お題【笑い女】
文字数 4,575文字
俺はなんであんな話をしたかな。いくら合コンが盛り下がっていたからとはいえ。
その盛り下がりの最初の原因は、四人いた女の子のうち、一番可愛かった子。
「お相手居ない歴はどのくらい」っていう自己紹介している途中、急に泣き出したんだ。
目を見開いたまま、涙なんてそりゃもうすごい勢いで。
女子側の幹事の子が「彼氏と別れたばっかりなのよ」とフォローしていたんだけれど、助走なしの全力泣きっぷりが、あまりにも「泣き女」に似ていたから、つい口から出てしまった。
「泣き女みたいだね」って。
しれっとごまかせば良かったのに、場の雰囲気を変えたかったらしい俺ら側の幹事のヤツが「もっと詳しく」とか焚きつけるもんだから、仕方なしに話すことになった。
俺の父方の田舎には「泣き女」ってのが居る。葬式の時に遺族の代わりに泣いて、報酬をもらう女の人……ってのは世界的に職業として存在する、メジャーな方の泣き女。うちの田舎の「泣き女」はちょっと違う。
ある日突然、勝手に涙が出てくるんだ。
「泣き女」は自分の意思で泣くわけでもなく、なりたいと思ってなれるものでもない。
村の誰かが亡くなるちょっと前の夜、突然ボロボロと大量の涙が出てくる。
そうすると村では大急ぎで葬式の準備を始める。
「泣き女」が現れてから、次の新月が来るまでの間に、必ず誰かが亡くなるからだ。
オカルト話はハマると盛り上がることもあるけれど、まあ盛り上がらないことの方が圧倒的に多い。
今回は当然のようにさらに盛り下がったわけですよ。
というか、トドメをさしたのが俺ってことになるよな。
その後もちらほらとお互いをフォローし合うんだけど、ことごとく空振り。
まとまりもないまま早々に解散した。
俺なんて途中からイタイ人扱いされていたし、気分転換しないまま帰ったらこりゃ寝られないなと、一人二次会で飲み直すことにした。
皆とは違う方向へ歩き出し、店を吟味する気持ちでもなかったし、そこそこ賑やかな居酒屋にすっと入ったんだ。
「らっしゃい。お二人さんですね」
驚いた俺は振り返る……女子?
さっきの合コンで端っこに座っていた女の子が一人、いつの間にか、ついてきていたんだ。
本当に、いつの間に、だよ。
「あの、すみません。さっきの話、もう少し聞かせてほしくって……条件とかありませんか? 泣き女には」
俺はさらに驚いた。あの場では言わなかったけれど、ちゃんと条件はある。
「泣き女」になるのは、子どもを失くしたことがある女だけ。
俺の一番上の姉貴は妊娠中絶の経験があって、そのせいで、親父が交通事故に遭う三日前から盛大に泣いていた。
狭い二人席のテーブルへと通された俺たちは、お互いの顔がすごい近いような状況で「泣き女」の話を始めた。
俺の話を、興味を持って聞いてくれる、こんなことは男女問わず滅多にない。
バカにしたり、否定しないってだけでもものすごく嬉しいものだ。
正直その子のこと、合コン中は気に留めもしていなかった。
特に可愛いわけでもなく、胸が大きいわけでもなく、トーク上手なわけでも、気配りするでもなく、今日の子たちの中でこの子が一番になれるとしたら、影が薄いこと、くらい。
だから、追いかけてきて話しかけてきたというその行動力に驚いた。
自分の話を聞いてくれる嬉しさの反面、ストーカーみたいな危ない女だったらどうしようとか、考えもした。
でもさ、俺はカッコイイわけでもなければ、スポーツや勉強が得意なわけでも、一芸に秀でているわけでも、金を持っているわけでもない。
今日の男側では間違いなく俺が一番影が薄い……イタイ話をしていなければ、だけど。
そんな疑問も、その子と話しているうちに、どっかに行ってしまった。
それは、その子が俺を追いかけてきた理由を話し始めたあたりから。
その子の田舎にもオカルト系な「笑い女」というのが居て、うちのとは逆に、めでたいことがあると勝手に笑うらしいんだ。
それまで距離を感じていた相手でも、共通点を見つけた途端に強い連帯感が生まれるもんだよね。
共通点が、世の中の平均的なラインから離れていればいるほど、絆の強さは増す。
その妙な勢いに呑まれたのかどうかはわからない。結果から言えば俺はその子を部屋まで送っていってあげて、送り狼にもなって、その後しばらくはその子の部屋にちょいちょい通うようになった。
でも付き合うってとこまでじゃなかった。
料理はしない子だったし、そもそも食べ物の趣味も合わなかったし、それどころか、マンガや映画や音楽の趣味も見事にかぶらない。
その子と一緒に居ても場の空気がもたないから……なんとなく……エッチくらいしかすることがなくて。
俺の方だって、その子からしたら絶対に優良物件ではないはずなんだ。
それでもその子は俺を受け入れていたし、時々はその子の方から手を伸ばしてきたりもした。
こういうことから始まる恋愛もあるのかな、なんて、一緒に居る時間を長く過ごせば愛情みたいな想いが深まるかなって、思ってた。
だけど、そういう気持ちが湧いてこないんだ。
何ヶ月かすると、その子に会いに行くこと自体が、申し訳なく思うようになってきた。
単なる性のはけ口みたいじゃないか。
そりゃ俺はそういうことはそういうことでしたいよ。でも、それだけなんてのは絶対にイヤなんだ。
笑った顔を見てほんわりしたり、他はともかくここだけは合うよねなんてことを見つけたりしたいんだ。
上半身がモヤモヤしていると、下半身もしょんぼりしてくる。
自分なりにエッチを封印したら、二人きりでいるときのザラザラした空気がとても辛くって。
それでとうとう通うのをやめた。
その子からは特に反応はなかった。
その子にとっての俺は、俺にとってのその子は、いったいなんだったんだろうな。
出会ったあの夜に感じた無敵の連帯感は幻だったのかな。
そんな「顔に縦線入っているような表情」の俺を見かねたのか、友人が「今度は大丈夫」という合コンに誘ってくれた。
そしてそこで運命かよという出逢いをして、何回かデートした後、俺には正式な彼女が出来た。
彼女と過ごす日々は感情が溢れまくる日々だった。
心を動かされたり、動いたと伝えられたり。楽しくて、ドキドキして、お互いの合う部分を見つけて幸せを感じて、これが付き合うってことだよな、なんて感じていた。
あの子のことはすっかり忘れていたし、自分の中では終わった話になっていた。
あの夜までは。
あの夜、夢を見た。
俺の前に裸の女子が一人、座っている。
終わったはずのあの子だった。
あの子は俺の方を見つめ、お腹をさすっていた。
それだけじゃない。あの子に雰囲気の似た着物姿の女が何人も何人も、俺たちを取り囲むように正座していて、にこにこと笑っているんだ。
すぐに思い出した。
あの子が「笑い女」という話をしていたことを。
その村の女性が妊娠すると「笑い女」が現れて、祝福をしてくれるという話だった。
俺はその話を、うちの姉貴みたいに、村の中の誰かが急に笑い出すタイプのやつだと勝手に思い込んでいた。
でも違った。
おそらくこれが「笑い女」なんだ。
なんでそう断言できるかというと、その日以来、毎晩同じ夢を見るようになったからだ。
こういうのって、眠れなくなったり、あの子や笑い女がある日急に怖い顔するんじゃないかって考えちゃうよね。
でも、そういうんでもないんだ。
あの子が俺を見つめる目には、恨みみたいなのはなくて、かといって色っぽい目でもない。
なんていうか、一緒に食事したときに「俺、これ好きなんだ」「へぇ、そうなんだ」「食べてみる?」って流れのあと「別にいい」って言ったときのあの子の無表情に近い顔そのもの。
どういう感情だよ、っていうね。
それに「笑い女」だって、笑い方が柔らかいんだ。
毎晩取り囲まれているのに怖くない。電車の中で立っている妊婦さんに席を譲った時に「ありがとうございます」って言われて返って来るような、ノーポイズンの笑顔。
「笑い女」のような笑顔を、あの子が俺に見せてくれていたら、俺はあの子ともう少し一緒に居ただろうし、「笑い女」を見た話を直接あの子に出来ただろう。
いや、それはないか。だって俺に彼女が出来た頃にはもう、あの子には連絡がつかなくなっていたから。
この夢を俺が見ているってことは、あの子は妊娠しているってことだと思うんだ。
それで、多分、その父親は俺なんだ。
あの子に対して深い愛情を見つけられなかった俺だったけれど、あの子をキライだなって思ったことはない。
それに子どもが居たら、何か変わるかもしれない。
何より、俺は姉貴が何度も泣いているのを見ているから、無責任な男にだけはなりたくなかった。
避妊だってちゃんと気をつけてはいたし……それでもデキちゃっているっぽいから、そこはごめんなんだけど。
俺はちゃんとあの子に向き直ろうとしたんだ……したのに、彼女とだって別れたのに、ずっと探しているのに、あの子は見つからなかった。
あの子はいつの間にか引っ越していた。連絡がつかないのは電子的にだけだと思っていたけれど、物理的にも、だったんだ。
現実ではそんな感じなのに、それなのに、夢の中では毎日出てくるんだ。
夢の中のあの子は、次第にお腹が大きくなってゆく。
周囲の「笑い女」は変化もなく終始にこにこ。
見飽きはするが、気味悪さとかは感じない。
逆に俺はリラックスしているようにすら感じる。
昼間はあの子に会えないことで焦ったりイラついたりしているのに、夜は夢の中で不思議と落ち着いているんだ。
あの子のお腹には、俺の罪悪感でも入っているんじゃないかと思うくらい日に日にじわじわ大きくなってゆくのに。
最近、俺は「笑い女」に詳しくなってきた。
「笑い女」の笑顔は、気持ちを落ち着かせる効果というより、心を麻痺させる効果を持っているみたいだ。
あと、「笑い女」は妊娠が終われば消えると聞いていたが、その「終わり」の条件は「産むこと」だと思うんだよな。
夢を見始めてからもう一年半経つけれど、いまだにあの子は俺の夢に出続ける。
お腹が膨らんだまま、首が異様に長く伸び、表面が腐り始めて随分と経つ。
とても気持ち悪くて直視できない姿なのに、「笑い女」のにこにこを見ると不思議と気持ちが落ち着いて、その惨状に耐えられてしまうんだ。
夢の中で、だけは。
毎朝、目が覚めてから俺は嘔吐する。
夢から覚めると「笑い女」の笑顔の効果は切れるみたいで、ものすごいしんどい。
食欲も落ちたし、昼間の集中力も落ちまくっている。
いつまであの子のあんな姿を見させられ続けるんだろう。
でも、あの子にこんな決断をさせたのは俺なんだ。今夜も夢の中で腐り続けてゆくあの子を、俺は見ないわけにはいかないんだ。
<終>
その盛り下がりの最初の原因は、四人いた女の子のうち、一番可愛かった子。
「お相手居ない歴はどのくらい」っていう自己紹介している途中、急に泣き出したんだ。
目を見開いたまま、涙なんてそりゃもうすごい勢いで。
女子側の幹事の子が「彼氏と別れたばっかりなのよ」とフォローしていたんだけれど、助走なしの全力泣きっぷりが、あまりにも「泣き女」に似ていたから、つい口から出てしまった。
「泣き女みたいだね」って。
しれっとごまかせば良かったのに、場の雰囲気を変えたかったらしい俺ら側の幹事のヤツが「もっと詳しく」とか焚きつけるもんだから、仕方なしに話すことになった。
俺の父方の田舎には「泣き女」ってのが居る。葬式の時に遺族の代わりに泣いて、報酬をもらう女の人……ってのは世界的に職業として存在する、メジャーな方の泣き女。うちの田舎の「泣き女」はちょっと違う。
ある日突然、勝手に涙が出てくるんだ。
「泣き女」は自分の意思で泣くわけでもなく、なりたいと思ってなれるものでもない。
村の誰かが亡くなるちょっと前の夜、突然ボロボロと大量の涙が出てくる。
そうすると村では大急ぎで葬式の準備を始める。
「泣き女」が現れてから、次の新月が来るまでの間に、必ず誰かが亡くなるからだ。
オカルト話はハマると盛り上がることもあるけれど、まあ盛り上がらないことの方が圧倒的に多い。
今回は当然のようにさらに盛り下がったわけですよ。
というか、トドメをさしたのが俺ってことになるよな。
その後もちらほらとお互いをフォローし合うんだけど、ことごとく空振り。
まとまりもないまま早々に解散した。
俺なんて途中からイタイ人扱いされていたし、気分転換しないまま帰ったらこりゃ寝られないなと、一人二次会で飲み直すことにした。
皆とは違う方向へ歩き出し、店を吟味する気持ちでもなかったし、そこそこ賑やかな居酒屋にすっと入ったんだ。
「らっしゃい。お二人さんですね」
驚いた俺は振り返る……女子?
さっきの合コンで端っこに座っていた女の子が一人、いつの間にか、ついてきていたんだ。
本当に、いつの間に、だよ。
「あの、すみません。さっきの話、もう少し聞かせてほしくって……条件とかありませんか? 泣き女には」
俺はさらに驚いた。あの場では言わなかったけれど、ちゃんと条件はある。
「泣き女」になるのは、子どもを失くしたことがある女だけ。
俺の一番上の姉貴は妊娠中絶の経験があって、そのせいで、親父が交通事故に遭う三日前から盛大に泣いていた。
狭い二人席のテーブルへと通された俺たちは、お互いの顔がすごい近いような状況で「泣き女」の話を始めた。
俺の話を、興味を持って聞いてくれる、こんなことは男女問わず滅多にない。
バカにしたり、否定しないってだけでもものすごく嬉しいものだ。
正直その子のこと、合コン中は気に留めもしていなかった。
特に可愛いわけでもなく、胸が大きいわけでもなく、トーク上手なわけでも、気配りするでもなく、今日の子たちの中でこの子が一番になれるとしたら、影が薄いこと、くらい。
だから、追いかけてきて話しかけてきたというその行動力に驚いた。
自分の話を聞いてくれる嬉しさの反面、ストーカーみたいな危ない女だったらどうしようとか、考えもした。
でもさ、俺はカッコイイわけでもなければ、スポーツや勉強が得意なわけでも、一芸に秀でているわけでも、金を持っているわけでもない。
今日の男側では間違いなく俺が一番影が薄い……イタイ話をしていなければ、だけど。
そんな疑問も、その子と話しているうちに、どっかに行ってしまった。
それは、その子が俺を追いかけてきた理由を話し始めたあたりから。
その子の田舎にもオカルト系な「笑い女」というのが居て、うちのとは逆に、めでたいことがあると勝手に笑うらしいんだ。
それまで距離を感じていた相手でも、共通点を見つけた途端に強い連帯感が生まれるもんだよね。
共通点が、世の中の平均的なラインから離れていればいるほど、絆の強さは増す。
その妙な勢いに呑まれたのかどうかはわからない。結果から言えば俺はその子を部屋まで送っていってあげて、送り狼にもなって、その後しばらくはその子の部屋にちょいちょい通うようになった。
でも付き合うってとこまでじゃなかった。
料理はしない子だったし、そもそも食べ物の趣味も合わなかったし、それどころか、マンガや映画や音楽の趣味も見事にかぶらない。
その子と一緒に居ても場の空気がもたないから……なんとなく……エッチくらいしかすることがなくて。
俺の方だって、その子からしたら絶対に優良物件ではないはずなんだ。
それでもその子は俺を受け入れていたし、時々はその子の方から手を伸ばしてきたりもした。
こういうことから始まる恋愛もあるのかな、なんて、一緒に居る時間を長く過ごせば愛情みたいな想いが深まるかなって、思ってた。
だけど、そういう気持ちが湧いてこないんだ。
何ヶ月かすると、その子に会いに行くこと自体が、申し訳なく思うようになってきた。
単なる性のはけ口みたいじゃないか。
そりゃ俺はそういうことはそういうことでしたいよ。でも、それだけなんてのは絶対にイヤなんだ。
笑った顔を見てほんわりしたり、他はともかくここだけは合うよねなんてことを見つけたりしたいんだ。
上半身がモヤモヤしていると、下半身もしょんぼりしてくる。
自分なりにエッチを封印したら、二人きりでいるときのザラザラした空気がとても辛くって。
それでとうとう通うのをやめた。
その子からは特に反応はなかった。
その子にとっての俺は、俺にとってのその子は、いったいなんだったんだろうな。
出会ったあの夜に感じた無敵の連帯感は幻だったのかな。
そんな「顔に縦線入っているような表情」の俺を見かねたのか、友人が「今度は大丈夫」という合コンに誘ってくれた。
そしてそこで運命かよという出逢いをして、何回かデートした後、俺には正式な彼女が出来た。
彼女と過ごす日々は感情が溢れまくる日々だった。
心を動かされたり、動いたと伝えられたり。楽しくて、ドキドキして、お互いの合う部分を見つけて幸せを感じて、これが付き合うってことだよな、なんて感じていた。
あの子のことはすっかり忘れていたし、自分の中では終わった話になっていた。
あの夜までは。
あの夜、夢を見た。
俺の前に裸の女子が一人、座っている。
終わったはずのあの子だった。
あの子は俺の方を見つめ、お腹をさすっていた。
それだけじゃない。あの子に雰囲気の似た着物姿の女が何人も何人も、俺たちを取り囲むように正座していて、にこにこと笑っているんだ。
すぐに思い出した。
あの子が「笑い女」という話をしていたことを。
その村の女性が妊娠すると「笑い女」が現れて、祝福をしてくれるという話だった。
俺はその話を、うちの姉貴みたいに、村の中の誰かが急に笑い出すタイプのやつだと勝手に思い込んでいた。
でも違った。
おそらくこれが「笑い女」なんだ。
なんでそう断言できるかというと、その日以来、毎晩同じ夢を見るようになったからだ。
こういうのって、眠れなくなったり、あの子や笑い女がある日急に怖い顔するんじゃないかって考えちゃうよね。
でも、そういうんでもないんだ。
あの子が俺を見つめる目には、恨みみたいなのはなくて、かといって色っぽい目でもない。
なんていうか、一緒に食事したときに「俺、これ好きなんだ」「へぇ、そうなんだ」「食べてみる?」って流れのあと「別にいい」って言ったときのあの子の無表情に近い顔そのもの。
どういう感情だよ、っていうね。
それに「笑い女」だって、笑い方が柔らかいんだ。
毎晩取り囲まれているのに怖くない。電車の中で立っている妊婦さんに席を譲った時に「ありがとうございます」って言われて返って来るような、ノーポイズンの笑顔。
「笑い女」のような笑顔を、あの子が俺に見せてくれていたら、俺はあの子ともう少し一緒に居ただろうし、「笑い女」を見た話を直接あの子に出来ただろう。
いや、それはないか。だって俺に彼女が出来た頃にはもう、あの子には連絡がつかなくなっていたから。
この夢を俺が見ているってことは、あの子は妊娠しているってことだと思うんだ。
それで、多分、その父親は俺なんだ。
あの子に対して深い愛情を見つけられなかった俺だったけれど、あの子をキライだなって思ったことはない。
それに子どもが居たら、何か変わるかもしれない。
何より、俺は姉貴が何度も泣いているのを見ているから、無責任な男にだけはなりたくなかった。
避妊だってちゃんと気をつけてはいたし……それでもデキちゃっているっぽいから、そこはごめんなんだけど。
俺はちゃんとあの子に向き直ろうとしたんだ……したのに、彼女とだって別れたのに、ずっと探しているのに、あの子は見つからなかった。
あの子はいつの間にか引っ越していた。連絡がつかないのは電子的にだけだと思っていたけれど、物理的にも、だったんだ。
現実ではそんな感じなのに、それなのに、夢の中では毎日出てくるんだ。
夢の中のあの子は、次第にお腹が大きくなってゆく。
周囲の「笑い女」は変化もなく終始にこにこ。
見飽きはするが、気味悪さとかは感じない。
逆に俺はリラックスしているようにすら感じる。
昼間はあの子に会えないことで焦ったりイラついたりしているのに、夜は夢の中で不思議と落ち着いているんだ。
あの子のお腹には、俺の罪悪感でも入っているんじゃないかと思うくらい日に日にじわじわ大きくなってゆくのに。
最近、俺は「笑い女」に詳しくなってきた。
「笑い女」の笑顔は、気持ちを落ち着かせる効果というより、心を麻痺させる効果を持っているみたいだ。
あと、「笑い女」は妊娠が終われば消えると聞いていたが、その「終わり」の条件は「産むこと」だと思うんだよな。
夢を見始めてからもう一年半経つけれど、いまだにあの子は俺の夢に出続ける。
お腹が膨らんだまま、首が異様に長く伸び、表面が腐り始めて随分と経つ。
とても気持ち悪くて直視できない姿なのに、「笑い女」のにこにこを見ると不思議と気持ちが落ち着いて、その惨状に耐えられてしまうんだ。
夢の中で、だけは。
毎朝、目が覚めてから俺は嘔吐する。
夢から覚めると「笑い女」の笑顔の効果は切れるみたいで、ものすごいしんどい。
食欲も落ちたし、昼間の集中力も落ちまくっている。
いつまであの子のあんな姿を見させられ続けるんだろう。
でも、あの子にこんな決断をさせたのは俺なんだ。今夜も夢の中で腐り続けてゆくあの子を、俺は見ないわけにはいかないんだ。
<終>