6. 兄上・・・!

文字数 1,760文字

 驚いたのは大臣や兵士たちだけではなかった。人々は、上質の衣をまとった大国の皇子が身近にやって来たことに恐れ多さを感じて、さっと道を空ける。おかげで、ランセルはみるみる彼に近づいて行くことができた。

 一方、エミリオの行く手は人に(ふさ)がれ、一歩進むのもままならない。

 エミリオは身をよじりながら歩いて逃げた。
 ランセルは小走りに追いかける。

「お待ちください、兄上!兄上!どうか・・・待って・・・。」

 ランセルは、兄に届くようにとめいいっぱい右手を伸ばした。
 狼狽(ろうばい)しながら歩き続けるエミリオ。背中に突き刺さるその声を必死で無視した。

「殿下、皇太子殿下!」
 男も懸命に追いかける。

「兄上!」

「殿下!」

 だが、エミリオとランセルの距離は(またた)く間に(ちぢ)まっていき、そして、ついにランセルは、兄らしいその青年の腕を背後からつかむことができた。

「兄上!」

 もう、振り向くしかない。エミリオは、動揺をおさえられないままにも体を向けた。

 それに対して、その顔を確かめたランセルの方は、この上なく安堵(あんど)感に満ちた表情を浮かべた。

「やはり生きておられたのですね、心配しました・・・とても。なぜ私にまで(うそ)をつくのですか。」

 ランセルの問い(とが)めるような強い口調に、エミリオはただ無言で首を振った。声を出せば、ランセルのその確信は、この先どんな事が起きても揺らぐことのないものになってしまうだろう。

 その時、やっと男が追いついてきた。

「この方は別人です、殿下!エミリオ様は、長い髪をしておられたでしょう。どうか、今すぐお戻りくださいませ。」
 男は二人の間に割って入ると、あわてて言った。
「切れば済む話だ、理由にならぬ。」
「殿下、エミリオ様はお亡くなりになられたのです!」
「私は信じない!」

 増して激しい口調で怒鳴(どな)り返したランセルは、目の前にいる青年に向き直るとひたむきに見つめた。哀願(あいがん)するような眼差(まなざ)しだ。

「兄上、どうか皇宮に帰って来てください。母上には、もう手出しはさせません。必ず私が説得してみせます。この・・・命に代えても。」

「殿下、何をおっしゃるのです!」

 最初は唖然(あぜん)としていた人々も、次第にざわつき始めている。

 そんな周囲に構わず、ランセルは言葉を続ける。

「母上が・・・」

「殿下、どうかお戻りを!」

 男が(あせ)った身振りと共に言葉を(さえぎ)ろうとしたが、盲目(もうもく)的になっているランセル皇子を止めることはできなかった。

「母上が、血を吐きました・・・たくさん。もう、ながくはないでしょう。」

 思わず愕然(がくぜん)としてしまったエミリオ。この瞬間、頭に何も入ってこなくなった。街の騒音(そうおん)が突然 消え失せてしまったかのようだ。

 ランセルの実母であり、エミリオの継母(ままはは)であるシャロン皇妃は、ずいぶん以前から自分の病気については気づいていた。だが、人前で決して弱さを見せない女性であり、体調が急変して医者にかかるようになったのも、エミリオが皇宮を逃れたあとのことだった。そのこともあり、彼女がエミリオ皇子の暗殺に急にムキになりだしたのも、己の命があるうちに、問題なく息子を皇太子(こうたいし)の座に()かせたいと望むがゆえだったのである。

 ランセルは、男に割り込まれた時に放した手で、兄に違いない青年の腕に再びつかみかかった。

「ですから、私さえ身を引けば全ては上手くいくのです。もう行方(ゆくえ)をくらませる必要もなくなります。兄上・・・私は、皇帝にはなれない・・・。」

 最後の声は、ひどく震えていた。

 エミリオはたまらなくなり、うつむいた。そんな弟の肩を力強く抱き寄せ、自信を持てと、大丈夫だと言ってほほ笑みかけてやりたいのを、懸命にこらえた。

「兄上、なぜ何も言ってはくださらないのですか。」

 涙声になりかけていながら(いきどお)り始めたその声は、エミリオには(つら)すぎて、もう弟の顔を見ることさえできない。ただうつむいたまま唇を噛みしめて、立っているだけがやっと。このままではそのうち正体が知られて、今この場だけでなく、エルファラム帝国にも衝撃が走り大波乱が巻き起こると分かっていながら、この窮地(きゅうち)をどう切り抜けたらよいのかなど、とても考えられる心境ではなかった。

 取りつく島もないランセルに、近衛兵(このえへい)の男もどうにもできず、弱り果てて立ち尽くしている。

 その時ふいに、人込みの中から一人の女性がエミリオの(かたわ)らに飛び出してきた。




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