第5話 悲劇の幕開け ※

文字数 2,553文字

 陽が昇る。いよいよ同盟調印を行うというこの日、空を赤雲が覆っていた。ディルはレオとメアリに対し、〝雨〟が降ってくる前に隣国コラーダに発つようにと指示した。
「じゃあ行ってくる。緊張せずにやれよ」
「父さん、行ってきま~す!」
 悪友の冷やかしは流し、愛する娘の可愛らしい仕草を焼き付ける。騾馬(らば)に乗せてやって、旅立つ背を見送った。

 調印式は昼刻からだが、〝雨〟の場合は降り止み次第、という手筈になっている。
コラーダの来客は町長が対応してくれるそうで、ディルは騎士としての任務に集中できた。同盟を進めているとはいえ、襲撃の可能性もある。気を引き締めるように、と兵士たちに檄を飛ばして回った。

 彼が『神子の間』に戻ってきた頃、ちょうど〝雨〟が降り始めた。ユジェが神剣を握ったのを横目で見てから、彼女のすぐ傍に立って護衛を始める。

 昨日までに自国周辺も兵に探らせていたが、特に目立った報告はない。レオ達もコラーダへ偵察に出てくれている。〝雨〟対策で実娘を国外へ出すのは心が痛むが、仕方ない。
 この〝雨〟が通り過ぎたら調印式。気が重い。いったんは意識の外へ追いやる。平時通り神経を尖らせる。物音や違和感、そういったものをすぐに捉えられるように。
大戦の数年前には、『どうせ何も無いだろう』と騎士達の気が緩み、大きく被害が出た事もある。油断はできない。今のところは万事、順調に進んでいた。

 〝雨〟が街を打つ音が、要塞内に響く。それ以外には何の音もしない。ユジェが神剣(アルマス)の柄を握り、跪いている。

 そのユジェの背から突如、刃が生えた。

 ユジェと神剣の目の前に、白い男が一人立っていて、その手に握られた短剣が、ユジェの身体中心を貫いていた。じわ、と広がった赤い染みが衣服を汚して、ぽたりと垂れて床に広がる。
 
 世界が止まった。ディルは何が起こったのか、認識できなかった。血の海とユジェを見て、白い男を見た。
 白い男は初めて見た人間で、髪も衣服も肌も白く──まるで清廉だと主張するかのようだったが、返り血で染まっている。所業と反して表情は能面のような、無だ。何の感慨もなさそうに、ただ刺さった短剣を見ているだけだった。

 目的を果たしたのか、短剣は引き抜かれた。やがて、〈剣の神子〉ユジェの身体から力が抜けて、前のめりに倒れる。ディルは声にならない声をあげて、混乱のなか彼女のもとに駆け、地に伏す前にその身体を抱きかかえた。血が熱い。しかしユジェの身体は冷たく感じる。恐ろしい可能性が頭を過る。

「ユジェ! ユジェ‼ し、死ぬな……死ぬな‼」
 ディルは、あまりの事態に何を言えばいいのかも分からない。まだかろうじて息はしているが、どくどくと血が流れ出ている。余りにも突然の出来事に、ディルは呆然としていた。早く止血の処置をしなければ、人を呼ばなければ、とようやく認識できて、傍に控えて居るはずの騎士を呼ぼうとした。そして戦慄した。

 騎士達が死んでいる。争いの跡も断末魔すらもなく、手練れの騎士達が死体になって、恐怖に喘いだ顔のままこちらを見て転がっていた。無論、この事態で騎士が戦わないで突っ立っているだけなど有り得ない。だから彼らは襲撃に気付いたうえで、何も出来なかった。

 ディルは怒りと、恐怖とが混じった冷たい息を吸う。噎せ返るような血の匂いがした。

「……ル、ディル」
 血の混じった咳をしながら、ユジェがいつもの優しい笑みを湛えて、呼んだ。ディルを落ち着かせようとしてくれているのか。ディル自身はもはや何も言えないまま、首を横に振る。ユジェの顔を見つめてやる事しか出来なかった。

「その身体を渡してくれますか?」

 まるで状況に合わない平坦な声で、白い男は喋った。
 
 ディルは固まった。先ほどはユジェの返り血が付着していただけだった男の足元に、ぼたぼたと多量の血が零れている。騎士たちを殺したのはこの男だ、恐らくは先ほどの一瞬、それだけで。ディルは、苦しそうなユジェの身体を大事に横たえると、立ち上がって提げていた剣を抜く。

「うああ‼」
 激昂した。考えるより先に身体が動いた。地を蹴り、白い男の心臓目掛けて剣を刺し放った。手応えはなく、空虚を掠める。動物的な本能に任せ、ディルは標的が背後にいると直感した。外した一撃の勢いを殺さぬまま背に振り切ると、鉄に当たるような硬い音を僅かに鳴らし、何もない空間だけを見て静止した。

 口から血反吐が飛び出た。首が勝手に項垂れ、視線を落とした先で、自らの横渡を刃が貫いているのを認識した。仇討ちに燃える意思と反して、ディルの脚は崩れ落ち、そのままぺたりと座り込んだ。掌から愛剣が転げ落ちる。なんとか床に倒れ伏さずには済んだ。息に混じって血が出てくるので、()せないよう慎重に呼吸する。
 このままでは、〝雨〟に街が滅ぼされる。誰かに神剣を握ってもらわねばならない。要塞内の誰かに伝わればと、床を拳で何度か叩いた。
 
 身体を曲げる事も困難ではあったが、ゆっくりと振り向く。自らを下した白い男は、不気味だった。まるで思考を放棄しているかのように、ただ悠然とディルの瞳を見つめた。白い男はディルから目線を外して、のんびりと歩いて膝を折ると、横たわったユジェの身体を腕に持ち抱えた。

 ディルの中で、憎悪が綯い交ぜとなった黒い感情が吹き上がった。それでも身体は言う事を聞かず、起きている出来事を見つめる事しかできない。白い男は、まだ僅かに肩を上下している彼女を見やると、その身体に腕を刺した。叫ぼうにも叫べない。呻き苦しむ彼女と、血が噴き出す身体、白い男の心の削げ落ちた顔。それらが写真を並べたようにして、ディルの瞳に順に映った。
 少しして引き抜かれた手に握られていたのは、彼女の臓器──おそらくは心臓で、男は信じられないことにその心臓を大きな口を開け、踊り食いするように丸呑みしたのだ。ディルは勿論、正気ではいられなかった。今度こそ叫び果てて、口から血が飛び出ても、なお叫んだ。頭の中を沸騰する怒りが埋め尽くした。

 目的を果たしたのか、ユジェの身体を再び地に横たえて、白い男は立ち上がった。そして悠々と歩いて、去って行ってしまった。絶対に殺さねばならない。そう確信していたのに、ディルの身体は言う事を利かなかった。
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登場人物紹介

カイン

三年前に滅んだアルマスの生き残り、元騎士。

褐色肌で、金髪金眼の見た目から“金狼”と呼ばれている、腕利きの剣士。

親友ディルとの約束に従って、彼の娘であるクリスティを護り続けている。

冷静で静かな気質の人物だが、戦いを好む一面があり……?

クリスティ

三年前に滅んだアルマスの、生き残りの少女。カインの親友だった、ユジェとディルの娘。

神子の証である白い肌と、母譲りの桃色の髪を持つ。

神剣『アルマス』の欠片を持ち歩いているため、欠片を奪おうとする勢力と《首喰い》に命を狙われている。

過去の出来事が原因で、声が出なくなっている。

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