お題【井戸のはなし】

文字数 1,104文字

 使うのをやめる時に、ちゃんとしまわないといけないものがある。
 墓と仏壇と、それから井戸だ。
 これは母の実家にある井戸の話。

 母の実家は、その辺りでは一番の旧家で、当然立派なお屋敷を構えていた。

 その敷地のほぼ真ん中あたり、正面門から玄関までの途中の、通行にはすごく邪魔な場所に古い井戸があった。『飲み水や生活用水としては使ってはいけない』というしきたりと共に。
 井戸のアイデンティティを根本から覆すしきたりだけど、本家の人達はずっと守ってきたという。
 それからしきたりはもう一つあって、『女子は決して井戸に触れてはならない』というもの。

 母はそのしきたりを忠実に守り、実家に居た頃も、結婚して家を出て里帰りで訪れた時でも、井戸には決して近づかなかったという。

 いつかの里帰りで井戸に興味を持って近づこうとしたとき、僕は男だったが、普段は優しい母がキツイ目で「あなたが落ちてもわたしは井戸に触れられないから助けられないのよ」と言ったのはトラウマのように覚えている。
 おかげで井戸にはずっと近づかないようにしてきた。

 だけど従姉のアキ姉ちゃんは違った。
 伯父さんの自慢の一人娘。美人で勉強も出来て、僕の憧れだったアキ姉ちゃん。
 その彼女が当時、当主になって間もない伯父さんとケンカしたとき「男尊女卑の格付け確認みたいな変なしきたりも、この家ももうまっぴら!」と言い捨て、あの古井戸に触った。
 そしてその夜に病気が発覚して、三日も経たずに亡くなってしまった。
 あまりにも突然過ぎて、お見舞いに行くことさえ出来なかった。

 単なる偶然かもしれないのに、親戚連中は井戸の呪いだと決めつけて伯父さんを非難した。
 娘にしきたりを守らせることができないなんて当主失格だと。
 伯父さんは激怒したのか自暴自棄になったのか、井戸を埋めてしまったそうだ。

 親戚連中はまた、井戸を塞ぐとは何事かとか、埋めるにしても井戸じまいをしていないとか、また責め立てたんだけど、そんな声が届くか届かないかのタイミングで本家は火事を出し、伯父さん一家は命も家も全て失ってしまった。

 僕はせめてアキ姉ちゃんのお墓参りくらいは行きたいと言ったのだが、母はそれを許してくれない。
 その理由もまた、僕のトラウマになった。

「関わり合いになったらダメ。あなたやわたしも死ぬかもしれないのよ」

 普段は優しいあの母が、とても冷たい目でそう言ったのだ。

 あの井戸がいまだに埋もれたまま、井戸じまいも、瓦礫の撤去さえももう何年もなされていないのは、親戚一同皆、同じような理由なのだろう。



<終>
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