもない。冷たいのかもしれないが、クローネスとしてやってあげたいことは何もなかった。
娘として傍にいても、苦しめるだけだ。クローネスの姿は母を想起させ、自分の犯した所業を、取り返しのつかないことを思い出させる。
――本当に国の為を思うのなら、私はいないほうが良いのかもしれない。
クローネスは自嘲する。
自分がいなければ、父があそこまで弱くなることも、帝国に攻められることもなかった。
――王女じゃなければ……。
レイドと一緒にいられた。リルトと、争わないで済んだ。
――私が王女だから……。
レイドは離れた。リルトは敵になった。
――でも、王女じゃなければ……。
「――クローネス様」
ぐるぐると回る思考を咎めるように、声をかけられた。
「どうしたのですか、このようなところで」
指摘され、自分が中庭にいることを知った。無意識に、外に出たかったのかもしれない。
「リックこそ、なにをしているの?」
中年の庭師は木の上にいた。
「ちょっと早いですが、ミオネラの実が生っていましたので」
クローネスにとって、リックは森を教えてくれた先生でもあった。
「食べるにはまだ酸っぱいですが、香りを楽しもうと思いました」
リックはベル型の身を一つ放り落とした。
「よろしければどうぞ」
「ありがとう」
包皮は薄いオレンジとまだ若い。近づけてみると、酸っぱそうな香りが鼻孔をくすぐる。それがなんだか、クローネスの食欲を刺激した。
「……食べるんですか?」
下りてきたリックは、いそいそと皮を剥いているクローネスに忠告する。
「鳥もつつかないほど、酸っぱいですよ?」
「そう? ん……酸っぱい……けど、美味しい」
嘘ではないようで、クローネスはゆっくりと咀嚼している。
「……森が恋しいですか?」
穏やかな面持ちで見守っていたリックが、突然口にした。
「どうしたの、急に」
「いえ、少し昔を思い出しまして」
森にいた頃は、リックも他の者たちもクローネスに対して畏まっていなかった。
「憶えておいでですか? 一緒に森を探検したことを」
「……えぇ、色々と恨んでもいるわよ? 変なものを、たくさん食べさせられた」
悪戯っぽく、クローネスは頬を膨らませる。
「いや、それはまぁ……すいませんでした」
冗談に乗ってか、リックは垂直に頭を下げる。
「でも、楽しかったな」
目に付く果実や木の実をもいでは、口にした。動物たちに安全は確かめていたものの、味覚の違いからか、美味しくないものもあった。
特に、リックが見つけてくる物は酷かった。
「どうしたの?」
リックは、今にも泣きそうな顔をしていた。
「……ゴミが目に入ったようで」
目尻を拭って誤魔化そうとするも、嘘が下手過ぎる。自覚があるのか、リックは咳払いをして困ったように頬を歪めた。
「いえ、申し訳ございません……笑った顔が、あまりにクローディア様に似ておられましたので」
「……そう」
クローネスに返せる言葉はなかった。
彼女にとって、母親は知らない女性でしかないのだから――
「……どんな、人、だったの?」
それでも、リックの為にクローネスは会話を続ける。
「お優しい方でした。お体が丈夫ではなかったのですが……いえ、だからでしょうね。動ける時はお転婆で、よくネリオカネル、様を困らせておいででした」
取って付けたような敬称に、彼がまだ、ネリオカネルを許していないことが窺えた。
「母は、ネリオカネルと仲が良かったの?」
「えぇ、同じ年齢でいらっしゃいましたので。それに、城の中で近い年齢の子供は二人だけでしたから」
「父は?」
「陛下には、自由がございませんでしたので」
クローネスの祖父に当たる人間――先王は、中々子供に恵まれなかったらしい。
その為、王の血に連なる者たちは次第に身に過ぎた欲望を抱え始めるようになり、いざ第一子が産まれると、その命を狙うようになった。
そういった生誕であったがゆえに、現王は幼少時代から厳重に守られ、自由を与えられなかったらしい。
弟が生まれるまでの四年間は文字通り籠の中の鳥で、お世辞にも、人間の子供を育てる環境にいなかったとか。
そんなお家騒動も、ネリオカネルの誕生で収まりをみせる。
一人ならまだしも、二人も殺さなければならないとなると、現実性を保てなかったのだろう。また、種無しと思っていた先王が二人目に恵まれたことにより、次もある可能性を考えたのかもしれない。
されど、現王に自由は与えられなかった。
高齢であった先王は後継者を育てあげるのに必死になり、息子を束縛した。友達はおろか、弟も母親も遠ざけ、〝王〟という存在を説き続けた。
「そう……だったの」
話を聞く限り、嫌な想像しか浮かばなかった。クローネスの心情に気付かず、リックは言葉を連ねる。
「こんなことを私が言うのはおこがましいんですが、ネリオカネル、様は、クローディア様のことを好いていたようでした」
――もう、聞きたくない。気持ちが顔に表れたのか、リックは狼狽した。
「あ、えぇと……私が何を言いたかったといいますと……クローネス様には幸せになって貰いたいのです。王女じゃなくてもいいから、クローディア様の分も幸せになって……」
最後まで聞かず、クローネスは駆けだした。
どうして自分がここまで苛立っているのか理解できなくて、感情の整理が付けられない。
――つまらない物語そのものだからか?
憶測でしかないが、父は自由を謳歌している弟が憎かった。それで母を奪った。子供の感情だ。
それでネリオカネルは父と、母の命を奪った私が憎かった。
――ふざけるな、ふざけるな……っ!
だとしても、私が怒る必要性なんてない。まったくないのに……どうして、こんなにも心が落ち着かないのだろ?
「――クローネス様っ!」
強く呼びつけられ、身体が震える。相手がネリオカネルだったので尚更だ。
「どう、なされたのですか?」
息を切らして走るクローネスを心配してか、飛んできたのは叱責ではなかった。ネリオカネルは駆け走り、目の前に立ち塞がる。
「ねぇ……ネリオカネル」
――止めろ、何を訊く気だ私は……止めろ! そんなの意味がない。止めろ、止めろ! そんな、子供みたいな質問をしてはいけない!
どれほど言い聞かせても、唇は動いてしまった。
「私は、そんなにお母様に似ているの?」
訊かなければ良かったと思うほどに、ネリオカネルの反応はわかりやすかった。
矢で射抜かれたかのように身体を仰け反らせ、喋り方を忘れたかのように唇をわななかせている。
「――ごめんなさい。忘れて」
言い捨て、クローネスは馳せる。いや、逃げだす。今は、城の誰にも会いたくなかった。
――ふざけるな、ふざけるな……っ!
考えるなと理性が警告するも、濁流のように溢れる本音を塞き止めることはできない。
――どいつもこいつも……なんで、なんでっ!
母親なんて知らない。それなのに、みんなが求める。勝手に重ねて、勝手に傷ついて、勝手に……無視する。
――私を……クローネスを誰も見てくれない。
「レイドっ! レイド……っ!」
隠した指輪を握りしめ、必死で呼びかける。
――レイドに会いたい。
無性に会いたい。レイドじゃなくてもいい。私を、クローネスを見てくれる仲間に会って、心を落ち着かせたい。
王女でも、狩猟神の成聖者でも、クローディアの娘でなくても――私を必要としてくれる誰かに会いたくて……堪らなかった。
子供の時でさえ、ここまで不安定な気持ちを抱いた覚えがないからか……怖い。
自分で自分を制御できそうにない感覚が恐ろしい。口にしてはいけない台詞まで吐き出しそうで、誰にも会いたくなかった。
「レイド、レイド……っ」
母親を探す迷い子のように、クローネスは泣きながらレイドの名前を呼び続ける。