20.  見覚えのある場所

文字数 1,389文字

 明くる日の朝。

 リューイは今、ちょうど自分が転落した崖下(がけした)に一人で立っていた。森の木々は雨の(しずく)をまとい、断崖(だんがい)の上からは、ゆるくなった地盤のせいで不意に小石も落ちてきた。

 夕べの雨はどしゃ降りだったため、川の水が(にご)っているだろうからと、メイリンは今朝の小石摘みを中止にしたのである。そして、その分時間ができたので朝食に腕をふるいたいと言い、そこでリューイは、彼女が食事の支度(したく)をしてくれているあいだに散歩にでることにして、何となくやってきたのだった。

 リューイは、妙にその場所が気になって、そこからずっと(いただき)を見上げていた。崖っぷちに生えているあの大木・・・見覚えがある気がする・・・と。

 やがて視線を下ろしたリューイは、それからぐるりと首をめぐらして周囲を見た。

 そして、ぎょっとした。

 緑の(こけ)がびっしりとへばりついている大木に視線を向けた時だ。そのあたりの(くさむら)に何か黒いものが見え、それが何かに気付いたのである。今、本能で理解した。

 (たくま)しくて大きな・・・野獣。

 今はそれ以外のことが分からないリューイは、ただ無性に恐怖だけを覚えた。そいつのゾッとする鋭い眼に完全に狙いをつけられたと思い、サッと血の気がひいた。それはゆっくりと動きだして、一歩、また一歩と、叢を踏み分け近寄って来る。

 リューイは逃げ腰になりながら、断崖の方へ後ずさりした。

 すると、黒い野獣が立ち止まった。それから、もどかしそうにその場をうろうろと歩き回ったかと思うと、地面に(あご)をつけて座り込んだのである。どこか(あきら)めたような恰好(かっこう)で、目はずっとリューイのことを見ている。リューイにはなぜか、それが少し困ったような、寂しそうな感じに見えた。

 ところが、そう思ったのもつかの間、黒い野獣はハッとしたように顔を上げると、素早く立ちあがって上を向いた。

 その時・・・!

「避けろ、リューイ!」

 野獣に気をとられていたリューイは、そんな叫び声が聞こえて反射的に首を向ける。次の瞬間、何が何だか分からないままに、いきなりタックルされて吹っ飛んでいた。

 何か重いものが地面に叩きつけられたような轟音(ごうおん)と、地響きがした。一瞬の出来事だ。

 地面に倒されたリューイは、すぐには起き上がれなかった。自分の(はら)の上に、ぐったりとして動かない男性がいるために。数日前に、リューイはこの人と会っていた。

 微動だにしない彼の下からすり抜けて、リューイはその顔をうかがった。

 意識が無い・・・が、息はある。

 そばには、握りこぶし大の岩の欠片が。もっと広範囲を見てみれば、さっきまで自分がいたと思われる場所に、割れた岩の塊と破片(はへん)が散乱している。

 落石だ・・・。

 この人のおかげで、助かったのだとわかった。彼が気を失っているのは、割れた岩の破片が頭部に当たったのだろう。わずかだが出血していることにもリューイは気付いた。自分のせいだ。

 そばには黒い野獣もまだいたが、それを忘れてしまうほど(あせ)ったリューイは、彼をいともあっさりと(かつ)ぎ上げた。彼は高身長で体格もいい。だが、簡単にそうできたことも不思議に思わず、リューイはとにかく真っ先に浮かんだ行動をとった。今の自分に(たよ)れるのは、そこしかないと。

 一方、大急ぎでその場を離れたリューイを、黒い野獣はただ目で追うだけだった。やがて、その姿が見えなくなる。黒い野獣は、肩を落としたように項垂(うなだ)れて、別方向へと歩き出した。



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