お題【旅館での一夜】

文字数 7,149文字

「お客さん、ナビからするとここですね」
「ここ、ですか」
 タクシーを降りて仰ぎ見たその旅館は、ひどく威圧的に見えた。
 着いた時間はほぼ深夜。いつもの職場で普通に仕事をして残業もちょっとさせられて、それからようやく移動を開始したからなぁ……人が泊まっていないのか、それとも就寝しているのか、ここから見える窓という窓に明かりが灯っていないのも、拒絶感を感じる理由かもしれない。
 市街中心部から離れている上、相場より値段もちょっと高かったんだがなぁ。

 仕事のために訪れた地方都市。翌朝が早いから前泊。それが運の悪いことにどこぞのアイドルの公演と重なったとかで宿泊施設が全く取れなくて、なんとか見つけた旅館がここだった。
 仕方ない。
 とにかくさっさとチェックインを済ましてしまおう。一応、遅くなるとは電話で伝えておいたが……。

 くもりガラスの引き戸をガラガラと開けると、着物姿の女性が出迎えてくれた。

「いらっしゃいませ。彩花詩屋(あやかしや)、女将の酒田(さけた)と申します」

「本当にすみません。こんなに遅くなってしまって……予約していた登志(とし)です」

 女将さん、妙に大きなマスクをしている。風邪ひいてるのかな。こんな社畜の俺のために、遅くまで無理させちゃって、申し訳ない。

「女将さん、風邪ですか?」

「いえ、そういうわけでは……」

「ああ! 花粉症ですか。花粉症って春だけかと思ったらどの季節にもそれぞれ別の花粉ってあるらしいですよね。お客商売でマスクは大変でしょう。早く治るとよいですね。お大事に」

「あ、ありがとうございます」

 少し戸惑った表情が目元に見えた女将。マスクの下はけっこうな美人だろう。

「あ、大丈夫ですよ。荷物、自分で持ちますから」

「恐れ入ります」

 中には仕事用のノートパソコンが入っている。このカバンは見た目よりは重たいし、そもそもこんな遅くなって迷惑かけてしまったという負い目もある。自分でできることは自分でやるつもりだ。

「お客様、お夕飯は……」

「ああ、こんな遅くだったら厨房ももう終わっているでしょう。大丈夫です。新幹線の中で食べてきましたから」

「お疲れ様です」

 通されたのは、可もなく不可もない和室。いや、悪くはないんだ。悪くは……なんというか、久々で。
 旅館全体から感じるひなびたレトロ感。侘しいといえば侘しいし、懐かしいといえば懐かしい。心の奥にあるやわらかいものを刺激される。
 こういうの好きな人、けっこう居そう。だから高かったのかもなぁ。
 とはいえ俺はもうさっさと寝たい。布団は……あー、こういう所って仲居さんがやってくれるんだっけ。

 コツ、コツ、コツ……。

 タイミングよく廊下から足音が……ん? コツコツ?
 スリッパとか足袋とかの足音じゃないよな。まるでハイヒール……屋内の木製廊下を? いや、それはないだろう。

 コツ、コツ、コツ。

 部屋の前で音が止まる。

「失礼します」

 お年を召された女性の声が聞こえる。

「はい、どうぞー」

 ドアが開く音がした後、スッと襖が開き、着物を着て腕まくりをしたお婆さんがしゃがみ込みんでいるのが見えた。
 この仲居さんがハイヒールってこともないだろう。しかしこの仲居さん、随分と猫背というか、異様に前かがみな方が気になるな。
 そういえば、5年前に亡くなった俺のばーちゃんも猫背だったっけ。田舎のばーちゃんを思い出して、少ししんみりとする俺。

「お布団、いかがなされますか?」

「すみません、仲居さん。こんな遅くまでお待たせしちゃって……あ、あの、俺、敷きましょうか? 置いとくだけ置いといてくれたら」

「そ、そんなお客様。そちらは手前どもの仕事ですから……お客様?」

「あ、いや……すみません。なんか、田舎のばーちゃん思い出しちゃって……小さい頃、ばーちゃんの家に遊びに言った時、ばーちゃんの布団の上げ下げ、俺の仕事だったんですよ……そうですよね。客に仕事させたりしたら怒られちゃいますものね。すみません邪魔しないよう、お風呂……って、まだ入れます?」

「はい、大浴場の温泉はまだ閉めておりません。タオル等用意してありますので身一つでいらしてくださって結構です」

 おばあちゃんの仲居さんは、来た時の営業スマイルとは明らかに違う笑顔で、すっと襖を閉める。

「鍵は閉めてゆかれて結構です。貴重品等、おしまいになってください」

 ドアの閉まる音。さらにコツコツコツコツコツコツ……あっという間に足音が遠ざかる。ものすごい素早いな。ああでも、ご老人が元気というのはいいことだ。

 部屋の中を見回し、金庫を見つける。そこに貴重品を入れ、閉めて……ん? 人形?

 金庫の上に立っていた人形が、どうにも女児用の人形に見える。これって確かアレだ。リカちゃんだかリコちゃんだかそんなやつ。
 普通、こういうところに飾ってあるのって、ご当地にゆかりがある人形とか置物ってのが多いパターンだよな。そうじゃないとしても和室には日本人形だろう。しかもこの人形……スカートが手前に妙に膨らんでいる。

 ふと、去年の忘年会で営業部の副部長がやった芸を思い出した。
 全裸にお盆だけという登場で、ちょっと流行遅れ感はあったが芸のキレは良かった。あの芸人が出てくる以前からやり慣れている感じ。
 しかもラスト、股間の帽子を手を使わずに落とさないというアレ……「三本目の足で支えています」ってド下ネタじゃないか。女子社員は全員ひいてたぞ。
 ため息が出てしまう。

 お人形さん、ごめんなさい。君はこんな可愛い女の子なのに、あんな下品なオッサンの思い出とダブらせちゃって、本当にごめんなさい。
 この人形のスカートの膨らみも、前の客とかに何かイタズラで入れられたのかもしれない。仲居さん、おばあさんだから気付かなかったとか……いや、そういう考え方はあのプロ意識の高い仲居さんにも全国のおばあさんにも失礼か。
 だいたい、そういうことって誰にでもあるよな。
 なくなっているのはすぐに気付くんだけど、ちょっとだけ変えられているのは気付かない。アハ体験ってやつ。
 プログラムのコードも一緒だ。ケアレスなスペルミスが案外気付かなかったりする。
 おっと。あの素早い仲居さんならもう布団を持ってきちゃうかも。
 お人形さん、放置でごめんな。もしイタズラでこんな風にされたのだとしても、やっぱり女の子のスカートめくるのは抵抗あるわ。

 俺は人形に心の中で手を合わせると、大浴場とやらに向かった。

 廊下は歩くたびにギシギシと音が鳴る。
 修学旅行で京都に行ったとき、うぐいす張りの廊下ってのがあったっけ。
 うぐいす、あんなにいい声で鳴くのに、不名誉だろうなって思ったものだ……待てよ。修学旅行って何年前だ。いや二十年くらいは経っているだろう……。

 ギシギシと廊下鳴るなりタイムマシン。

 即興でわけのわからないニセ俳句が浮かんでしまうなんて、もしかして俺、浮かれているのか?
 いつものビジネスホテルだったら、きっと今も仕事が頭から抜けきらずに、精神的な疲労にうちのめされていたかもしれない。
 ありがたいな。
 仕事以外のこと思い出せるのって、この旅館の雰囲気のおかげかもな。
 だとしたら、夕飯食べられなかったのは残念だったかも……いつも無機質な宿に機械的に泊まる社畜の日々だったからさ。
 飯も含めて何かを楽しむとか、そういう気持ちは皆無だったってことに、気づけたのは、俺にも歯車じゃない、人間の血が通って……お、ここだここだ。

 温泉か。ものすごい久しぶり。
 とっとと脱衣カゴに服を脱ぎ入れる。タオルと浴衣はここにある、と。えーと石鹸類は中かな……と、ふと見回したところ、女の人と目が合った。

「うわわわわっ! すみませんっ!」

 俺は脱衣カゴで股間だけを隠した全裸で、大浴場の外へと走り出る。
 まいったな。時間決めなのかな。
 いや違ってない。やっぱりこっちは男湯で、女湯もちゃんと別にある。周囲に仲居さんは見当たらないし、この格好でウロウロしていると本当に風邪を引きかねない。というか警察に捕まりかねない。

「すみませーん。こっちは男湯だそうですよー」

 俺は情けない声を出しながら脱衣所へと戻った。

「あれ……いません……よね?」

 さっき女の人と目があったと思ったところは、脱衣カゴの入った棚と棚の隙間。
 こんな狭い場所に人なんて入れないだろうし、気のせいだったのだろう。
 俺、疲れてるんだな……。

 よし、気を取り直して温泉だ!

 不安と疲れとを洗い流すかのように体を洗い、温泉へと浸かる。
 癒される。
 ……寝そう。
 慌てていったん出て、頭も洗う。
 そして再び湯船へ。
 ……いい……いい湯だ……。
 この旅館、案外悪い……というか控えめに言って最高じゃないの?
 時間が遅いせいか、他に客が居ないのも独り占め感があって贅沢だ。

 俺は睡魔と戦いつつもなんとか温泉から脱出する。誘惑に負けずに済んだのは、気持ちが少し前向きになっていたからかな。いつもの社畜モードのままだったら、あのまま溺れ死んでいた自信がある。

 浴衣に着替え、元着ていた服などを持って部屋へと戻る。

「ありがたい。布団が敷かれている」

 俺は倒れ込むように布団に入った。

 ……。

 布団に入ったはずなのに、俺は仕事をしている。これは夢なのだろうか。

「……足いるか?」

 なんだ?
 後ろから話しかけてくる……足ってなんだ?
 手なら猫の手も借りたいくらい忙しいが……いやいや足も必要だぞ。
 移動にかかる時間がもっと短縮できればその分残業を減らせるんだから。去年の免許更新、仕事が忙しくて失効しちゃった俺には切実な問題だ。

「必要必要」

 俺は答える。今日だって、新幹線の最終までは残業よろ、とか無茶にもほどがあるよな。
 だいたい、このご時世で現地に行かないと仕事できないってのもアレだよな。
 まぁ、セキュリティ上、オフラインの環境でしか出来ない仕事ってのもあるのはわかってるし、実際、今回の仕事もそういう類の仕事なんだけどさ。

「……手をよこせ」

 なんだ、あんたも忙しいのか?

「すまないな。今、忙しくって俺の手は俺の仕事で手一杯ってやつだ。あんたも大変だと思うけれど、負けずに頑張ってくれ」

 俺の背後からの声、顔が見えないが同じ社畜のニオイがする。
 仲間ってやつだ。

「なあ、お互い仕事が終わったら、一緒に飲むってのも悪くないかもな」

 確か、俺はそう言ったと思う……そのあと、ふっと目が覚めたら外はまだ暗い。
 枕元の腕時計を確かめると夜中の二時。
 まだそんな時間か。変な時間に起きちゃったな。というか、この時間、寝てないこともザラだ……ああ、なんたる社畜。

 そうだ。モーニングコールって設定できるかな。今からまた寝て、起きられるかどうか……温泉でちょっと緩んじゃったからなぁ。

 俺は受話器を取り、はっとして慌てて受話器を置いた。
 今、受話器の向こう側に呼び出し音が聞こえたからだ。
 こんな時間に宿の人を起こしてしまうのは申し訳ない。いつも泊まっているビジネスホテルなら、プッシュホンで起きる時間をセットできることが多いから、うっかり受話器を取ってしまった。
 気をつけないと……ここは人の温もりが残る旅館なんだから。

 ジリリリリ。ジリリリリ。

 ああ、やっぱり。
 起こしちゃったか。申し訳ない。俺は受話器を取った。

「私、仲居さん。今、旅館の入り口」

 プツン、と、用件を言う前に電話は切れてしまう。これじゃただ単に宿の人に迷惑かけるだけの客になってしまうじゃないか。

 ジリリリリ。ジリリリリ。

 またすぐに電話がかかってきた。

「私、仲居さん。今、階段を上るところ」

 プツン。
 え、ちょっと待って。こっちに向かわせちゃってるってこと?
 俺がちゃんと用件を言わないからここまでご足労かけさせてしまっている。こんな深夜なのに申し訳ないことこの上ない。

 ジリリリリ。ジリリリリ。

「私、仲居さん。い」

「すみませんっ! わざわざすみません。待っててください。こちらからうかがいますからっ!」

 どうだ!
 こちらの用件言ってやったぞ!
 よし。ということで、フロントまでこちらから言ってモーニングコールを頼んでくるか。

 俺は浴衣の帯を締め直すと、スリッパを履いて廊下へと出た。
 廊下をギシギシと歩き……これ、他のお客に迷惑じゃないかな……出来るだけ忍び足で歩く。
 そういや用件、さっきは言ったつもりになってたけれど、よく考えたら肝心なことは言ってないじゃないか。
 ああ、申し訳ない。久々に温泉なんて入ったから脳がすっかりグダってやがる。

 階段を下り、旅館の入り口へと足早に向かう。
 旅館の入り口まで来ると、マスクの女将さんが立っていた。

「ああ、申し訳ないです。起こしてしまってすみません。モーニングコールをお願いしようと思ったのですが、こんな時間に本当にすみません。よく言われるんですよ。仕事のことを考えていると本当に人の迷惑を考えないよね、みたいなことを……」

 しかし、女将さんはちょっとだけ優しい目になる。

「明日の朝、何時をご希望ですか?」

「いいんですか? 本当に申し訳ありません。可能ならば6時で……」

「わかりました。6時にモーニングコールですね。ではもう、おやすみください」

「すみません。あ、あと、朝ごはんは不要ですから」

 朝はいつも食べてないのと、そんな早い時間にご飯を用意させるのが申し訳ないという思いとで、つい言ってしまったが……ここのご飯ちょっと食べてみたいと思っていた何時間か前の自分を今更ながら思い出してみたり。
 でもまあ、こんなに働き者の旅館の方たちが少しでも楽できるのなら、それでもいいかな。
 俺は部屋へ戻ろうとして……まわれ右からの一回転。
 女将さんは驚いた顔でこちらを見ている。

「あの……さっき、電話でフロントに詰めてらっしゃった仲居さんを部屋まで呼びつけちゃったみたいでして……こちらに来るまでにすれ違ったら謝ろうと思ったら、すれ違わなかったもので……その、申し訳ありません、ありがとうございます、と、お伝えください」

 頭をさげると、どこかからか、ふふっと笑う声が聞こえた。
 他にも起きてる従業員の方いらっしゃるのか。いやもう、社畜として、親近感しか感じないのだが。

「伝えておきます。お客様もどうかお休みください」

 俺は再び部屋へと戻り、布団へと潜り込む。
 パタパタパタと上の階を子どもが走り回る音が聞こえる。
 旅館の子かな。それとも家族旅行かな。こんな時間に起きて走り出すだなんて、俺のドタバタギイギイで起こしちゃったんなら申し訳ないなぁ……そんなことを考えているうちに俺は再び寝てしまったようだ。

 ジリリリリ。ジリリリリ。

 電話の音で目が覚めた。もう朝かな。受話器を取る。

「私、仲居さん、今、六時をお知らせします」

「ありがとうございます。あと、昨晩はすみませんでした。いつもご苦労様です」

「あ、はい」

 プツン。電話は切れる。ご本人にお礼を言えて良かった。俺は着替えてから荷物をまとめ、入り口へと向かう。

 入り口では女将さんがまた立って待っていてくれている。本当に頭が下がる。

「ありがとうございました。ここはいい旅館ですね。なんだかいい気分転換になりました」

「そうですか……あの」

「はい?」

「これ、もしよろしければ食べてください。朝ごはん抜くのはよくないですから」

 そう言って、女将さんはホイルに包まれた何かを渡してくれた。形からしたらおにぎりかな。

「ありがとうございます。朝抜くのクセになっちゃってるんですが、本当は食べた方がいいってわかってるんですよ……本当に何から何までありがとうございました。次にここいらに来る時はまた、こちらに泊まらせていただこうと思います」

「従業員一同、お待ちしております」

「では、また!」

 俺は女将さんに頭を下げると、旅館のすぐ近くにあるバス停へと向かった。このまま今日の現場近くまで乗って行けるなんて、便もいい旅館だなぁ。まあ、バスのある時間に移動できれば、だけど。

 お、バスが来たようだ。後ろから乗るタイプか。
 清々しい朝の空気を吸い込んでから、俺はバスに乗り込んだ。

 ガラ空きのバス。
 他にお客は居ないから、さっきもらったアレをこっそり食べてしまおう。
 わくわくしながらホイルを開くと、思った通りおにぎり。
 俺が潰してしまったのか、カタチはちょっと歪になっちゃったけど……まるで人の形みたいだな。せっかく作ってもらったのに申し訳ない。でも、俺はどんな形でもちゃんと食べる人ですよ……と、ちょっと割ってみると、綺麗な赤がこぼれんばかりに飛び出した。
 すじこ! 
 なんという贅沢な!
 俺はじんわりと、女将さんの気遣いを頬張った。

 さてと、あと停留所何個分かな……あれ? このバスの運転手さん、ここからだと首から上がどうにも「ない」ように見えるんだが……気のせいだよな。



<終>
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