9.  記憶喪失

文字数 2,288文字

 家に帰り着くと、少女は、今度は彼をペルからベッドへ引き摺り下ろした。頭の出血が深刻に思われたため真っ先にその手当てを済ませ、それから彼の全身をあらためた。土まみれの着衣には、強く(こす)られてできた汚れやほつれ箇所がいくつもある。特に太腿の切り傷はひどく、ほかにも体中に(あざ)や傷ができているだろう。だが頭部の外傷とそれ以外にひと目で分かるのは、手足や顔の()り傷だけ。胴着から伸びている右腕のものも大きいが、体の方は・・・。

 ただでさえ、同じ年頃の若い異性と接することがあまりない素朴な少女は、(ほお)が赤らむほどの抵抗を感じつつ彼の上着の(おび)を解き、合わせ目を引き開けて・・・思わず息を呑んだ。腕の筋肉の盛り上がりや、ややはだけていた胸の(たくま)しさを見ただけでも想像はついたが、その綺麗な顔には不釣り合いな強靭(きょうじん)体躯(たいく)が露になり、驚いて目を(またた)いた。

 とにかく、まずは汚れを取りのぞいて手当てをしないと・・・。少女はそう心の中でつぶやいて、ぎこちないながらも彼の顔や体を濡れタオルで丁寧に()いてやり、目に見える傷の一つ一つにそっと薬を塗っていった。

 謎の金髪青年・・・リューイは、不意に痛みを感じて身じろいだ。
 そして、ぼんやりと目を覚ました。

 真っ先に目に映ったのは、低い屋根。それから、知らない少女の顔が視界に入ってきた。腰まであるキャラメル色のストレートヘアーに、()んだ緑色の瞳で、美人というよりも可愛いの方が似合う、性格の明るそうな顔をしている。

 リューイが気付いて目を向けると、今度は、彼のその澄みきった青い瞳と、寝顔(?)よりも魅力的な容貌(ようぼう)にいよいよ体まで火照(ほて)りだすのを感じて、少女は思わず視線をそらした。

「あんたは・・・誰だ?」
 リューイは少し間延(まの)びした口調でたずねた。

「わ、私はメイリンよ。メイリン・モア。あの、頭からちょっと出血してて、足も怪我してて、腕も少しひどいけど、ほかは大したことないわ。()り傷ばかりよ。あ、でも骨折とか、大丈夫?もし動けるようなら明日帰ったらいいわ。もう夜だし。」
 その時メイリンは、とたんにドキドキしだした胸のおかしさのせいで全くまとまりなく(しゃべ)り出したうえ、自分のその鼓動(こどう)に負けないくらい早口(はやくち)になってしまった。

 一方のリューイは無反応で、まだ呆然(ぼうぜん)としている。何のことか分からない・・・といった顔で。

「ねえ、どこから来たの?」

 そうきかれて、ようやくリューイは口を開いた。
「分からない・・・。」と。

「え・・・。」
 メイリンは眉根(まゆね)を寄せる。

 そこで突然、リューイはバッと跳ね起きた。痛みと同時にいろんな感情がいっきに襲ってきた。いちばん不安が大きかった。途方(とほう)もない不安、それに恐怖や悲しみ、孤独感、知っているはずのものが何一つ浮かんでこない。ひどく動揺していると、さらに突き刺さるような頭痛がした。リューイは頭をつかんでうつむいた。

 何も知らない。何も分からない。親も兄弟も、自分の家も。頭の中が真っ白だ。自分のことすら分からない。名前さえも・・・。家族や居場所、それに生活・・・といった概念(がいねん)はある。だが、自分はどこに住んでいて、周りには誰がいて、何をしながら生きていたのか・・・というような中身がさっぱり分からない、つまり個人的な記憶が完全に失われているのである。

「俺は・・・俺・・・。」

 メイリンは驚いて彼を見つめていた。

 記憶喪失・・・。

 そう確信した時、彼は頭を抱えたまま(うつむ)いたかと思うと、そのうえ(おび)えるように震えだしてしまった。

 動揺して心細そうな体から聞こえてくるのは・・・嗚咽(おえつ)? 
 見るに忍びなくなって、メイリンは優しく手を差し伸べる。

「大丈夫よ。きっと一時的なものだわ。すぐに思い出せるから。ね、落ち着いて。」
 メイリンは彼の頭を抱いてやり、わざと明るい声をかけ続けた。
「それまで私たち一緒にいましょ。一緒にご飯を食べながらお話したり、一緒に散歩したり・・・思い出せるまで。ほら、何も怖くない。だから安心して・・・ね。」

 彼女のサラサラした長い髪が、慰めるように顔にふりそそいできた。その中で、リューイは息をしゃくりあげて泣いていたが、彼女が懸命にかけてくれる言葉のおかげで少し冷静になれると、ゆっくりと顔を上げて彼女を見た。その優しいほほ笑みにも、リューイの心は不思議と(いや)されていった。

 メイリンの方も、先ほどまでの戸惑いや胸の狂いようはどうしたのか、ふと気付けば治まっている。それどころか、たちまち()かれてしまった彼に対して、大胆にも自分の方から抱き締める・・・なんてことをしてしまったのは、男の人が泣く姿を見て〝母性本能がくすぐられた〟というものだろう。守ってあげたいという衝動に突き動かされたからだ。まるで自分に背の高い弟ができたような感覚だった。

「落ち着いた?」と、メイリンは微笑した。

「ああ・・・ありがとう。」
 子供のように鼻をすすり上げ、手の(こう)で涙を(こす)り取ったリューイは、それからさっきの彼女の言葉や様子を考えて、こうきいた。
「あんたは、俺のことを・・・知らないってことだよな?」

「ええ、あなたとは初対面よ。今夜、この森で倒れていたあなたを、たまたま見つけただけ。」
「倒れていた?」
「そうよ。ここはメルクローゼ公国にある、バルンと呼ばれる森の中なの。あなたは、この森の崖下(がけした)で倒れていたのよ。たぶん、上から落ちたんじゃないかしら。でも、それで生きてるなんて信じられないから、上によじ登ろうとして途中で落ちてきたのかもね。そんな人、わけ分からないけど・・・。」    

 リューイはしばらく考えてみたが、やはり何も思い出せなかった。






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