第24話 そしてクミンの香り
文字数 1,507文字
耳元で音がした。パイプ枕に顔を埋めていることに気づいた瞬間、身震いするほどの寒さを覚えて布団を耳元まで引き上げた。
カレー特有のクミンの香りは、やはり鼻に残っている。
昨夜は何を食べたっけ──ひとりで、何を、食べたっけか。ダイニングの風景を思い浮かべる。キッチンを思い浮かべる。
何を、食べたんだっけ──。
キッチンでパタパタとスリッパの音がした。
それはとても懐かしい音。そしてそれは、我が家の音。失くした音が確かにする。
「もう、起きますか?」
明日の朝は残り物のカレーでいいかしら、休日だし。確かに妻はそう言った。
そうか、そうだった。私はすべてを思い出していた。もう、ひとりではないのだ。夢だか現実だか分からない世界のミシュアが、きっと約束を守って、妻を戻してくれたのだ。
それとも、若かった頃には感じていた妻のありがたみを、いつしか当然のこととして忘れ去った私に、いっときの辛い夢を見せたのだろうか。
妻の問いかけに答えなかったせいで、パタパタとスリッパの音が遠ざかっていった。
毛布を両手と足で巻き込み、ごろりと寝返りを打って、幸せな微睡 に身を任せた。
まてよ、このまま眠って起き出したら、これが夢だったなんてことにはならないだろうか。私は不必要なぐらい強くまばたきをした。眠ってはならない。
「あ、らっきょうと福神漬けが少ないわぁ」妻の声が聞こえてくる。
冷蔵庫の前で、そんな声を上げることがたびたびあった。牛乳がないとか、バターが足りないとか。
その配慮の足りなさを苦々しく思う自分が確かにいた。そんな自分に、ずきりと胸が痛む。
考えても見ろ。世界は思うほど確かなものではなく、期待するほど柔らかでもなくて、人の心も、明日の我が身も、霧の漂う森のように不明瞭な静寂に覆われている。
だからこそ私は、彼女を選んだのだ。穏やかで謙虚で、かつ、すぐに種明かしのされる他愛もない嘘をつく彼女を。
私たちは、収まるべきところに収まっていたのだ。かけがえのないものは、すぐそばに、ずっといたのだ。なんの不満を持つことがあろうか。
「よし! 俺が買ってこよう!」
睡魔を引きはがし、掛布団を蹴り上げた私は、勢いよく起き上った。
「な、なんですか⁉」再びパタパタとスリッパの音をさせて妻が顔をのぞかせた。
「らっきょうと福神漬けは俺が買ってくる! 西友か? イオンか? どこに行けば売ってるんだ?」
妻の手が私の額に伸びてきた。
「熱はない」私は妻の手のひらに額をこすりつけるように、首を小刻みに振った。
「イオンのほうが近いけど」
そんなことは、言われなくても分かっているが……。
「どっちの福神漬けが美味しいんだ、と訊いている」
「福神漬けは福神漬けじゃないんですか。赤と茶色の違いはありますけど、まぁそこまでこだわらなくても。赤だからって変な着色料を使っているようでもないですし」
「よし、じゃあ、イオンに行ってこよう。近いしな」
「初めてのお使いね」
「こ、子供じゃない!」
「あ、雪が」額を離れた妻の手が、ベランダを指さす。
「も、もう騙されん。俺は馬鹿じゃない」
「本当ですってば」
「ま、マジか」ふらつく足でベランダに寄った。
「嘘です」
カレー特有のクミンの香りは、やはり鼻に残っている。
昨夜は何を食べたっけ──ひとりで、何を、食べたっけか。ダイニングの風景を思い浮かべる。キッチンを思い浮かべる。
何を、食べたんだっけ──。
キッチンでパタパタとスリッパの音がした。
それはとても懐かしい音。そしてそれは、我が家の音。失くした音が確かにする。
「もう、起きますか?」
明日の朝は残り物のカレーでいいかしら、休日だし。確かに妻はそう言った。
そうか、そうだった。私はすべてを思い出していた。もう、ひとりではないのだ。夢だか現実だか分からない世界のミシュアが、きっと約束を守って、妻を戻してくれたのだ。
それとも、若かった頃には感じていた妻のありがたみを、いつしか当然のこととして忘れ去った私に、いっときの辛い夢を見せたのだろうか。
妻の問いかけに答えなかったせいで、パタパタとスリッパの音が遠ざかっていった。
毛布を両手と足で巻き込み、ごろりと寝返りを打って、幸せな
まてよ、このまま眠って起き出したら、これが夢だったなんてことにはならないだろうか。私は不必要なぐらい強くまばたきをした。眠ってはならない。
「あ、らっきょうと福神漬けが少ないわぁ」妻の声が聞こえてくる。
冷蔵庫の前で、そんな声を上げることがたびたびあった。牛乳がないとか、バターが足りないとか。
その配慮の足りなさを苦々しく思う自分が確かにいた。そんな自分に、ずきりと胸が痛む。
考えても見ろ。世界は思うほど確かなものではなく、期待するほど柔らかでもなくて、人の心も、明日の我が身も、霧の漂う森のように不明瞭な静寂に覆われている。
だからこそ私は、彼女を選んだのだ。穏やかで謙虚で、かつ、すぐに種明かしのされる他愛もない嘘をつく彼女を。
私たちは、収まるべきところに収まっていたのだ。かけがえのないものは、すぐそばに、ずっといたのだ。なんの不満を持つことがあろうか。
「よし! 俺が買ってこよう!」
睡魔を引きはがし、掛布団を蹴り上げた私は、勢いよく起き上った。
「な、なんですか⁉」再びパタパタとスリッパの音をさせて妻が顔をのぞかせた。
「らっきょうと福神漬けは俺が買ってくる! 西友か? イオンか? どこに行けば売ってるんだ?」
妻の手が私の額に伸びてきた。
「熱はない」私は妻の手のひらに額をこすりつけるように、首を小刻みに振った。
「イオンのほうが近いけど」
そんなことは、言われなくても分かっているが……。
「どっちの福神漬けが美味しいんだ、と訊いている」
「福神漬けは福神漬けじゃないんですか。赤と茶色の違いはありますけど、まぁそこまでこだわらなくても。赤だからって変な着色料を使っているようでもないですし」
「よし、じゃあ、イオンに行ってこよう。近いしな」
「初めてのお使いね」
「こ、子供じゃない!」
「あ、雪が」額を離れた妻の手が、ベランダを指さす。
「も、もう騙されん。俺は馬鹿じゃない」
「本当ですってば」
「ま、マジか」ふらつく足でベランダに寄った。
「嘘です」