お題【はなさないで】
文字数 4,649文字
みつるつきのひる
はなさないで
はなさないで
はなさないで
ここに
おえいさまのみもとに
彼女の口ずさんでいた歌がふと脳裏に蘇ったのは、波のリズムと似ていたから。
それもそうか。
ここは彼女の生まれ故郷だもんな。
桟橋から時計回りに歩き始めた舗装道路は海岸線に沿ってゆるやかな登り坂。
道の先が岸壁の際 を縁取りのように飾っているのが見える。
海岸が遠くはなるが、この辺りはずっと岩場だし、とにかくまずは島を一周してみたい。
そう思って歩き始めて気付く。
波の音が海から聞こえているわけではないことに。
もしかして、これのせいだろうか?
胸ポケットから取り出した彼女の「お守り」をじっと見つめる。
革紐の先に結わえつけられたガラスの小瓶。
親指の半分ほどの大きさのそれへコルクが封じているのは――多分、何も知らない人が見たら「星の砂」と言うだろう。
もちろんそんな良いものじゃない。
ぎゅっと握りしめてから再び胸ポケットへとしまう。
左側にだけあるガードレールの向こうは、歩を進めるにつれ見晴らしがよくなってゆく。
少しずつ遠ざかる波の音に確信する。
やはりそうだ。
この波のリズムは、海の側から聞こえるわけじゃない。
彼女と初めて出会ったのは、吐き出した息の白さが景色に貼り付いて白くなったのではと思いたくなるほど寒い日のこと。
雪道の上で歩きにくそうにしていた彼女の横を通り過ぎたとき、転びそうになった彼女の腕をとっさにつかんで助けてしまった。
勝手に体に触れたことを謝罪し、すぐに離したその手へ、彼女の両手が反射的にしがみついた。
「ゆ、雪って、生まれて初めてで、どう歩いたらいいのかわからなくて」
「道外からいらした方ですか?」
「はい。昨日来たばかりで……今日はこれから受験なんです」
僕は彼女の手を取って会場まで案内することに。
そして手を振って別れてから二十分も経たずに再会する。
試験監督バイトな僕の担当教室に彼女が居たのだ。
不安そうにしていた彼女の表情は、僕に気づいた後は少し和らいで、それがとても嬉しかったのを覚えている。
四月に大学構内で彼女と会えたときは、雪の上でもないのにあのときのように手を取り合った。
明るい、お日様みたいな笑顔の人だった。
そのままその場を立ち去るのが惜しくて、構内や大学周辺の案内を買って出た。
彼女はそれを喜んでくれた。
月日が流れる。
いつの間にかいつも隣に居た。
日常に二人の時間が増えてゆく。
就職を機にプロポーズをしたのも、僕の中では自然な流れだった――けれど彼女には断られてしまった。
「嬉しいし、本当にそうなれたらどんなに幸せだろうと思います。でもきっとダメだと思います」
「もちろん君のご家族の所まで頭を下げに行くつもりだよ」
「そういうのではないんです。ごめんなさい」
その話はそこで終わったが、その後も彼女はずっと僕の隣に居続けてくれた。
ただ、いつか終わりが来るという状態での日々はつらい。
理由も「故郷の島へ帰らなければならない」という曖昧なもの。
婚約者が居るのかとか、結婚してはいけない理由があるのかとか、色々尋ねたが彼女は「そういうのではないんです」としか答えてくれない。
ある日、僕は意を決して伝えた。
今の仕事を辞めて彼女と一緒に島へ行き、島で仕事を探そうと思う、と。
彼女はとても嬉しそうな、同時にとても悲しそうな顔をした。
「しょーちゃんのことが好きだから、あの島に関わらせたくないの」
もともと故郷のことについて話すのは消極的だった彼女ではあったが、ここまではっきりと言ってくれたことはなかった。
そして見せてくれたのがあの小瓶。
「私たちの島では花砂 と呼んでいます。花の砂で花砂 。花砂 という名前の入り江にしかない特別な砂で、お呪 いに使うんです」
「……花砂 ……」
「そのお呪 いで手に入れたこの花砂 を持つ者は必ず島に帰れると言われていて、実際、戦前に島から招集された人たちは一人残らず帰ってこれたと聞いてます」
「霊験あらたかなお呪 いなんだね」
「そんな、いいものでは……ないんです」
そう言ったときの彼女の表情は本当に苦しそうだった。
彼女の父は島外の人で、迷信とかを信じない人だったから、母が作った「お守り」を受け取ってくれなくて、それで漁の最中に事故で帰らぬ人になったと話してくれた。
そのトラウマなのか、大学へ行きたいと伝えた彼女へ、彼女の母は「お守り」を持たせた。
だから彼女は戻らざるを得ないと。
「本当は、島外の人に話すのもダメなんです」
「そんな秘密を教えてくれてありがとう」
「……本当は……私、しょーちゃんとずっと一緒に居たい」
泣きじゃくる彼女を僕はずっと抱きしめた。
「お母さんが、花砂 を取ってさえこなければ……」
波のリズムが耳の中で大きくこだまして、耳の奥に残る彼女の泣き声を洗おうとする。
海側ではなく、島の内側の方からで間違いない。
周囲を見回す。
桟橋で荷降ろしを手伝っていた老夫婦を見て以来、誰にも会っていない。
僕は道を外れ、ジャングルのような内陸側へと足を踏み込んだ。
この「お守り」を返せば、彼女が帰ってくるはずだから。
あの日、彼女がふともらした言葉。
「花砂 を取ってきたのと同じ方法で花砂 を返せば、お呪 いは解けるって聞いたことがある」
それ以上は教えてくれなかった――というか、その続きを話す前に彼女は崖から落ちた。
突風に飛ばされそうになった帽子へと手を伸ばして、そのまま。
北海道の真夏の岬の突端で。
僕がこの「お守り」を手渡されて眺めていた、その直後に。
公的には行方不明。
見つからなかったから。
でもきっと、どこかで陸に上がれていて、戻ってこないのは記憶を無くしているだけなんだ。
自分にそう言い聞かせ続けて僕はここまで来た。
大学卒業後も島に帰らなかったせいだとは、絶対に思いたくない。
とにかくこの「お守り」の花砂 を返せば、お呪 いを解けば、彼女は帰ってくるのだと信じて。
みつるつきのひる
はなさないで
はなさないで
はなさないで
ここに
おえいさまのみもとに
島に伝わるこの古い歌と、花砂 の入手方法とには絶対に関連がある。
「みつるつき」は満月ではないというのは彼女が言っていた。
彼女の記憶によると、島の人たちが「今日はみつるつきだね」と言うのは毎月ではなく年に恐らく二回、それも前回を忘れた頃にしかなかったらしい。
その時期には「はなさ」に近づいてはいけないと、あそこには本当に必要としている人だけが行く場所だと、そう聞かされていたと。
年に二回といって一番最初に思いついたのはお彼岸だ。
彼女の記憶では学年が上がる前の春休みに聞いたような気がするとのことだったので、試してみる価値はある。
それならばと僕が訪れた今日は春分の日。
耳に残る彼女の歌声と同じリズムの波の音。それが導いてくれる気がして、僕はどんどん奥へと分け入っていった。
いつの間にか獣道を歩いていた。
あるいは、反時計回りにぐるぐると回っているような気がするこの道を踏み固めたのは獣ではなく人間であろうか。
ぐるぐる、ぐるぐると、緑の中の道をゆっくりと回りながら降りてゆく感覚。
もはや海岸が遠いのか近いのかすらわからない。
自分の中の方向感覚が完全に麻痺した頃に、僕の前にぽっかりと洞窟が現れた。
波の音がひときわ大きい。
吸い寄せられるように洞窟の中へ。
スマホのライトを点け、ゆるやかに下ってゆく洞窟の中を慎重に歩き続ける。
波の音は、あのリズムは、前方から聞こえ続ける。
ああ、そうか。
僕は理解した。
謎解きなんて必要なかったのだと。
彼女の「お守り」であるこの花砂 が入った小瓶を持っていさえすれば。
そう悟ったときにはもう目の前が開けていた。
第一印象は地底湖。
ただ、波がある。
水面付近に光の届かぬ穴があるから、きっと外の海へとつながっているのだろう。
それに濃い潮の香り。
ああここが入り江か、と気付いてすぐに足元を見た。
彼女の「お守り」と見比べる。
花砂 だ。間違いない。
この場所こそが花砂 だ。
ただどれも「お守り」の中の花砂 と比べると、砕けているというか。
ふとスマホのライトを消してみる。
やはり仄かに明るい。
壁や天井には細かな穴が幾つも空いていて、その幾つかからは南国特有の青い空が見えていたりもする。
その中に一つ、陽が差している穴があった。
他の穴とは違う、太陽の方向を向いた穴――その穴がちょうどまん丸で、太陽が穴にゆっくりと重なる――ああ、これが「みつるつきのひる」か?
波の音が消えていることに気付く。
干潮なのか、海とつながる穴よりも水位が下がり――花砂 が凪 いで、息を飲む。
洞窟内の入り江に、何かが居た。
まるで満月のように光る丸いものが、水の中に。
もしやこれが「おえいさま」か?
「おえいさま」は海の中に住むと聞いていたから、巨大なエイだと仮定していた。
でも違う。
エイじゃない。
仄かな光を放つそれはとぐろを巻いた巨大なウミヘビのように見えた。
その胴体は人を簡単に飲み込めそうなほど。
みつるつきのひる
はなさないで
はなさないで
はなさないで
ここに
おえいさまのみもとに
彼女の歌声を思い出す。
三回繰り返している「はなさないで」の一つ目が「花砂 凪いで」なのだとしたら、あとの二つは何だ?
「話さないで」だとしたら声を出しちゃいけないはず。
「離さないで」なのだとしたら、何を――ああ、そういうことなのか。
恐怖を飲み込み、水の中へと手を伸ばす。
その大きなウミヘビの背中には、花咲く珊瑚のような背びれがあったから。
恐らくあれが――ただ、水面の下は屈折しているのか、僕の手は届かない。
「みつるつき」のことを思い出す。
太陽は動いている。穴に重なる時間は、そんなに長くはないだろう。
恐らく時間的猶予はあまりないはず。
「音を立てるな」ではなく「話さない」だけでいいのであれば――思い切って入り江へ飛び込む。
改めて間近に見る大ウミヘビの姿に、僕の中の全細胞が「近づくな」と拒絶する。
だがそれでも僕は決死の想いで一番近い背びれへと泳ぐ。
手に入れたいものがあったから――それへと手を伸ばす。
手のひらにゴツゴツとした痛み。
きっとこれのことなんだ。
僕はそれを握りしめる。絶対に「離さない」という想いで。
それ――その背びれをつかむ手に振動が伝わる。
水の中を大ウミヘビがぐるぐると泳ぎ始める。
想像以上に底が深い入り江。
それなのに、見えた。
やっぱり、そういうことなのかと。
次の瞬間、体が何かに突き上げられた。
気がつくと僕は花砂 の岸に居た。
恐る恐る手のひらを開くと、血に塗れた背びれの欠片がまだ残っていた。
手のひらを切ったのか、僕の血で赤くなっていたけれど。
海水がしみるのを我慢して入り江で血を洗い流すと、その欠片はボロボロとほぐれた。
花砂 だった。
彼女の「お守り」と同じサイズの小瓶を取り出す。これが入り江の中に落ちなくて良かった。
コルクを外して中へ花砂 を入れる。今手に入れたばかりの花砂 を。
ここに彼女の花砂 を返しても彼女は戻ってこない。
だとしたら、僕がこうするしかないじゃないか。
これで僕はきっとここへ帰ってこられる。
水の中、不思議なくらい生前の姿のまま漂っていた多くの人たちの中、漂っていた彼女のすぐ隣へ。
<終>
はなさないで
はなさないで
はなさないで
ここに
おえいさまのみもとに
彼女の口ずさんでいた歌がふと脳裏に蘇ったのは、波のリズムと似ていたから。
それもそうか。
ここは彼女の生まれ故郷だもんな。
桟橋から時計回りに歩き始めた舗装道路は海岸線に沿ってゆるやかな登り坂。
道の先が岸壁の
海岸が遠くはなるが、この辺りはずっと岩場だし、とにかくまずは島を一周してみたい。
そう思って歩き始めて気付く。
波の音が海から聞こえているわけではないことに。
もしかして、これのせいだろうか?
胸ポケットから取り出した彼女の「お守り」をじっと見つめる。
革紐の先に結わえつけられたガラスの小瓶。
親指の半分ほどの大きさのそれへコルクが封じているのは――多分、何も知らない人が見たら「星の砂」と言うだろう。
もちろんそんな良いものじゃない。
ぎゅっと握りしめてから再び胸ポケットへとしまう。
左側にだけあるガードレールの向こうは、歩を進めるにつれ見晴らしがよくなってゆく。
少しずつ遠ざかる波の音に確信する。
やはりそうだ。
この波のリズムは、海の側から聞こえるわけじゃない。
彼女と初めて出会ったのは、吐き出した息の白さが景色に貼り付いて白くなったのではと思いたくなるほど寒い日のこと。
雪道の上で歩きにくそうにしていた彼女の横を通り過ぎたとき、転びそうになった彼女の腕をとっさにつかんで助けてしまった。
勝手に体に触れたことを謝罪し、すぐに離したその手へ、彼女の両手が反射的にしがみついた。
「ゆ、雪って、生まれて初めてで、どう歩いたらいいのかわからなくて」
「道外からいらした方ですか?」
「はい。昨日来たばかりで……今日はこれから受験なんです」
僕は彼女の手を取って会場まで案内することに。
そして手を振って別れてから二十分も経たずに再会する。
試験監督バイトな僕の担当教室に彼女が居たのだ。
不安そうにしていた彼女の表情は、僕に気づいた後は少し和らいで、それがとても嬉しかったのを覚えている。
四月に大学構内で彼女と会えたときは、雪の上でもないのにあのときのように手を取り合った。
明るい、お日様みたいな笑顔の人だった。
そのままその場を立ち去るのが惜しくて、構内や大学周辺の案内を買って出た。
彼女はそれを喜んでくれた。
月日が流れる。
いつの間にかいつも隣に居た。
日常に二人の時間が増えてゆく。
就職を機にプロポーズをしたのも、僕の中では自然な流れだった――けれど彼女には断られてしまった。
「嬉しいし、本当にそうなれたらどんなに幸せだろうと思います。でもきっとダメだと思います」
「もちろん君のご家族の所まで頭を下げに行くつもりだよ」
「そういうのではないんです。ごめんなさい」
その話はそこで終わったが、その後も彼女はずっと僕の隣に居続けてくれた。
ただ、いつか終わりが来るという状態での日々はつらい。
理由も「故郷の島へ帰らなければならない」という曖昧なもの。
婚約者が居るのかとか、結婚してはいけない理由があるのかとか、色々尋ねたが彼女は「そういうのではないんです」としか答えてくれない。
ある日、僕は意を決して伝えた。
今の仕事を辞めて彼女と一緒に島へ行き、島で仕事を探そうと思う、と。
彼女はとても嬉しそうな、同時にとても悲しそうな顔をした。
「しょーちゃんのことが好きだから、あの島に関わらせたくないの」
もともと故郷のことについて話すのは消極的だった彼女ではあったが、ここまではっきりと言ってくれたことはなかった。
そして見せてくれたのがあの小瓶。
「私たちの島では
「……
「そのお
「霊験あらたかなお
「そんな、いいものでは……ないんです」
そう言ったときの彼女の表情は本当に苦しそうだった。
彼女の父は島外の人で、迷信とかを信じない人だったから、母が作った「お守り」を受け取ってくれなくて、それで漁の最中に事故で帰らぬ人になったと話してくれた。
そのトラウマなのか、大学へ行きたいと伝えた彼女へ、彼女の母は「お守り」を持たせた。
だから彼女は戻らざるを得ないと。
「本当は、島外の人に話すのもダメなんです」
「そんな秘密を教えてくれてありがとう」
「……本当は……私、しょーちゃんとずっと一緒に居たい」
泣きじゃくる彼女を僕はずっと抱きしめた。
「お母さんが、
波のリズムが耳の中で大きくこだまして、耳の奥に残る彼女の泣き声を洗おうとする。
海側ではなく、島の内側の方からで間違いない。
周囲を見回す。
桟橋で荷降ろしを手伝っていた老夫婦を見て以来、誰にも会っていない。
僕は道を外れ、ジャングルのような内陸側へと足を踏み込んだ。
この「お守り」を返せば、彼女が帰ってくるはずだから。
あの日、彼女がふともらした言葉。
「
それ以上は教えてくれなかった――というか、その続きを話す前に彼女は崖から落ちた。
突風に飛ばされそうになった帽子へと手を伸ばして、そのまま。
北海道の真夏の岬の突端で。
僕がこの「お守り」を手渡されて眺めていた、その直後に。
公的には行方不明。
見つからなかったから。
でもきっと、どこかで陸に上がれていて、戻ってこないのは記憶を無くしているだけなんだ。
自分にそう言い聞かせ続けて僕はここまで来た。
大学卒業後も島に帰らなかったせいだとは、絶対に思いたくない。
とにかくこの「お守り」の
みつるつきのひる
はなさないで
はなさないで
はなさないで
ここに
おえいさまのみもとに
島に伝わるこの古い歌と、
「みつるつき」は満月ではないというのは彼女が言っていた。
彼女の記憶によると、島の人たちが「今日はみつるつきだね」と言うのは毎月ではなく年に恐らく二回、それも前回を忘れた頃にしかなかったらしい。
その時期には「はなさ」に近づいてはいけないと、あそこには本当に必要としている人だけが行く場所だと、そう聞かされていたと。
年に二回といって一番最初に思いついたのはお彼岸だ。
彼女の記憶では学年が上がる前の春休みに聞いたような気がするとのことだったので、試してみる価値はある。
それならばと僕が訪れた今日は春分の日。
耳に残る彼女の歌声と同じリズムの波の音。それが導いてくれる気がして、僕はどんどん奥へと分け入っていった。
いつの間にか獣道を歩いていた。
あるいは、反時計回りにぐるぐると回っているような気がするこの道を踏み固めたのは獣ではなく人間であろうか。
ぐるぐる、ぐるぐると、緑の中の道をゆっくりと回りながら降りてゆく感覚。
もはや海岸が遠いのか近いのかすらわからない。
自分の中の方向感覚が完全に麻痺した頃に、僕の前にぽっかりと洞窟が現れた。
波の音がひときわ大きい。
吸い寄せられるように洞窟の中へ。
スマホのライトを点け、ゆるやかに下ってゆく洞窟の中を慎重に歩き続ける。
波の音は、あのリズムは、前方から聞こえ続ける。
ああ、そうか。
僕は理解した。
謎解きなんて必要なかったのだと。
彼女の「お守り」であるこの
そう悟ったときにはもう目の前が開けていた。
第一印象は地底湖。
ただ、波がある。
水面付近に光の届かぬ穴があるから、きっと外の海へとつながっているのだろう。
それに濃い潮の香り。
ああここが入り江か、と気付いてすぐに足元を見た。
彼女の「お守り」と見比べる。
この場所こそが
ただどれも「お守り」の中の
ふとスマホのライトを消してみる。
やはり仄かに明るい。
壁や天井には細かな穴が幾つも空いていて、その幾つかからは南国特有の青い空が見えていたりもする。
その中に一つ、陽が差している穴があった。
他の穴とは違う、太陽の方向を向いた穴――その穴がちょうどまん丸で、太陽が穴にゆっくりと重なる――ああ、これが「みつるつきのひる」か?
波の音が消えていることに気付く。
干潮なのか、海とつながる穴よりも水位が下がり――
洞窟内の入り江に、何かが居た。
まるで満月のように光る丸いものが、水の中に。
もしやこれが「おえいさま」か?
「おえいさま」は海の中に住むと聞いていたから、巨大なエイだと仮定していた。
でも違う。
エイじゃない。
仄かな光を放つそれはとぐろを巻いた巨大なウミヘビのように見えた。
その胴体は人を簡単に飲み込めそうなほど。
みつるつきのひる
はなさないで
はなさないで
はなさないで
ここに
おえいさまのみもとに
彼女の歌声を思い出す。
三回繰り返している「はなさないで」の一つ目が「
「話さないで」だとしたら声を出しちゃいけないはず。
「離さないで」なのだとしたら、何を――ああ、そういうことなのか。
恐怖を飲み込み、水の中へと手を伸ばす。
その大きなウミヘビの背中には、花咲く珊瑚のような背びれがあったから。
恐らくあれが――ただ、水面の下は屈折しているのか、僕の手は届かない。
「みつるつき」のことを思い出す。
太陽は動いている。穴に重なる時間は、そんなに長くはないだろう。
恐らく時間的猶予はあまりないはず。
「音を立てるな」ではなく「話さない」だけでいいのであれば――思い切って入り江へ飛び込む。
改めて間近に見る大ウミヘビの姿に、僕の中の全細胞が「近づくな」と拒絶する。
だがそれでも僕は決死の想いで一番近い背びれへと泳ぐ。
手に入れたいものがあったから――それへと手を伸ばす。
手のひらにゴツゴツとした痛み。
きっとこれのことなんだ。
僕はそれを握りしめる。絶対に「離さない」という想いで。
それ――その背びれをつかむ手に振動が伝わる。
水の中を大ウミヘビがぐるぐると泳ぎ始める。
想像以上に底が深い入り江。
それなのに、見えた。
やっぱり、そういうことなのかと。
次の瞬間、体が何かに突き上げられた。
気がつくと僕は
恐る恐る手のひらを開くと、血に塗れた背びれの欠片がまだ残っていた。
手のひらを切ったのか、僕の血で赤くなっていたけれど。
海水がしみるのを我慢して入り江で血を洗い流すと、その欠片はボロボロとほぐれた。
彼女の「お守り」と同じサイズの小瓶を取り出す。これが入り江の中に落ちなくて良かった。
コルクを外して中へ
ここに彼女の
だとしたら、僕がこうするしかないじゃないか。
これで僕はきっとここへ帰ってこられる。
水の中、不思議なくらい生前の姿のまま漂っていた多くの人たちの中、漂っていた彼女のすぐ隣へ。
<終>