第8話 チャルメラ溺死

文字数 1,498文字

 インスタントラーメンとスーパーで買った出来合いの酢豚を食べ始めたとき、インターフォンが鳴った。見上げた壁掛け時計は午後の8時を過ぎていた。

 ため息をひとつ()き隣室に向かう。インターフォンには通路のライトに照らされた二つの人影が写っていた。エントランスではないところをみると同じマンションの人だ。

 しかし、どう見ても2階に住む顔なじみの老夫婦ではない。どうやら先だっての磯崎さんのようだ。急用でなければ非常識な時間だ。インスタントラーメンが伸びるのが気になったが、居留守を使うわけにもいかないだろうとため息をついた。

 ふと、流しに溜まった無様な食器類を思ったが、中に招じ入れることもないだろう。脱ぎ散らかした革靴を整えてドアを押し開けた。

「どうも、夜分にすみませぇん」やはりそうだった。
「いえ、これね、多めに作ったからどうかしらと思って」その手には大きめのタッパがあった。

「あ、わざわざありがとうございます」
「おでんですのよ。田舎育ちだからお口に合うかどうかわかりませんけど」

 これが女同士なら、どちらのご出身なんですか、などと話が弾みそうだが、とてもそんな気にはなれない。

 それに、妻の作ってくれたものより美味しいおでんなんて存在するのだろうか。甘味と醤油は控えめで、出汁と塩味のきいた私好みのおでんが。その具に醤油をたらりと垂らして食す。妻に邪道と呼ばれた食べ方だったけれど。

 まあ、あれにまさるものはないだろう。人様のおでんを前にそう思った。それになにより、このタッパは返しにいかなければならないのだろうな。そう考えるとそれもまた気が重かったが、精いっぱいの笑顔を作った。

「いえいえ、助かります」
 受け取ろうとするタッパは引かれた。そのまま磯崎さんは、腕でドアを支えて三和土(たたき)に足を踏み入れてきた。

「今日はね、お知り合いを紹介しようかと思ってお連れしてきたの」
 後ろに立つ、押し出しの強そうな40台とおぼしき女性が微笑んで腰を折った。まさか後妻にという話だろうか。妻と親しかったというだけで、そこまで面倒を見てくれるというのだろうか。

「こちら、柴田さん」香水だろうか化粧品だろうか、鼻につく粉っぽい匂いのする人だった。
「坂上です」私も頭を下げた。

 30分ほどの滞在は、結局何のための訪問だったのか分からずじまいだった。帰りがけ、流しが目に入った磯崎さんが、あらあらと口にした。余計なお世話な気がした。

 この方のご主人がね、などと言うから、再婚の話ではなかった。それはそうだ、まだ()も明けぬうちにそんな話もないもんだ。

 どうぞどうぞとは言うものの、食べられなかったインスタントラーメンはスープを吸ってすっかり伸び切り、酢豚は冷えてしまった。
 まさかインスタントラーメンを食べる暮らしに戻るなどとは考えたこともなかったけれど、今の生活にとっては貴重な夕食だった。二人の訪問を、私はひどく迷惑に感じた。



 くそっとつぶやき、天井を見上げ盛大にため息をついた。この部屋には、今もあちこちに妻の残像が見える。後ろ姿だったり、冷蔵庫を覗き込んでいる姿だったり、笑顔だったり。

 そして思う。どこかに連れて行ってやったことなど、ほとんどなかったんだと。それでも妻なら「非常識よね」と、きっと同意してくれる。

「だよなあ……チャルメラ溺死事件だ!」私はいるはずもない妻に声を上げ、自棄(やけ)気味にどんぶりの淵を箸で叩いた。
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